第一章 十一話
そいつは扉の前に立っている。声も出さずに、ただじっと。
意志が全く感じられない冷たい視線。扉の奥から現れた細い影が、そんな瞳でこちらを見ている。
「…………」
若い男だった。軍服のようなロングコートに身を包んで、眼鏡をかけている。コートの沈んだ黒に、淡い金髪と薄い茶色の瞳が映えていた。背はカタロスより拳一つ分ほど低い。それでも成人男性としては十分に背が高い方だ。
男は気品を感じさせる目鼻立ちだ。しかし、男が持つ温度の無い視線と、全てに無関心そうな表情のせいで、その見た目から漂うはずの甘い雰囲気は、見事に消え失せていた。
男は淡々と言う。眼鏡の向こうにある眼差しから想像できる通りの、冷えた声だった。
「ジェット・ガジェッティーノの足取りを追って、ここまで来たのですね?」
男の生きている感じがしない薄い唇が、静かにそう言った。
「そうだ。お前がジェット・ガジェッティーノを殺したのか?」
「…………」
男は沈黙する。
「お前らが何者かなのは分かっている。お前は、エペの一員なんだろう?」
エペの名前を出すと、ようやく男の表情に変化が見えた。ただし、ほんの一瞬、眉が上下に動いただけだ。
面白いくらい変化の無い男だった。眉の動かし方も、誰かにそう教わって動かしているように無駄が無い。
「ジェットからもいだ腕をここに置いたのは、ここに入ってきた俺の注意を惹く為か?」
「……ご存じなのですね。亡くなったジェット・ガッジェティーノに右腕が無いことを」
抑揚の無い男の声がそう言った。本当に、放リ投げてそのまま振り返りもしないような、つれない声で言う。
「そうだ。俺はジェット・ガジェッティーノの死体を見たからここに来た。そしてここで誰かに殺されたと聞いて……こうしてここまで来てやったわけだ」
俺は堂々と言った。こいつは、ここまで事情を知っている俺達を生かして帰さないだろう。当然、そんなことは心得ているのだと、そう宣言してやっているつもりだった。男は静かに問い返す。
「あなたがここへ来たのは何の為です?我々に対する復讐を望んでいるのですか?」
背後でカタロスが息を呑む音が聞こえた。その振動も空気を伝わって感じられるかのように、部屋の中は静まり返っていた。
「…………」
俺がここへ来たのは、ジェットの復讐をする為だろうか?それは違う。ジェットが何故殺されたのかを知りたかったら?それも違う。自分も殺されるかも知れない可能性を潰しておきたいから?表向きはそうだろう。殺された人間の共通点は「かつて万密院にスパイとして潜入したことがある」ということなのだ。
でも、違う。そうではなかった。
「お前はこの部屋に入ってきた俺達を、扉の奥から拳銃で撃ち抜いて殺すことができたはずだ。それなのに、わざわざこうやって出てきた理由は何だ?」
男は黙っている。
「殺すなと言われているんじゃないか?お前は俺を殺しに来たんじゃない。逆だ。俺を待っていたんだろう?」
男は、やはり黙っていた。もしかすると、俺を傷つけることさえあってはならないと命令されているのかも知れない。殺さないだけでいいのなら、脛に二、三発銃弾を撃ち込んでやる方が、遥かに手間がかからないからだ。
殺されたジェット、かつて所属していたエペ。そこから俺を手繰れる唯一の糸。あみだくじのように複雑に入り組んでいても、いつかは辿りつくゴール。その先に待つもの。
自分でも驚くほど、俺の声は震えていた。
「お前は……ルーチェ・イスタンテ・エスペリオの指示を受けて、ここへ来たのか?」
殺されたジェットの右肩には、ジェットの血で書かれたと思しき文字が書かれていた。羽ペンでも使って書いたのか……ジェットの肩には、血文字をなぞるような、ミズばれらしき跡が残っていた。
ペンに不慣れな子どもが書いたかのようにいびつな形の文字列が、ジェットの肩の上に並んでいる。見覚えのある文字だ。俺はそれを、そっと目で追った。
"Hello my dear."
『親愛なる友へ』。
aが上手く書けずに潰れている。ルーチェの文字だと、すぐに分かった。
あいつが、俺を呼んでいる。
見ている。
ルーチェがこの部屋のどこかで、俺を。
俺を見つめて、笑っている。
瞬間、男が懐に手をやっているのが見えた。俺は、さっと軸足を後ろに引く。しかし間に合わなかった。いや、間に合わなかったのだと後で悟る。
その後どうなったのか……目の前が一瞬光って、見えていた景色が遠ざかる。暗闇の中へ奪われていく意識の中で、俺は思い出すともなく思いだした。
一年半前の事だ――。
ルーチェは笑っていた。その笑顔の後ろには炎。辺り一面焼けただれ、黒い影を炎の中から覗かせている教会の中に、俺達は居た。崩れ落ちてきた屋根の梁が地面に叩きつけられる。俺は肺の中いっぱいに煙を吸い込んだせいで、意識を失いかけていた。
ルーチェの指が俺の頬に触れた。周りの状況が見えていないかのように、優雅になぞるように。指は血に濡れて真っ赤なままだ。
「大丈夫。君を殺したりはしない」
そう言ってルーチェは、指先だけで俺の鼻に触れる。
「君以外の人間は、みんな死んだけど」
からかうように、ルーチェは愉快そうに言った。おびただしい数の死体が転がる、崩れ落ちるさなかの教会で。
この時以来――俺が二度とルーチェを見ることは無かった。いつの間にか気を失っていたらしく、俺が目を覚ました時、教会は既に焼け落ちていたという。一体どうやって外に出たのか……俺はなんとか事無きを得て、そのままの恰好で国を出た。誰にも知られない遠くの街を目指して。
しかし、あいつの視線だけは常に感じていた。どこにいても、常日頃のように。どこかでルーチェが、俺を見つめている。
事実、どうやって探しあてたのか、俺に手紙さえ寄こしてきた。どこへ行っても、あいつが追ってくるような気がしてならない。支配されているような気分にさえなる。結局どう逃げても、俺はあいつが囲った世界の中で、這いずり回っているだけなのではないかと。見えない壁の中で、いつ見つかるのかと、脅えているだけなのではないかと。
俺がここへ来たのは、復讐の為ではない。
誰しも、いつかは振り返って、向かい合わなければいけないものがある。過去に置いてきたもの、忘れたままにしておきたいもの。けれど、ほうっておけないもの。
俺は記憶の中にあるルーチェの笑顔と、真っ赤な指と、からかうような細い声から、
ルーチェの支配する囲われた世界から、抜け出さなければならない。