第五章 百話
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荷物は少なくて良い。道案内は必要ない。契約書にサインをして部屋を引き払う。二年近く世話になった部屋だ。もう帰る場所はない。
街の中央まで歩いた。二度と引き返すことのない道を淀みなく歩く。懐かしいとか、寂しいとか、そういう感情は不思議と無かった。代わりに、全て終わったのだという実感だけが、今頃になって押し寄せてくる。波のように少しずつ増幅しながら俺を襲い、広大で静かな海の中へと攫っていく。
この街に居る意味はもう無かった。今の俺には、過去から逃げる必要も、誰かの命令を聞く義務も、もうない。
自由だ。何からも干渉を受けず、俺自身にもまだ何もない。
だから、これから探しに行く。誰か、何か、あるいは、これから俺を待つ出来事ーー。
俺は何も持たない。だから物に執着することもなく、とても気楽だ。まだ誰とも知り合っていないから、これから必要だと思った奴とだけ付き合えばいい。そして、誰の命令を聞くかは俺が決める。これから決めるのだ。今はまだ、誰の声も聞いていないのだから。
連れていくのは、自分自身と思い出だけ。この二つは誰にも奪えない。いつだって俺の傍にいるはずだ。決して失われることはない。それで、十分じゃないか。
多くの血を吸ったナイフを捨て、帰る場所を捨て、また探しに行く。きっとできる。いつか見つけられる。そう信じられれば、まだ生きていける。
お前も、そうなんだろ?これで終わるわけじゃないって思ったから、あんな風に命をかけることができた。気の遠くなるような時間をかけて、お前はまた、この世界へ戻ってくる。その間に俺達が幸福であることを願って。
もちろん、未来が幸福だという保障はない。けれど……お前はそう信じるだけで十分だったんだ。だから、ああすることができた。そうでなきゃ、あんなに良い顔でお別れなんかできっこない。
俺も信じてみるよ。お前にできて、俺にできないことはないだろう。
俺は果たせない約束をするつもりはないし、生まれ変わりなんか信じない。いい加減なことを口にする気はないが、希望は持ってもいいだろう。
それじゃあ、また。もし、遠い未来の世界で会ったら、よろしく頼む。