第一章 十話
自分の足音の大きさに驚くぐらい静かな夜の教会。その中を歩く俺の後ろを、カタロスの長身がひょこひょこついてきた。暗闇に浮かぶランプの炎。下から煽るような炎の光が、聖母の顔に影を落とす。
俺とカタロスはキャンディッド教会に侵入していた。この教会はいわゆる「カテドラル」という種類のものだ。大聖堂とも呼ばれているが、見た目はまるで砦のようだった。「聳えている」という表現がよく似合う。そんな教会で、俺とカタロスは不法侵入をはたらいていた。夜の暗闇の中で、偽善たらしい聖母の像が不気味に微笑んでいる。
「ここですね」
小さな声でカタロスが語りかけてくる。一番奥の懺悔室の、さらにその奥にある掃除用具入れ。俺は足音を殺して用具入れの前に立った。ひっそりした用具入れの扉を開ける。
用具入れの中は乱雑だった。モップとモップが重なりあって、どれか一つを動かせば全部倒れる、ドミノのような状態だ。俺はそっと、モップでできた林の向こう側に触れてみた。壁に俺の指先が触れる。
カコンという音がした。続けざま、足元にあるバケツに足をつっこみ、そのまま足首を右方向へ九十度曲げた。今度は引きずるような重い音がして、俺とカタロスは揃いで一歩、後ろに下がる。
ゴリッという、石がレンガの上を擦るような音がして――用具入れの向こう側に、ぽっかと口を開けた暗闇が広がっていた。そして鈍い音を一度立てたきり、闇は再び静かになった。
「これがジェットが持ってったのと同じ地図だ」
俺とカタロスがカムラッドを出る直前、フェルゼンは「少し待ってろ」と言って受付の奥に引っ込んだ。奴は右手に真新しいケント紙を持って戻ってきた。そしてそれを、ぽんと俺に渡してきた。ツルツルした表面に鮮やかな黒のインクが載っている。奥行きを感じさせない、点と線だけでできた白地図。キャンディッド教会の平面図だった。
「お前が書いたのか?」
図面は走り書きだ。手書きのものだとすぐに分かる。しかも描かれてまだ間もない。フェルゼンはへらっと笑った。
「ああ。だから、乾くまで指でこすったりするなよ」
地図の片隅には「フェルゼン・ノールより愛をこめて」と書かれていた。字は有名人のサイン風で、名前の後ろにはハートマークさえ描かれていた。もう二度とこの建物の床は踏むまい。
「この教会の奥には隠し通路がある。ジェットはその奥にあるものを調べていたんだ」
そしてそこで、彼は命を落した。
「じゃ、いってらっしゃい。またなんかあったら連絡してくれ。縁があったら、また会いましょ」
そう言ってフェルゼンは、ひらひらと右手を振った。そのまま片目をつむる。そんなフェルゼンを二度と振り返らずに、俺は肩で風を切りながら出口に向かった。カタロスは「お世話になりました」と言って頭を下げて、慌てて俺に追いすがる。
「何なんだよ……」
カムラッドを出たら、俺は自然と呟いてしまっていた。口にするつもりは無かった。しかし、気がついたら声に出ていた。もう二度と会えても会えなくても同じことのくせに、何故フェルゼンはあんなことを言うのだろう。
「いってらっしゃい」
俺が帰ってくるのを待ってるようじゃないか。
あの男はいつだってそうだ。カムラッドに居た時からそうだった。俺がカムラッドを出て行った時も。今もよく覚えている。けれど、「また会おう」とは決して言わない。
受付という仕事をしているせいだろうか。人を見送り、あるいは受け容れることができても、引き止めることは決してできない職業だ。
扉の奥は長い廊下だった。等間隔に照明が並んでいる。電灯という奴だ。高級ホテルや公的機関では使われている所が多いが、まだまだ一般には普及していない。それらが惜しげもなく、墓石でも並べるように置かれていた。
「やっぱりここは『プレリー』なんですね」
カタロスが呟いた。俺は頷く。俺達――いや、俺はもう違うが――カムラッドの人間は、万密院統治下にある施設を「プレリー」と呼んでいる。「牧場」という意味だ。そして、プレリーの主を「エルブール」と呼んでいる。これは「牧場の主」という意味。プレリーに所属する者はエルブールに支配され、エルブールは万密院の命をこなす為に笛を吹く。プレリーという「柵」の中にいる子羊達を操る為に。俺がいた「エペ」もこれと同じ構造をしている。
ただの通路に電灯をつけておくくらいだ。このプレリーは、万密院と相当近い位置にあるのだろう。
「お前、電灯を見るのは初めてか?」
ふと気付いたので訊ねてみる。俺は「電灯」を数えるほどしか見たことがない。最初見た時は、驚いたというより、違和感を覚えた。電気という「目に見えない」ものが「灯り」をつけていることが、不思議だった。
「いいえ。ただ、贅沢だなぁと思って」
全くだ。この建物から一歩外出れば、マッチ一本買えないでいる乞食が山ほどいる。
「着いたみたいですね」
そうカタロスが言うのと同時に、俺は足を止めた。フェルゼンが寄越した地図によれば、この先に階段があるはずだった。目の前には「立入禁止」と書かれた扉が立っている。
「階段の前に扉があるのって、変な感じですね」
それは俺も思った。しかし、これはやむを得ずの処置だったのだと思う。俺はゆっくり、扉を開けた。
一歩前に進むと、一気に空気が湿った。靴を履いているのに、石でできた階段がじっとりと濡れているように感じる。
先頭にランプを持った俺、そのしんがりに、のっぽのカタロス。その隊列を維持したまま、二人で地下への階段を降りていた。
「…………」
カタロスは黙っている。さっきからなんだかんだと話しかけていた彼も、口数が少なくなってきた。階段が途切れて踊り場に変わる。足音が途切れて、急に辺りは静かになった。命あるものの気配はない。俺は目の前の、鉄格子の扉を開ける。
ギィ……という鈍い音とは対照的に、扉はすんなり開いた。意外なくらいに軽い。薄明かりが灯っているので部屋の中を見渡すことは簡単だった。ひと目で見通せるくらい、中には遮蔽物がなく、むしろ、よく片付いているという印象だった。
本当に、よく片付いている。
この中に命あるものの気配はなかった。あるのはただ、殺戮された命の残骸だった。
それがジェットのものだったのかどうかは分からない。人の背丈くらいはある作業台の上に、御無体に置かれた人間の右腕。
確か遺体安置室で見たジェットの躰には、右手が無かった。腕ごとごっそり無くなっていたからだ。切断面から、それは切られたのではなく、もぎ取られたのだと分かった。
俺は作業台の上の右腕を見る。万力のようなもので力任せに引き抜かれたのであろうことが窺えた。ジェットが手を振る時に使っていた右腕が、台の上に転がっている。思わず息を呑んで口元を歪めたカタロスをその場に留まらせて、俺は部屋の中の探索を始めた。
壁に立てかけられた糸ノコのような刃物。よく洗ったつもりだろうが、黒ずんだ肉の塊が刃と刃の間にこびりついている。戸棚の中にある薬品。作業台には、それをこぼしたことで空いたと思われる穴がいくつも空いていた。人の体の上からかけても穴が空くのだろう。
拷問部屋。ジェットが仕入れていた、ここが万密院の私設拷問室であるという情報は正しかった。階段の前にあった扉は防音目的で作られたのだろう。恐らく、外に声は全く届かない。それはここに侵入して、そして帰ってこなかったジェットが一番よく知っていたはずだ。
俺は部屋の中を一周して、全く存在を感じさせないくらいぼんやりと突っ立っているカタロスの前に辿り着いた。カタロスは何も言わない。ただ、何も言わずにこちらを見た。
「何だよ」
そう言って俺は、少し困ったような顔をしてカタロスを見た。奴はそっと、唇の先を噛みしめている。
「……何だよ」
もう一度同じことを言っても、カタロスは黙っていた。それでも目で訴えかけてくる。
『友達が殺された部屋の中を調べ回るなんて』
ジェットは友達ではない。しかし、仲間ではあったと思う。勿論、同じ組織で仕事をしていたという意味においてだ。親しみとは無縁のビジネスライクな関係。俺はそれで良かったし、ジェットもそれ以上、俺に踏みこむことは無かった。ただ奴は、その「仲間」という関係すら楽しんでいるように見えた。
「泣くなよ」
そう言って俺は、踵を返そうとした。さっきもそうしたように、少し困ったような顔で。
カタロスが笑った。奴はほんのうっすら、瞳を潤ませて笑っている。
奴も、少し困ったように笑っていた。
しかし、この場もそう長く続かないことは分かっていた。まず第一に、地下に続く扉が開いていたこと。第二に、ジェットのものらしい右腕が作業台の上に放置されていたこと。
こうして俺達を、この部屋の中に招き入れたこと。
どうして俺達がここに来ると知っていたのかは分からない。オールド・ワンがチクッたのか?勿論、それは分からない。
だから、そこについて考えるのはやめておく。問題は、今ここで俺達を見ている人間のこと。
ジェットの右腕で気を惹いたつもりだろうが、俺はきちんとその視線に気づいていた。そいつはこの部屋に入った時からずっと、俺とカタロスを見ている。
そいつがジェットから右腕をもぎとったのは、この時の為だったのだろうか?こうして後から来た人間の――俺の注意を惹きつけて、油断させる為――?
牧場があって牧場主がいるなら、当然そこには「牧羊犬」もいる。羊達が逃げ出さないように、外から来た侵入者を追い払う為に。
このプレリーにあてがわれた牧羊犬の名前は「グロワール・エペ」と言う。エペと呼ばれる人間の何人かが、この教会の警護の任務に当てられているらしい。
教会に入る前――俺は誰にも言わなかったが、恐れていた。拷問の跡を見ることやドジを踏んで捕まってしまうことを、ではなく。
万密院、かつてエペに所属していたジェットの死。そして、この二つを結ぶもの。
いつ、そいつの影が見えたりしないかと、内心気が気でなかった。もしそいつが、この瞬間、俺の前に現れたなら――。
「ねえ――」
そう言って、鏡を照り返す光のような笑顔を見せたなら。
カタロスも視線に気づいたらしく、右足を後ろに引いて身構えた。俺も懐に収めたナイフに手をやる。
部屋の奥にあった扉が開いた。その表面に開いた僅かな穴の奥からこちらを見ていた視線が、動いているのを感じる。
動いても、こちらを見続けている。
そして――扉の中からそっと、人の身体の形をした影が現れた。