不如帰の夏を渡って
ホテルの窓から夕陽が差し込む。
ネクタイを締める指が一瞬だけ止まる。
溜息をついて窓際に行き、ちら、と後ろを見た後カーテンを少し動かして、強い日差しを遮る。
西日の当たらなくなったベッドから、すうすう、と寝息が聞こえてくる。
「…ばかが」
つぶやいた言葉は、誰にも拾われることはなかった。
ジャケットを羽織る。
一人先に部屋を出ようとしたとき、ホテルのテーブルの上に投げ出された手帳が目に入った。何一つ悪いという気もなく、まるで当然のように手帳の中身を見ようと手に取る。
留め具を外そうとすると、使い込んだ革張りの表紙のに挟まれていたペンが床に落ちる。拾い上げてみると、物にやかましい手帳の持ち主のものとはとても思えなかった。
「なんだ、これは。ずいぶん古い…」
ペンに刻まれた文字に、言葉を飲み込んだ。
昔と何一つ変わらない寝息が後ろから聞こえてくる。
「こんなボロボロで、使ってもないくせに」
しばらく見つめた後、ペンをもとの場所に戻して手帳を机の上に戻した。
手帳の留め具は止められたままだった。
いつもよりも大きな足音をホテルのカーペットが吸収する。
バタンと扉が閉まった後、ベッドからは寝返りの衣擦れの音が響いた。
木漏れ日から降り注ぐ光が淡い。
柔らかく優しく、冬の寒々とした輪郭をぼやかすかのように、あいまいな境界線を自然と村の中に引いていく。
坂道を歩きながら、正は地面に映るやわやわとした木陰のふちを、無意識に見つけようとしていた。
木々のざわめきがそよそよと吹き抜ける。
春だった。
「くそう、薫のやつ! なにが転校生のスクープを取らせてやる、だよ! ただの手伝いじゃないか!」
山のように持たされた荷物を放り投げてしまいたかった。
しかしそんなことをすれば、姉の薫にひどい目にあわされるのはわかっていた。
仕方なく年季の入ったリュックを抱えなおして、両手の風呂敷の結び目をしっかりと手のひらのくぼみにつかみなおす。
「こうなったら絶対に転校生のこと、丸裸になるまで暴いて、わが新聞部のスクープにしてやる!」
本来であれば、取材をもとにしっかりとした裏どりを行い、教師の発表より前に生徒に重大な情報を届けることが新聞部の活動だ。少なくとも、正はそう信じていた。
それが裏どりどころか、朝から畳をふけだの買い物に行けだの、駅舎で荷物を受け取ってこいだの、空き家の世話をしていた正の両親にこき使われているだけだった。
取材と称して家を飛び出そうとしていた正を捕まえたのは、姉の薫だった。どうやら自分たちが手伝わされる家には、同じ年ごろの高校生がいるらしい。きちんと手伝えば隙を見て大人たちに聞き出すチャンスもあるから逃げるなんて許さないぞと、ぎろりと睨みつけられた。スクープを取らせてやる、とそそのか
すように言った姉だが、結局は本当に一日中ただの手伝いだった。
「正! 遅い!」
坂の上から、セーラー服の薫が仁王立ちで叫ぶ。
「はあ、本当に、はあ、人使いが、荒い! 母ちゃんそっくりだ」
小さなつぶやきは、幸いなことに薫には聞こえなかったらしい。
視界には木々の木漏れ日が揺れている。
地面を見つめてあと少しの坂道を登り始める。
「ん?」
それは雲のようだった。
急に木の葉の輪郭が大きくなり、坂道に大きな影をつくっている。
はっとして顔を上げる。
「君は…」
見上げた先には、今にもこちらに降りてこようと木から身を乗り出す少年がいた。
年の頃は正と同じぐらいだろうか。
濡れている、と正はなぜだか思った。
少年の大きな黒目がちの瞳が、しっとりと涙で濡れているように見えた。若葉が太陽に照らされて、葉脈が光っていた。まるで木の上の少年を包み込むかのような光景に、正は言葉を失った。
「…誰?」
「…た、正」
君は、と聞き返すこともできなかった。
自分自身になにも恥じ入ることなどないというのに、正はなぜか今途方もなく自分が恥ずかしかった。
「ふうん」
少年はまるで風に吹かれるように木々を揺らして地面に飛び降りてきた。
「え?」
正の両手の荷物を黙って取り上げると、少年は美しい動きで踵を返し、坂道を登り始めた。
「うちに行くんだろ?」
ついてこない正をいぶかり、少年が振り返る。
振り返っただけだというのに、やけに目が離せないようなはっとする動きだった。
「えっと、あの、わ、私…」
坂の上で仁王立ちしていた薫はもはや別人に変身していた。
もじもじ体を揺らして足は内股に、両手は胸の前で組まれて、うつむきながら少年にまなざしを送る。
姉の薫の隣を通り過ぎる少年をみて、正は彼が意外と背が高いことに気が付いた。
「なに?」
少年は足を止めずに薫に聞くが、薫は顔を真っ赤にして答えられなかった。
まるでそんなことには慣れているのか、一瞥しただけで特に怒った様子もなく通り過ぎて、坂の上の家の中に入っていく。
「…転校生、あれが」
坂道を登り切った正が呆然とそうつぶやく。
なぜか薫が思い切り正の背中を叩いたが、二人とも喧嘩にもならず、ぼうっと木造一軒家の入り口を見つめていることしかできなかった。
『魅惑の転校生、現る!』
『転校生、十人から告白を受ける!』
『体育の山ゴリラ、転校生に見惚れて記録ミス!』
校内新聞の見出しを掴む両手が、ぶるぶると震える。
怒りのようなものが腹の底から湧きあがってくるさまを、正ははっきりと感じた。
「いかん、いかん、いかーん!」
田舎の村に突如として現れた都会の美少年の転校生は、瞬く間に学校中の注目の的になっていた。
正たち新聞部は登校初日から転校生に張り付き、その美貌と周囲の生徒たちや教師たちまでが狂乱する様子を面白おかしく記事にしてしまっていた。
ずっとそれに異を唱えてきたのは、ほかでもない正だった。
「諸君たちは! こんなことを記事にしていいと思っているのか!」
バン、と机をたたいて立ちあがる正を、新聞部のメンバーはうんざりした様子で見る。
「なんだよ、正。お前だって時季外れの転校生現る、ってスクープスクープって騒いでただろ」
「あ、あれは! …いいだろ、それくらい!」
苦しい言い訳だった。
副部長の西野の指摘はもっともだったからだ。
「でも、こんな人のプライベートに踏み込むようなことはよくない! 転校生が何をしたって訳じゃないだろ! 周りが騒いでるのを、さらに僕たち新聞部が騒ぎ立ててどうする!みんなが知らなかったことをスクープしてこその新聞部だろ!」
「いーや、みんなが読みたいものを書いてこその新聞部だ! 誰がお前の『ウサギ小屋の赤ちゃん誕生』とか『今年の田植え休み』とか読みたがるんだよ!」
「なんだと! ウサギの赤ちゃんの誕生はかわいいだろうが! 田植え休みだって、大事な情報だろうが!」
「つまんないんだよ!」
「貴様、やるのか!」
「おう、上等だよ! 部長のお前の記事がつまらんから、俺も文句があるぞ! 」
部長の正と副部長の西野が始めた言い争いを、誰も止めることもない。そうだそうだと煽るものたちばかりで、皆して喧嘩を楽しんでいるようだった。
自分の味方はいない、と悟らざるを得なかった。
何より、記事がつまらない、と指摘されたことに内心大きなショックを受けていた。
「あの」
その時だった。
開けっぱなしだった扉の向こうから、声を掛ける人物がいた。
よく見ると部室棟の廊下のあちこちから、新聞部とその人物を覗き込んでいる顔があった。
「て、転校生!」
西野の驚きの声に、転校生の葛西は眉をひそめた。
「あのさ、西野。俺さ、転校生っていう名前じゃないんだけど」
「あ、ああ。すまない」
転校生はごく自然に西野の名前を呼んだ。
名前を憶えられていたことに、西野は狼狽を隠せない様子だった。
「な、なにかようかな」
西野は長身をかがめて、なぜか肘を壁について葛西に向かって身をかがめる。まるで流行りの映画のワンシーンのようなポーズに、あまりに不自然なので部員たちもぐっと笑うのをこらえていた。
あいつはなんであんな姿勢で話しかけているんだ?
正は西野が急にキザな態度を取った理由が理解できず、ただただ困惑していた。
「これなんだけど」
葛西が取り出したのは新聞部の発行した最新版だった。記事の内容に文句をいながらも、ガリ版を削ったのは正だったので、一目で最新の版だとわかった。
「俺、告白されたの十一人だぜ」
葛西は西野の様子は気にもとめずに、涼しい顔をしていた。
「どうでもいいけどさ」
すっと転校生の指が西野に向けられる。
ごく、と西野が生唾を飲み込む音が聞こえた。
田舎育ちの全員にとって、あまりにも葛西の動作が自然で洗練されていて、廊下で必死に新聞部をうかがっていたほかの部活の者たちも、緊張と驚愕が隠せなかった。
指は鎖骨を触り、ゆっくりと首をたどり、すっと顎先にすべる。
「ちゃんと裏どりしといてくれよな、副部長さん」
ふっと息を指先に吹きかける。
「あ、あわわ、わあああ」
どすん、と西野は尻もちをついた。
「じゃあな」
魅惑の転校生・葛西はにっこりと西野に笑いかけて、あははと笑って去っていった。
突然倒れ込んだ西野を心配するそぶりもないところを見ると、葛西にとってこんな反応は驚くようなことでもないのだと、誰しもが理解するのに十分だった。
「す、スクープだ『転校生、指一本で西野を倒す!』」
転校生・葛西はいろんな意味で田舎の高校にはいないような人物だった。
まるで映画の中の人物のような振る舞いをしても、何もおかしなところがないくらいに似合っていた。
「ちょっと正ってば!」
ぼうっと縁側で物思いにふけっていると、姉の薫がぷんぷんと呼びかけてくる。手には野菜を持っている。
「暇してるなら葛西さんとこ行くわよ! 荷物持って!」
しぶしぶ姉に付き合わされて、葛西家までの急な坂道をゆっくりと登る。
「不思議だわ」
「なにが」
「何がって何よ。あんた新聞部のくせになんとも思わないの?」
「だから、何がだよ!」
「葛西さんちよ。ほら、始業式のあとに引っ越してきたじゃない。ずっとうちの両親やおばあちゃんたちが管理してたけど、自分たちの家じゃないって言ってたし」
薫の指摘はその通りだった。
「それに、葛西くんだけお父さんより先にこっちに来てたでしょ。普通一緒に来るんじゃないの? 葛西くんのお父さんは大きな黒い車でやってきて、運転してた人がドアまで開けてあげてたのよ」
「その割には、別に金持ちそうじゃないよな」
「そうねえ」
「あ、でも通いのお手伝いさんがいるのよ。ふくさん」
「ふくさんって、この坂の下に住んでる?」
「そう。毎日炊事洗濯をしに行ってるんだって」
「へえ」
薫はいったいどこからそんな話を仕入れてくるのか、村中のことはすべて知っていた。自分よりも新聞記者に向いているのではと、ときどき思ってしまう。
「あら、よく来たね。ふたりとも」
葛西家で出迎えてくれたのは葛西の父だった。
初対面の時に、夏野と呼んでください、と自己紹介されてだいぶん面食らった記憶がよみがえる。そんな自己紹介を、息子の同級生にする父親がいるだろうか。
「お、おじさん、こんにちは」
「こんにちは」
迷った挙句、正も薫もおじさん、と呼んでいる。葛西の父はそれに眉を顰める様子もなく、無邪気に笑って出迎えてくれた。
「これ、お母ちゃんからです」
「まあ、こんなにたくさん。およりさんにお礼を言っておいていただけますか」
およりさん、というのは二人の母の名前だ。他人の口から母の名前がでるのは、どうにも落ち着かない。
「そうだ、これこれ」
思い出したように葛西の父は棚から紙袋を手に取った。
「うちの……その、お世話になっている近江さんという方が、薫ちゃんと正ちゃんのお家にと置いて行ったんです。近いうちに使いをご挨拶に伺わせます、と伝えておいてもらえますか」
「わああ! カステラだ!」
薫はぱあっと顔を輝かせて紙袋を受け取った。
「秋は学校で仲良くやれてる? 一緒に遊ぶ子もいない場所に、いきなり来ることになったから、元気に通えてるのか心配で」
「葛西はいつも元気ですし、いつも遊んでますよ」
葛西はいつも確かに元気だ。そしていつも人で遊んでいる。
この前の西野の反応なんかは相当気に入ったらしい。あの日以降、西野を見つけては遠くからでも声を掛け、手を振って反応を楽しんでいる。
「そう…なら、いいのだけれど」
足の悪い葛西の父は、玄関の椅子に腰かけていた。薫と正に、家の人には内緒だと言い含めて、カステラを切って出してくれる。玄関の上がり框に二人が腰掛けてカステラを食べていると、ガララという音をたてて急に戸が開く。
「なんだ、正と薫じゃないか。来てたのか」
「秋ちゃん、お帰り」
「ただいま」
葛西は堂々と正の隣に座って、そのまま一緒にカステラを食べ始めた。
何しに来たんだ、とも一言も聞いてこなかった。
「二人とも声までそっくりだな。一瞬どっちが話してるのか、そとからじゃわかんなかったぜ」
「まあ、双子だからね」
「わ、私は正と似てなんかないわ! こんな眼鏡がり勉と一緒にしないでよね! 」
薫はまたぷんぷんと怒り始めて、すっくと立ちあがる。
「先に帰る! 田植え休みも始まるし、怠け者の正と違って私は忙しいの。おじさん、カステラごちそうさまでした!」
葛西の父は微笑んで軽くお辞儀をした。
ぴしゃっと扉をたたきつけるように閉める無礼な態度を、なぜかにこにこと見つめていた。
「元気だね。薫ちゃんらしい」
「田植え休みって、なに? 」
「えっ、田植え休み知らないのか!」
正は驚愕した。葛西はきょとんとした表情で見つめ返してくる。あまりにもあどけない顔をしているので、正はなぜか妙な緊張を覚えてしまうほどだった。
「田植えって、あの田植え?」
「そうだよ。みんな家の田植えを手伝わなきゃいけないから、学校が休みになるんだ。来週からだよ」
「そうなの? ふーん…」
なぜそう思ったのか、正直なところ正にもわからない。
しかし、どことなく行き場所を失ったかのような葛西の顔を見て、思わず声を掛けていた。
「行くとこないなら、うちで田植えする? したことなさそうだし」
「いいのか!」
ぱあっと葛西は見たことがないくらいの笑顔になった。
謎の魔性の転校生、というレッテルを張ってしまったのは正たち新聞部だが、普通の人なのだ。
なぜそれを最初にわかってやれなかったんだろう、と正はちくりとした罪悪感を抱いてしまった。
「どうした、正。おなか痛いのか?」
ぐっと眉をしかめた正を、葛西は覗き込む。
その眉を寄せた表情にばくんと心臓が鳴るが、正は何でもないふりをしようとした。
「ああああああ、あ、ああ、沈む!」
「沈まないって。大丈夫だって」
「うそだ!」
「俺たちは沈んでないだろ」
本当に田植えを手伝いにきた葛西は、田んぼに入るだけで沈むだのなんだのと大騒ぎしていた。
「これくらい持ってね、それでこうするのよ」
不思議なことに体幹だけは異常にいいのか、泥の中に倒れ込むことはなかった。
けれどびくびくとおびえながら葛西は田植えを手伝った。
何もかも初めてのことらしく、時折葛西から飛び出す質問が正たちを面食らわせた。
「土をかぶせなくていいのか?」
「土? なんでよ?」
「だって、野菜を育てるときは種を地面に植えて、土をかぶせるだろ。米って野菜だろ」
あまりにも純粋にいぶかるので、正はまだしも笑い上戸の薫は自分の気持ちを抑えることができなかった。吹き出して笑う薫に、葛西は顔を真っ赤にする。
「なんだよ! 笑うなよ、薫!」
「ご、ごめんなさい、あははは! お腹痛い! だって、あははは」
「都会育ちなんだな、葛西は」
「こら、お前たち! 遊んでないで手伝え! 手を動かさんかい! 」
遠くから正の祖父の声が響く。
三人は慌てて身をかがめて手を動かしたが、薫はしばらく思い出し笑いをしていた。そのたびに、抗議するような視線が、なぜか葛西から正に向けられるのだった。
朝からずっと田植えをしても、まだまだ終わらなかった。
土手で握り飯を食べながら休憩を取っていると、見慣れない車が留まる。
「なんじゃ、ありゃあ」
降りてきたのは葛西の父親だった。
一瞬まぶしそうに眼を細めたが、水田に視線を向けて少しだけはにかんだ。
車には運転手と、もう一人だれかいるようだったが、その人物は降りてくる気配はなかった。
「秋がお世話になっております。お忙しいところご厄介になりまして。息子は迷惑をおかけしておりませんか」
薄い着流しから見える体の線が妙に艶めかしく、男衆たちも女衆たちも戸惑いを隠せなかった。男だというのに、正の父や祖父たちのような農家のそれとはまったく違う、現実離れした美貌に誰もかれも戸惑うばかりだった。
「あんたんとこのせがれは、都会育ちで土を知らんな。おかしなことを聞いてくるもんだから、皆笑ってしまったわ」
歌舞伎役者なんかが好きな正の祖母が、話しかけたい気持ちを抑えられずうずうずと声を掛ける。
まあ、と葛西の父は流れるように顔を向ける。
「泥に沈むやら、苗に土をかぶせろとか、苗が倒れてしまうとか」
かっとまた葛西の顔が赤くなった。
大人たちはそれもほほえましくてまた笑いだす。しかし一番笑っていたのは葛西の父親だった。
「笑いすぎだよ、お父ちゃん!」
「ごめんよ、おかしくて。いい経験をさせていただいたね。越してきてよかった」
「ふん」
葛西の父はいとおしそうに、葛西の頬についた泥を指で払ってやると、深々と頭を下げた。
「私も田舎育ちですが、どうも都会のことばかり息子に教えてしまっておりました。大変なご厚意をいただきまして、ありがとうございます」
「いいや、そんな! 田植えを手伝ってもらっただけで、頭をさげてもらっちゃこまる!近江の旦那に叱られちまうよ」
正の祖父はすっかり狼狽えてしまった。
その時だった。車から背の高い、スーツを着込んだ男が下りてきた。こちらに近づく様子もなく、よくとおる声が響く。
「夏野、いつまで待たせるつもりだ」
はっと葛西の父は振り返ると、慌てて返事をする。
「はい。今参ります」
何度も正たちに頭を下げながら、葛西の父はその男と車に乗ってどこかへ行ってしまった。
「なにあれ、秋ちゃん」
「あれは…まあ。うちはいつも、わりとあんな感じだから。控えめなほうだぜ、今日」
「映画の中の人たちみたいだなあ」
つぶやく正に、怪訝な目を向けるのは葛西だった。
「そうかあ? お前どんな映画見たんだよ」
葛西の周りにはいつも熱い視線が付きまとっていたが、実際に付き合ってみると実に気さくだった。すぐに人の名前と顔を覚え、いつも葛西から声を掛ける。最初は皆それをカリスマ性か何かのように受け止めていたが、次第にそういう性分なのだとなんとなく理解していった。
新聞部が書き立てた葛西像は魅惑の転校生だった。それは真実だが、それ以上に田舎の暮らしに大騒ぎしながら生活している様子を見ると、人間らしい泥臭さを感じずにはいられなかった。
田植えに大騒ぎして素っ頓狂な質問をしたかと思えば、カマドウマを校内で見つけて妖怪だとおびえたり、うっかり山で漆を触ってしまい毒だと泣いていたりした。
こいつはただのわんぱくなのかもしれない。
周囲の、特に葛西のスクープを狙って追い回していた新聞部は、わりとすぐにそう思い始めた。
「えー、この度葛西くんの作文が賞をとりました。葛西くんは新聞部でしたよね? おめでとう」
「え?」
「こちらに来て初めて体験した田植えの感動を、実に美しい田園の描写で作文にしましたね。いつも優秀
なものは新聞社に送っているんです。滅多に賞を取る人はいませんが」
職員室に葛西と新聞部の部長、副部長はこい、という呼び出しを受け出向いてみると、そんなことを言われたのは夏休み前のことだった。
「いや、俺新聞部じゃ―」
「はい! 葛西は新聞部です!」
「おい、西野! 葛西を離せよ!」
三人の全く息の合っていない反応を少しもいぶかることなく、国語教師は続けた。
「いつも新聞部はみんな一緒に活動していますね。結構なことです」
スクープがありはしないかと追い回されているうちに、葛西は新聞部だという認識を持たれてしまったらしかった。
「せ、先生! 賞を取ったってことは、授賞式とかあるんですか!」
「ええ、そうですよ」
新聞部じゃない、と訂正しようとする葛西の口を押さえつけ、西野は興奮気味に教師に詰め寄った。
しかし。
「ただ、学校が出せる旅費の関係で、出席できるのが二人までなんです。新聞部全員でいければよかったですね」
結局、誰が行くかで大騒ぎしたが、順当に部長と受賞した本人ということになった。
夏休み中に行われたその授賞式は簡素なもので、しかも都会とは言っても首都ではない。電車で村から一番近い街にある新聞社の、小さな会議室の一室で行われただけだった。記念写真をとって、翌日のごくごく小さな欄に乗せるのだと説明された。
「すごかったな、葛西!」
「…そうか?」
「だってあの人たち、みんな新聞記者なんだぜ! 俺、いつか新聞記者になるのが夢なんだ」
「そうだったんだ。正ならいい記者になるんだろうな」
正はなぜ葛西がそんなことを言うのかわからなかったので、一瞬きょとんとした。
「なあ、あれ薫じゃないか?」
「え?」
葛西の指さす方をみると、麦わら帽子を被った女の子が店から出てくるところだった。
白いワンピースに見覚えがあった。家庭科の授業で女子が縫っていたからだ。
「おーい薫!」
「おい、葛西!」
「なんだよ、いいだろ別に」
正はなぜか見てはいけないような気がしたというのに、お構いなしに葛西は声を掛ける。
「あ、あんたたちなんなのよ、こんなところで! まさかつけてきたの!」
驚いた薫は聞いたことないくらいの声量で叫んだ。手に持っていた小さな紙袋をつぶれそうなくらい大事に抱きしめていた。
「いや、俺たちは新聞部の授賞式だよ」
「うそ! 秋ちゃん新聞部じゃないじゃない!」
面倒なのでもう入部することに、葛西はこの瞬間決めた。
「俺新聞部だぜ」
「いつ入部したのよ!」
「今」
「はあ?」
「何買ってたんだ、お前」
正が聞くと、薫は顔を真っ赤にした。
バシン、と乾いた音が鳴る。
「ばか!」
平手打ちされた正は状況が読み取れなかった。葛西も目を丸くする。薫は一切の説明をすることはなく、そのまま走り去っていった。
「なんなんだよ、一体」
薫が出てきた文具店の前で、二人は顔を見合わせぽかんとするしかなかった。
正は正直、街というのはこんなにいろいろなことが起こるものなのだろうか、と田舎の村でのんびり高校生活を送っていることが恐ろしくなった。
薫に平手打ちされたかと思うと、今度は見知らぬ男子学生が葛西の腕をつかみ上げたのだ。
「き、君! 何するんだ!」
怒りにまかせたようなその様子に驚いて声を上げる。
「秋、今のはなんだ」
「………晴彦」
二人は知り合いらしかった。
「こいつは誰だ」
「…………ともだち」
葛西の口からそう言われたことで、正の心臓はまたばくんと音がするようだった。なぜか恥ずかしくなってしまう。しかしぎろりと睨まれて、あまりにも鋭い眼光にひるむ。
「なんでここにいるの? 腕、痛いから離してよ」
「…だめだ」
「大声を出すよ」
「…出したらいい」
「はあ、もう晴彦。俺と俺の父親のことはお前には決められないし、俺にも決められないし、ましてや俺
の父親にも決められないんだ。お前のおやじさんがそう決めたんだから、俺はあの村で暮らすんだよ」
葛西の言葉に、晴彦という高校生の指に力がこもった。
「大学はちゃんと東京に行くんだろうな」
「俺は大学なんか、行かないって」
「秋! いい加減にしろ! 俺は本気で言っているんだぞ!」
「ちょ、ちょ、ちょっと君たち! 何の話か知らないけど、道のど真ん中でするようなことじゃなだろ! どこか場所を変えよう! 周りの人に迷惑だ」
「そうだよ、晴彦。俺と話してると、迷惑になるぞ」
少し葛西の言い方に違和感があったが、正にはその違和感が一体何なのか分からなかった。まるで虫唾が走るような表情をして、晴彦という青年はようやく手を離した。ふん、と正をにらみつけると、そのまま背を向けて立ち去って行ってしまった。
「なんなんだよあいつ! 葛西!」
「うーん、俺の兄貴かな」
「はあ?」
葛西はからかうような表情をした。
「スクープだな。『転校生、複雑な家庭』!」
いつも楽しそうに騒いでいる葛西とは別人に見えた。
揺れる瞳。
薄い涙の膜が張っていた。
「…そんな記事誰のためにもならない。僕は書かない」
大人びた瞳が正を見つめて微笑んだ。
両手を頭の後ろに回し、はーあとため息をつく。
「正はいい新聞記者になるよ」
それっきり特にどうということもなく村に戻った。
薫の買い物はなんだったのかさっぱりわからないし、晴彦と葛西のこともさっぱりわからない。けれど正は普通に新聞部の活動に励んだし、新しい部員になった葛西にも 何か記事を書くようにせっついた。
「記事ったってなあ。作文とは違うんだよな」
「なにか大きな出来事でもありゃあ記事にできるんだけどな! こんな田舎の村じゃ、何にもない。俺、高校出たら絶対東京へでて働き口見つけるんだ」
「へえ、西野もちゃんと進路考えてたんだな」
「どういう意味だよ、葛西」
なんだかんだで人付き合いのうまい葛西と、野心はむき出しにするタイプの西野。おかしな組み合わせだが二人はよく話す。
「正は何書くんだ」
「僕は村の家紋の種類を調べようと思って」
「家紋~?」
西野はうええ、と舌を出した。
「またお前はそんな、面白くもない地味な記事を! 部長のお前がそんなだから、新聞部は発行部数が減
ってるんだ!」
「葛西のスクープ頼りの発行部数がもともとおかしかったんだよ」
何にでも素直な反応を示す葛西は、西野とは違い興味を示した。
「調べるとどうなるんだ?」
「ほら、同じ苗字でも違う家紋を使っていたりするだろう? 逆に同じ家紋だと苗字が違っていても、何
かつながりがあったりする。そういうのって面白いと思って。自分の家の家紋に興味を持つきっかけになるかもしれないし、武将の家紋に興味を持つようになるかもしれないし、みんなのためになる記事を目指すよ」
「へえ…!」
やめとけやめとけ、と西野は騒いだが正は耳を貸さなかった。西野の記事はどうせマドンナ先生か葛西のインタビューだからだ。男子生徒向けと女子生徒向けだ。皆が読みたいものを届ける、という西野のポリシーが隠されもしない記事だ。
「じゃん!」
夏休みのうだるような熱気の部室に、葛西が風呂敷を持って現れたのはしばらくしてからだった。
「家紋、うちにもあった!」
稲が描かれたそれはどこにでもありそうだった。
「おいおい、葛西さまともあろう人が、正のテーマを盗むのか?」
「違うって失礼な。まあ、確かにちょっとそうかもだけど」
「どう違うんだよ」
「正のは取材して整理して記事にするルポだ。俺のはエッセイ」
「ルポ? エッセイ?」
「なんで新聞部の副部長なのに知らないんだよ。自分の感じたことを書く記事のことだよ、エッセイは。この家紋はどこからきたのか? みたいなのにしようと思うんだ。そういうののほうが俺、書きやすい」
「いいんじゃないか? 葛西は感じたことを文にして賞を取ったんだし、それが一番のびのびかけるよきっと。それに」
正は溌剌と笑った。
「つまらない記事はどうせ誰も読まない!」
あっけらかんと中々に厳しいことを言う正に葛西は少し驚いた。
興味を持ったのは本当だし、初めて見る家紋の図鑑なんかも面白かった。
自分のことについて知る、という行為が咎められもしない免罪符があることが葛西の心をかなり軽くしていたことは、だれも知らないことだった。
「こんなことするより、もうお前のおやじさんに聞いたほうが速いぜ。だいたい葛西はこのへんの出身じゃないだろ」
どうせお前の記事はろくな取材の時間も掛けずに書くんだろう、と葛西の家紋たどりを手伝わされていた西野は、近隣の複数の村を歩いて家紋を見て回る葛西と正にそう言った。炎天下の中歩き続けてくたびれ切っていた。
「答えてくれるかな」
「いいんじゃないか」
なぜかひるむ葛西を後押ししたのは正だった。
「僕も何人かにインタビューしようと思ってたんだ。みんなで行こう」
葛西の父は突然やってきた3人に怒る様子もなく、内職の手を止めて話をしてくれる。居間に布団を敷いた上でせっせと内職をしていたその姿は、どうみても病人だった。お邪魔してもいいのだろうか、とさすがに西野もまごついたが、うちはいつもこんな感じだから、という葛西父に促されて腰を下ろした。
その取材内容にきょとんとしていたが、やがておろおろと視線を泳がせた。
「こ、この家紋はなんというか。えっと…秋ちゃん、困ったな」
「やっぱり、俺は聞いちゃダメなの?」
葛西の声は固かった。
あの日。
街で泣き出しそうな葛西の声を聴いた正には、その物悲しい固さに聞き覚えがあった。
葛西の父ははっとして息子をみた。
「………そういうことじゃ、ないよ」
そうは言っても、葛西の父の歯切れは悪かった。
「そうだね。それは、大事な家紋だよ。秋ちゃんのお母ちゃんが一番大切にしていたものでね。お父ちゃんのものじゃないんだ。でも、どうしてその家紋をお母ちゃんが使っていたのか、お父ちゃんは知らないんだよ」
葛西家に母親の姿はなかった。
気まずい空気が流れた。
口を開いたのは正だった。
「おばさんはどこのご出身なんですか?」
「おばさん?」
葛西の父は目をぱちくりさせた。
「はい。葛西のお母さん」
「ああ、おばさん。そういう…ふふ、あの人もおばさんと呼ばれる日がくるなんてね」
葛西の父は内職の縫物に視線を落とした。
ゆるゆると首を振って、柳眉を悩まし気にゆがめた。
「さて、どこだったのかな。ずいぶん、昔のことだから。もう二度と戻らないんだ、と固く決めていたから、口にもしなかった。そうするうちに、本当に忘れてしまったんだ」
葛西の父は息子の肩にそっと手を添えた。
「ごめんね、力になってやれなくて。でも味方になってくれそうな人を紹介してあげられるよ」
そう言って紹介された人物はどうみてもカタギではなかった。
待ち合わせ場所に再びあの新聞社の前を指定された3人が待っていると、黒塗りの車が停車する。
ぎょっとしていると、乗車を促すように車の扉が空く。
「乗りな」
おいどうする、と目配せを西野と正は慌てて葛西に向けた。しかし葛西はそんなもの気にも留めずに車へ乗り込んでいったので、二人も慌てて乗り込んだ。
「せめえな」
中にいた人物は眉をしかめた。
「あの、葛西秋です。はじめまして」
葛西に続いて二人とも自己紹介をすると、男は篠山と名乗った。
「家紋を探してるのか」
「母の出身がわかれば、分かるらしいのですが。父は思い出せないと」
「お前の父が? 」
篠山は驚いたように葛西を見た。しかしすぐに、何かに納得したように溜息をついた。
「ああ、夏野か。まったく」
篠山はイライラした様子を隠そうともしなかった。
「お前さんたち、新聞部だったか? ずいぶん面倒なことに首を突っ込もうと思ったもんだ。世の中には突っつかねえほうがいいことの方が多いんだ」
緊張で西野も正も何一つ言葉を発せなかった。なぜ葛西はこんなやくざと相対して平然と話を続けられるのか疑問で仕方なかった。
「ま、酒が飲めるようになったら教えてやるよ」
結局、誰も何も教えてくれはしなかった。
不思議なことに、その結果に不満を唱えたのは西野だった。
「なんだよ、俺があんなに手伝わされたのに、なんの収穫もないのかよ!」
「仕方ないだろ。全部が全部、スクープにつながってるってわけでもなし」
葛西は投げやりにそう言って、畳の上に寝転ぶ。3人は夏休みの宿題やら取材の資料やらを持ち寄って、今日は正の家に集まっていた。
「まあ、謎を解明しなければ記事が書けないわけでもない。できる範囲のことはしたんだし、それを記事にしてもいいんじゃないか? やっぱり家紋といえど、先人たちから教わることができないと由来もわからなくなってしまう、と」
「そうだな」
「つまらん! そんな記事!」
「そんなことより、数学は終わったのか」
「俺は酒屋だから、数学なんていらないんだよ」
なぜか当事者ではない西野が大いに不満を漏らしていて、彼は中々宿題にも手を付けようとしなかった。
「女紋なのかもしれない」
しばらくして、正が沈黙を破った。
ずっと宿題に集中しているのだと思われていた正のノートには、一連の取材の気になる点がメモされていた。そのメモを覗き込んだ葛西と西野は顔を見合わせる。
「なんだ、お前が一番気になってるんじゃないか」
「女紋ってなんだ、正」
「一部の地域では、母親から娘にだけ受け継いでいかれる紋というのがある。それが女紋だ。だから、葛西のおじさんは家紋の由来を知らなかったのかもと思って」
「確かにな。俺も釈然としなかったんだよ。普通、父親なら家紋や家のことを知ってるもんだろ。それを知らないっていうから、変だと思ったんだ。でもまあ、女紋なんだって思ったら、そうかもな」
葛西は二人の考察に複雑そうな表情をした。
「うーん、だったら、あそこに行くしかないかな」
立ち並ぶ家屋に吊られている控えめな看板が、異様な雰囲気を漂わせている。
塀に囲まれた区域は、戦前は遊郭として栄えていた場所だった。
今は遊郭部分は形を変え、料亭や茶屋が立ち並んでいる。
それでも行きかう女たちの容貌は、一目で夜を生きているとわかるものだった。
「お、おい。こんなとこ」
西野はびくびくとおびえていたし、正は戸惑いを隠せなかった。やはりなぜか物怖じしない葛西は、堂々とある家の戸を開ける。
「こんにちは、秋です」
大津留、と小さな表札がかけられていた。
「まあ、まあ、秋かい。よくきたね」
しょぼしょぼとした老女が出迎えてくれて、三人を中に通す。
古い日本家屋は、入り口に反して中が奥に向かって広かった。香しいようなにおいがして振り返ると、階段の手すりの隙間から二、三人の少女たちがこちらを除いていた。日本髪を結い、白塗りに赤い紅を差した彼女たちは、あきれるほど長い着物の袖や裾を手すりの隙間からこぼれさせていた。
目が合うと、きゃっきゃと2階へ逃げていく。
ここは芸舞妓を住まわせる、置き屋と呼ばれる場所だった。
「学校の勉強だってねえ、この年寄りに手伝えることなんかあるもんかえ」
こういう時に話が得意なのは正だった。
風呂敷の家紋を見せ、すっかり事情を説明すると、老女は溜息をついた。
「あたしは確かに、あんたのおっかさんのことはよーく知ってるよ。あんたのことも、小さいときから面倒を見てたし、お茶や踊りを仕込んでやったのはあたしだしねえ。しかしそれが、こんな縁になるとはね」
「母がどこからここへやってきたのか、知りませんか」
「…そうだねえ、教えてあげられたらいいけれど。昔はここには貧しい村の子はたくさんいたから、どの子がどこから来たかなんて、いちいち覚えてなかったんだよ。ごめんよ」
老女の話し方はどこか葛西の父の話し方に似ていた。
「この風呂敷は、ずっと母が使っていたものですか?」
「これかい? ああ、ちょっと待っておいで」
そういうと老女は小さな小箱を棚から下ろしてきて、中を開いた。
中には上品な紫で染め抜かれた、ちりめんの袱紗があった。
「あ、おんなじ家紋だ!」
西野が身を乗り出す。葛西も食い入るように見つめていた。
「この袱紗は秋のおっかさんが大切にしていたものだよ。お前さんが生まれたときに、酒を差し入れしてくれた人がいてね。これはその時の風呂敷だと思うよ。お前のお…」
老女はそこで言葉をつぐんだ。
言いにくそうに西野と正を交互に見る。
「僕の、父ですか。葛西夏野」
「ああ、そう。そうだよ。お前のおとっちゃんは袱紗はここに置いておくと言って、確か風呂敷を持って
いったんだ」
葛西坂という花街での取材は、初めての実のあるものだった。
すっかり夜になって帰ってくると、駅で待っていたのは薫だった。
「遅いじゃない。三人そろって何よ、最近こそこそして。今日はどこに行っていたの」
「ああ、今日は葛西坂っていうところに」
正が答えると、西野が隣で大慌てで口をふさごうとする。
「ばあっか! お前、言うなよ!」
なんで、と問いかける間もなく正の頬は、バシンという音と共に叩かれた。
「葛西坂って、花街じゃない! そんな汚らわしいところに、男3人で行ってたの?」
薫の瞳はいつになく鋭かった。
「最っ低ッ!」
小さな紙袋を、薫は西野にたたきつけた。
「あっ、おっ、おい、薫! 違うんだ! 待ってくれよ!」
情けない声で制止する西野を完全に無視して、薫は走り去っていった。
「痛ッてえ、あいつなんでいつも僕だけぶつんだよ!」
「おい西野、それなんだ?」
葛西は正よりも、薫が西野に叩きつけたものの方が気になってしまった。正も頬をさすりながら覗き込む。道に膝から崩れ落ちた西野は、呆然と小さな紙袋を握り締めていた。
「あ、いや、おい、見るな!」
はっとして隠そうとする西野を葛西はさっと羽交い絞めにする。
「僕は弟だから見たってかまわないはずだ」
そう言って正が紙袋を取り上げる。
「あれ、これって」
「街で薫がこそこそ買ってたやつか?」
「なんでそれを西野になんか…」
紙袋の封を切ると、中からは細長い箱が出てきた。リボンまで巻かれているそれは、明らかに贈り物だった。妙な焦りが正を襲う。薫がこれを西野に贈った、ということが嫌な予感がした。
「ペンだ…」
急いで箱の中を見ると、都会のサラリーマンが使うようなペンが納められていた。
「おい西野! どういうことだよ!」
詰め寄ると西野は困惑していた。
「し、知らねえよ! 薫が急に俺んちで小遣い稼ぎしたいって、いうから、夏の間酒屋の手伝いしてくれ
てるんだ。それで、最近、ちょっと話すようになった…」
みるみるうちに西野の声はしぼんでいった。
「わ、わが姉ながら見る目がなさすぎる…」
薫にしてみれば、好きな人の実家で働いて得た小遣いで買ったものを、いつわたそういつわたそうと、ずっと二人になれるときを伺っていたのだ。それがやれ葛西の取材だ、新聞部だと言って街へ出かけていくものだから、避けられているのかとも思ったのだろう。
不安な気持ちで駅で待っていたら、花街に行っていたという。
怒るのも当然のことだった。怒りにまかせて親たちに告げ口したことにより、葛西以外の二人は稼業の手伝いをさせられる羽目になった。
「悪いな。草取りをしないといけない」
遊びに来た葛西は正からやんわりと断られた。しかし正を葛西坂に連れて行ったのは自分なので、申し訳なかった。草取りに精を出す正を土手から見つめる。
「そんな顔しなくていい。僕は結構、葛西と取材にいくのは好きだぞ。葛西は自由の身なんだから、手がかりを早くたどってくれよ」
「手がかり?」
泥のついた顔で正は笑う。
「お前の、置き屋のおばあさんが言っていただろう。お酒だよ。稲の家紋は、酒蔵の家紋かもしれない。酒の瓶には家紋が書いてあることがあるんだ。それはまだ調べてなかっただろ」
西野の酒屋では、もういきませんという連絡が薫から入ったので、その穴埋めを西野がさせられていた。
しかし葛西は大いに不満だった。
「酒屋のせがれなんだったら、最初から酒瓶の家紋を調べようと、お前が言うべきだろ!」
「うるせえなあ。客じゃねえんだからよ、俺は相手しねえからな。自分で探せよ」
「放蕩息子!」
やる気のない店番をする西野を他所に、葛西は一人もくもくと家紋を調べ始めた。確かに正の言っていたように、家紋がある。この中に同じ家紋があれば、少し前に進むかもしれない。
しかし物事はそんなに簡単ではなかった。
結論からいうと家紋はあった。
「あった…、でも、おい西野!」
「おお、あったのかよ! すげえな!」
居眠りをしていた西野をたたき起こすが、葛西の顔は困惑していた。
「これ…全部東京だ」
灯台元暮らしとでもいうべきなのだろうか。3人が探し求めていた家紋がラベリングされた酒は大量生産されていた。オオクラ、という会社の名前の横の住所は、東京だったのだ。東京へ取材に行く。そのことが田舎の高校生を歓喜にわかせた。
「なんで君が一緒なんだ!」
東京駅に降り立った正と葛西を迎えに来たのは、晴彦という葛西の兄だった。
西野は親から許してもらえなかった。正は、葛西の父から家の管理費として結構な金額を受け取っている
から、と坊ちゃんのお供をしてこいと、送り出されてしまった。
「せめて俺のペンだけでも一緒に連れてってくれよ!」
そう懇願する西野は、薫に貰ったペンを正に持たせた。
晴彦は番犬のように葛西と正の間に立ちはだかる。
「お前たちだけで道がわるもんか、田舎者」
「晴彦、喧嘩するなよ。俺の友達なんだから」
ともだち、の言葉に晴彦はさらに顔を顰めた。
「こんなにいつも一緒にいるものなのか、友達は。付きまとっているんじゃないだろうな」
「失礼だな、君は」
まあまあ、と葛西が晴彦の背中を叩いて少し手を引くと、晴彦の獰猛な眼光は急に穏やかになった。
「行こうぜ」
新聞部という肩書は案外便利なのだと葛西は思った。東京の結構大きいだろうそのメーカーは、取材だと話すと快く引き受けてくれた。高校生なのに酒に興味があるなど珍しい、とむしろ感心されてしまった。
さすがに家紋だけに興味があるとも言えず、メーカーの広報部だという青年から興味のない酒造りの話を
2時間ほど聞く羽目になった。
「まあ、発酵は科学だから、こんな話はまだまだつまんないよなあ」
のんびりと話すその青年は、大倉平太と言った。
「あの、オオクラの歴史に興味があるんですけど、最初から東京で酒造りを?」
正の質問はいつも適切だった。
「いやいや、うちは田舎の小さな村の酒蔵だったんだ。戦時中はどこの酒蔵も苦しくてなあ。特需やらなんやらで経済が回復してくるのに乗じて、少量の良い酒もつくりつつ、桶買いっていう大量生産もはじめてなあ」
「その村はどこにあるんですか。出発点に興味があります」
「そうかい?」
平太はのんびりとした様子でにこりとわらった。
数時間後、4人が降り立ったのはのどかな田舎町だった。
小さな橋の前で車が留まる。
「お、俺もうしばらく車には乗りたくない」
「僕も」
「…俺も」
男子学生三人は死を意識するほどのスピードを経験し、顔が青ざめていた。
「いやあ、俺スピードがなあ、出すぎちまうんだよう」
あはは、とのんびりと笑う平太はしっかりとした足取りで歩いていく。
大きな木々にトンネルのように囲まれた小さな石橋を渡る。
みんみんみん、と蝉が鳴いていた。
「不如帰―」
正が何かに惹かれたように、そう口にする。橋の隣の小さな石碑を見ていた。
「不帰橋、だよう。不如帰と一文字違いだな」
二度と帰らないと決めていた。
父の言葉が葛西の胸の中によみがえっていた。
自分の母もこの橋を、もしかすると渡ったのかもしれない。
そんな思いを抱く。
「不如帰、『帰りたい』か」
晴彦が話しかけてきたので、正はぎょっとした。葛西はどんどん前を歩いている。
「中国の故事だ。国を追われ帰ることも叶わず亡くなった王が、ホトトギスに転じて不如帰と泣いた」
「……君は、ロマンチストだな。近江くん」
もしもこの橋を、本当に葛西の母が渡ったのなら。
この橋を渡って、あの大津留という置き屋に売られたのだったら。
彼女は不如帰だ。
正は前を歩く葛西から目を離せなかった。
隠すわけでもなく、語るわけでもない彼と過ごし、普通とはかけ離れた出自と家庭を抱えていることはなんとなくわかった。そして、誰よりも彼を気にかけている様子の晴彦。
「お前のような田舎者が、秋に踏み込むな」
「葛西の人生は葛西が決めるんだ」
正の答えに晴彦はにらみつけてきたが、それ以上はなにもいわなかった。黙って葛西のそばに寄り、守るように後ろを歩く。
彼の視線は道ではなく、葛西に落とされていた。
「ああ、ここがオオクラの酒蔵だよ。あそこがうちの会社の始まりだ。今は『花緒』という高級酒だけつくってる。俺の姉ちゃんが杜氏をしてるんだ、おーい」
広がる田園は正たちの田舎とよく似ていた。
大きな杉玉が掛けられた立派な蔵に続く坂を上る。
坂の上から、女性が歩いてくる。羽織っている法被には、葛西の持っていた風呂敷と同じ紋がついていた。
「やあ、姉ちゃん」
女性は信じられないものを見たかのように、おそるおそる歩いてきたが、やがて歩調は速くなり、ほとんど走って駆け下りてきた。
「平太、あんた、あんた誰を連れてきたって? 新聞部の、なんという名前だって?」
「ああ、葛西くん。こっちは近江くん、こっちは…」
平太は言葉を飲み込んだ。
葛西も、正も、晴彦も、初めましてという言葉を飲み込んだ。
女性は大粒の涙を流していたからだ。
「秋ちゃん、なのね」
彼女はまっすぐに、なんの疑いもなく葛西を見つめていた。誰が葛西秋なのか、彼女にとって迷う必要
もないようだった。ただそれだけで、三人は自分たちが誰の故郷にたどり着いたのか、よく理解できた。
泣くまいとして、彼女は口を肘で抑えた。
けれど嗚咽が止まらなかった。
「やっと、帰ってきたのね」
女性は葛西の手を取った。葛西は驚いたまま、じっと彼女を見つめていた。
葛西の手を自分の頬に当てて、彼女はその上から痛いくらいに握りしめた。
涙は止まらなかった。
涙を頬に伝わせたまま、彼女は微笑む。水田の水が、彼女の涙のように輝いていた。
「………あなた、お母さまそっくりだわ」
葛西の家紋をたどる新聞部の活動は、この大倉花緒との出会いという結末を迎えたのだった。
紆余曲折を経て後に新聞記者になった葛西は、株式会社オオクラの社長・大倉平次に取材を行う。『半夏生』という話にまとめられたそれは、近代酒造の偉人・大倉平一郎という人物への脚光を呼び戻すきっかけとなった。
晴彦は父の跡を継いで政治家になった。人の名前を覚えることに手こずっている。
西野は結局、東京へは行かなかった。土下座して薫と結婚し、実家の酒屋を継いだ。
正は公言していた通り、記者になった。
結局、正に託されたペンは西野に返されることはなかった。
「稲毛村一高新聞部?」
百貨店の店員の山田は、客の注文を聞き返した。
「なんだよ、ペンに文字を彫ってくれるんだろ。素っ頓狂な声出すなよ」
「い、いえ。申し訳ありません、失礼いたしました」
「わかってる。ダサいだろう、村の名前からしてダサいよな」
「そんなことは」
「いや、ダサいんだ。親の選挙活動の邪魔になるからっていきなり転向させられた村でさ、何にもなかったんだけど。そこの部長がまたダサくて。双子の姉から『クソ真面目がり勉眼鏡』って呼ばれてて」
山田は耐えた。
決して笑ってはいけなかった。
客はそんな様子を楽しんでいる様子さえあった。
「『人のためになる記事を』ってうるさい奴だったんだ」
客はそのあとも、友達の酒屋のせがれがプロポーズで土下座した話などを続け、吹き出すのを耐えきった山田に、根性あるなお前、と褒めて去って行った。
その直後に山田は外商部へ移動になり、近江という政治家を担当することになる。
薫から西野、西野から正に渡った『稲毛村一高新聞部』のペンは、今は葛西が持っている。
正はベトナム戦争を取材中に、命を落とした。