第一章・一節
二〇三〇年代の人間が今のこの機内を見たのなら、おそらく仰天するだろう。目を白黒とさせた後、おそらくこちらを指さしてわなわなと唇を震えさせることだ。
現在、西暦二〇八二年、九月十四日。
旧世界地図で言うところの、アメリカ合衆国、南米各国、それからオセアニアの国々と、遠く離れた島国の日本で構成されている国、〝ANLH〟の最南端から出発したこの飛行船は、現在旧メキシコの上を通り、旧アメリカ合衆国へと入ろうとしているところであった。
〝ANLH〟とは、正式名称は〝A Nation Loved by the Heavens〟、つまるところ、天上に愛された国、という名を持つ国のことである。どうにも馬鹿らしく思える名であるが、天上に愛された、とはつまるところ現代において最も有力な国力とされている〝天使〟たちをそれだけ多く従えている、という意味なのだろう。
もう三十年近くも続いている世界大戦の真っ只中という点を見れば、確かにそれは誇るべき名なのだろう。しかし、戦争が終われば話は別だ。それほどまでに〝天使〟たちを作り出したのか、と非難されることだろう。今ではもうすっかりあってないようである人権、というやつがおそらくこの国を悪者に変えることになる。
そう結論づけたアンドレア・アマティは、偽造パスポートを指先で遊ばせながら、機内をぐるりと見まわした。
老若男女問わず。それでも煌びやかな衣服を身に纏った中に、異物が一人。
「君って、Mなのか?」
M、とはつまるところマゾヒズム、被虐性欲のことを指している。肉体的精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、それを想像することで性的興奮を得る性的嗜好のこと。
別にアンドレアはそれを否定することはしないが、自分の身の回りにそう言った人がいない、ということもあって興味を抱いたのである。
しかし、返答はなかった。代わりに返されたのは鋭い視線。閃光を思わせる、黄色い宝石のような瞳が、こちらを貫いただけであった。ただ、それでアンドレアが理解できたのは、彼が苦痛を感じているということ。勿論、そこには性的興奮などはなかった。
男か女か見分けのつかない中性的な顔立ちを隠すかのように、すっぽりと覆うローブ。それは顔を隠すだけではなく、どうやらその顔色すらも隠していたらしい。
「君」
「・・・レオナルドだ」
どうやら、君、という呼び方が気に入らなかったらしい。おそらく偽名である名を伝えられ、アンドレアはひとまず彼のことをレオナルド、と呼ぶことに決めた。
「ではレオナルド君。私の名はジョバンニ、君を助ける者だ」
アンドレアはそう言って斜め前方に座っていたレオナルドの腕を掴んだ。レオナルドも大人しく言う事を聞くと決めたのだろう。ただ黙って立ち上がり、アンドレアの後を追った。
***
飛行船の後方は、VIPルームが広がっている。本日の使用者は勿論のことながら、アンドレアである。
それならば何故彼は一般席に居たのかと問われれば、答えは一つ。
「人間観察をするためだ」
「・・・趣味が悪いな」
レオナルドの意見はもっともなものだろう。しかし職業柄、仕方のないことだとアンドレアは思っていた。
「俺は、天装具師の見習いだからな・・・人の動きをよく見てしまうんだ」
アンドレアの説明に、此処でようやくレオナルドは納得をしたのだろう。というのも、天装具師とは、簡単に言えば天使の羽と呼ばれる、強化された義手・義足のことである。
戦争が蔓延る現代社会。二〇一〇年代に年代に蔓延したウイルスによって変化してしまった遺伝子のせい。理由は様々であるが、この世界には上肢・下肢のない者が多かった。しかし、それでも戦争が続く中、祖国を護るために人は戦わなくてはいけなかった。
そこに目を付け、作り上げられたのが天使の羽と呼ばれる義手・義足。神経と繋げるだけでなく、戦闘能力すらも向上させ、武器を収納することのできる兵器を人は作り上げたのである。
通常時は普通の義手・義足よりも自分の本来の上肢・下肢として使える優れものであるが、戦場に出ればこれは人を殺すための武器となる。それぞれで機能が異なるために例を挙げると数え切れなくなるが、
「君はどこの部位が天使の羽なんだい?」
一人掛けのソファへとレオナルドを座らせたアンドレアは、そう言ってメイクボックスによく似た重厚なボックスを開ける。中には、彼が天装具師であることを認めざるを得ない機材がずらりと並べられていた。
「・・・両義手が第三部位、両義足が第二部位まで。共に装備は重火器」
観念したかのように、レオナルドは背もたれに体重を預けるように倒れこみながら、白状した。
天使の羽の部位は関節によって区切って数字をつけている。
義手で言うならば、手部が第一、前腕が第二、上腕が第三と呼ばれており、レオナルドの場合は上肢がすべて義手であることを意味している。
義足に関しては、足が第一、下蹠が第二、大蹠が第三と割り振られているため、レオナルドは唯一、大蹠を残しているということになる。
つまり、上肢六部位、下肢四部位、合計十部位が義であるということ。そのため、全取り換えを最高位とする天使の階級では三番目‐座天使にあたる地位にいるという計算になる。
「成程、つまり君の偽名はアムブリエルになるわけだ」
アンドレアはそう言ってうんうんと幾度も頷き、今度は好奇の目を向けてカストルの手を取った。手袋を引き抜けば、そこに現れるのは義手。
「天使には見慣れているが・・・やはり座天使ともなれば、その美しさは格別だな」
あぁ、もしかすると此奴はマッドサイエンティスト、と呼ばれる類の人間なのかもしれない。と、レオナルドはようやくそこで悟った。
今思えば遅すぎる悟りだったかもしれない。しかし、この男は自分の魅力をよくわかっている。顔で誤魔化しているのだ、その変態性を。
アンドレアはレオナルドから見ても、見目麗しい美男子と言えるだろう。いいや、美少年と言ってももしかすると通じてしまうかもしれない。それほどまでにアンドレアという男は、整った顔立ちをしていた。
加え、烏の濡れ羽色の髪から見える青い宝石のような瞳は、人々を魅了する何かを持っている。
総評としては、人を惑わす男、と言ったところだろう。
「最悪な奴に捕まった・・・」
「ん?嬉しいだろう?」
どこからその自信が沸いて出てくるのか、レオナルドは本気で問い詰めたくなったが、問い詰めたが最後、碌なことにならないことぐらいは容易に想像できた。ゆえに口を固く噤むことにした。
両方の手袋を取られ、目深に被っていたフードを取られる。留め具が外れる音が聞こえ、晒されるのは白を基調とし、黄色で所々を飾っている軍服。襟元を見れば、レオナルドがレオナルドではないことくらい、アンドレアには分かってしまう。
この国の者ならば。
「んー・・・」
しかし、アンドレアは分からなかった。
分かっていて、敢えてなかったことにしたのかとも思ったが、どうやらそういう訳ではないらしい。彼の興味はレオナルドがレオナルドではないことではなく、その軍服へと向けられていた。
ANLHの国民ならば、軍服などそう珍しいものではないだろう。それぞれの地域に数人の天使は必ず配置されている。昔の世界で言うところの、警察のような役割も担っているのだから。
であれば、
「お前は・・・この国の人間じゃないのか?」
人種というものが、すでに無くなったこの世界だ。この国の者であるのか、そうでないのかなどわかる訳がない。
「まさか、NF Unionの・・・っ!!」
「あんな国の人間だと?馬鹿にしないでくれ」
今まで黙ってレオナルドの言葉を聞いていたアンドレアが、急に顔を上げてそう否定する。くだらないとばかりに聞いてすらいなかったはずなのに、急に顔を上げたものだから、その信憑性は高まった。が、納得ができたわけではない。
〝NF Union〟、正式名称〝North Freedom Union‐北自由連合〟。旧世界地図で言うところのヨーロッパ諸国とロシアを領土とするその国の出身でないというのなら、一体どこの国の出身だと言いたいのだ。
レオナルドの中には言葉にできない感情が募り始めていた。
ANLHは確かに技術の進歩が目覚ましい。しかし、それは一般的な技術に限っており、いわゆる国力となりえる天使の技術に関しては例外と言ってもよかった。
天使の技術で最有力だというなら、それはどこの国も揃えてNF Unionの名を上げるだろう。
そして二番手がANLHで、三番手はいない。国は確かにあるが、天使の技術を持っている国は他にはいなかった。そう、原初の国以外。
「察しがついたようで何より」
パチン、とボタンが外される音が聞こえ、自分の軍服の上着が脱がされたことをレオナルドは理解した。なんとも手先の器用な男である。
睨みつけようとレオナルドがアンドレアを見たところで、その身が凍り付いたかのような錯覚を覚えた。勿論、凍ってなどいないのだから体は自由に動かすことができるだろう。しかし、そうできなかったのはその男の瞳が異様なほど、冷たかったからだ。
深い海、遠くに広がる空を思わせる、青い宝石のような瞳。
天使の中では最上位に位置するマルキダエルにしか見られないその瞳が、レオナルドを捉える。
両頬を取られ、顔が近づけられ、逃げ道を失う。囁かれるような声。そこから発せられたのは、
「アンドレア・アマティ、だ」
彼の本当の名。
この世界に、天使というものを誕生させた、最高にして最悪の一族の、現当主の名であった。
アンドレア・アマティ
天使の羽を作り、調整することを仕事とする天装具師の一人。烏の濡れ羽色の髪と、青い宝石のような瞳を持つ美男子。偽名として、ジョバンニと言う名を使っている。
レオナルド
アンドレアの使うVIPルームへと招き入れられた、偽名の青年。両義手が共に第三部位まで、両義足が第二部位まで天使の羽となっている天使の一人。