華燭の典
大きな窓の外には、青い空と緑の森。昨日までの大雨が嘘の様に晴れ渡り、コントラストが目に眩しい。何て気持ちの良い朝なんだろう・・・。にも拘わらず、さっきから俺の首筋を嫌な汗が止めどなく流れ落ちている。極度の緊張のせいなのか、或いは着慣れないタキシードのせいなのか・・・。広い部屋に一人置き去りにされた俺は、さっきから身の置き所を必死に探している。どうも、ここにいる自分が「場違い」な気がしてならない。
「ヨォ!色男!」
そう言って部屋に入ってきたのは、山崎だった。この男の登場で、俺の緊張は一気に解れた。
「いやぁ、晴れたなぁ。良かったなぁ!」
「うん・・、早いなぁ、お前」
「介添え人が遅刻はマズイだろ?」
「まぁな・・」
「いや、実は俺、緊張してあんまり寝てない・・」
「アハハ!」
「しっかし、格好良いなぁ・・。見せてやりたかったよなぁ・・、なっ?」
「そうだな・・、見せたかったな・・」
「お前、雛子見た?」
「まだ」
「見たら、きっと卒倒するぜ?」
「フフフ、そうだろうな」
「そうだろうなって・・、オアツイこった!そうそう、おばさん来てるぜ?」
「おばさん」と呼ばれる人は世の中に沢山いるが、俺たちの中で「おばさん」と言えば、それはまさやのおふくろさんの事だ。
「ホントか?ちょっと挨拶してくる」
赤い絨毯が敷きつめられたロビーに出て、俺は時計を見た。もう、あんまり時間が無いな・・・、そんな事を考えながら、フッと前に目をやった。その瞬間、俺は金縛りになったように一歩も動けなくなった。少し先のその情景は、美術館に飾られた「名画」の様でさえあった。どう表現したら良いんだろう・・?そう、カメラを構えて被写体にピントを合わせると、回りの全てがぼやけて見える、正にそんな感じ。そこには、肩が全部出た光沢のある黒(良く見ると濃い紺だった)のロングドレスに、淡いブルーのフワフワしたショールをブローチで止め、アップにした髪に薔薇を一輪飾った人が立っていた。真っ赤な絨毯に咲いた、黒い薔薇の花・・・、あまりの美しさに俺は息を呑み、立ちすくんでしまった・・。そんな俺のマヌケ面に、おばさんが気付いた。
「あらっ!」
シュッ、シュッという衣擦れの音と共に、美しい人が近づいて来た。この人は、いつも凄い至近距離まで近づいてくるのが癖で、俺はその度にドギマギする。
「おめでとう!華燭の典に相応しいお天気になって、良かったわねぇ?」
「ありがとうございます」
「お招き頂いて、ありがとう。今野君、とってもハンサムで素敵だわ!」
「照れるな・・・」
「本当よ、本当に素敵・・、それに、ここは素晴らしい場所ね」
「はい、二人で下見に来た時、直ぐに気に入りました。ここなら、きっとまさやも・・」
ここまで言って、俺はしまった!と、瞬時に失態を悟った。目の前の大きな輝く瞳が、見る見るうちに潤んでしまったから・・。
「すみません・・・」
「今野君、ありがとう・・。そうね、ここは如何にもまさやが好みそうな場所だわ」
「・・・俺は、まさやに何もしてやれなかったから、せめて・・・」
「又、そんな事言って!違うって、何度も言ってるでしょう?あの子が思いのほか長生き出来たのは、あなたのお蔭なのよ?私達は今野君に、本当に感謝しているのよ?」
「でも・・・」
「ううん、そうなのよ・・。私は、あの子が『体の一部みたいだ』って、ずっと言い続けていたあなたの事を、とても他人とは思えないから・・、だから今日はとっても嬉しいのよ。迷惑かな?」
「いえ・・」
これから感動的なシーンが幾つも待ち構えている筈の主役の俺が、始まる前から、べそをかいてしまった・・・。
「あらあら、今日の主役が今から泣いてどうするの?」
おばさんは、バッグからハンカチを取り出し、涙を拭ってくれた。ハンカチは、とても良い香りがした・・・。
「さてと、今日は二人にプレゼントを持ってきたの」
「プレゼント?」
おばさんは、綺麗にラッピングされた正方形の薄い包みを、俺に手渡した。
「これ、後で観てね?」
「観る?」
「うん、多分DVDだと思うの」
「・・・、ひょっとして、まさやが?」
「そう、あの二人は絶対に結婚するから、その時が来たら渡してくれって」
「絶対に結婚する・・・」
「えぇ、雛子がたくやを逃す筈無い、って言ってたわね。フフフ」
「参ったなぁ・・・」
「今野ぉ!」
山崎が大きな声で叫びながら、こちらに走って来た。
「おばさん、久しぶりです!」
「本当ねぇ、元気だった?山崎君」
「はい、お陰様で!が、しかし、相変わらずノーテンキな男でして・・」
「アハハ!」
美しい人は、大口を開けて豪快に笑った。この人を、こんな風に笑わせる「術」を持たない俺は、山崎が羨ましかった・・。
「オイ!花嫁さんの準備が出来ましたってさ」
「そっか、じゃぁ俺、行きます。おばさん、又後で!」
「早く行ってあげなさい」
俺は、さっき手渡された包みを握りしめ、雛子の所へ向かった。
手渡された包みの中身が気にはなったが、今は花嫁の雛子の所に急ぐべきなのだろうと思い、俺は走った。ノックをすると、中から「どうぞ」という声が聞こえた。汗ばむ手でノブを握り、ドアを開けると・・・、正面に「女神」が座っていた。女神の周りには、天使が無数に飛び交っている。手前味噌と言われるかもしれないが、息も止まる程の美しさに幻覚を見たのだろうと思う。俺は、そこから一歩も女神に近づく事が出来なかった。
「何も言ってくれないの?」
「あぁ・・・、驚いたな・・、この世のものとは思えないな・・・」
女神の声で、俺は我に返った。
「クククッ、それ、オバケって事?」
「バカ・・、違うよ。近づき難いって言うか・・・」
「オーバーねぇ」
「いや、本当だ。俺、固まっちまったよ・・、分かっただろ?」
「うん、ウフフ」
「三国一の花嫁だな」
「アリガト・・」
「あぁ、そうだ!おばさんがいらしてるよ?」
「えっ?本当?ちょっとご挨拶してきても良いかしら?」
雛子は係の女性に尋ねた。
「少しなら大丈夫です」
係の女性は、腕時計を見ながらそう答えた。
「じゃぁ、ちょっとだけ」
扉を開けて外に出ると、もう沢山の人が集まっていた。雛子は構わず、一直線におばさんの所に駆けていった。人ごみをかき分け雛子が行くと、先々で溜息が漏れた。さもありなん!ドレスの裾を持ち上げて走る雛子の姿は、まるでハリウッド映画のワンシーンの様だったから・・・。
「おば様!」
「まぁ、雛子ちゃん!綺麗ねぇ、素敵よ!」
「いらして下さって、ありがとうございます」
「私達が、この日をどんなに待っていたか・・・」
「おば様・・・」
「私達」という言葉に鋭く反応した「三国一の花嫁」の瞳は、見る見るうちに潤んだ。
「あら、大変!泣かしちゃった・・、どうしましょう・・」
オロオロして、俺の方をチラッと見たおばさんは、慌ててハンカチを取り出し、雛子の頬を拭いてくれた。この二人の白と黒のコントラストは、異常なまでに美しかった。もう見ていられない!と顔を背けていた山崎が、唐突に言った。
「さぁさぁ、二人共、そろそろ時間だ!逃げるなら今のうち!あそこに入ったら、もうお終いだからな?」
俺達はこの一言で、笑顔を取り戻した。山崎、サンキュ!
「じゃぁ、行きます」
山崎と俺は式場には入り、雛子は控え室に戻った。
式場は、祭壇に向かって右側に新郎の関係者、左側に新婦の関係者という席順になっている。最前列には、それぞれの肉親が座り、お袋の隣におばさんが、その隣には花束が置いてある。まさやの席だ・・・。俺は場内を見渡し、雛子の家族や友人達に、軽く会釈をした。そして、「二次会で苛めてやるんだから、ちょっとは食って元気付けとけよな!」と脅す山崎に笑いかけ、フッとまさやの席に目をやった。すると、誰もいない筈のまさやの席に、誰かが腰掛けている。俺は驚いて、凝視した。良く見ると、礼服を来たまさやが座っている・・・。
「まさや・・、まさやだよな?来てくれたのか?」
「あぁ、来たよ。たくや、おめでとう!あっ、ほら花嫁の入場だ!」
今、まさにドアが開き、父親に手を引かれた雛子が入場してこようとしていた。俺はと言うと、いる筈の無いまさやの姿に釘付けになり、もうそれどころでは無かった。。
「まさや・・・」
それから後の事を、俺は殆ど覚えていない・・・。三国一の花嫁との誓いの言葉も、指輪の交換も、キスも、上司の祝辞も、山崎達の喰えない余興も・・。漸く我に返ったのは、花束贈呈の時だった。
「私も見たわ。まさや君が来てたでしょう?あなたったら、心ここに在らずって感じで、可笑しかった!アハハ!」
雛子は、その時のあまりに呆けた俺の様子が可笑しかったらしく、後々までこのネタで俺をからかう、という暴挙に出る。俺は・・・、式の間中、あの凄く寒かった冬の日の事を考えていた。