セフレでも彼女になれますか?(修正版)
朝美ゆまは、荒野に一人立っていた。辺り一面に、くすんだ黄色が広がる。膝丈まで伸びる枯れた何か。ゆまはその植物の名前を知らなかった。写真かなにかの中で見た種類のものだ。それらが風に揺られて鳴らす音が、ゆまが一人であることを強調する。
空は目が痛くなるほどの赤だった。雲一つない、絵具をぶちまけたように濃紺のない紅。不気味な赤とくすんだ黄色に挟まれ、朝美ゆまはただ立ち尽くしていた。彼女の意識は肉体から遊離し、何もない荒野に一人の自分を俯瞰している。実に奇妙で、不安な夢だ。
ゆまはよく、この夢を見る。何がその夢を見せるのか、ゆまには分からない。分からないが、その夢が決してよいものではないことは分かる。夢を見た後は、決まって恐怖が身を包む。それは、孤独による恐怖。寂しさという痛みが生む恐怖だ。ゆまはどうしようもなく孤独だった。
いや、それは正確な言葉ではない。現実には、彼女の周りには多くの人がいた。家族がいて、友人がいて、愛する人がいた。しかしその誰もが、彼女の内側に隠された寂しさを理解しなかった。それこそが、彼女を苦しめる孤独の正体。
苦しさを打ち消せないまま、彼女は荒野に立ち尽くしていた。きっと誰かが来てくれる。そう信じていた。寂しさを打ち消してくれる誰かが、きっと来てくれるはずなのだ。しかし待てども待てども、その何者かの気配は現れない。
到頭彼女は耐えきれなくなり、行先も分からず走り出した。肩で切り揃えた彼女の黒髪が、ふわりと後ろへ流れる。ゆまの足の下で、植物がパキパキと小気味良い音を立てて折れる。ゆまが通った後には道ができた。しかし、ゆまの前には道は現れてくれない。
きっとこの荒野には果てがある。そう信じて走り続けた。けれど、視界に映るのは遠くに見える地平線だけ。そのうち脚の動きが遅くなっていき、しまいに止まってしまった。
孤独は精神を摩耗する。彼女はすでに疲れ切っていた。ただ呆然と、遥かの地平を見つめる。彼女の頬を、一筋の涙が伝った――。
そこで、彼女の夢は終わった。突如頭に衝撃が加わり、現実へ意識を引き戻される。呻き声を上げながら顔を上げると、眼鏡をかけた中年男の顔があった。
「授業中だぞ、朝美。いつまで寝てるんだ?」
徐々に思考が明快になっていく。ゆまは段々と、今が国語の授業中であったことを思い出した。どうやら教師に頭を小突かれたらしい。重い瞼を擦りながら、教師の声に答える。
「すみませーん今起きまーす」
「まったく、何度目だ。五分立ってろ、少しは目も覚める」
言われた通り、その場で立ち上がる。脳はまだ完全に起きてはいないが、周囲に笑われているのは理解した。しかし毎度のことなので、今更恥ずかしくはない。自分の黒髪についた寝ぐせをときながら、閉じたままだった教科書を開いた。ノートには汚れひとつ、文字ひとつない。やる気のないのが明らかだ。呆れられて当然だ。
黒板の前に立った教師はゆまが立ち上がったのを確認すると、授業を再開した。その穏やかな声が、またゆまを眠りへ誘う。立ちながら眠ってしまいそうになり、頭を振って眠気を払う。ゆまとしても授業を聞きたくない訳ではないのだが、睡眠欲という人間の根源的な欲求を抑え込むのは難しい。
絶対にあいつの声には催眠効果がある。そんなことを思いながら、ゆまはまた眠ってしまわないように努力する。
ちらりと窓の方を見てみれば、夢とは違って空は青かった。それに、雲が多い。鳥が何羽か、群れをなして飛んでいるのが見えた。じゃれているようにも思える鳥たちの自由さを、ゆまは少し羨ましく思う。
今日は、密会がある。
唐突に、そのことを思い出した。途端に、心が舞い上がる。たちまちやる気が出た。もう絶対に寝ない、という強い確信をもって、ゆまは黒板を見た。しかし、書かれていることは全く理解できなかった。
その日最後の授業を終え、放課後になった。すぐに鞄を抱え、教室を出ようとする。ゆまにはどうしても外せない用事があった。がしかし。
「ゆまっちもう帰るのー?」
あいにく声をかけられてしまった。同じグループの、茶髪の女子だ。ゆまよりも背が高くて、褐色の健康的な肌の溌剌とした女。早く帰らなきゃいけないのに、と鬱陶しく思いながら、すかさず笑顔を張りつける。
「ちょっと用事があって、今日は残れないかなー」
「えー、勉強会しようよー。今日また寝てたでしょ? 試験やばいって」
「明日残るからさ。とにかく急いでるから、また明日ね」
そう言い切って、早足で教室を出た。これだから試験は嫌いなんだ。そんなことを考えながら、ゆまは足を動かし続ける。試験前と試験期間中は部活がない。部活をしていないゆまにとって、休み時間だけのつきあいのはずの人間と関わるのは、他人に興味のない彼女には苦痛でしかない。一刻も早くその場を去りたかった。
そもそも勉強会とは言うが、勉強だけをする訳ではない。喋りながら問題を解くことになるし、休憩という名目で遊ぶのも一回じゃない。踊りを覚えては動画を撮り、友達のSNSを賑やかにする手伝いをする。これが面倒で、時間を取るのだ。わざわざSNSで顔を晒す意味も分からないし。
けれど、一番嫌なのは動画撮影ではない。ゆまは部活をやっていない。それが理由で、部活をしている人たちの話題についていけないことがしばしばあるのだ。分かりもしないのに、彼女らに話を合わせるのが、ゆまにとって一番の苦痛だ。人といながら、疎外感を感じてしまう。かと言って、ゆま自身は面白い話題を持ち合わせている訳でもない。それに、自分だけ会話に参加せず空気を悪くして、後ろ指をさされるようになるのも困る。だから、ゆまは適当に相槌を打つしかない。
空は灰色の雲に覆われていた。校門を向けて、ゆまは駅へと急ぐ。今の時間ならギリギリ、次の電車に間に合うはず。ゆまの家は、学校の最寄りから三駅行ったところにあった。
試験前とあって、ゆまが帰る時間でも生徒の姿が多かった。数人で話しながら帰っているのがほとんど。
話の内容は試験のことではないという確固たる自信が、ゆまにはあった。試験前にわざわざ試験の話をする酔狂な奴はいない。そんなことしたら、現実逃避できなくなる。試験の話をする奴がいたとしても、何時間勉強したとか全くやってないとかを自慢するだけだ。
そして、後悔するのは決まって試験中。やらなかったことを後悔し、次こそは勉強すると意気込み、試験期間が終わればそんな決意はどこかへ吹っ飛ぶ。ゆま自身がそうだった。
早足で歩いたことが功を奏し、乗りたい電車に間に合った。いつもなら人影まばらな時間帯。しかし今日は生徒で溢れかえっている。ゆまはそもそも人が多いところが苦手だ。ため息が出るのを止められない。
憂鬱ばかりをもたらす試験だが、しかしいいこともあった。そのいいことのためだけに、ゆまはひたすらに早く、家へ帰ろうとしていた。
間もなく電車が来た。昼下がりのこの時間なら、いつもは乗客もまばらなのだが、他の学校も試験前とあって電車は学生でいっぱいだ。席は全部埋まっている。仕方なく、ゆまはもたれるところを見つけて体を休める。
電車の中でも生徒たちはうるさかった。同じクラスの顔もあった。ゆまは喧噪と自分との間に障壁を設けるように、単語帳を開いた。しかし、内容なんてまるで入ってこない。視線が紙面の上を滑るだけ。頭の中では、ただただ早く駅に着けと願っていた。
15分ほどで目的の駅に着いた。人の流れに身を任せ、改札を出る。駅から家までは長い距離がある訳でもない。いつも通り人の少ない帰路を行けば、すぐに家が見えてきた。
住宅街の中に佇む、白い直方体の、目立たない家がゆまの家だ。飾り気がなく至って普通の、簡素な二階建て。軽自動車が二台止められる程度の駐車場には、今は車はない。駐車場の傍には小さな花壇がある。けれど、花壇は雑草で溢れていて、どれが植えたものなのか分からなくなっている。誰も手入れをしていないのだ。ゆまは颯爽と花壇の横を通り抜け、家の中に入った。
家の中は真っ暗だった。玄関に入ってすぐに扉があり、リビングに繋がっている。ゆまの部屋は二階にあるが、階段はリビングにあり、リビングに入らないと部屋に行けないようになっていた。
リビングは案の定散らかっていた。物はなるべくまとめられているが、いかんせん物の数が多い。ため息をつきたくなるけど、かと言って片付ける気にもならない。すぐに二階に上がった。早く用意をしないと、彼が来てしまう。
ゆまは部屋に入って、電気をつけた。理解はしていたが、部屋の中はリビングよりも散らかっていた。
「ああ、もうっ」
鞄を放り出し、片付けに取りかかる。置物やぬいぐるみなどはほとんど置いていないものの、プリントやらノートやらで凄惨な状況だ。女らしさがないと言われる自分を克服しようと、家具にはピンク色が多い。でも、それ以外には壁に貼られた男性アイドルのポスターくらいしか女の子らしいものがない。ゆまは、部屋を飾り付けるという行為に面倒くささ以上の感情を持たなかった。
手際よくプリントを整理し、片付けていく。いつもみたいにベッドに飛び込んで、体を休めてしまいたいけど、今日はそういう訳にもいかない。
どうにか全て片付け終わったところで、家のチャイムが鳴った。結局着替えられなかった、と愚痴をこぼし、急いで玄関へ向かう。
階段を駆け下りて玄関にたどり着き、扉に手をかけた。心臓がばくばくする。彼と会ってからかなり経つのに、いや、むしろ経つほど、ゆまは彼と会う時間を恋しく思うようになっていた。
扉を開けた。外は知らない間に晴れていたらしい。光が差し込んでくる。そして、光に包まれて、彼――葉月拓が立っていた。
「久しぶり。待ったか?」
「ううん。ちょうどいま、片付け終わったとこ」
ゆまは、頬が緩むのを止められなかった。最後に会ったのは三週間以上前。電話やメールでのやり取りはあっても、直接会えるのが一番嬉しいのは変わりない。
「じゃあ、入って」
彼女はそう言って、拓を招き入れた。
ゆまの部屋に入ってすぐ、拓は鞄を放り出し、ベッドに座った。かなり疲れているようで、大きなため息を部屋に響かせる。そんな拓の隣に、ゆまがそっと座る。
「疲れてる?」
ゆまが尋ねると、拓は軽く頭を振って答えた。
「部活がないと家にいる時間が長くなるからな。気が重い」
「そっか」
拓を慰めようと、ゆまの手が恐る恐る拓へ伸びた。拓を目の前にしても、拓がまだ自分の傍にいてくれていることを、ゆまは信じられなかった。だからゆまのこの行為は、拓を慰めると同時に不安を孕むものであり、自分を安心させるものでもあった。
ゆまの手が拓の肩に触れた。拓は避けなかった。その事実に安心して、ゆまは体を拓にもたれさせた。
「なあ」
拓が静かに声をかけた。
「何?」
ゆまが静かに答える。
「今日も相手してくれるか?」
恒例の質問に、ゆまは微笑んだ。拓が答えを分かって訊いていることも、ゆまを利用しようとしているだけなことも分かっている。それでも、気遣ってくれることが嬉しかった。
「もちろん、いいよ」
ゆまがそう答えると、拓は満足げな顔をした。拓の指がゆまの耳に触れる。二人は、笑いあった。
――一時間ほど経っただろうか。ママが帰ってくるから、とゆまの方から切り出し、二人は脱ぎちらかした服を着始めた。
白いカッターブラウスを着ながら、ゆまはずっと考えていた。拓と出会ってすぐの頃は、私だってこんなに夢中になってなかったはずだ。最初は自分の寂しさを紛らわせるためだけに、拓と会っていたはずだった。だけど近頃、どんどん拓への依存度が高くなってしまっている。
きっと拓の方は、私のことをストレスを発散させる道具だと思っているし、私との関係もただの遊びだと思っている。かつての私と同じように。でも私には、もうお遊びじゃすまなくなっている。そんな予感と不安が、ゆまの頭の中で渦巻いていた。
「ああ、そうだ。もうすぐあいつの誕生日か」
いかにも無意識、という感じで、拓の口からそんな言葉が零れた。
「あいつって、彼女のこと?」
ゆまがそう問うと、拓は深く頷いた。落胆を悟られないようにしながら、ゆまは声を絞り出す。
「そうなんだ。お祝いしたりするの?」
「まあな。何かあげるのも考えてるけど、何がいいのか全く分からない」
「女の子は好きな人からもらえたら何でも嬉しいよ。そうだ、どうしても分からなくなったら私も選ぶの手伝ってあげるよ」
言うな、と願っているのに、ゆまの口は饒舌だった。自分を苦しめてしまう言葉をなぜ発してしまうのか、自分でも謎だった。拓の彼女のためにプレゼントを選ぶなんて、苦痛でしかないはずなのに。
多分拓の彼女はすごく美人なんだろうな、とゆまは思った。本人に確認した訳ではないが、拓には私以外にもセフレがいたはずだ。多分、かなりの数の女の子と遊んでいたはず。だけど、そんな女の子たちではなく、別の誰かを彼女に選んだ。ある時を境に、拓がゆまと会う回数は激減したが、その時に付き合いはじめたのだとゆまは思っている。
拓は今、ほとんどのセフレと関係を断っているとゆまは考えている。彼女にセフレのことがばれるのは避けたいからだ。ゆまとの関係がまだ続いているのは、単にゆまの家が拓の学校の校区から離れているからにすぎない。
拓と彼女は同じ学校だと聞いていた。ゆまの家周辺は娯楽施設が少ないから、わざわざ拓の彼女が来ることはない。だから彼女にゆまのことがばれることはない。そうでなかったら、私なんてとっくに見放されていたという自信がゆまにはあった。
ゆまの頭の中には、勝手に思い描いた拓の彼女像があった。背は間違いなくゆまより高い。人に言う時は一センチ誤魔化して百六十センチというゆまと違って、ちゃんと百六十センチ以上ある。もしかしたら百七十センチを超えているかもしれない。百八十センチくらいある拓と並んでも、見劣りしないはずだ。
胸もゆまより大きい。確かにCカップなはずなのに見た目はそれより小さく見えるゆまとは違い、ちゃんと大きいはずだ。ゆまより体が引き締まっていて、肌は白い。綺麗なストレートの黒髪を結わえていて、髪の間から健康的で艶めかしい首筋が見えている。ゆまはそんな姿を想像し、そしていつも敗北感を感じていた。
「よし、帰るか」
そう言って、拓が扉に手をかけた。ゆまの目の前にあるその背中が手の届かない場所にあるような気がして、ゆまは少し悲しくなった。
部屋を出てリビングに入った。リビングの灯りをつけて初めて、テーブルの上にあるメモに気が付いた。
「ご飯冷蔵庫に入れてあるから、食べておいて、だって」
「じゃあ、ゆまのお母さん今日は帰るの遅いってことか」
「そうみたい」
これはよくあることだった。リビングの奥にあるキッチンに行って冷蔵庫の中を見ると、冷しゃぶサラダが入っていた。IHコンロの上の鍋には、冷めた味噌汁が入れられたまま。多分炊飯器の中には白飯がある。
「もうちょっといていいなら、俺も飯食ってから帰るか」
「うん、そうして」
声を弾ませながら、ゆまは言った。拓と一緒にいる時間が長くなるなら、それ以上嬉しいことはない。
味噌汁を温めてから、ゆまは夕飯をテーブルの上に並べた。拓はというと、三つある椅子のうち使われていない椅子に座っていた。鞄からコンビニの袋を取り出して、机の上に置いている。
「ああそうだ。俺、明日から試験終わるまでは会えないから」
「え……うん、わかった。勉強?」
「ああ。彼女が一緒に放課後残ってくれるらしい。あいつ、一度言い出すと聞かないからな。まあ、家に帰らなくてすむなら何でもいいけど」
「そう、なんだ」
ひどい男だと、ゆまは思う。ゆまの前でわざわざ自分の彼女の話をしなくたっていいはずだ。しかし、ゆまは拓に悪気がないことを知っている。それに、拓が自分が一緒に夕飯を食べてやるのを優しさだと思っているのも分かっている。ゆまには、拓が優しくしようと思ってくれるだけで十分だ。拓といられるなら都合のいい女のままでいい。自分の気持ちを優先して拓に疎ましく思われることは、ゆまが一番避けたいことだった。
「それで、今回のテストはどんな感じなの? 大丈夫そう?」
拓が勉強していないことを少し期待して、ゆまはそう尋ねた。自分と同じくらい勉強していない人を見つけて、安心したいのだ。
しかし答えは、期待したものではなかった。
「家に帰ったら自分の部屋しか居場所が無いんだから、嫌でもやってる」
「……そっか」
拓は親のことを嫌っている。なんでも、親という役割を演じているだけで人間味を感じさせないから、人形みたいで気持ち悪いらしい。それでも父親も母親も両方いるからいいじゃないか、とゆまは思うが、しかし口にはしない。親に抱く感情は人それぞれだと、よく心得ていた。
ゆまがご飯を食べきってから、拓は帰っていった。すでに外は暗くなっていた。洗い物をしてから、ゆまは自分の部屋に戻った。
部屋には、汗の匂いが充満していた。小さくため息をついて、部屋の窓を開ける。冷たい空気が入ってきて、ゆまの肌を撫でた。
鞄から教科書を取り出し、机の上に置いた。試験の範囲のページを開いておく。けれど、そこに書かれた数式を見て勉強する気はすぐに失われた。開いた教科書をそのままに、スマホを手に取ってベッドに身を投げる。ベッドには微かに拓の匂いが染み込んでいた。
ゆまがスマホですることと言ったら、ツイッターを開くか好きなアイドルの曲を聴くくらいだ。現に今、ゆまはツイッターを開いていた。しかし、何かを投稿することはしない。ゆまは専ら、他人の呟きを眺めるためだけにツイッターを使っていた。
ツイッターには、様々な人間が住んでいる。そこにいる人間は、毎日飽きることなく言い争っている。自分の考えをさも正義かのように振りかざしたかと思えば、他人の意見を尊重する聖人ぶったりする。有名人をひたすら叩く人間と、擁護するために別の誰かを叩く人間。唐突に啓蒙活動を始めた奴がいたかと思えば、自分の発言に責任を持たず逃げ回る奴もいる。そこには、人間の醜さがある。ゆまはその様子を見て、馬鹿みたいと笑うのだ。笑っている自分も同類だと分かっていながら。AIが似たツイートばかり連れてくるので、ゆまのツイッターはいつも地獄のように荒れていた。
今日も変わらずツイッターを見て、ぐだぐだと時間を潰し、一時間ほど経った頃だろうか。家の外で車の音がして、ゆまは立ち上がった。母親が帰ってきたのだ。すぐに部屋の窓を閉め、リビングへ降りる。
ゆまがリビングに立ったのと、母親がリビングに入ってきたのがほぼ同時だった。一瞬見せた疲労をすぐに笑顔の下に隠し、母親が声をかける。
「ただいま。ご飯食べた?」
まさか家に来たセフレと食べたという訳にもいかないので、ゆまは拓のことは言わずに頷いた。
「食べたよ、おいしかった」
「そう、よかった。ゆま、もうすぐ試験だっけ」
「うん。でも勉強する気おきなくて」
「勉強はしないと駄目よ。ゆまに夢ができた時に役立ってくれるからね」
「分かってるー」
母の小言を適当に聞き流し、ゆまはリビングのソファに座った。その隣に、スーツのままの母が座る。その日起きたことを教えあうのが、二人の日課だった。もちろんゆまは、拓のことなど口が裂けても言えなかったが。
母が話すのは、専ら仕事の愚痴だった。そして愚痴のほとんどは、母のお人好しな性格と要領のあまりよくないことに起因するものだった。一方のゆまは、学校で起きたことを時折嘘も交えて話した。ゆまは母の前では、クラスにうまく馴染んでいる世渡り上手な娘であろうとした。それは、母に心配をかけないための行動だった。
その日も、いつものようにひとしきり話し終え、ゆまが部屋へ戻ろうとした時だった。普段なら母は夕飯を食べ始めるはずなのだが、そうはせずに母はゆまに声をかけた。その声は、冗談半分で発せられたものだった。
「ねえ、ゆま。お母さんが再婚するのって、どう思う?」
これ自体は、二人の間では時折話題になる話だった。これまでなら、ゆまは別にいいんじゃない、と答えていた。ゆまも母も、実際は再婚なんてしないことをよくわかっていたからこそ、軽い口調で話せた。
しかし、その日のゆまは適当に答えることができなかった。
「いいと思うよ。ママも楽できるでしょ」
言ってから、ゆまは思いのほか真剣な口調になってしまったことに驚いた。変な空気になってしまったのを、笑って誤魔化す。
母も母で、いつもと違うゆまの様子に驚いたようだが、しかし理由をゆまに問うことはしなかった。ゆまにだって悩みや隠し事はある。それをわざわざ聞くような真似はしなくてもいいと思ったのだ。
「そんな真剣にならなくても、再婚する気なんてないわよ。ゆまのお父さんは、一人だけ」
「うん……」
ゆまは少し頷いた。ゆまは拓との関係を後ろめたく思っている節があった。そんな自分が、なぜ母の恋愛を制限できるだろうか。そうした思いが溢れての、さっきの言動だった。
ゆまには今、父親がいない。中学生の時に、心筋梗塞で亡くなったのだ。以来母は働きづめで、一人で家庭を守り続けてきた。その苦労を知っているからこそ、ゆまは母に迷惑をかけることを忌避していた。
ゆまの父は、家族を愛していることを惜しげもなく表現する人だった。ことあるごとに家族が好きだと言い、仕事に向かう時はゆまの前でも妻とのキスを欠かさなかった。父の、言われる方が恥ずかしいくらいまっすぐな言葉は、ゆまを愛されることに慣れさせてしまった。
父が死ぬまで、確かにゆまは幸せだった。母はいつも家にいてゆまの世話をしてくれ、父は仕事終わりでもゆまと遊ぶのに付き合ってくれた。だが、父が死んで全てが変わった。生計を立てるために母は働きに出た。一人で仕事も家事もこなすのは、ゆまの母には難しかった。それに、母は父を愛していた。母だって、気持ちの整理がついていなかった。段々と、家の中は散らかっていった。
でも、それはゆまにとって特別な悩みではなかった。母ができないなら、自分が家事を手伝えばいい。そう考えていた。それよりも問題だったのは、父の死後付きまとうようになった人恋しさだ。
母が隣にいる時でさえ、ゆまは寂しさを感じるようになった。もっと愛してほしいと思うようになった。母がいてさえそうなのだ。学校でゆまの人恋しさを埋めてくれる人間はいなかった。友情は、愛情の代わりにはならなかった。
ゆまはこの人恋しさが、父の愛によるものだと思っている。ゆまは父に愛されすぎたのだ。愛が飽和している環境に慣れてしまっていたし、それ以外の環境を知らなかった。それが、父という大きな愛の供給源を唐突に失ってしまったものだから、おかしくなってしまった。愛情に貪欲になり、いつ、どこにいても寂しさが纏わりつくようになった。
リビングにおかしくなった空気を残したまま、母はキッチンへ向かっていた。その背中を確認して、ゆまは自分の部屋へ戻った。自分の言動に後悔しながら。
部屋に入るとすぐに、ベッドに飛び込んだ。またスマホの画面を開く。机の上には、教科書が開かれたままだった。しかし、勉強する気なんて、起きなかった。
翌朝。
ゆまは教室の後ろで、友達に適当に話を合わせていた。幸い、話題になっていたのはゆまが好きなアイドルグループの話だった。
教室の中では、男子どもが猿のように騒いでいた。なるべく気にしないようにはしているものの、時々辛辣な一瞥をやってしまうのは止められない。
「――ゆまっちはどう思う?」
唐突に話を振られ、ゆまは一瞬動揺した。しかしそれを顔には出さない。人畜無害な笑顔を張りつけて、明るい声で答える。
「うーん、私は推しとかは別にいないなあ。なんていうか、曲とかグループの雰囲気が好きって感じだから。みんなかっこいいと思うよ」
話題は、グループで誰が好きかという話だった。ゆまは適当に相槌を打って、この場を乗りきるつもりでいた。
「そっかー。じゃあ、グッズとか買うときどうするの?」
話しかけてきたのは、昨日ゆまを呼び止めた褐色茶髪の女子だった。何かとゆまに絡んでくる彼女を、ゆまは内心疎ましく思っていた。
「そもそもグッズをあんまり買わないなあ。CDなら全部持ってるけど」
「へー、そうなんだ」
そこで別の女子が話し出して、ゆまへの注目は止んだ。笑顔はそのままに、胸中で大きく息を吐く。
褐色の彼女は、恐らくゆまの父の死のことを知らない。だが、ゆまが何かに悩んでいると思っている。ゆまはそう考えていた。だからこそゆまは彼女が苦手だった。
ゆまの気持ちを彼女が分かるはずがないのだ。それなのに、自分は味方だよ、という顔で、声で、態度で接してくる。それがどうにも、ゆまには気持ち悪く思えた。
そのうち担任がやってきて、朝のホームルームが始まった。クラスの喧噪が静まっていき、気だるげな空気と点呼とともに一限の準備が始まる。一限は数学。ゆまが一番苦手で、興味のない科目だった。
数学教師は、チャイムに遅れて教室に入ってきた。かなり髪が薄くなっている小太り男なのだが、その日は一段と髪が散らかっていた。試験作成でストレスが溜まっているのかもしれない。しかしゆまにとっては、そして他の生徒にとっても、嘲笑以上の感情を生じさせないものだった。
試験前ということもあって、大して目新しいことはしなかった。これなら集中して聞かなくてもいいだろうと高をくくって、ゆまはぼんやりノートを見ていた。習ったこともあまり理解できていないので、聞いたところで仕方がないという諦めもあった。
ノートに書かれた、意味不明な文字と式。自分で書いたはずだが、ゆまには理解できなかった。そのノートを見ているうちに、手に持ったシャーペンを無意識に動かしていた。
葉月拓。
そう書いていた。しばらくその文字を見つめていたのだが、突然自分が何かいけないことをしたような気がして、ゆまは慌ててその文字を消した。
そして、ゆまは改めて自分と拓との関係が許されないことを自覚した。拓には彼女がいる。ストレス発散だとか、寂しさの埋め合わせとか、そういう言葉で取り繕ったって、やってることは浮気だ。
しかし、自覚してなお、この関係を断つつもりはなかった。というより、断てないというのが正しい。拓は自分が初めて本気で愛した人で、人恋しさを受け止めてくれた人だ。拓に依存しているゆまには、拓のいない世界は考えられない。
結局、全く集中できないまま授業は終わった。試験への漠然とした不安を感じながら、スマホを取り出す。一件通知が来ていることに気が付いた。拓からだった。
動揺から声を上げてしまいそうになるのを、どうにか我慢した。原因不明の期待と不安を抱えながら、LINEを開く。
書かれていた文字は至って簡潔だった。
『誕生日プレゼントになに渡せばいいかわかんないから、選んでくれ』
すぐに、拓の彼女のことだと分かった。思わずため息が出る。
ひどい男だとゆまは思う。ゆまにこんなことを任せるのは、所詮セフレの扱いなんてそんなものだから別によかった。しかし、彼女へのプレゼント選びをセフレに全部任せるのはよくない。拓が選ぶから嬉しいものを、別の女が選んだものを渡すのは道徳的にどうなのだろう。そのプレゼントで喜ぶ彼女を、拓はかわいそうだと思わないのだろうかと、ゆまは考えてしまう。
しかし自分はそれ以上に最低だとゆは思っていた。そもそも、彼女のプレゼントを選んであげてもいいと言ったのは、ゆま自身だ。そして、こんなことでも、拓に頼られているということだけで嬉しくなってしまう。ゆまはそういう人間だった。
ゆまの予想だが、拓には一切の悪意がない。自分では彼女が喜ぶものを選べないから、他人に選ばせることを、正しいことだと思っている。しかしゆまは、それがよくないことだと分かっている。分かっているだけ、拓よりクズだ。
『試験期間明けの日曜に渡すね。それでいい?』
そう返信した。返事は、その休み時間中にはこなかった。
次の授業も、やはり集中できなかった。国語だったのだが、試験前にも関わらず授業の半分くらいは教師の雑談。しかも面白くない。強い催眠力を持った教師の声が、ゆまを夢の中へと連れて行った。
――ゆまは、家の最寄りの駅の改札に立っていた。今より少しだけ幼い顔で、夏服を着ていた。今よりも髪が長いが、くせ毛のせいで似合っていない。
人が行き交っているのをぼんやりと感じる。徐々に感覚が冴えていき、その目が人々をはっきりと捉え、耳が喧噪を受け入れた。同時に、後ろから歩いてきた人たちにぶつかり、舌打ちをされる。頭を下げながら、ゆまは家路についた。
駅を出てすぐのところに、コンビニがある。ゆまはよく、そのコンビニで甘いものを買って帰る。特に夏場は毎日のようにアイスを買った。体に染みついた習慣に従い、夢の中でもゆまはコンビニに入った。
コンビニの奥にあるアイスコーナーを物色し、イチゴ味のシャーベットと小さいパンを手に取って、レジに向かう。間違いなくゆまの顔を覚えていると思うのだが、無愛想なレジ打ちは蚊鳴き声で定型文を言うだけだった。ゆまはその態度に、余計な人間関係を排除できていることを感じ満足した。
そして、帰ろうとドアの前に立ったところで、ゆまは足を止めた。目線の先には、一人男子が立っていた。
制服からして、ゆまの学校の生徒ではない。この辺りに、彼の学校の生徒はほとんどいないはずだった。それに、見たことのない顔だ。この辺りに住んでいるわけではないだろう。
なにもないこの駅にわざわざ来ているのも不思議だった。しかし、それ以上にゆまに興味を抱かせたのは、彼が手に取っているものだった。彼が物色していたのは、夜に使うゴムだったのだ。
ゆまがなぜ、彼に声をかけたのかは分からない。真昼間から、コンビニでゴムを買おうとしている高校生なんて、話しかけないのが正解に決まっている。けれど、彼の大人びた、どこか物憂げな雰囲気が、ゆまの気を引いてしまった。
ゆまが声をかけると、彼は少し驚いた様子でゆまを見た。そして自分の学校の生徒でないことを確認し、警戒を解いた。ゆまの本性を見抜くような目がゆまを貫く。けれど、ゆまは少しも不快に思わなかった。この人は、私と同じ寂しさを持ってる。私の寂しさを埋める道具にするには丁度いい。ゆまはそう考えた。
「それ、彼女とするのに使うの?」
こんな問いかけをしても、彼は戸惑いを見せなかった。彼は、ゆまが自分と同じタイプの人間だと分かっていた。
「いや、彼女なんていない。友達とやった遊びの罰ゲームで買うだけ」
「ふーん」
次の言葉を言うのは、少し勇気が必要だった。けれど、自分がヤバいことをしているという意識が、意識が生む興奮が、ゆまの口を軽くした。
「私の家、今日親いないんだけどさ。どうせ買うなら、どう?」
そんなゆまの言葉に、彼はにやりと笑って頷いた。彼は名前を、葉月拓という。
その後、二人はゆまの家に行った。束の間ではあるが、二人がしたそれはゆまの寂しさを埋めてくれた。
この時だ。この時、ゆまは自分が、後に戻れないほど醜くなったのを実感した。愛してもいない人間と、関係を持つ。自分の寂しさを、愛情不足を埋めるだけのために。結果、心は泥にまみれてしまった。
実は、ゆまが拓と会った時、ゆまはすでに処女ではなかった。拓と出会う三か月ほど前に彼氏がいたのだが、この彼氏があんまり行為が下手で痛いので、すぐに別れてしまった。その後しばらく、性に関係することは一切しなかったし、するつもりもなかった。そういう意味でも、拓とこんなことをしたのは、ゆま自身にとっても意外だった。
それから何度か、ゆまは拓と密会した。行為の後も、拓はゆまとの話に付き合ってくれた。決して切り捨てるようなことはなかった。拓には、それが上辺だけのものであったとしても、確かな優しさがあった。
拓に他の女がいることに、ゆまは気づいていた。そもそも、罰ゲームでゴムを買ったという言い訳。それも嘘だと考えている。きっと、初めて会った時すでに、拓は何人かの女子と関係を持っていた。ゆまは多数のセフレの一人にすぎないのだろう。
それから、半年以上の月日が流れた。その間に、ゆまは拓を好きになっていた。
拓は、ゆまが我儘を言わない限り、決してゆまを拒絶しなかった。ゆまの寂しさを理解し、受け入れてくれている。そんな気がした。気のせいかもしれないが、しかし拓は心のよりどころとなってくれた。ゆまにとって、好きになる理由はそれだけでよかった。
そんな頃になって、唐突に密会の回数が激減した。拓に彼女ができたのだ。しかしだからと言って、ゆまは拓との関係を断てなかった。ゆまはもう、拓を好きになる前のゆまには戻れない。
――コツン、と小気味いい音が鳴った。同時に頭に痛みを感じ、ゆまは目を覚ました。国語教師が、呆れた顔でゆまを見ていた。
「おい朝美、お前授業受ける気あるか?」
「一応あります……」
働かない頭で答える。教師が小さなため息をついた。
「一応ってなんだ、ちゃんと受けてくれ。その場で起立」
「……はい」
お前の授業が面白くないのが悪いんだ、と言いたくもなったが、それを言わないくらいの知恵はゆまにもあった。だが、ぶつぶつ言いながら教卓へ戻っていく教師の背中を睨むくらいのことはする。
生徒を立たせるなんて非合理だとゆまは思った。確かにゆまの目は覚めるかもしれないが、ゆまの後ろにいる生徒は黒板が見にくくなる。教師が生徒の勉強を妨げてどうするんだ。
ノートを開いた。とりあえず日付だけ書いておく。いつの間にか黒板に追記されていたことは、ゆまには全く理解できなかった。
その後なにごともなく授業は終わり、放課後の面倒な友人付き合いも終えて、ゆまは帰宅した。
今日は拓が来るわけでもない。ゆっくり部屋を片付け、服を着替えてベッドに飛び込む。やはりと言うべきか、勉強する気は起きなかった。
しばらく携帯を触っていたが、勉強しないという意識のせいであまり楽しめない。Twitterを巡回するのも諦めて、一応机に向かう。机の引き出しの中には、何冊かのファッション雑誌があった。取り出してパラパラと眺めてみる。けれど、内容は全く入ってこない。
雑誌の中では、何人もの美人な女性たちと男性たちが、いろんな格好で立っていた。ゆまとは違う世界で生きる、華やかな人々。ゆまとは無縁に感じられるがゆえに、ゆまはどうしても雑誌の内容、ファッションに興味を持てなかった。
「いいなあ、ストレート」
見てしまうのは、モデルたちの髪型。薄い茶髪のストレートの女性が、ひときわ目を引いた。スタイルもいい。こんな風になれたら、と少し思ってしまう。
ファッションにあまり関心のないゆまがファッション雑誌を読むのは、ただただ話題作りのためだ。友達との会話の時、たまに雑誌の話になる。その時に話についていけるように読んでいる。ただ、読む動機がそんなだから、学んだファッションを自分に応用できたりはしなかった。
ついには雑誌を読むのも飽きてしまった。けれど勉強する気分にはまだなれず、机に突っ伏す。ひんやりした机の温度が、肌を通して伝わってきた。いっそ眠ってしまえるかとも思ったけれど、机の冷気はかえって眠気を飛ばしてしまった。
「やるかー……」
とうとうやることが無くなったので、仕方なく問題集とノートを机に広げた。相変わらず書いている意味は理解できない。シャーペンを持つには持ったが、頭で考えるのは問題のことではなかった。
私はなんのために勉強してるんだろう。
それは、時折ゆまが考えることだった。ゆまにはなりたいものがない。だからこそ、勉強する意欲も生まれない。どこを目指しているかも分からないまま、学生生活を送っていた。
大学に行こう、とは思っている。でもそれは、拓が大学に行くからだった。拓と同じ大学に行くのが、唯一のゆまの望み。
こんな私を、パパは許してくれるんだろうか。きっと、パパは私をこんな風にしたくて育てたんじゃない。パパみたいないい人から、どうして私みたいな汚い女が生まれてしまったんだろう。
自己嫌悪と闘いながら、ゆまはシャーペンを握り続けた。確かに、父親に対する後ろめたさもある。けれどそれ以上に、母親に対する罪悪感が大きかった。父が死んでからも一人でゆまを育ててくれた恩に、仇で返すようなことばかりしている。
ゆまは、母を悲しませることだけはしたくないと思っていた。母が働きに出るようになってから、ゆまには一人の時間が増えた。母はそれを悔やんでいるが、同時にゆまがそのことに文句も言わないことに感謝している。母はゆまを、自慢の娘だと思っているのだ。そんな母の期待に背きたくない。少なくとも、背いていることを知られたくない。
きっと母は、ゆまが悪いことをしたってゆまを愛してくれる。それくらいのことは、ゆまにも分かっていた。しかし、毎日ストレスを抱えている母に、これ以上の精神的負担はかけられない。
けれど、拓と別れることもできない。ゆまは、自分の優柔不断を呪うしかなかった。
「浮気がよくないことくらい、分かってるんだけどなあ……」
言った直後、家の外から車の音が聞こえた。ゆまは深いため息をついて、一階へ下りて行った。
一週間と数日が経ち、土曜日。試験明けの気分転換ということで、ゆまはいつもの友達とカラオケに来ていた。
「――このまま奪って……」
ルームの中では、ゆま以外の三人ではやりの曲を回していた。ゆまもマイクを渡されれば歌うのだが、いつも聴いているアイドルグループの曲しか分からないので、歌う曲がすぐに尽きてしまう、というのがいつものパターン。
それでも、周りに合わせて笑って、叫んで、歌って、騒いでおけばなんとかなる。かえって精神が摩耗している気もする。けれど、誰かといるのは誰かといないよりずっといい。そういう気分になることがゆまにはあり、そして今がその時だった。
「いえーい!」
一人が歌い終わり、声を上げた。それに合わせて、ゆまたち三人も声を上げる。次の子が歌おうとしたところで、ゆまは席を立った。無くなってしまったドリンクを注ぎに行くためだ。同時に、少し疲れてしまった脳と体を休めるためでもあった。
グラスを片手に部屋を出て、ドリンクコーナーへ向かう。誰もいないので、遠慮なくグラスを機械にセットして、ジンジャーエールのボタンを押した。半透明の液体がグラスに注がれていくのを、ぼんやりと眺める。
ふと背後に気配を感じて、ゆまは顔を後ろに向けた。例の褐色の女子がいた。この子も一緒にカラオケに来ていた。
「おかわり?」
ゆまがそう問うと、うんと彼女も答えた。それ以外の用でこの場に来ることはないのだが。
ちょうどゆまがグラスに注ぎ終わった。彼女が注ぎ終わるまで待つのもおかしいので、一応声だけかけて部屋に戻ろうとする。しかし、逆に彼女の方から声をかけてきた。ゆまは足を止めて彼女の顔を見る。
「ねえゆまっちさー。最近なんか悩んでない?」
「え? そんなことないよ」
ゆまは、到頭言葉にされたと思った。余計なおせっかいは心の中に押しとどめていてほしい。そう思ってしまう。どうせ、私の気持ちなんて分からないんだから。
ゆまの返事に対し、彼女はふーん、と納得してなさげに言った。
「いやさ、なんか最近、よく思いつめたような顔してるなーと思って。でも、誰かにふられたって感じでもなさそうだし。どうしたのかなーって思ってさ」
「えー、そんな顔してるかなー」
笑って誤魔化したものの、ゆまの心の中では焦りと苛立ちが渦巻いていた。自分が普段から悩みを隠せていないことを知った焦りと、事情も知らずに他人の感情に踏み込んでくる無神経さへの怒り。
早く話を終わらせたかったので、ゆまは咄嗟に思いついた嘘をつくことにした。
「もうすぐお父さんの命日だから、もしかしたらお父さんのこと考えて気が沈んでたかも。心配かけてごめんね」
これでどうだ、という心持ちでゆまは彼女を見た。父親の命日という、想像以上に重たい内容なら、関わる気も失せるだろう。そう考えての発言だった。
実際には、ゆまの父親の命日まではまだ二か月ほどあった。もうすぐというほど近日ではない。
ゆまの嘘を聞いた彼女はしかし、ゆまの期待した行動を取らなかった。
「……そっか。なんか悪いこと聞いちゃったね。ごめん。力になれるか分かんないけど、なんでも相談してね。私も弟亡くしてるからさ、ちょっと事情は違うけど、少しは気持ちがわかると思う」
「……え?」
予想外の言葉に、ゆまは言葉を返せなかった。いつも天真爛漫で悩みのひとつもなさそうな彼女に、そんな過去があるなど、考えたこともなかったのだ。
「もう六年くらい前のことだけどね。あ、私はもう悲しいとかないから気にしなくていいよ」
それは私も、と言おうと思ったゆまだが、さっきの嘘があるので口をつぐみ、黙り込んでしまった。
結果、なんとも重苦しい空気になってしまった。そこで、ちょうど彼女のグラスも注ぎ終わった。彼女が意図して明るい声を出し、空気の重さを打ち払おうとする。
「さ、早く戻ろ! みんな待ってるだろうし」
「う、うん……」
グラス片手に颯爽と戻っていく彼女の背中を、ゆまはただ見つめた。そのまっすぐに伸びた背中に、どこか孤独や、ゆまの持つ寂しさと似たものを感じる。この時初めて、ゆまは褐色の彼女――山村葵に興味を持った。
部屋に戻ると、部屋を出た時とは別の子が歌い始めるところだった。これも流行りの、ノリがいい歌。グラスをテーブルの上に置いて、元居た場所に戻る。そろそろ自分に順番が回ってくる頃合いなので、歌う曲を決めておかないといけない。
流行りの曲がすぐに変わってしまうので、ゆまは全く音楽事情についていけなかった。しかし曲を知らないと、適当にノリを合わせるにしてもやりにくい。皆とカラオケに来るのだから、そろそろ流行りの曲も調べておかないと。ゆまは他人に興味がない割に、そういう気の使い方をしがちだ。
間もなく、ゆまに順番が回ってきた。選んだのは、やはりいつもの男性アイドルグループの曲。しかもMVが発表されていない、アルバムにだけ収録されている曲。ゆまが少ないレパートリーからどうにか選んだのが、この曲だった。
こういう曲の選び方になるのはいつものことなので、周りも特に何も言うことなくノリを合わせてくれる。ストレス発散もかねて、ゆまは普段出さないほどの大声で熱唱した。採点機能を使ってはいるが、どうせ90点以上なんて取れない。なら音程なんて気にする必要もない。
歌い終わった。結果は78点だった。
最終的に三時間ほど歌って、四人はカラオケ店を出た。全員声がガラガラになってしまっている。十分なストレス発散だった。
「で、どうするー? なんか食べに行くー?」
「ごめーん。今日親に早く帰ってこいって言われててさ。私もう帰るね」
「あ、そうなの? そっか、じゃあ今日はここで解散にしよう」
そんな会話を聞きながら、ゆまは次の予定を考えていた。ゆまには明日までに終えなければならない仕事がある。
「じゃあ、また月曜日ねー」
という三人に、またねー、と返し、ゆまは駅とは逆の、ショッピングモールへ向かった。ゆまの学校の近くでは一番大きい、学生のたまり場だ。
早めに解散できてよかった、とゆまはつくづく思った。あのまま一緒にいたら、買い物に三人をつきあわせることになりかねなかった。そうなったら説明が面倒だ。何を買うのか訊かれるのは間違いないし、プレゼントと答えたら誰にと問われるだろう。そこで、セフレの彼女にあげる、と答える訳にもいかない。そんな状況、ゆまは考えたくもなかった。
拓に頼まれたプレゼントを買う場所として、ゆまが選んだのはアクセサリー店だった。多分、ゆまがプレゼントに使った金は後で拓がくれるとは思うのだが、今は手持ちが少ない。ネックレスかイヤリングを適当に見繕うことにしたのだ。
試験が終わった学校が多いからか、ショッピングモールの中はいつもに増して学生が多かった。人込みをかいくぐり、目当ての店にたどり着く。幸い、その店にはあまり人がいなかった。
その店はピンクの壁紙が張られ、奥の壁の前にはぎっしりとぬいぐるみが並べられている。少し子供っぽさも感じるのだが、しかし中高生からの人気は高い。
「どれだったら持ってないかなー」
ゆまが行けるアクセサリー店というと、ゆまはここしか知らなかった。他の店になるとかなり遠くになるので、車か電車で一時間ほど移動しなければならない。
しかしここでプレゼントを選ぶと、拓の彼女がすでに持っている可能性がある。このショッピングモールは、拓の学校の生徒もよく来る場所だ。ほぼ間違いなく、拓の彼女はここに来たことがある。
そうした理由があるので、ゆまは慎重にプレゼントを選ばなければならなかった。拓からのプレゼントなら、すでに自分が持っているものでも喜ぶだろう。それでもやはり、持っていないものの方がいい。
しかし、拓の彼女が持っていなさそうで、なおかつダサくないものなんて、そう簡単に見つからない。
「なんかないかな……」
棚と棚を、隈なく探していく。いくつか、ゆま自身が欲しいと思うものもあったが、買う気にはならなかった。
早く買って、帰りたいと思いながらも、これも拓のためと歩き続ける。そうして、三十分以上店に居座り続けた後だろうか。
「あ、これいいんじゃない?」
ゆまが見つけたのは、流れ星を模した形の飾りがついたネックレスだった。少し子供っぽいかもしれないが、身に着けられないほどではない。それに、女心に疎い拓が精いっぱい考えて選べばこれに落ち着くような、そういうデザインでもあった。ゆまの意識はすっかりそのネックレスに固定された。
高揚した気分のまま、ネックレスを手に取り、値段を確認した。そして、気分は一気に降下した。
「ちょっと、高い……」
ゆまが買えないほどの値段ではない。しかし小遣いの少ないゆまには厳しい値段だ。
しばらく逡巡するゆま。しかし、背に腹は代えられない、それに金は多分拓から貰える、ええいどうとでもなれ。とうとうゆまはやけくそ気味に決心し、ネックレスを握ってレジへ向かった。
――空になった財布と、ネックレスの入った袋を持って、ゆまは店を出た。これで今日の用事は終わりだ。早く帰ろうと、駅に向かって歩き出す。
外も暗くなる頃合いのはずだが、ショッピングモールにはまだ学生の姿が多い。知っている人間に見つかったら説明が面倒だな、と考えるゆまの目が、一人の女子高生の姿を捉えた。
前から歩いてくるその彼女の姿は、平凡ではあった。確かに美人で、背もそこそこ高そうなのだが、しかし地元の美人娘の域を出ず、あまりあか抜けてはいない。普通に歩いていて、ゆまが気にするような見た目ではない。それなのに、なぜかゆまの目を引いた。
そのことに心中で首をかしげていたが、ふとその理由に思い至った。ゆまが思い描く、拓の彼女像に似ているのだ。背が低かったり、華やかさに欠けたりはしていたが、長い黒髪を後ろにたなびかせる女子高生は、拓に十分釣り合う容姿に見えた。
もしかしたら、本当に拓の彼女だったりして。
そんなことを考える。あいにく歩いてくるその女子高生は制服ではないので、どこの学校の生徒かは分からない。本当に拓にふさわしいか見定めようと女子高生を見つめたところで、女子高生と目が合った。途端に焦りが生じ、ゆまは慌てて視線をそらした。
なぜか、後悔の念が湧き出てきた。私が拓の彼女を選んでどうするんだ。それに、仮にあの女子高生が本当に拓の彼女だったとして、私になにができる?
息が詰まりそうなゆまの横を、件の女子高生はあっさり通り過ぎた。そのことに無性に安心する。ゆまの歩みが自然に早くなった。ゆまの頭の中には、早く帰りたいという願望だけが残った。
家に帰ると、母親が先に仕事から帰宅していた。
「あれ? 今日早いね」
ゆまがそう問うと、母親は元気ある笑顔で答えた。
「よること全部終わらせたら、今日はもう帰っていいて言われたのよ。遠慮なく帰ってきちゃった」
「ふーん。ラッキーだね」
それだけ言い残し、自室に行こうとするゆま。しかし、母親に呼び止められた。
「それ、何買ったの?」
見つかったか、と面倒に思いつつ、それでも表面は取り繕ってゆまは母親の方を向いた。言い訳は考えていたので、特に焦りはしない。
「これね、ネックレス買ったの。もうすぐ友達が誕生日だから、プレゼントしようと思って」
「そうなのね。友達って、葵ちゃん?」
「ううん、別の子。疲れてるから、もう行くね」
そう言って、部屋に向かおうとするゆま。母親にこんな嘘をつかなければならないのは胸が痛い。でも、仕方ないと割り切っている自分もいた。
階段を上がろうとするゆまに、再び母が声をかけた。
「ゆま、テストはどうだったの?」
うっ、と呻き声を漏らしてしまう。絞り出すように声を出し、ゆまは答えた。
「あんまり、できてないかな……。いやでも、私にしては、できた方だと思うよ」
ふーん、と意味深な顔で頷く母に、ゆまは訴えかけるような視線を送る。試験のことはあまり深掘りしてほしくない。
ま、いっか、と呟いた母親の様子に安心する。しかし、続く母親の言葉に、一瞬表情が固まった。
「もうすぐ月命日ね。今度、墓参り行こっか」
「……うん」
ゆまにとって、父は確かに愛する存在だ。時々でも思い出すべき存在だ。しかし、母の口から父の話題を聞くのは、なぜか気が重くなるのだった。それに、ゆまは父の命日までまだ日にちがあることは覚えていたが、月命日のことは失念していた。そんな自分に嫌悪を抱くのは、仕方がなかった。
沈んでしまった気持ちを引きずり、ゆまは階段を上っていった。
翌日、日曜日。ゆまは駅で一人、拓を待っていた。
拓は今日、彼女とデートをするのだが、豪胆なことに駅で彼女と合流してから、頃合いを見てゆまからプレゼントを受け取るつもりらしい。さすがに危険なのでは、と思ったが、ゆまとゆっくり会う時間もないらしいので仕方がない。
ということで、ただ拓にプレゼントを渡すためだけに、ゆまは日曜日なら絶対に起きない時間に起床し、定期で払えない分の金を払って、この辺りで一番大きい駅に来ていた。
駅に来てから三十分と少し経った頃。プレゼントを渡したら、どこかで甘いものでも食べよう、と考えながらゆまは気長に待っていた。Twitterがあれば時間を潰せるので、待つのはそれほど苦痛ではない。
くだらないことで口論しているアカウントを見つけて笑みがこぼれたところで、拓の姿を視界に捉えた。思わず駆け寄りたくなるが、そういう訳にもいかない。拓の彼女がどこにいるか、全く分からないからだ。
他人のふりをしながら、拓の様子を確認する。拓は誰かを探している様子でしばらく歩いていたが、突如その顔を明るくし、早足でどこかへ向かっていった。その顔がゆまには見せたことのない顔だったことが、ゆまにはショックだった。
拓が向かった先には、一人の女子高生がいた。彼女の姿を見て、ゆまは目を見開いた。しかし同時に、妙な納得感も感じていた。私の勘も、案外当たるもんなんだなあ。
拓の彼女は、昨日ゆまがショッピングモールで出会った女子高生だった。拓に会うためにおめかしした彼女の姿は、到底ゆまでは敵わない大人っぽさ、気品のよさがあった。それなのに、女子高生らしい可愛らしさもあった。ゆまが敗北感を感じるのも、無理はなかった。
しばらくして、拓が突如としてゆまの方へ向かって走ってきた。多分、トイレに行くとでも言ったのだろう。ゆまはプレゼントを渡せるよう準備する。
間もなく、拓がゆまの近くまで来た。拓とゆまの目が合う。拓が微かに頷いたのに対し、ゆまも小さく頷いた。
そして、拓とゆまがすれ違った。そのタイミングで、ゆまが拓に隠れるところで腕を伸ばし、プレゼントを渡す。無事、拓が受け取り、トイレの方へ走り去っていった。ゆまは何事もなかったかのように、再びTwitterを見始める。
うまくいった。拓の彼女には気づかれなかったはずだ。自分の手汗の量から、ゆまは思っていたより自分が緊張していたことを知った。手のひらをスカートで拭う。
一分経ってから、ゆまは立ち上がった。近くに喫茶店があったので、そこで時間を潰してから帰ることにした。どうせ今日は、用事がない。
去り際、ゆまはつい、拓の彼女のことが気になってちらりと見てしまった。拓の彼女は、昨日と同じ目でゆまの方を見ていた。彼女と目が合った気がして、慌てて目をそらす。冷や汗が背中を伝った。
大丈夫だ。きっと、拓がいる方向を見ていただけだ。拓を待っていただけだ。私を見ていたわけじゃない。そう言い聞かせる。けれど、気持ちは落ち着かない。
終いには周りの人みんなが自分を見ているような気がして、ゆまは逃げるように近くのカフェに入った。カフェの中の涼しい空気が、ゆまの焦りを収める。深呼吸をしたところで店員に声を掛けられ、やり取りの後に店の奥の席に座る。
店員にアイスコーヒーとパンケーキを頼んだ後で、ゆまは早々にスマホを取り出した。Twitterを開いた後でも、ゆまの心臓はまだ少し、早く脈打っていた。
適当に画面をスクロールする。まるで内容が入ってこないが、どうせちゃんと読んだところで数分経てば忘れるようなことばかりだ。
ようやく平常心に戻ってくると、今度は無性に怒りが湧いてきた。なんだって私がこんな目に合わなければならないのだろう。ただ私は、拓が好きなだけなのに。
一度怒りが生まれると、止まらなくなった。ゆまの彼女に腹が立ったし、ゆまにこんなことをさせた拓に腹が立った。ゆまが苦しんでいることに気づかない母や友達に腹が立ったし、終いには父にまで怒りを向けた。
そして最後に、自分に怒りが向いた。しかし自分への怒りは長くは続かず、すぐにやるせなさに変わった。全ての元凶が自分であることを分かっているからだ。他人を責めたって仕方ないことくらい、痛いほどよく分かっていた。
拓と別れる。拓と出会う前に戻るだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。ゆまの前に運ばれてきたパンケーキを見ながら、ゆまは考える。拓への依存が異常なことは承知している。それを解決する方法は分からない。ずっと前から考えていることだ。そして、永遠に答えの出ないように思える問いだ。
ゆまをゆま自身が変えることはできないと、ゆまは考えていた。誰かがゆまを引っ張っていってくれないと、ゆまは成長できない。でも、成長ってそういうものじゃないの? 周りから影響を受けるってことじゃないの?
パンケーキが来てからしばらく経っていた。写真を撮ってから、パンケーキをナイフで切って、一切れ口の中に入れる。とたんに、その甘さがゆまの悩みを吹き飛ばした。つい頬が緩んでしまう。
こんな風な小さな幸せでいい、とゆまは思う。こんな小さな幸せが続いてくれたら、それでいいのに。
それからしばらく経って、ゆまと拓は久方ぶりの密会をしていた。拓と会えたことが、ゆまにはただ嬉しかった。
拓は、私がなんで拓とまだ関係を断たないでいるのか、分かっているんだろうか。私のこと、どう思っているんだろう。その答えを知るのは、ゆまには少し怖かった。
その日は二人とも汗だくになったのでシャワーで体を洗ってから、リビングでのんびりとくつろぐ。ゆまの母が仕事から帰ってくるまでは、まだかなり時間があった。
「あー家に帰りたくねー」
ソファに座ってテレビを見ながら、拓が言った。リビングに来てから、拓はそればかり言っていた。こんなことはゆまとの今までの付き合いの中ではあまりないことで、相当ストレスが溜まっていることが分かる。
拓にとってゆまとのセックスはストレスを発散するためのもののはず。ゆまはなんだか、拓がストレスを解消できていないのが自分のせいのような気がしてきた。それに、あんまり拓がしつこく同じことを言うので、痺れを切らしてしまった。努めて優しく、拓のストレスの原因を訊く。
「なにかあったの?」
すると、拓は待ってましたと言わんばかりに口元を緩ませたが、どうにか平静を装おうとしていた。その様子を、ゆまはかわいいと思った。
「最近さ、ますます親が人間に思えなくなってきてんだ。人形味が増したっていうかさ」
「拓、親が人形みたいって、前から言ってるよね」
「感情ってものがないんだよ、俺の親には。今回の試験だって、結構いい点数だった。ほめてくれたっていいはずだ。それを、あいつら俺の成績見てなんて言ったと思う? これはいい成績なのか? そうか、頑張ったな。それだけだ。気持ち悪い作り笑顔を一切変えなかった。あいつら、俺のことなんて見てないんだよ」
「でも、頑張ったなって言ってくれたんでしょ?」
「あんなもの定型文だ」
ゆまは、親に対する感情が人それぞれだということはよく分かっている。それでも、拓がこんなに自分の親を嫌う理由は分からなかった。それに、実の父も母も生きているのに、文句ばかり言う拓のことが、少しだけだが、疎ましくもあった。
そんなゆまの思いを知ってか知らずか、拓は声の調子を落として話を続けた。
「……ガキの頃はさ、俺だって親を喜ばせようと頑張った。いっつもおんなじ顔で笑っているあいつらに、本気で喜んでほしくてさ。でも、全然ダメだった。あいつら、俺のことを自分の子供としか見てない。俺を一人の人間として見てないんだ」
「……どういうこと?」
「なんつーかさ。俺がいいことをしたから褒める。悪いことをしたから叱る。親っていう役割があるからそうする、みたいなとこがあんだよ。それで、俺を『子供』っていう役割に押し込めようとしてんだ。俺に対してあいつらが本気で何かを感じたことなんてないんだよ。親の気を引きたくて、一回すげー悪いことをした。でもその時でさえ、あいつら本気で怒るんじゃなくて、親として叱るっていう務めを果たしてます、って感じだった。それ見て、もうどうでもよくなってさ。それからなんだよ、親が人形に見えるようになったのは」
「そう、なんだ……」
ゆまは、その言葉以上に何かを言うことができなかった。拓の気持ちを分かった気にはなれる。けれど、分かった気になっていろいろ言うのは失礼だし、完全に気持ちを知り得ることはできない。
ふとそこで、拓が自嘲気味の笑みを浮かべた。心配するゆまをよそに、拓は話を続ける。
「まあ、こんなんだからさ、正直俺愛がどうとかってよく分かってないんだよ。嫌いはあっても、好きとかなんとかってどうでもいいと思ってる。家族に愛し方とか教わらなかったやつが、誰かを好きになることなんてない」
「それは違うよ。そんなことない」
人は誰かを愛さずにはいられない。誰かを愛していることに気づいていないだけだ。ゆまはそう信じていた。そうでないと、拓が自分を好きになるかも、なんて希望も抱けなくなる。
「そうだな。俺も最近気づいたよ」
拓がそう答えたので、ゆまは少し拍子抜けしてしまった。そして、拓が彼女のことを言っていることに気づいた。
「俺は親には愛されちゃいないけどさ、家の外では、努力すれば俺を見てくれることに気が付いた。だから、俺は親に愛されない分を、外で補うことにした。
俺は人形みたいな親が嫌いだ。けど、心の中では人形を求めてしまってる。俺にとって都合のいい奴、俺が愛される人間だってことを確認する道具になってくれる人間を探してる。そんなこと、認めたくないけどな。でも、俺はこういう人間だし、変わるなんてできるわけない。だから、人を愛することなんてできないと思ってた」
「……じゃあ、拓はなんで今付き合ってるの?」
ゆまにとってそれは、聞きたくないはずの問い。けれど、ゆまは尋ねてしまった。好奇心ゆえか、あるいは自分にもまだチャンスがあると信じたいからか。
ゆまに問われ、拓は静かに答えた。自分の考えを整理するように、ゆっくりと。
「正直、なんであいつと付き合ってるのか、俺もよく分かってない。あいつは都合のいい奴なんかじゃない。うるせえししつこいし、他人の事情にどんどん踏み込んでくる。俺が一番苦手なタイプのはずだ。付き合う以前に、あいつと関わりたいなんて思わねえよ。
でもさ、なんでか自然に話すようになって、あいつといるのが楽しいと思うようになった。鬱陶しいと思うこともよくあるのに、なぜかあいつと居たいと思うようになった。それで、そうかこれが好きになるってことか、って思った。だから、付き合うことにした。まあ、そんなとこかな」
「そうなんだ」
ゆまは、聞かなきゃよかったと、ただそう思った。拓の彼女は、拓に好きという感情を思い出させた。でもゆまにはそれができなかった。ゆまの中には、ただ敗北感だけが残った。
その日はなぜか拓と長く一緒に居たくなくて、ゆまは適当に言い訳をして拓に早く帰ってもらった。拓が帰って一人になって、寂しさとも虚しさとも、悔しさとも言えない感情が胸を埋めた。誰もいない家の中で、ゆまは静かに泣いた。
また別の日曜日。
「ゆま、準備できたー?」
母親の声だ。鏡で服装チェックをしながら、少し声を張って答える。
「もうちょっと待ってー。服が決まらなーい」
「昼前にはお墓行きたいから、早く選んじゃってー」
急かす母の催促を聞き流し、服を見る。白いワンピースにデニムジャケットの組み合わせか、ピンクの編み込みセーターにミルク色のスカートの組み合わせかで悩んでいた。ゆまは髪が短いので編むのが難しい。今日は、ヘアアイロンでウェーブをかけて、髪を遊ばせていた。
普段それほどおしゃれに気を配らないゆまだが、久しぶりの母との外出なので、おめかしすることを決意した。といっても、これはゆまが外出に乗り気だからではない。着飾ることで無理やり気分をあげようとしているのだ。本心では、家に閉じこもってスマホを触っていたかった。
最終的に、デニムジャケットの組み合わせの方を選択した。いつも使っているピンクの小さなショルダーバッグを提げて、母親と一緒に家を出る。
父親の墓は、ゆまの家から車で三十分ほど行った、山の中腹にある墓園にあった。母親が運転する車に乗って、車窓を眺める。家から離れるにつれて、田んぼが増え、田舎と化していった。
もともと、ゆまも母親もそれほど口数が多いわけではない。音楽プレイヤーが流すアイドルの曲が、車の中に充満する。その中で交わされたやり取りは、数えるほどだった。
しばらくして、墓地に到着した。父親の墓に行く前にバケツに水を汲んで、運んでいく。
その墓地からは、田舎町の広がる様が見渡せた。日の出が綺麗に見られることは、今年初日の出を見た時に確認している。墓地の怖さは少しあるが、ゆまのお気に入りの場所でもあった。
「お花の用意しておくから、水かけてあげて」
母親に言われた通り、ゆまはバケツを持って父親の墓の前に立った。柄杓で墓に水をかけて、鳥の糞や草を流していく。ゆまは墓の下に父がいるようには思えなかった。それでも、この儀式はなにか、父への色褪せない思いを表す欠かせない行為のように感じる。
水で流した後は、雑巾で拭いて綺麗にしていく。次に来るのがいつになるか分からないが、多分また汚れてるんだろうなあ、とぼんやりと思う。
墓の前の鉄花瓶を、バケツに残った水で満たした。そのタイミングを見計らって母親が、茎の端をねじり折った花と、自販機で買ったミルクコーヒーを持ってきた。花瓶に入れて、線香とマッチを取り出す。
二人はいつも、線香を一本ずつ焚くのではなく、一本を半分に折って使っていた。そうすることで、早く燃え尽きてくれるのだ。この墓地に吹く強い風のせいか、一本ずつにすると燃え尽きるまえに火が消えてしまうことがあった。
母親がマッチに火をつけて、線香をあぶし、墓に備えた。マッチを振って火を消し、手を合わせる。それに倣ってゆまも手を合わせ、目を瞑った。
こうしたら本当に、パパに思いが通じるのかな。ゆまはあまり、スピリチュアル的なものを信じない。けれど、こうして目を瞑ると、父親に語りかけずにはいられない。
(パパ、見てますか。私にはもう、どうしたらいいのか分かりません。人生山あり谷ありっていうけど、私はずっと谷底にいる気がする。本当に山が来るのかな)
しばらく手を合わせ、母親が目を開けているのを確認してからゆまは体勢を戻した。
「じゃあ、行こっか」
そう言って立ち上がった母親に合わせて、ゆまも缶コーヒーをもって立ち上がった。
この缶コーヒーは、甘党だった父に合わせて甘いミルクコーヒーを選んでいる。けれど、父親に似て甘党のゆまでもしつこいくらいの甘さなので、母と二人で時間をかけて消費するのがお決まりだ。
車に戻って、家の方向へ出発した。母が明るい声でゆまに尋ねた。
「お昼、どこに行く? なんか食べたいものある?」
「うーん、特にないかなあ……」
「そっかあ。じゃあ、フードコート行く?」
「ショッピングモールの?」
「うん」
「……」
ショッピングモールのフードコートには割といろんな店がある。だから、食べたいものが特にない今、フードコートに行くのは確かに正しい。けれど、日曜日のフードコートなんて絶対学生ばっかりに決まってる。同じ学校の人に出くわすのは、避けたい。
そして、その気持ちを正直に母親に言えないのがゆまだった。
「うん分かった。じゃあ、そうしよう」
ゆまの答えに頷き、母親はショッピングモールへと車を走らせた。
案の定、フードコートは酷い混みようだった。学生がほとんどの席を埋めている。奇跡的に空いている席を見つけて、二人は荷物を下ろした。
「じゃあお母さんここで荷物見てるから、先に注文しておいで」
「うん」
ゆまは立ち上がって、今日の昼食を探した。辺りを見回してみると、意外とゆまと同じ学校の人間はいないことに気づいた。先輩や別のクラスの人はちらほらいるが、ゆまの知っている顔はなさそうだ。ゆまは少し安心した。
悩んだ挙句うどんを食べることにし、きつねうどんを注文した。最近徐々に暑くなってきており、ゆまは食が細くなってきていた。きつねうどんはそれほど量はないが、ゆまには十分。
ブザーを受け取って席に戻ると、母は携帯で何かを見ていた。恐らく仕事のことだろう、表情は決して明るいとは言えない。
「ただいま、注文してきたよ」
ゆまがそう声をかけると、母親はすぐに微笑を浮かべた。
「お帰り。お母さんも買ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
そう言って母親を送り出し、ゆまはスマホを取り出した。開くのはやっぱりTwitter。
Twitterには相変わらず醜い口論が溢れていた。それを見て笑えば、ストレスも発散できる。いつものゆまならそうだった。しかし、今日のゆまは快感よりも虚しさを覚えた。
もしかしたら、周りに思いを打ち明けられる人がいないから、Twitterでこんなことばっかり言ってるのかな。一人で抱え込んでしまうから、重圧に耐えられなくて人を攻撃して憂さ晴らしをしようとする。そんな人が集まってるのかもしれない。
もちろん、表では普通の人なのにSNSでは豹変するような人がいるのもゆまは知っている。周りに愛される人でも、そうなりうる。だから、自分の仮説が正しいとはゆまは思わない。けれど、間違っているとも思えなかった。
こんなことを考えていると、スマホを見るのが嫌になる。スマホをテーブルの上に置いて顔を上げ、そしてゆまは硬直した。ゆまの目線の先には、拓の彼女の姿があった。
(なんでここにいるの!!?)
思わず睨みつけ、拓の彼女を呪ってしまう。確かに学生がこれだけいるのだ、拓の彼女が来ていたっておかしくはない。けれど、何も今来なくたって。
ゆまは、拓の彼女がゆまに気づかないことを願いながら、存在感を無くすように努めた。顔を見られないように下を向く。幸い、拓の彼女は友達数人と来ていて、ゆまの方を気にする様子はなかった。しかも、フードコートに用がある訳でもなかったらしく、すぐにどこかへ去っていった。
「危なかった……」
そう呟いて、気を抜いたその瞬間、卓上のブザーがけたたましい音を鳴らした。心臓が縮み上がり、一瞬息を止めた。すぐにブザーを手に取り、立ち上がる。母の姿を探すと、ちょうどテーブルの方に戻ってくるところだった。母もゆまの様子に気づいて、行ってこいとばかりに頷く。頷き返して、ゆまはうどん屋へと急いだ。ブザーの不快音を早く遠ざけたい。
ブザーと引き換えに受け取ったきつねうどんは、思っていたより量があった。汁をこぼさないように注意しながら、テーブルへ戻る。
うどんを載せたトレーをテーブルに置いて、席に座った。母は戻ってきたばかりだ、母の分はまだできないだろう。
「先食べてていい?」
「うん、いいよ」
「ありがと。いただきまーす」
割りばしを割って、一口目をすする。暖かくて柔らかい麺が口の中で暴れ、だしの味が鼻を抜ける。ゆまには味の良しあしが分からないが、この味をおいしいと感じられる家庭に生まれたのは幸運に思えた。
「ママはなににしたの?」
一息ついたところで、話題を作ろうと母親に尋ねた。携帯を触っていた母親が顔をあげて答える。
「卵丼の小さいやつにしたわ。最近食欲が落ちてきてて。お母さんももう歳ね」
「じゃあ最近私が食欲ないのも年齢のせい?」
「ゆまはただの夏バテよ。まだ若いんだし」
「あー夏バテかー」
「体力つけないとね。あと、夏野菜」
「えー面倒だなー」
「ゆまは一回脱水で倒れてるんだから、気を付けないと」
「うーん」
父親が亡くなる数か月前、ゆまは脱水で一時気を失い、倒れたことがあった。すぐに目を覚ましたのだが、父親がものすごく心配していたのを覚えている。ゆま本人は気を失った瞬間のことを覚えていないので、あまり危機感を感じてはいなかったが。結局、次の日学校を休み、医院で点滴を打ってもらう羽目になった。
母の手元にあったブザーが鳴った。母親が自分の料理を取りに行く。その時になって初めて、ゆまは飲み物がないことに気づいた。近くにセルフの給水機があるが、母がいない今席を立つと、荷物番がいなくなる。ゆまは母親が席に戻ってきてから水を取りに行くことにして、うどんを食べ進めた。きつね揚げもおいしい。
うどんに夢中になっていたせいで、背後に立った人の気配に気づかなかった。
「朝美ゆまさん、だよね」
突然声をかけられ、驚いてうどんを逆流させてしまう。口をぬぐいながら振り向いて、声の主の顔を見た。ゆまは、食べたもの全部を吐き出しそうな気持ちになった。
そこに立っていたのは、拓の彼女だった。
「えと……」
どう言葉を返せばいいか分からないゆま。その様子を観察しながら、拓の彼女は話を続けた。
「あ、私は鷹丘ちか。第二高校通ってるの」
「そうなんだ。それより、なんで私の名前……」
「それから私、葉月拓の彼女です」
自分の顔から色が失われていくのを、ゆまははっきりと自覚した。
「あ、あのっ」
何か言い訳をしようと口を開いて、ゆまは何も言えなかった。そもそも、まだ何も問い詰められていない。口をパクパクさせるゆまに、ちかはわざとらしい心配顔で声をかけた。
「大丈夫? なんだか顔色悪いけど」
「ご、ごめんなさい!!!」
ゆまは頭を下げ、ただ謝った。それ以外に方法はなかった。もうすぐ母が帰ってきてしまう。母には拓とのことを知られたくない。結局、ゆまにあったのは反省ではなく保身だった。
ちかはゆまの態度を見て大きなため息をついた。ゆまの肩がびくっと跳ね上がる。
「謝るくらいなら拓と別れたらよかったじゃん。なんでこの期に及んで謝るわけ? 私ずっと不思議だったんだよね。ばれないとでも思ってたの? あなたの学校にも私の友達いるし」
「ごめんなさい……。もう拓には近づきません。連絡もとりません。だから―――」
「当たり前でしょ。何言ってるの」
ちかの呆れ顔がゆまの目に映る。ゆまはただ狼狽するしかない。ちかが声のトーンを落として話す。
「私も鬼じゃないからさ。別に拓とのことを言いふらしたりする気はないわよ。復讐とかされたらたまったもんじゃないし」
その言葉に、ゆまは思わず、見てわかるほど安堵した。友達にばれなければ、後はどうとでもなるはずだ。少なくとも母にばれることはない。そこまで考えたゆまの頭に、続けてちかの言葉が投げかけられる。
「でもね、あなたが全く報復を受けないってのも許せないのよね」
一段と低くなったちかの声。顔を上げられないまま、ゆまは早くどこかに行ってくれと願う。
だが、現実はゆまのそんな思いなどあっさりと打ち砕いた。
「ゆま?」
今一番聞きたくない人の声が聞こえてきた。それは、ゆまの母親の声だった。ゆまは反射的に体を起こした。ゆまが頭を下げているのを見られたのは間違いない。情けなさと悲しさで頭がいっぱいになる。
「どうしたの? その子はお友達?」
母の方を見れば、母は手に盆を持ったまま、心配顔でゆまを見ていた。急ぎ足で近づいてくる。来ないで、とはゆまは言えなかった。
テーブルに盆を起き、母はゆまたちの方へ体を向けた。自分の口から説明しなければ、とゆまは思った。しかし、思うように口が動かない。息が詰まって、声が出ない。
そんなゆまを尻目に、ちかの方が先にゆまの母に声をかけた。
「こんにちは。私、鷹丘ちかって言います。私の彼氏がゆまさんと浮気してて、そのこと謝ってもらおうと思ってお話ししてました」
ちかはあまりにもあっさりと事実を告げた。ゆまはちかの口を塞いでやりたくなった。母にだけは、言わないでほしかった。
「えっ……浮気って、え?」
ゆまの母が、うろたえた口ぶりで反応した。娘が浮気していると突然告げられて、理解できるはずもなかった。
母娘の狼狽する姿を見て満足したのか、ちかは少しだけ笑った。そして、じゃあまた、とだけ言い残し、その場を去っていった。去り際さえあっさりしていた。
後に残された二人を、肌を刺すような沈黙が包んだ。ゆまは、母の顔を見ることができなかった。母が今どんな表情で自分を見ているのか、知るのが怖かった。
「ゆま」
母の声がかかった。思わず身を縮める。しかし、続いた母の言葉はゆまを咎めるものではなかった。
「ご飯食べよう。麺、伸びちゃうよ」
想像より優しい言葉を聞いて、ゆまは恐る恐る顔を上げた。母は、席に座ろうとしているところだった。表情はいつも通りで、感情が読めない。
「あの、ママ……?」
「話は家でちゃんと聞くから。今はご飯」
そう言う母の手は、震えていた。それを見て、ゆまは静かに席についた。
――昼食を終えた後、二人はすぐに家に帰った。車中では、ほんの少し会話が交わされただけだった。
二人揃って家に入る。真っ暗なリビングの電気を点ける。リビングは相変わらず散らかっていた。
荷物を置いて、母はテーブルの席に着いた。座るように促され、ゆまも母の対面の椅子に座る。こういう時、どう座ればいいのか分からない。ゆまはテーブルの天板をじっと見つめ、母の顔を見ないようにした。
ゆまの母は、しばらく何も言わなかった。そのせいで生まれた沈黙が、余計に二人を話しづらくさせた。
口火を切ったのは、母親の方だった。
「ゆま、お話聞かせてくれる?」
母の声の中に、怒りや呆れは感じ取れなかった。そのことに、ゆまは少しだけほっとした。ゆまはゆっくり、淡々と拓とのことを話した。その間、母は相槌だけを打っていた。
ゆまが話し終えた後、母親は長く、長く息を吐いた。少し疲れているようだった。そして、悲しそうでもあった。父親が死んだと聞かされた時に見せた顔に似ていた。
「実はね」
母が、言葉を発した。
「ゆまが誰かを家に連れ込んでたの、知ってた」
「え?」
ゆまは思わず声を上げた。拓がいた痕跡は確実に消していたはずだ。
困惑するゆまを見て微笑んで、母は話を続ける。
「母親ってね、家族の中で一番家のことを知ってるの。何がどこにあるかもそうだけど、この家の空気みたいなものもね、感じ取れたりするの。だからね、鈍感な私でも、異変があったら意外と気づけちゃうのよ。母親ってそういうものよ」
「……」
ゆまは何も言わなかった。何も言えなかった。自分の母親は、自分が思っていたよりもずっと、家のことを、家族のことを見ていた。それを知らなかった自分が恥ずかしかった。
「ゆまが何か悩んでいるのは分かってた。ゆまが連れ込んでる誰かが関わってるのも、なんとなく気づいてた。でも、ゆまが自分から話してくれるのを待とうって思った。きっといつか、ゆまは話してくれる。相談してくれる。私だってそのくらいゆまに信用されているって、信じたかったのかな。だから、何も聞かなかった。ごめんね」
「ママは悪くないよ……」
ゆまはどうにか、その一言を発した。母親を信用していなかった訳ではないと、伝えたかった。母親に迷惑をかけたくなかった。だからゆまは、相談しなかった。
いつの間にか、ゆまの頬を涙が伝っていた。なぜ自分が泣いているのか、ゆまには分からなかった。母親と自分とのすれ違いを悲しんでいるのか、それとも自分のすぐ近くに頼っていい人がいることに気づけた安堵か。ゆまは涙を止められなかった。
母親が立ち上がって、ゆまの後ろに立つ。ゆまの頭に、母親の手が置かれた。母に頭を撫でられるのは久しぶりだった。
「ゆま。拓君との関係を断ちなさい。今すぐとは言わないから。ちゃんと別れなさい。それから、もっとママのことを頼って。ママももっとゆまの話を聞くから。いい?」
「うん……ごめんなさい……」
自然と出た言葉だった。ゆまは初めて、救われた気がした。
次の日。
ゆまはいつも通り学校に行った。母親からは、無理していかなくてもいいと言われていた。だが、行かなくてはいけない気がした。
ちかは、ゆまの学校にも友達がいると言っていた。ひょっとしたら、ゆまが浮気していたことを暴露されているかもしれない。ちかは言いふらしたりはしないと言ったが、ちかの友達がどうするかは分からないのだ。
ゆまはいっそ、暴露されて非難される方がいいと思っていた。罰を受けたいのかもしれなかった。
しかし、期待に反して学校は想像以上にいつも通りだった。友達も、クラスメイトも、先生も、拍子抜けするほど普通だった。
結局なにごともないまま放課後になった。自分が馬鹿らしく思えた。すぐに帰ろうとしたゆまだったが、しかし、呼び止める声があった。
「ゆまっち待って」
それは、葵の声だった。葵はいつもの溌剌とした笑顔をたたえて立っていた。
「なに?」
「いやあ、なんかちょっとだけ、いつもと雰囲気違うなあと思ってさ。なんかあった?」
もしかしたら。もしかしたら、葵になら、全部話してもいいのかもしれない。頼ってもいい人なのかもしれない。ふと、そんな考えがゆまの頭をよぎった。一度生まれたその考えは、たちまち膨れ上がってゆまの頭を支配した。
話してみよう。そう思った。
「ちょっと長くなるんだけどさ。付き合ってくれる?」
ゆまの言葉に、葵の笑顔が弾けた。
「うん!!!」
二人は場所を変えて、空き教室へと移った。テスト前は自習室として開放されるが、普段は誰も使わない場所だ。
明かりを点け、隅に追いやられた机のうち二つを引っ張り出してくる。二人は向かい合って座った。
空き教室の中は静かだった。遠くから聞こえてくる生徒たちの話し声や、校庭から聞こえる部活のかけ声は、ちょっとしたBGMに思えた。
「私さ、浮気してたんだ」
そう言って、ゆまは話し始めた。葵は、特に驚いた素振りを見せなかった。ただ静かに、ゆまの話を聞いていた。
全部話し終えた頃には、空が赤くなり始めていた。ゆまは一息ついてから、葵に問うた。
「ねえ、私のこと、嫌いになった?」
「ううん、全然」
ごくあっさりと、葵は言った。嘘ではなさそうだった。葵が続ける。
「確かに浮気は駄目だよ。いけないこと。だけど、ゆまっちの気持ちも本物。ゆまっちの気持ちを否定するのは、私にはできないな」
「……そっか」
葵の優しさが身に染みた。嬉しかった。ゆまは続けて葵に質問した。
「鷹丘さんは、なんで私に報復しようとしないのかな」
すると、葵はうーん、と首をひねって答えた。
「なんでかなー。鷹丘さんの言葉の通り、復讐されるのが嫌なのかもしれないね。でも、多分それだけじゃないなー。世の中、色んな人がいるからね。彼氏の浮気相手なんてもう関わりたくないからなのかもしれないし、罰を与えちゃって許したくないのかもしれないし」
「罰で許す?」
「うん。罰を与えられたら、それで許されたって思っちゃう人ってたくさんいるじゃない? それが嫌なんじゃないかな。一生許す気はないぞ、罪悪感に苛まれろってさ」
「……」
まるで自分のことを言われているようで、ゆまはヒヤリとした。知らずのうちに、自分は許されようとしていたのかもしれない。自分の弱さが恥ずかしくなった。
「鷹丘さんは私のこと、許してくれるかな」
「ゆまっち次第じゃないかな。ちゃんと葉月くんとのことに区切りをつけて、ちゃんと謝れば、もしかしたら許してくれるかもしれないね」
「うん」
この時初めて、ようやく、拓への気持ちを終わらせる覚悟がゆまの中に芽生えた。拓のいない世界に足を踏み出す勇気が生まれた。
「ねえ、いま拓に電話かけてもいい?」
そう言いながら、ゆまは携帯を取り出した。
「うん、いいよ」
葵は微笑んで、深く頷いた。ゆまはすぐに拓に発信した。手が緊張で震える。発信音が間延びして聞こえて、耳に痛い。
長い発信音の後、ようやく拓に通話がつながった。
「あ、もしもし、拓? 話したいことがあるから、今日会えないかな――」
『お前との関係が彼女にばれた。今後会うこともないし話すこともない。じゃあな』
「え、ちょっと待って!」
ゆまが呼びかけた時には、通話は切れてしまっていた。呆気ない幕切れだった。
「大丈夫?」
呆けてしまっているゆまに、葵の声がかかった。ぼんやりとした頭のまま、ゆまは葵の方を向いた。心配そうな葵の顔が見えた。涙がこぼれた。
「よく頑張ったね」
そう言う葵の前で、ゆまは大泣きした。見られてることも気にせず、声を上げて泣いた。胸に溜まっていた埃が払われていくような気がした。
ゆまがひとしきり泣いた後、二人は別れた。葵はすぐに部活に行った。遅刻は間違いない。顧問に怒られてくる、と笑っていた。ゆまはちょっと申し訳なかった。
家に向かう帰り道、ゆまの心は晴れやかだった。赤みがかった空に雲はなく、一番星が煌めいていた。ゆまは携帯を開いた。
相変わらず、人恋しさ、寂しさはゆまの胸から消えてはいない。消えることはないのだろう。けれど、それでいいとゆまは思えた。一生この寂しさと向き合って生きていく。ゆまならそれができる。寂しさを分かち合える人がいると気づけた、今のゆまなら。
もう一度、鷹丘さんにちゃんと謝ろう。鷹丘さんは私の顔なんて見たくないかもしれないし、私を許すつもりなんてないかもしれない。それでも、謝りに行こう。ゆまはそう思った。
携帯の画面から、Twitterは消えていた。
<終>