おとな
「おかえり」
「…………」
「榴、ただいまは」
「……ただいま」
扉の音を聞いて出迎えるなんて、母はきっとまた小言を言うつもりだ。つい、波を立たせるとわかっていても無視をして通り過ぎたくなってしまう。何も言おうとしない彼女をちらりと見ると、その手には花柄の傘が持たれていた。
「これ、どうしたの」
「借りた」
誰に、と小さく切って、母は溜め息をついた。何を言いたいかはわかっている。こうやって面倒になるとわかっていたのに、晴れていた今朝は当たり前に持って出るのを忘れた。返すのも忘れていたが、隠蔽することすらできなかった。
「これ、女の子でしょう。乾かさないで、そのままにして……。洗って乾かしておいたから、明日絶対謝るのよ」
うん、とは言えなかった。自分には必要なかったのに傘を貸してくれた彼女に、申し訳ない以外の感情も持たないなんて、ちっぽけだと思った。傘を返し忘れているおかげで、りょーのさんに会う口実がまだ残っている。それは、嬉しいことなのではないか。
母にとっては他人に目くじらを立てられることが何よりも嫌なだけだ。子供だから他所様に迷惑をかけることはある。それを、できるだけなくして欲しいとエゴが現れ始めたのは、つい最近のことだ。
『やっぱりそうだと思った、とか言われたくないでしょう』
最初の頃はしきりにそう諭した。自分たちのやろうとしていることで、如何に禍根が残らないかしか気にしていないんだ、と幻滅した瞬間だった。子供の、自分の意思など関係なかった。とにかく、高校卒業するまでの間、榴はなるべく普通に過ごさなければならなかった。
そうしづらくしたのは、お前らのくせに。
シャワーを浴びながら、ここから一生出なくてよいなら良いのに、と思う。外の世界――家庭内の問題はあまりにも汚すぎる。父も母も、自分の利権を守るためだけに口論をして、子供の知らないところで勝手に決めごとをする。早く出て行きたいだなんて、榴が一番思っているともつゆも知らない。
彼女にも、あるのだろうか。体裁を守るための薄汚い感情が。誰かを縛り付けてまで貫きたい信条が。
愚問だ、とも思う。自分にだってそんなものがないと誰が断言できるだろう。世間の評価なんてくそくらえと思うのは、それに抑圧されてきた腹いせでしかないかもしれない。
りょーのさんが自分の気持ちを言えないのが悪い、と口にしたことに、自分を守るために嘘をつくのとは別の憤りも感じる。
それは、誰かが素直なせいで誰かが黙らなければならないという構図を想起させたからかもしれない。例えば、自分が両親と対称にあまり言葉を発しなくなったように。