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我慢と愚痴

 彼女が自分に興味を持ったのと同じように、自分も彼女に興味を持っていた。両親からの酷い扱いを発端として育んできた大人への無条件の不信感は、けれど、果たして彼女のように大人になりきれていないような人にまで抱くものではなかった。初めてそう感じた。しばらく他人を避けてきたからわからなかったことだった。


「ごめんね、でも酒飲まずにやってられるかーって」


 酒飲みオヤジのマネをしてビールを一気に呷った彼女は、ふう、と息をついた後、にへら、と笑って見つめてきた。潤んだ瞳は、少しどきりとさせられる。


「私、横井 遼乃っていいます。君みたいなかわいい男の子と知り合えて嬉しいな」


「……はあ」


 これは、酔っ払いなのだろうか。先ほどまで大人らしい貞節を保っていたような気がする彼女は、ふんわりと雰囲気しか残さずどこかへ行ってしまった。


「聞いてくれる? 私の愚痴!」


 返事は待たなかった。社会人二年目なんて生涯で一番社会に踏み潰される時期だ。生意気な後輩に仕事を教えなくちゃいけないのに、失敗は全部自分のせいになる。人となりを知られてしまった今、あからさまに嫌ってくる上司も数名。自分は地味に生きているつもりでも、人を虐めたい人はたくさんいる――。相槌も聞かない様子で、まくしたてた彼女――りょーのさんは、すごく興奮していた。


「……それに、最近恋人と別れたの」


 ふ、と雰囲気が変わった瞬間だった。両腕を膝に落とし、夕焼けもすっかり遠い空を仰ぐ。きっと、泣きそうだ。何ともなしに浮かんだ直感は、しかし、彼女の意地で現実にはならなかった。少なくとも、榴の目にはそう見えた。


「酷い話なの、これが。浮気されてたとわかって問い詰めてみれば、最初から私なんて本気じゃなかったんだって。浮気相手が本命で、私は遊び。でも彼、そんな酷いことする人じゃないと思ってた。どうしてって聞いたら、なんて言ったと思う?」


 答えるべき間ではなかった。その声は震えていた。彼女のことを知らない自分が何か言える場面ではなかった。


「『遼乃が何も言わないから、わかってると思ってた』、よ。バカみたいだよね、私、勝手に騙されてた。疑わないからいけなかったのか、信じてたのがいけなかったのか、わからないの」


 バカだと思った。そんなこと、小さな子供ならありえない話だ。大人はそうやって、大切なことを暗黙の了解で済ませる。けれど、それはどちらが悪いのか、自分には判別がつかない。そもそも、わかっていたとしても浮気をすることが悪いのかもしれない。


「そんな人、別れて正解だよ」


 聞こえなかったと思う。りょーのさんは何も返事をしなかった。きっとこんなことを言われて嬉しい人はいない。本当にそうだと思っていたら、人にこんな風に愚痴を言ったりしない。相手が悪かった。それならば、自分がバカだっただなんて言わない。


 仕事も失敗続き、後輩の仕事と自分の仕事の責任をとるのでどんどん効率は悪くなるってわかっていても相談できる上司もいない。毎日飲んでないとやってられなかった。一人の家に帰って明日を待つだけなのが嫌だった。

 こんな独りよがりな愚痴、必要に迫られたように同情したとて偽りなのはわかっていた。吐き出せるほど溜め込んで、酒の力で解消する。そんなことがルーチンになっている大人は、なんて醜いのだろうと思う。

 けれど、どうしてか嫌じゃない。彼女は、自分のために我慢をしている訳じゃない。こなそうと思ってこなせないだけで、クソみたいな信条のために苦しんでいるわけじゃない。


「私ができないのが、悪いんだけど」


 そう、何度も口にした。そうじゃない、と思った。悪いのは仕組みで、彼女のように後ろめたいと思える人が苦しまなければいけないのはおかしい。


 沈黙の中考え込んでいたら、ふと彼女が我に返る音がした。その慌てっぷりが面白くて、ついついからかってしまった。

 少しだけ、後悔した。踏み込みすぎだと思った。小さなことで大きな問題を抱えて悩み続ける子供と、そういったものを踏み倒していく大人とでは、重さが違う。彼女に同情したって、彼女はそれを変えたいと望んでいるとは限らない。




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