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斜向かいに灯る明かりを、私たちは見逃さなかった。

「あの日。あの日のこと、私、忘れない」


 あの日は、9月の、最初の土曜日。オープンキャンパスの後の事件から始まったその年の8月は、人生を大きく変えて、そして。


「私ね、気づいたんだ。榴くんが、泣きながら、好きって言ってくれた時。私の大人げなさは、人を信じられなかったことと、いつまでもあなたに必要とされることを喜んでしまっていたこと」


 初めて会った時、鈍い瞳の色を隠していた長い前髪。二人の間の隔たりは、驚くほど減った。大人であること。子供であること。たった少しの、髪の毛に阻まれた光ですら。

 形の良い頬骨越しに、若々しい瞳は自然光を浴びて底が明るい焦げ茶に輝いている。その光の中に、遼乃がいる。瞳の中に収めて、もう逃さない。

 遊ぶように、繋いだ手の力を入れたり抜いたりしていた榴は、無意識だろうが、上機嫌だ。そして、一度ぎゅ、と握り締めて、その手を胸元まで引き上げてみせた。


「うん。りょーのさんのそういうところ、好きだと思ってた。最初から」


 彼の胸元に伸びた自分の手の甲。榴の左の手の平に縋るそれを、手を軽く解いた彼は親指で大切そうになぞる。まだ、指輪はあげられないけれど、すぐに、必ず。そんな台詞が、自分の口から出そうになる。それを知ってか知らずか、更に手を引いて、頬に当てられる。暑い頬だ。もう、こんなに外を歩いても冷える季節は終わったのだ。


「信じられていなかったんじゃない。嘘なんかつかないって、信じていただけだ。自分の大切な人を、遼乃さんは悪者にできない」


「それは、信じていないのと一緒だもの」


 捕まったままの右手を取り返そうと引っ張ると、反対に引っ張り返される。榴の瞳は鋭い。自らの親に反抗して、見たくない現実から目を逸らして、そうやって走り続けていた時と、その瞳の奥の明るさ以外は何も変わらない。だから、遼乃を説教しようとしている時のその瞳は、あまりにも煌々としていて苦手だ。


「俺は同じことを遼乃さんに思っていた。遼乃さんが嘘をついて、俺が怒った時、遼乃さんは、俺が遼乃さんを信じていなかったと思った?」


 首を横に振る。突き放そうとした。細かく数えれば、二回も、三回も。遼乃を疑うことのない榴は、だからこそ、お互いが深く自覚するまで、恋愛感情にすら気が付かなかった。今となっては、それが正しかったのかもしれないとも思う。


「榴くんが進路のこと悩んでいる時に、私が指針になってあげたいって、私が一緒にいたいように、榴くんも少しでもそうなら、そのために選んでくれたら嬉しいなって、すごく傲慢なこと考えたの。遠くに行って欲しくないなあって」


「理由が、どうであれ」


「遼乃さんのおかげで頑張れたのは事実。これからどうするのかも、どうであれ。今一緒に喜んでくれるのが嬉しいのも、事実。前の恋愛で傷付いたばかりだった遼乃さんが、こんな風に俺を好きになってくれて嬉しいのも、事実」


 手のひらは、いつの間にか榴の唇に吸い寄せられていた。温かで、柔らかなその感触に鳥肌が立つ。甘い甘い光を湛えた瞳が、遼乃だけを映す。ああ、これが、こういうものが。


「俺を見つけてくれた。俺に見つけさせてくれた。年齢とか、大人とか子供とか、立場とか、隔たりがあっても、遼乃さんが俺を信じてくれていたから、これが好きだって知ることができた」


 匠にあれほど言われたのに、今日の榴があまりにも甘いから流されてしまう。指先が震えるのは、心臓ではなく、心が震えているからだ。遼乃も、今なら迷いなく言える。これが、好き、であると。


「……でも、あの手紙のことは、正直、堪えたからな」


「そ、それに関しては、ね。ごめん、というか……」


 ちょうどアパートの下まで辿り着いた。手を離して先を行くのは、もはや榴だ。そんなだから、あの手紙も見つけてしまった。


「あー、俺ってホントに、結局りょーのさんの中で子供扱いだったんだなーって傷ついた」


「もう子供扱いはしないって約束したじゃない!」


 扉の前で、遼乃を振り返る。言い草はわざとらしく拗ねていたが、その表情は先ほどまでとほとんど変わらず、柔らかく遼乃を見つめている。恥ずかしい話題を挙げられて、さらにこんな風に見守られて、むっすりしたまま鍵を取り出す。いくら公園で待ちぼうけをくらっても、合鍵は要らないと、榴は何度も首を横に振っていた。

 榴が開いた扉の中に先に入ると、律儀に鍵と内鍵を閉めた彼が、遼乃が靴を脱ぎ終わるのを待って肩に手を置いた。

 室内に入ったのに、滲み出ている。幸せオーラは、きっと、太陽光のような淡いオレンジ色で、直視できないほど輝いていて、ピンク色の花のような香りがする。ちょうど、目の前の榴の笑った鼻息そのものだ。


「俺も、大人扱いしないし」


 あの日と同じ。けれど違った色だ。鼻から吸い込んだ潤んだ息は、唇とぴったりくっついて、熱い体温を分け合った。


「……うん。卒業おめでとう」


 もう、窓の向こうじゃない。いつでも手を伸ばせば、この人がいる。頬を手のひらでなぞれば、くすぐったそうに榴は笑った。

 

これにて「斜向かいの硝子窓」は一旦完結となります!

大胆に飛ばしたエピソードもあるので、少しずつ後日談、番外編で補完できたらと思います。

執筆し始めて実に4年間の付き合いで、こちらの作品も、自分自身の環境の変化の中ではっきりしてきたことを登場人物たちに投げかけて、返ってきたものでまた自分も考え、を繰り返してきました。

どんな風に大人になろうとも、子供のままでいようとも、少なくとも大切な人には素直な気持ちを伝えたいですね。

ありがとうございました。

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