そのために、そのせいで、それだから
十分囲い込んだつもりだった。胸を大きく広げて、彼女を待っているつもりだった。彼女が気にしているのは、そこに待っていてくれるかではなく、その腕が折れないことや、自分の意思で抱き続けられるかということだったのに。
酷く、憤っている自分がいた。大人がくだらないことに固執して、自らの欲求を中途半端に我慢して、そんなことをしなければならなくなる理由が、なんとなくわかってしまった。あの時そうしていれば、失わなかったのかもしれない、と後悔し続けるからだ。その経験を、積み重ねるからだ。
好きだと口にしたのは、酔った勢いだったのか、と、先に聞けばよかったのだ。彼女はやはり、忘れてしまっていた。榴を助けた後、全てを吐き出して、なお苦しんでいた姿を見て、その時間を経て、榴は確かに自覚したのだ。その長い時間を、遼乃は失ってしまっていた。だから、噛み合わなくなってしまった。
「……向き合えてないことを、反省してるみたいなこと言ってたのは、嘘だったの」
まばたきにつられて、涙が溢れた。目を見開いたままの遼乃は、ゆっくりと唇に指で触れる。言葉を続けようと息を吸うと、胸がしゃくり上がってしまう。
「俺は、後でいくら抱えることになっても、悩むことになっても、りょーのさんが一緒にいたいって思ってくれた気持ちに、自分が共感したことを認めたんだけど」
言いたくない。彼女から、認めて欲しい。なぜなら、知らなかったのだ。彼女があんな風になるまで、これがその気持ちだと形容するのだと、知らなかったのだ。彼女と同じだと気付いて、それが自分を突き動かしたと、それだけは覚えていたい。
「あなたは……あの時言ったことも忘れて。なかったことにして。嘘、ついて。そんなにまでして、俺の気持ちには合わせてくれないのは、なんでなの」
唇を合わせることには、それほど意味はないのだとわかった。それと同時に、ある一定の意味においては、他の何よりも大きな価値を持つのだと知った。
頬を、伝っていく。その湿り気で、固くなって震えた唇のせいで、せっかくの感触が薄れていく。それでも、胸に灯ったものが消えない。きっとあの夜、榴は今の遼乃と同じような表情を浮かべていた。
全身が震え始めても、遼乃を見つめ続けた。息も忘れてしまったような彼女は、不思議と動揺や狼狽を見せなかった。唇に触れていた指先を握り締めて、そして榴の頭へ伸ばした。
全て、やっとわかった。あの時言ったことを忘れた、と言われる前に、もうわかっていた。優しく、一瞬だけ触れた唇に、ついていこうとした。行かないで、とまた頭の中で声がした。
榴が好きだ。好きだから、理屈をこねくり回した。榴がたとえ今、本当に少し好意を持っていても、いつかそれが薄れてなお自分と共にいてくれるのは嫌だ。本当は少しも好意を持っていなくて、そのことに気付かされていくのも嫌だ。いずれにせよ——嫌われたくなかった。
「わた、し、ちゃんと、言ったの?」
大粒の涙が流れるままにしている榴の後頭部に、手を寄せる。自ら震える彼の視線は、それでも遼乃から離れない。かすかに、しかし二、三度、首が横に震える。
目の前のこの男の子は、自分のせいで、自分のために泣いている。それを、受け止めてあげたいと思った。その先のことなど、その後嫌われるかどうかなど、今この時点では関係のないことだと、やっと悟った。
「榴くん。好きだよ。好きだから、離れたくないけど、好きでもないのに一緒にいてくれるのも嫌だって、わがままなこと思って、それを、榴くんのため、みたいに正当化した」
「りょ、のさん」
「うん」
鼻と肩を震わせながら。たくさん涙を流しながら。こんなにみっともないところを、遼乃も榴に見せたのだろう。だから、榴も見せてくれるのだろう。
「りょーの、さんのその気持ちが、好き、なら、俺も一緒だって思ったけど、それは間違ってる?」
手首で目元を拭って。再び現れたその顔は、笑っていた。初めて会った時には考えられないほど、幼く見える笑顔は、頬も鼻も、目も、全てが真っ赤だった。
ううん。大きく首を振ると、そっと体を引き寄せられる。首を肩に擦り付けると、彼の大きな手が背中に感じられる。
「……俺のこと、待てない?」
「ううん」
「ずっとなんか、信じられない?」
「ううん」
「嫌いになるとか、まだ思ってる?」
「……それは」
「少なくとも、今の俺はりょーのさんが好き。明日の俺も、きっと好き」
「うん」
「だから、大丈夫」
独り言のように掠れた大丈夫、は、自らに言っていたのか、遼乃に言っていたのか、わからない。そのどちらでも、もう逃げられない、と思った。
背中を支えていた手のひらが、遼乃の両手をそれぞれ探して、捕まえる。こじ開けるようにして絡められた指は、汗か、涙か、しっとりしていた。
やっと、わかった。自分がいつまで経っても大人になりきれなかった理由。嘘をつかれたくなかった。
ついに、わかった。嫌いな大人たちが嘘をつく理由。後悔したくないからだ。




