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すぐそばの感情

 一人になってから改めて、自らの胸を、足元を、腕を見やって、胸の奥で血管が捻り上げられたかのような痛みを覚える。これを着るのは二回目だった。遼乃の前の恋人のためだったその服は、皮肉にも榴にもぴったりサイズが合っていた。

 母親は部屋に篭ってしまっただろう。そのうち、少し冷静になったら話をしてくれるはず。幼い榴に対してはあらゆることが説明不足だったが、高校に上がってからは、彼女は聞いていないことまで事細かに話した。父親の悪い話も、それはそれは多かった。昨晩からヒステリックになってはいるが、あれ以上の衝突をせずに撤退したことも、彼女らしいとも思えた。

 ジャージに着替えて、もう随分切っていない髪をかき上げる。あの日もそうだった。遼乃に借りたシャンプーとコンディショナーは、榴の未完成ながらも無骨な身体に似合わず、サラサラな髪の毛に仕上げてくる。ふわり、と、柔らかく甘い香りが鼻を掠めて、顔を顰める。においがするものは、あまり好きではない。



「……母さん、ごめん」


「…………」


 せめて誠意が見えるように居ようと思い、ダイニングで勉強をしながら母親が下りてくるのを待った。律儀にも、昼前というにはまだ早すぎる時間にその人は来た。そのことくらいは、榴にもわかっていた。

 斜向かいの椅子を引いて、そっぽを向くように視線を逸らしながら母親は腰掛けた。ノートを閉じて、先ほど淹れたぬるい麦茶をグラスに注ぐ。


「子供の恋愛にどうこう言うの、あり得ないって思ってたわ。子供の頃は」


「うん」


 母親の声は、随分と落ち着いている。最近は怒っていることばかりだったから、少し不思議なくらいだ。榴の注いだ麦茶を一口飲んで、それからグラスの表面をしきりに親指でなぞった。


「でも、いざ聞くと、驚くほど反対する気持ちばっかり出てくる。それは、あなたが同級生の女の子を突然連れて来ても一緒だったと思う」


「……うん」


 ぬるい麦茶のグラスは表面に雫が浮かぶことはないのに、彼女の親指がキュ、と音を立てた。握っているグラスと、手のひらの間に、汗が生まれた証拠だ。


「もう、いいわ。勉強も、頑張っているみたいだし。私と、あの人と……あの子のご両親とか、周りの人に、迷惑だけかけないでくれれば、好きにしたらいい」


 母親が譲歩するようなことを言っているのを聞くのは初めてだった。しかし、それも当然のことだ。両親に自分の考えや希望を自ら先んじて伝えたことなど、今までになかった。


「大学はもっと冷静に考えなさい。恋人を追いかけて、とか、絶対後悔するから」


「俺、考えて、決めたから」


 母親が暗に望んでいた大学ではなく、父親がイメージしていた大学でもなく、自分としては挑戦でしかない、その志望校。推薦で入ってうまくいけば、奨学金がもらえる。大学の近くに住んでバイトをした方が、親の負担を少なくできる。ずっと一人で考えてきた。遼乃と出会ってから、現実に思えるようになった、その選択肢。


「この辺りから通うのは、正直大変だし。良い大学に行けるように手助けしたと思って、一人暮らしを認めて欲しい」


「……あんなこと言っておいて、あの子のことはどうするの?」


「それは、俺の、一人の人間としてのこれからの課題」


 生真面目に言ったつもりが、自分でも気障たらしくて笑ってしまう。つられて、母親が、ふ、と笑う。


「好きな人とはね、ちゃんと話をしなさいよ」


 逃げるように麦茶を呷って、いつものように無駄のない動きでグラスを片付けた。初めてのことづくしだ。両親の、最も身近な大人の、少し親近感まで覚える、人間らしい一面。

 嫌いじゃないかもしれない、と思った。照れ臭さで隠されて、表面に出ることはほとんどなくなってしまうそれは、それでも、大人の中にもあったのだと知った。




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