悟る、決める、安堵する
彼女は、今日は黒髪を小さくお団子に纏めていた。首筋にふわふわと揺れる後れ毛が少し色っぽいけれど、薄ピンクのワイシャツの後ろ姿はまるで高校生のように瑞々しく、艶かしさなどとは程遠い。本人に言えば、頬を膨らませて怒られるだろう。否、そんな風に怒ってもらえるのは彼女が元気な時だけだ。自分が明るく揶揄っても大抵の場合、小さな声で反抗した後、苦笑するだけだ。
何かあったのだろう、と思った。自分の中でのケジメであり、作戦の一つとして、職場以外で、例えばLINEで連絡するようなことは避けていた。だから、何があったのかは勿論知らない。知らないが、今日は表情が明るい。パタパタと走り回りながら、ふとした瞬間に浮かべる微笑みが、自分には目の毒だ。
「坂巻くん」
「んー……え、あ、はい?」
気が付いてから、しまった、と思う。眉間に皺が寄っていただろう。他人に見える場所で思案に浸ることはしないようにしていたのに、迂闊だ。だから、待ちに待った彼女の言葉にも咄嗟の反応ができない。
悩んでいた時の、遠くを見つめる瞳ではなくなっていた。はっきりとした印象に見えるのは、化粧が決まってるからとか、それだけではないだろう。なのに、少しだけ。
「ありがとね」
涙袋が膨らむ。唇が蠢く。スローモーションに見えた。彼女の、作り笑い。
気を取られて、渡すつもりで差し出された紙袋を受け取ることができず、それは自分の腕ではなく机の上に落ち着く。パンでも詰まっているかのような大きめの紙袋からは、甘い匂いがした。
自分に有無を言わさないような振る舞いまでしっかり準備してまで、お礼を言いに来た。何事もなかったかのようにデスクに戻って行った姿を、震える瞳で追う。
早かった。そして、自分が思うよりもずっと、彼女は強かった。悩む必要なんて、最初からなかったように。彼女の中にその選択肢がなければ、自分が口を挟んだところでこういった風にはならなかっただろうと思う。
春からずっと悩まされてきた彼女の、大人らしい作り笑いを見るのは、初めてだったかもしれない。大人らしい表情。大人らしい明るさ。何を選んだのか、すぐに思い至った。
それでもこの手を握ってはくれないのだと、大仰すぎるお返しを省みて、少し胸がチクリと痛んだ。
自分の言葉を、文章にして、文字にして、形にしてみた。歳下の人に送るからってあまりにも甘えた口調に嫌気が差しながら、そんなものは苦痛の中では些細なものだと感じるほど、胸が苦しかった。
本当は、本当なら、本当に。その言葉の重みが薄れていく。たら、れば、なんて、カッコ悪い。選び取れなかったのは、自分なのに。
ペンでぐしゃぐしゃに消した文章よりも勿体ないと思うほど、たくさんティッシュを捨てた。まっさらの白紙だったものは、最後には濃淡のあるマーブル模様になった。
嘘をつくのも、本当は簡単じゃないと知った。隠すことや抱えることが、どんなにストレスになり、重たいことだったかは、思い知ったはずなのに。それを裏切り、新しい事実を作ることの方を、甘く見ていた。
「……だって、本当のことを言ったら、私は——」
自分で読み上げて、すぐに真っ黒になるまで塗り潰した。認めたって、仕方がない。自分だって、失うのが怖い。ただ、それだけだ。欲深ければ深いほど、失うことへの恐怖も大きい。
三日三晩、その紙の上で夢を見た。
砂利を踏む音。ブランコの鎖がまだ温い夏の夜。そんな記憶が、自分にもあったのだろう。陳腐で、ありきたりで、本当か嘘かなんて、興味も湧かないような景色。
夢の中で、カメラは大きく揺れる。見ないようにしていた。そこに何があるのか。本当は、何を夢見ているのか。
目が覚めて、後悔する。もっとしっかり見ればよかった。夢の中でなら、しっかり見ても、手を伸ばしても、何も失わない。
自分も、彼さえも。それは、これからも変わらない。ほんの少しだけ、心が軽くなる事実だ。
「……なんか、話してくれてありがとって気持ちはあるけど」
「ん」
「正直けしかけといて、全く実感が湧かなくてボケしか思いつかん」
「何それ」
「見たかったな〜熱烈アピールする榴」
「…………」
「あ〜いつまでそのポーカーフェイスが横井さんに通用するんだろ〜〜〜時間の問題だよな〜〜」
「……匠」
「ごめんごめんごめんどんなに遅くなってもちゃんとお祝儀は包むから」
「ありがとな。これからも、色々相談させて」
ぎょえ、と口の中で呟いた。いつも仏頂面の幼馴染は、年齢相応と言うには幼く、脱げば腹にはシックスパックがバッキバキに盛り上がっているとは思えない儚い笑顔を浮かべていた。
これで彼女が落ちないというのなら、二人の問題は根深い。根深すぎる。
「俺にも春、来いー!」