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手の届く場所で

「榴くん、ね、ねえ……」


「ちょっと、否、割と大袈裟に言ったけど、嘘はついてないから」


 にっこり。全身から力の抜けたような様子の榴は、そう形容するのが相応しい、彼らしくない笑顔を浮かべた。ようやく気を抜くことができると思ったのに、続け様に遼乃の度肝が抜かれる。

 恐ろしい。若い子は、恐ろしい。そう感じた時、何故だか坂巻の赤く染まった目尻を思い出した。榴の言葉尻にも、カマをかけてきた時の坂巻と同じ香りがするような気がして。


「りょーのさんが決められないの、当然だって思った。俺のこと欲しいって思っても、歳の差が邪魔するんでしょ。だから、俺はりょーのさんの手の届くとこにいるから」


 遼乃は大口を開けていることだろう。どういうことだか頭が追いつかない。先ほど母親の前で、OLに恋してしまった男子高校生を演じた榴は、この場を切り抜けるための機転だったと、遼乃は認識していたのに。

 それに何故、遼乃の気持ちをわかったような口振りをするのだろう。何か思い当たりそうになったところに、黙っている遼乃に追い討ちをかける。


「りょーのさんみたいな大人になりたい……って訳じゃないけど、りょーのさんみたいな大人が苦労しない世の中にしたい、と思うから」


 ふうう、と大きく息をついて、榴は背もたれに寄りかかる。酷く照れ臭そうに、目尻を指で擦った榴の横顔は、あまりにも。


「……嘘、は、ついてないって」


 本気になったとか、隣にいたいとか、そんな風に言語化できる感情に、なかなか思い至らない。ただの恩人と言うにも、遼乃と榴は迷惑をかけ合いすぎた。それなのに、榴が遼乃の手が届く場所にいる、という言葉の意味は。


「りょーのさん」


 本当に気が抜けたのか、榴の纏う雰囲気は、いつもの淡白なものに戻っている。


「俺はゆっくり考えた。一晩中。りょーのさんを守るために責任はとる」


 真っ直ぐな眼差しが、遼乃の胸を貫く。自分のしたことが、一体どれだけ榴を変えてしまったのか。


「母さんに、どうせ女の子にかまけてるんだろう、受験生なのに。父さんのところへ行って、女の子と遊びたいんだろう、って言われて。母さんは一緒に暮らしたかったって、初めて聞いて」


 声が震えないように、息が途切れないように、静かに湖面を滑る夜風のように、榴は胸から言葉を吐く。自らに呆れたように、ふ、と一つ息が出る。


「どーしてショックだったんだろう。隠し続けるのも、抱え続けるのも、ホントに自分勝手で、バカみたいだよな。俺も同罪だった。それは、りょーのさんとのこと、ちゃんとどういうことかわかってなかったことも含めて」


 榴の感情は、ちゃんと動いている。何に悩んでいるのか、何を抱えているのか、彼自身でも言語化できていなかった彼の胸のしこりは、実体となって彼を押し潰している。痛んでいた傷の場所を見つけた今、安心したように眉を下げて、心を労っている。


「そんなことがあったのに、拒んだりして……ごめんなさい」


「ううん。りょーのさんには大人の責任があるんでしょ。それがあるから、俺のことも守ってくれた」


 榴を拒んでみせたのは、自らの弱さだった。そんなことをする必要はなかった。少しでも早く、坂巻に言われたことを咀嚼して、自分なりの答えを見つけることができていれば、どちらに転んでいたとしても彼を受け入れることができたのに。


「守れて、ないよ……。榴くんが将来を考えるのに、邪魔になってる」


 結局、あんなことを言わせてしまった。嘘じゃないと言っても、自らの人生を選び始める入り口で、まだ出会って数か月しか経っていない赤の他人を気遣わせてしまった。

 喉の奥がきゅっと締まる感覚に耐えた。これこそが、遼乃が榴に本心を伝えられない理由だ。困るはずだ。赤の他人でしかない自分に、選択を揺るがされるのは。


「りょーのさん。ゆっくり考えて。俺、嘘は言ってないし、無理もしてないから」


「な、んで。榴くんの気持ち、全然——」


「りょーのさんは考えてくれた? 逃げてたんでしょ。逃げてたから、一回拒んだのに、また追いかけてくれたんでしょ。もう一回、考えて、答えを見つけて欲しい」


 あの時、自分に言い訳をしたこと。お酒を飲んで、何を口走ったのかは、記憶のその部分だけ靄がかかってしまったようで、何一つ思い出せない。けれど、きっと今も同じだ。榴がもし、遼乃の関せない場所に行ってしまうとした時に、ただ一つだけ言いたいことは。


「あなたが、損しちゃいけない。失っちゃダメだよ」


「なんで? 何も損してない。遼乃さんのおかげで、自分で決めようって思えた」


 目の前で、薄く微笑む少年。シャワーを浴びたままのサラサラの前髪の隙間から、キラキラと光を湛えた瞳が真っ直ぐに遼乃を見つめる。

 美しかった。この少年は、今までどんな毎日を過ごしてきて、どんな想いを抱えて、どんな風にそれに悩まされながらもそれを大切にしてきたのだろう、と思う。彼の辛かった記憶も、知りたいと思う。

 何故なら、彼は今、その全てを経て、何も失っていないと胸を張って口にした。

 そのことに、遼乃自身が最も救われる思いだった。傷つけ合うのではなく、失い合うのではなく、得ることができたのだと。


 ごめんなさい、ではなく、ありがとう、と唇が動く。最初にもそうしてくれたように、遼乃が納得する形で、クリーニングに出した制服が帰ってくる一週間後、また会う約束をした。

 ただ話をするのに、初めて約束をした。榴は笑って遼乃の手を握った。

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