仄灯りの硝子窓
その窓はそこにずっとあったはずなのに、中に人が住んでいると知ってからは、開いているのか、閉まっているのか、明かりがついているのか、消えているのか、そんなことすら気になるようになった。
硝子の窓は斜め向かいにあり、窓が閉まっていると、昼間は明るい太陽の日、夜間は近すぎる街灯の明かりを反射して、中の様子は、カーテンが閉められているのかすらわからない。それは窓が開いていてもほとんど変わらず、その部屋の住人が窓辺に立ち、こちらに姿を見せたりしない限りは、その窓の向こうがどうなっているのか、わかることは滅多にない。
そんな時に、身を乗り出して覗いたりなんてできないものだ。そういうことをしてしまえば、向こうからもこちらは丸見えだ。そんな風に、晒け出すことなど普通はできない。できないけれど、知ってしまったのだ。その硝子窓の向こうに、あの人がいると。
明かりが、灯っていた。影が浮かび上がっている。窓はLEDの街灯を反射して真っ白でも、くっきりと見える。手すら、振っていたかもしれない。
遼乃と榴は、同時に感じた。
あの人は、自分を待っていると。
笑いがこみ上げた。世の中、目に見えない枠組みばかりだ。もし、このまま独りになってしまえば、自分は一体何者になるのだろう。誰も気にしていないのだ。自分の年齢も、身元も、悩みも、望みも。他人のそのようなものに興味はなく、自らのそれにだって向き合えないのだ。
目を瞑ることにした。何かに騙されるのならば、自分の常識や良心を騙してやればいい。それが必要だと、坂巻が言ったことはそういうことだ。一旦、忘れよう。自分が何者なのか、彼が、何者なのか。
プルタブがアルミを突き破り、炭酸が弾ける。誰もが気持ちいいと感じるその音は、あまりにも今の心持には不似合いだ。ふらふらと足を向けた先で、予定調和のような光景の中に、彼がいた。声が上げられなかった。自分が、何に突き動かされているのか、未だにわからなかった。わからないまま、ただその衝動には騙されてみようと思った。
電車が急停止して、横から人が体当たりしてくる。そんな時にしか受けたことのない衝撃。鼻が濡れた。鼻どころじゃない、顔も、手も、腹も、膝も、濡れた。ほろ苦いにおいに、思わず顔を顰める。反射的に唾を吐き出そうとした時、膝に感じるのは濡れた不快感や冷たさではないことに気が付く。
「……え?」
手首を、握られた。膝に置かれていた逆の手のひらが、ぎゅ、とズボンの表面を握ろうとする。榴の肉のない太腿の表面に、僅かに爪が刺さる。痛みで、少しだけ意識がはっきりする。目の前の光景に、段々と思考が追いつく。
「……、う、くん」
顔を上げた彼女も、頭からビールをかぶっていた。濡れて肌に張り付いた髪の毛が、場違いに妙に色っぽいと感じる。感じた次の瞬間、500ml缶は彼女の手に奪い去られた。
それを呷って上下する喉を、ただ放心して見つめていた。太腿に刺さったままの爪も、最早痛みを感じない。
ぷはー、と、これまた場違いな息を吐いて、彼女は顔を俯かせた。飲んだのは自分ではないのに、自分も動悸がしてくる。再度、はあ、と大きく息を吐いた後、遼乃は榴の膝に縋り付くようにしなだれ落ちた。
「ダメ、こんなの、ダメ、だから……」
脛にかかる彼女の息が熱い。驚きや、混乱や、動揺で、体が少しも動かない。鼻の上を、水滴が滑り落ちて行く。
しばらく呼吸を置いた後、遼乃はゆっくりと立ち上がった。砂利の音が、やけに大きく響く。あの日と、違う景色だ。
「ごめんなさい! 私が悪いの! 大人ぶらなきゃって、大人の立場だから頼ってもらえるって、会ってもいいって、話してもいいって、そんなことに甘えてたから、今更わかんなくなったりして、困らせた!」
泣いていた。また露わになった彼女の顔は、余計にぐしゃぐしゃになっていて、それを見なくてもわかるくらい、鼻にかかった声は途切れ途切れに嗚咽した。
「あなたが、損なんかしちゃいけない。そんなことして、捨てちゃいけない。絶対、榴くんは悪くないから。私も、他の人も! みんな、大人が、汚くて、悪いから」
遼乃の両目から溢れ出る涙は、まるで氾濫した川のようで、きっと彼女には何も見えていない。俯きがちなまま、それを少しでも抑えようと、両手で交互にかき分けている。
「嘘、ついて、無理して、意味わからないことして、ごめんなさい。隠すのとか、我慢するのとか、人に押し付けるのとか、全部、榴くんが嫌いなことだって、わかるのに、わからなかった。私は、そういうのがダメなことだって、もうわからなくなっちゃってた」
驚きが強くて、彼女の言葉は一部しかわからなかった。お互いの抱えていたであろう屈託は、彼女には正体が分かったということだろうと思った。自分には、結論が見つけられなかったことだった。
「榴くんが余計板挟みになって、もっと辛くなるのわかってても、調子に乗って言おうとしたの。遠くに行って欲しくないって。まだこれからも会って、話したいって。それって、好きだってことにだって、向き合えてなかったのに」
鼓膜の内側が、全ての血管が、内側からざわざわとざわめいていた。今まで、こんなことがあっただろうか。お酒だけの力じゃない。感情だけの力じゃない。目の前で、好きな人が、目を丸くして自分を見つめているからだけじゃない。
越えようとしている。自分がずっと捉われていたしがらみを、無理やり乗り越えようとしている。そちら側で、この人とまた笑い合いたいから。