濡れたままの傘
傘も差さずにびしょ濡れの彼をもう一度見て、気恥ずかしくて愛想笑いをするしかできない。遼乃の失言を華麗にスルーした少年は、数秒の沈黙の後、昨日拾ったんだけど、と面倒そうに続けた。
ああ、これは、少しくらいはバレている、と思った。なんだか面倒な理由で自分が変なことを口走ってしまったことも、それを一瞬にして後悔したことも。だから、スルーという選択は正しいし有り難いが申し訳なくて気まずい。本当にびっくりするくらい小さな声で感謝を述べて、傘を差し出した。
「濡れちゃうよ。傘、ないの?」
「まあ。……あざす」
ぶっきらぼうな態度ながらも、少年は何か言いたげだった。だから、なんとなく話してみようと思ったのだ。
「いつもここで縄跳びしてるのって、君なの?」
「うん。アンタは、何してんの」
「うんと……現実逃避、かな」
くす、と笑い声を漏らして、少年はなぜだか少し面白そうにしている。
「そう。俺も」
その時、自分の中の突っ張り棒が外れたような気がした。同じだったんだ。この公園は、あまりにも罪深い。こんなに逃げたい人々を惹きつけておいて、現実とは別の出会いまでも生み出してしまったのだから。
つられてにやりとした。怪しい笑みを浮かべて、びしょ濡れのジャージ姿と、くたびれたスーツのOLが対峙している。しかもこんなに雨が降っているのに。ややもすれば通報されそうなほど異様だ。けれど、その異様さがまた面白い。
「お礼したいの、明日も来るよね」
「うん、まあ、多分」
半分以上、きっかけでしかなかった。だって、こんなところでできるお礼なんてせいぜいジュースを奢るくらいだ。そんなことより、彼と話がしてみたかった。こんな雨の日ではなく、いつもの静謐な夜に。
びしょびしょのビニール袋の中身が、キラキラな財布であったとしても、気にならなかった。問題は一つ解決した。その上、明日に希望が生まれた。こんなところに来ることに意味が生まれた。それだけで、とても明るい気持ちだった。
「はい」
「……はい?」
差し出された花柄の袋を、受け取っておきながら首を傾げる。
「貸してあげる。明日返してね」
「ありがとう……?」
訝しげにそれを見つめて、数秒経ってやっと理解したと見える彼は、またちょっぴり笑った。
それじゃ、また明日ね、と。こんなに明るく大きな声を出したのはいつぶりだったろうかと思う。男の子には不釣り合いな花柄の折り畳み傘を持て余すみたいにちょこんとつまんで、彼は頭を少しだけ下げた。
あの人には悪いけど、このまま帰れる訳もない。紺のちょっと大きすぎる傘を差した姿が見えなくなったところで、榴は折り畳み傘を閉じた。
雨が降っていながら傘も持たずに家を出たことも、濡れるのも構わず公園で人を待っていたことも、見知らぬ人から傘を借りてしまったことも、彼の両親にとっては大目玉を食らわすに相当する「普通じゃない行い」だった。とは言え、濡れるのが嫌で練習をサボる程不真面目ではない――というのが、一応の部活少年としての設定だ。ランニングして汗だか雨だかわからないような状態でただいまを言えば、嫌な顔こそすれ、小言を言われることはなくなった。
さて、やはり自分は愚か者だ。こんな風に我慢すれば何事もないというのがわかっているというだけで、何も言わずに誤魔化し続けているのだから。けれどそれは、自分が大人でないのだからある程度仕方ない、と彼は思っていた。大人の本音と建前の渦巻く中で、それらを守るために使われるのは、仕方ない。自分が彼らの子供として生まれてきてしまって、こうして自我を持ってしまったのに、未だ子供であるからだ。
仕方ない、仕方ない――。
濡れたままの折り畳み傘は、きっと干した方がいいのだろうな、と一度脳内を巡ったっきり、その日彼が思い遣ることはなかった。