あの人の手で
リュックの外ポケットに手を差し込んでようやく、違和感に気がつく。センサーライトで明るすぎるほどに照らされた玄関先と違い、通りに面している居間も、もちろん二階も、電気が消えている。いくら両親同士の関係が険悪だったと言っても、榴の母親は夕食を用意することを怠ることはなかった。義務感からでなく、その方が合理的だ、と、昔からの付き合いの職場に時短で勤め続け、家事はきっちりこなしていた。
嫌な予感のようなものは、今に始まった事ではない。知性的な母親も、世間体のために離婚を我慢し、当然のように榴を巻き込んだ。自分の思い通りに行かないかもしれない不安な気持ちで、ヒステリックになったりすることは、あまり驚くようなことではない。
「…………」
人感センサーで、パ、とわざとらしい音を立てて、玄関の明かりがつく。酷く小さな人影は、俯いて膝を抱えていた。
「ただいま」
「……どこ行ってたの」
榴は幼い頃から、決して喜怒哀楽のわかりやすい子供ではなかった。今更、母親の奇異な行動にどのように反応していいかわからず、いつも通り声を出すと、彼女の声も思いの外、芯を残していてはっきりとしていた。
「匠んち。勉強してた」
「そろそろさあ」
何かもう少し説明のようなことを述べた方が良いだろうか、と続けようとした語尾に噛み付かれる。落ち着いた声色に、首筋の汗が滲む感覚がする。
「隠さなくていいのよ。そういうところ、あの人にそっくり。いまだに、私の顔を立てるようなことをわざわざしようとして、余計なことをするのも一緒」
あの人にそっくり。諦めのような、憎しみのような、言いづらそうに口から吐かれたその凶器は、榴の胸を正真正銘貫く。しかも、ぎりぎりと音を立てて、更に向こう側まで穴を広げようとするかのようだ。母親が見せびらかすように翳したしわくちゃの紙切れは、自分の部屋にあったはずのものだった。
「女の子なんでしょう。だからあの人について行くんでしょう。どうせ、あの人はあの人で、貴方を自由にするとか言って、別居してほっとくだけ。でも、そうよね、彼女と同じ大学に行って、一人暮らしして、遊べたら、楽しいわよね」
徐々に、知らない人の声に変わっていく。母親ではない。ただ、一人の女性だ。溢れてしまった感情で、目の前の少年が傷付く言葉を選ぶ女性だ。息子だからではなく、彼女にとって榴は、今、自分の敵である夫と全く同じ存在なのだ。
「ちが……ごめん……今日は、でも……」
違う。でも。そうじゃない。そんな言葉は、彼らには通用しない。わかったと言い、ごめんと言い、ただ静かに無難な子供の役をこなしているだけでよかった。けれど、嘘を吐いてしまった先日を棚に上げて、今日は嘘ではないと主張しなくてはいけない気がした。先日の嘘がバレないように。いつも迷惑をかけている匠に余計なヘイトが向かないように。
「私は榴と一緒に暮らしたかったのに」
湿った声で呟いた。榴が右手に握り締めていた家の鍵が、キーホルダーごとつるりと滑り落ちる。床にぶつかる金属の甲高い音が火打ち石となったかのように、身体が跳ねていた。玄関先の明かりがまた灯る。背中のリュックの中で、参考書が揺れて肩に襲い掛かってくる。愚かだ。そんな自分の気持ちも、想いも、希望も、いつも言っていたくせに、言わないこともあったなんて、愚かだ。無意識のうちに、とりあえず母親の機嫌を取っていた自分は、もっと愚かだ。
走り出してしばらく経ってから、走っていることに気が付いた。心臓が速く鳴り出して、耳鳴りが鳴り、ようやく脳みそがはっきりする。これは、生きるための闘争であり逃走だ。こんな時に遠くまで逃げられるように跳んでいたのかもしれない、と自嘲する。妙に軽い足が、真っ直ぐ記憶の中のあの人の家へ向かう。
このまま、逃げてしまおう。全部、無駄だった。親の顔色を窺い、嘘まで吐いて我慢し続けて、受験勉強も勤勉に取り組んでいたなんて。必要、なかったことだ。
「ごめん。上げてあげられない」
榴には永遠にも思えるような沈黙の後、インターホン越しの質の悪い音声で、彼女はそう言った。泣いているように聞こえた、と言った匠の声がこだまする。泣いているのなら、今すぐそばに行ってやりたい。何に思い悩んでいるんだ、と笑い飛ばしてやりたい。自分の悩みなんか、知らない頃の彼女に戻してやりたい。
「りょーのさん!」
「榴くん。榴くんは、自分のやりたいことを考えてみて。それがわかったら、私も協力するね。でも、しばらくは、ごめんね」
優しすぎる声。そして、暗い声。作り笑いのような吐息は、すぐに消えて余韻も残らない。腕から力が抜けた。唐突に、肩にぶら下がるリュックが重たくなる。自分の背負ってきたものだ。自分の意思で、こんなものを背負い続けた。
あの人の手で、下ろさせて欲しかった。
そう、気付いてしまった。抱え続けてきたものを、あの優しくて無邪気な笑顔に、そっと解いてもらいたかった。
汗で湿った頬を拭うと、それはもはや汗ではないことに気がつく。自嘲して、鼻を啜ると、いよいよ止まらなくなった。
そうであれば、もうこのまま、忘れてしまおう。今日のことは、何もなかったことにして、明日から、全て投げ出した橋下 榴になろう。
今度は酷く重たい足を引きずって、胸の深いところでジンジンと鳴り続けている心臓を押さえながら、歩みを進めた。




