ふつうの恋愛
「あ、いえ、この話は他の人にしませんよ。ただ、確認しておきたかっただけだし、大体わかったので。本当にそうだったらチャンスと言えないこともないからって、僕も少しガツガツしすぎました。すみません」
話が頭に入って来ない。遼乃の返事を待つ場面ではないのか。早口で弁明した坂巻のその一つ前の台詞を、まだ咀嚼できない。苦手な食べ物を下の上に乗せて顔を顰めるように、どうにも覚悟が決まらないのだ。
「どういうこと……」
引っかかる点はたくさんある。遼乃のことを見てきた。榴のことを好きなのか。坂巻のチャンスとは。彼を信用していいのか。これだけ捲し立てたら、遼乃がパンクして思考停止することくらいわかっていたかもしれないし、少なくとも今の様子を見てわからないほど坂巻は鈍くないだろう。
いつの間にか注文していたアイスティー二杯を遼乃と自分の手元に置いて、坂巻は普通の笑顔を浮かべた。作っている風でもない、何かを企んでいる風でもない、普通の笑顔を。
「横井さん。僕とデートしませんか」
下がった目尻の端に照れ臭い紅を見つけた衝撃で、遼乃は舌に乗せていた現状を全て思い切り呑み込んでしまう。そうして、理解した。
自分が榴を、坂巻が遼乃を、それぞれ好いているということを。
坂巻には完敗だ。あの後、何事もなかったかのようにごく自然に、本当に今度初めて一人で担当する業務の流れを説明することになった。なんだかんだそれほど昼休みを超過することもなく、ただ、店を出る時には、考えておいてくださいね、と釘を刺された。
午後の業務にはまるで集中できなかった。元々、土曜日のことをまだ自分の中で消化し切れておらず、頭は混乱したままだ。しかし、榴と気まずいまま、匠にも何も説明しないままでは良くない。カードリーダーの前で溜め息を吐いていると、運悪く、また坂巻と出くわしてしまう。
「狙ってる男の前で弱ってるトコ、見せない方がいいですよ」
遼乃の姿を認めた坂巻は、彼女の明らかに消沈した肩に、いつものように軽くて無難な言葉をかけることはしなかった。軽薄な笑顔も浮かべていない。代わりに、少しの逡巡の後、小さな声でそう言った。
「お、お疲れ様」
「なんですか。僕に見られただけでなく、何かあったんですか。そんな風にしてるの、ほっとけるほど迂闊じゃないんですけど」
「…………」
言っている意味がわからない。坂巻はいつも、遼乃よりもずっと周りが見えている。気が利くだけではない。自分の振る舞い方を、常に気にしている。
「デートって感じじゃなくていいですから。悩んでるなら、話聞かせてくださいよ」
「えっと……」
榴のことを誰かに相談するとしたら、高校生と一緒にいたことを知っている坂巻はそれなりに適役なのかもしれない。彼が、遼乃に好意を寄せていることを隠すこともやめたことだけは、かなり大きな障害とはいえ。
遼乃の胸の内にあったのは、高校生である榴に抱いている気持ちへの後ろめたさだけではなかった。家庭に押し潰され将来に頭を悩ませる彼に、何もしてあげられないことへのもどかしさだ。そういうことを話すのなら、自分とより近い立場の人の方が、良いのではないか。
「あっ、そう、そうだ。お昼奢ってくれたから、お返し……」
「横井さんって、僕とは反対に迂闊」
肩に腕が回されている。気が付いた時には、聞き慣れたカードリーダーの控えめな機械音。首の後ろに、す、とわずかな重みが戻る。機械音がもう一つ鳴って、自動ドアの向こう側に押し出されるようにして出て、ようやく何が起こったかを理解する。
坂巻が遼乃のIDカードを掴んでスキャンさせた。そして、肩は抱かれたままだ。
「それが僕の目的だったって、なんで忘れちゃうんですか」
坂巻の突然の行動に、唖然とするだけでなく、恐怖すら覚えているはずなのに。
彼の声色は、どうしてか、少しだけ後悔しているかのように静かだった。
「ホント、横井さんって横井さんですね」
やっぱりお酒は良くない。もちろんビールで乾杯した後、気が付いたら坂巻が目の前で溜め息を吐いていた。枝豆の殻がそれなりに積み上がっているのを見ると、また衝動で話してしまったらしい。
「何から突っ込んだらいいのかわかんないんですけど、行動すればいいじゃないですか。その子に、家庭のしがらみなんて捨てて欲しいんでしょう」
違う。否、何も違わない。違わないのに、そんな言葉が胸に浮かんで、すぐにかき消す。遠くに行って欲しくない。そう口にしたことは、坂巻に話す際には言わなかった。遼乃自身も噛み砕くことができていないからだった。
自由になった榴が、どこへ行ってしまうのか。感謝だけされて、遼乃の知らない人生を歩むんだろう。そのことが、寂しい。
「急に黙るとか、ホント、そろそろ認めた方がいいですよ」
一緒にビール一杯を呷ったはずの坂巻は、鼻頭すら赤くしていない。ひょい、と枝豆を摘んで、少しだけ躊躇うようにした後、遼乃を真っ直ぐに見た。
「その子のこと、好きなんでしょう」