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現実に突き合わす

 溜息を我慢することができない。まるで、夏前に戻ったみたいだ。吊り革を掴み続けていては疲れるのに、力を入れていると少しだけ安心する。余計なところに入った力が、抜けていくようだ。

 憂鬱な気持ちで出社すると、しかし、存外平気だった。少し前までは如何に暗い気持ちで毎日を過ごしていたかが浮き彫りになったようで、自嘲した安心感と、そのことに気が付きたくない欲求で、生唾が出た。


「おはようございます」


 自席に荷物を置いて、すぐさまコーヒーを淹れに給湯室へ足を向けると、ディスプレイの向こうからいつも通り坂巻がわざわざ顔をひょっこり覗かせてくる。


「おはようございます」


 坂巻が挨拶をするだけにも自分の顔をしっかり他人に見せるのは、今に始まった事ではない。なんだかそういうところがいちいちしっかり社会人らしくて、自分との違いにもやもやする。


「横井さん、土曜日は弟さんだったんですか?」


「え?」


 坂巻と目が合ったその一瞬、彼はタイミングを逃すまいとするかのように、ほんの少し食うように声を発する。きょとんとして、わざとらしく、いつものように飄々としているか。


「バーベキュー、雨降りそうだったからすぐ解散したんですけど、僕は買い物でもして帰ろうかなって駅歩いてて、見かけたんですよ」


 午後。買い物をするような、繁華街の駅。知り合いが歩いていても、ちょうど気づかず通り過ぎるくらいの人混み。低いままだった血圧が、一気に高まるように思考が巡り始める。


「坂巻くん、ちょっと会議の準備手伝ってくれない?」


「あ、はーい。すいません、また後で聞かせてください」


 また後で聞くような話でもない。弟だったなら。坂巻は、わかっていて言っているのではないか。曲がりなりにも数ヶ月は一緒に仕事をして、遼乃の性格をわかっていてもおかしくない。はっきり釘を刺さないと、逃げられる、と。

 先輩に呼ばれて去って行ったワイシャツの背中を見て、ふと、思う。大人だ。同じようなワイシャツでも、制服のワイシャツの背中とは違う。坂巻の背中は、それまで彼が抱えてきたかもしれない何もかもなんか感じさせない、普通の背中だ。

 それが、大人だ。



「あ、あの……」


 悪いよ、という言葉を口の中でもごもごと呑み込む。午前中、魂が抜けたようだった遼乃を、坂巻は昼休みになるなり、平然と外へ連れ出した。それも、今度の仕事のことで相談事があるというような誰もが気にも留めないそれらしい理由を、フロアの人にわざと聞こえるように言ってオフィスを出た。

 考えることが多すぎて坂巻の手際の良さに突っ込むこともできずただ背中を追いかけて行くと、気軽に入れてランチに人気なカフェだった。奢りますよ、お世話になってますからー、とわかりやすく棒読みで口にした坂巻は、適当な席に陣取る。


「あの、坂巻くん、土曜日のは……」


 弟だよ、と言おうとした遼乃を遮って、坂巻はにこりとアルカイックスマイルを浮かべる。


「ご飯の後にしましょう。ゆっくり。午後は遅くなってもいいって課長にも許可はとりました」


 仕事の話、じゃないのに。坂巻がいくらしっかりしていると言っても、そんなことまでして遼乃の話をゆっくり聞きたい意味がわからない。混乱しすぎて、すぐに運ばれてきたグラタンも味がしなかった。食事が速い方ではないが、おそらく、完食することだけ考えて物凄い速さで食べた気がする。

 坂巻は、どこを切り取っても、まるで円満な家庭の日常の食卓についているように、違和感がまるでない。別に仕事の相談もない、仲が良い訳でもない、仕事の先輩をこうして勝手にランチに連れ出して、勝手に奢ったりしているのに。お互い言葉も交わさずスプーンを進めて、遼乃が完食して顔を上げると、ちょうど坂巻も食べ終えていた。


「僕、横井さんのこと結構見てるんですよね」


 仕事的な意味で。そう捉えたと表明するために返事をする前に、坂巻は更に続ける。


「今朝はカマかけただけだけど。弟さんじゃないんですよね。でも、高校生でしょう」


 落ち着こうと、水のグラスを掴んだ右手に力が入らない。結露か、汗か、手の内側がびしょびしょになっていると気づく。


「横井さん、わかりやすいですよ。ヤバいって顔してる。責めるつもりとかじゃないから、そんな焦らないでください。でも、僕も一言申したくはあって」


 ごめん、じゃない。なんで、じゃない。何も返すことができない。それを認めたところで、自分や坂巻に何の意味があるのかもわからない。爽やかな好青年の皮を被って、けれど言いたいことは言える時にズバズバ言う坂巻が、息をつく暇もない程に言葉を並べ立てる。全然、思考が追いつかない。


「こないだの反応から、土曜日の予定は男かーって結構残念だったし、それなら仕方ないなと思ってたけど、それが高校生ならちょっと訳が違うじゃないですか。彼氏な訳ないけど、じゃあ、なんなんでしょうね」


 榴が高校生であることは、隠しようがない。坂巻に攻撃されて、それらしい誤魔化し方をしたところで、もう既に態度では少しも誤魔化せていない。


「知り合い、で、オープンキャンパス、付き合っただけで」


 声が震える。水を飲みそびれた喉が張り付く感覚がする。こんなに動揺していては、言葉にできない関係であると言っているようなものだ。それなのに、堪忍して正直に話そうともできない。それは、遼乃自身が一度は口にしているし、わかっていることのせいだった。


「好きなんですか? あの子のこと」


 責めているわけじゃない、と言いながら、坂巻の語気は強い。逃れられない強い視線で捉えられて、舌先に溜まった唾を飲み込もうとする。うまくできなくて、喉がきゅ、と鳴る。

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