見栄の応酬
言いたいことは山程ある。ムッとしたり溜息をついたり俯いたりを繰り返して、ようやく彼の伝えたいことがそれだとわかった。自分の着てきた服がなくなっていて、遼乃の用意したしっかり男物のスウェットを着る他なかったこと。無理やり自分をシャワーに押し込んだくせに、自分はドライヤーで済ませていること。知らないうちに、榴は匠の家に泊まることになっていたこと。彼なら、全部に文句を言いたがるだろう。
「早いうちにお家に電話しなよ。匠くんなら大丈夫でしょ」
半笑いになってしまうことに気が付いて、完全に仕事を失敗したモードになっている遼乃は心の中で苦笑いをせずにはいられない。できるだけ榴が気を遣わないようにしたかったけれど、やはりそれは無理らしい。榴は数分間唸り声だけを上げた後、ようやく答えてくれた。
「……こんな迷惑かけさせなくても、アンタと会う理由がなくなったりしないだろ」
あー違う、間違えた、と、いつかみたいにまた頭を振る。半乾きの榴の頭から、今度は本当に飛沫が飛ぶ。
「正直、限界だったと思うから、感謝はしてる。……けど、りょーのさんが面倒だろ。面倒だし、本当は嫌だろ。こんなの……」
榴は優しい。捻くれたことを言ってしまっても、いつも訂正してくれる。それは、きっと最初から、遼乃がきちんと言わなければわからない人間だとわかっているからだ。そうやって元彼との恋愛を終えたことを話したおかげだ。
「面倒、かもしれないけど、本当は嫌なんてことない。気にしないでって言っても気にするんだろうけど、いいの。……辛かったんでしょ、今日も、ずっと」
面倒、という言葉にたくさんの言葉が集約されている。それを繙いて事細かに述べることこそが面倒だからだ。勿論、怖い。親との軋轢を恐れているような態度を見せた榴に、ここまで干渉して、本当に彼のためになるのかなんてわからない。
「……親、なんだ。親が、嫌で」
体育座りをして、自分を抱き締めるように腕を組んで、それでいて、視線は合わせてくれなくて。そうでもしないと、榴はそこに居られないのだろう。本当は、不安なんだろう。
「中学入る頃、両親が不仲だって気付いた。多分、ずっと隠してたんだと思う。だんだん俺に隠そうとせず言い合うことが増えて、当たり前のように、俺が高校卒業するまでは離婚しないからって言われた。昔は家族が仲良かったかどうかとかはわかんないけど、正直、今でも全然受け入れられてないし、そっから先も地獄で」
榴が、母親のことを口にして目を逸らした理由。親が厳しいんだろう、とその時は思った。けれどこの口ぶりからしても、彼が本当に嫌っているのは、それで自分が不自由になることなんかじゃない。
「当然、どっちに俺がついてくって話になる。二人とも、外面のために子供の親権が欲しくて、だから俺の進路にも口を出す。母親はこの辺の大学が良くて、父親は一人暮らししろって。父さんは、なんだかんだ一緒に暮らしたいわけじゃないんだろうな」
榴には屈折しがちなところがあると既にわかっているとはいえ、彼なりに善意を持って考えて考えた結果だろう。憎しみよりも虚しさを湛えた静かな声が、かえって痛々しい。
「どっちでもいいんだよ。巻き込まないで欲しい、って気持ちが強くなった。俺自身にやりたいこともないけど、母親にも父親にも、お互いの対立の道具に使われるのは御免だ」
俄に、その肩を抱いてやりたくなる。榴は、両親に子供として愛されない悲しみのその向こうにいる。本当は寂しさだって感じていたはずなのに、そんなことよりも平穏を望む気持ちで、今苦しんでいる。
思わず伸ばした手は、先に掴まれて止められてしまう。どこに触れるかも考えないままに、迷いばかりの遼乃の手なんて、榴にとっては本当に大人らしくないものだろう。
榴はそれまで、魂が抜けたような表情をしていたのに、少しだけ悪戯っぽく笑った。年相応の男の子らしい表情に、どきりとする。どきりとして、だんだんと彼に掴まれた手が熱くなる。滲む手汗が気持ち悪くて手を握り締めようとすると、その中には榴の大きな手がある。
「どうしようもないだろ。でも、俺には家を出てやるって言うような熱意も勇気もないんだよ」
その笑みは自嘲に変わって、そっと手が放される。緩慢な動きで立ち上がってリュックを漁る彼の姿を追いかけることもできず、今度は遼乃が茫然としてしまう。
「ごめん。うん、そう。その後、匠ん家で勉強してて、雨降ってきただろ、ご飯ご馳走になることになって。うん。ごめん。それで、泊まっていけばって。うん。わかってる。わかってるよ。迷惑はかけないようにするから。うん。それじゃ」
何度もごめん、とわかってる、を繰り返すのは、うるさい親に対する場当たりの態度のようなのに、榴の声色はあまりにも柔らかい。彼が如何に波風を立たせすぎないように暮らしてきたかが推し量られてしまう。親と不仲でもないし、大きな喧嘩も記憶に残らない遼乃では、榴に何も大きな顔なんてできない、と思ってしまう。大人なのに。六つも年上なのに。