剥き出しで擦れ合う心
ガチャン、といつもの音で玄関の扉が閉まった時、俄に右手に掴んだ人肌の温もりに違和感を覚えて、ぱっとそれを手放した。玄関に押し込むように先に上がらせた少年の濡れた前髪を伝って、鼻筋を水が流れて行く。遼乃が放したその手で、ようやく前髪をかき上げた。
「た、大変、ごめん、すごい雨だったから、うち、すぐそこだし、急に走っちゃって……」
今日一日、心ここに在らずと言った風だった榴の瞳は、いよいよ、年相応に何かに心を揺らされているかのように、焦点を合わせず揺れている。自分のした行動に動揺し切っている遼乃の背筋が、唐突に寒くなる。変な汗が出始めるのと、榴が蹲るのはほぼ同時だった。
「……榴くん?」
「……ごめん。りょーのさん。ちょっとだけ、ほっといて」
つられてしゃがめば、玄関の床は既に滴った雨水で随分濡れている。榴は自らの腕の間に顔を埋めて、じっとして音も立てない。時折、ピクリ、と背中が動く。ほっといて、と言われた手前、泣いているであろう榴を気遣いすぎる訳にもいかない。自分のワンピースも雨でびっしょりだったことを思い出して、彼を置いて遼乃は部屋へと上がる。玄関の外では、雨樋が滝のように雨水を流している音が、雷が鳴り続けているみたいに低い音を響かせていた。
どれだけ時間が経ったろうか。暗い雨雲に覆われたままとはいえ、外はすっかり暗くなってしまった。全身を拭いて、着替えて、全てを片付けてから、タオルを持ってそっと玄関の様子を窺うと、榴は玄関にべったりお尻を下ろしていた。
「……風邪引いちゃうよ」
そんな風に、大人に迷惑をかける子じゃない。そう思ってタオルを未だ濡れている頭に乗せてやると、大きく鼻を啜る音だけがした。
「私が連れて来たから、帰れとか言わないから、ゆっくり話してよ。……シャワー、浴びてって」
遼乃も、何かの衝動につられてこんな行動をしてしまって、混乱していた。きっと、榴はもっと混乱している。今日は、ずっと何かに悩んでいたのに。余計な刺激を与えてしまったかもしれない。
「…………」
ゆっくりと顔を上げた榴は、乱暴に手のひらで顔を拭った後、頭に乗せたタオルで髪をわしゃわしゃと拭う。そして、真っ赤な目と鼻のまま遼乃を見上げる。焦点の合わない目はそのままに、彼の目の奥には何か強い気持ちが浮かんでいる。
「そんなこと言ったら、俺、本当に帰らないかもしれないよ」
掠れた声の響きは遼乃を責めるようで、初めて聞く強い語気に、遼乃も少し慄く。けれど、こんな榴を放って帰すなんて、それこそできない。
「私はいいよ。落ち着くまでずっと待つし、榴くんが話したくなるまでずっといていいよ」
胸の端っこがちりちりと痛むのは、二人が男女で、高校生と社会人だからだ、と遼乃は気付いていた。大丈夫、私は大人だから。そして、彼は子供だから。お互いが一番に認めたくない属性で塗り潰しておけば、何も怖がることなんてない。ないはずなのに、遼乃を守ろうとするような榴の態度に、何も感じないほどには防御を強く固められない。
「……ごめん」
「ごめんじゃないよ」
帰らないかもしれない、と言ったのは榴なのに、榴は謝る。謝るということは、帰りたくないことを隠さなかったということだ。少しでも榴が抱えたものを聞いてあげられるかもしれない。そんな淡い期待で、そして、これでもう終わりという寂しさを覆う欲望で、彼の手を引いてしまった。
榴は言われるがままに身体を拭いた後、浴室に押し込まれてくれた。かなり迷ったけれど、衣装ケースに入れたままだった男性もののスウェットと下着を脱衣所に出しておく。彼が律儀に空のカゴに畳んで入れたずぶ濡れの服を、勝手に洗濯機に放り込んで、自分のものと一緒に洗った。榴は、子供だから。お母さんに洗ってもらってるし。じゃなかったら、困っちゃうだろうし。
濡れた髪だけリビングで乾かした後、居ても立っても居られなくなる。どういうことだ。どういう状況だ。お前が悪い。お前のせいだ。自分がしてしまったことで榴がどうなるかを考えると、仕事で失敗をしてしまった時以上にどうしようもなく目の前が真っ暗になる。そうだ、とLINEを開いてかけた電話は、思いの外すぐに繋がってくれた。
シャワーの音は、先程まで扉一枚の外側で聞こえていた雨音のようで、酷く落ち着く。家でも、浴室にいる時が一番落ち着く。ここから出なくても良ければいいのに。遼乃に迷惑もかからず、自分がどこに居ようと誰も気にしなければいいのに。それが一番、気が楽なのに。
叶いようもないことばかり頭に浮かぶのは、自分の中で限界を超えて溢れてしまった不満や不安のせいだ。遼乃が今日はすごく気を遣ってくれたことは嬉しいと感じたのに、彼女がほんの少し寂しそうな顔をしたことが、何故か自分の心を酷く痛め付けた。
大人はバカだ。その中でも、アンタは大バカだ。心の中で、遼乃を罵ってみる。同時に、自分が自分を更に強い言葉で罵り始める。
最初からわかっていたのだ。大人と一括りにすること自体が誤っていた。遼乃という一人の人間を、大人の割に大人らしくないから、気楽で信用できる、と扱っていたこと自体、あり得ないほど失礼だった。
温かいシャワーを、無駄に筋肉のついた身体に浴びせる。無駄だ。自分なんかに執着させることは、本当に無駄だ。なのに、何故彼女を拒絶できないのだろう。




