歩くような速さで
席を譲った榴は、図書館に行った時と同じリュックを胸側に提げて、物珍しそうに車内広告に目をやっている。電車の強い冷房が額の上を通り抜けて前髪が崩れるのを気にして、榴のことを見つめ続けるのをやめた。
人生で初めて自分以外の人のためのオープンキャンパスに行くのに、久しぶりに私服を着ることになり、どのくらいのおしゃれをしたらいいのかわからず、榴と公園で落ち合うまで生きた心地がしなかった。現れた榴も、制服でもジャージでもない私服で、一瞬どころか十秒くらい思考が止まった。シンプルなTシャツにチノパンの榴は、眩しいくらいにまだ若い男性で、坂巻よりももっと年下だということを思い出させた。
そして、また失敗した、と思うのであった。榴がこんな風であるなら、かえって、大人らしい服装をして来た方がよかったのだと。
久しぶり、と声をかけ合った後、以前通り無口な榴とはここまでほとんど話をしていない。電車は座席がちょうど埋まるくらいの混雑具合で、わざわざ声を張って会話をするほどでもない。榴の日焼けした片腕が腰の辺りでぶらぶらしているのを、何とも言えない気持ちで見つめていた。
「応用化学科……って、何やってるんだろうね」
「な、なんか、すごく変わってそうな先生だったね」
参ってしまった。まずはここからと学部案内を聞いた後、自分は絶対に適任ではなかったと遼乃は気がついた。榴は理系志望と言っていたのだ。なんとか科学科と言われても、全くピンと来なくて、気まずさを誤魔化すためのくだらない話しかできない。
「次……」
「そろそろ休憩する? あっちの方に、自販機あるみたいだけど」
榴はあまり気にしていない風で、至って真面目に学科案内、研究室案内、体験授業を回って行く。どこもかしこも混雑していて、余計にちょっとした話をするタイミングもない。
少し疲れている風に見えた榴に提案すると、何かに気づいたように立ち止まり、小さく頷いた。
中庭の裏の自販機とベンチだけの休憩スペースは、穴場だったのか、オープンキャンパスの喧騒からは隔絶されていた。もうお昼前だけど、この様子だと、無料で食べられる学食は本当に混んでいそうだ。きっとあの公園に屯していた同士である榴は、人混みは苦手だろう。
「何かピンと来た話はあった?」
「うーん……」
水筒を持参していた榴はやんわりと飲み物を断ったので、遼乃は自分の分のお茶を買って隣に座る。水筒に入れられた氷が、カラカラと高い音を響かせるのだけが、高い吹き抜けに伝わっていく。
なんだか、少し違和感を覚える。いくら榴が無口と言っても、今日はあまりにも反応が薄い。遼乃が笑いかけても、無視はせずとも頷いたり首を振ったりするのみだ。
「榴くん、この大学、興味あった訳じゃなかった……?」
うーん、とまた繰り返して、水筒の蓋をキュッと閉める。髪をかき上げるように二、三度頭をかいた後、榴はようやく遼乃を向いた。
「わからないし、考えてもいなかったから来たけど、全然頭に入んない。りょーのさんには、申し訳ないことしてるかも」
低く這うような声は、しかし慎重な響きで、窺うような、気遣うような小さい震えを纏っている。これは、榴の本音だ、と気がつく。今までずっと、少しだけ見えてもすぐに隠されていた、榴の本音。潜められた眉根は、自責の念が込められているんだろう。
「ううん。まだ、ゆっくりで良いんだと思うよ」
取り繕うわけじゃない。榴がオープンキャンパスに誘ってくれた理由は、少しだけわかった。彼は焦っているんだろう。以前、進路を聞いた時にも歯切れが悪そうにしていた。わからないままでいることに、向き合おうと焦っている。
少しだけ表情を緩めた榴を見て、購買で昼食を買って外で食べようと誘う。中庭の更に向こう、正面玄関の反対側に、居心地の良さそうなオープンスペースが見えたから。その後、午後も榴は黙々と見学を回り続けた。
「今日、ありがとうね」
「え、なんで」
「だって、楽しかったから。……ちょっとは、考えられた?」
榴はあまり元気がないような、ぼーっとしたままだったが、二人の最寄駅からなんとなくいつもの公園に向けて歩いているところで、唐突に感謝を言いたくなった。今日一番、目を見開いた榴は、やがて柔らかく笑んだ。
「……うん。りょーのさん、ありがとう」
立ち止まった榴を振り返って、その笑顔を見つけた途端、遼乃の胸がいっぱいになる。良かった。榴のことを少しでも救うことができた気がする。これで、借りは返せてしまったろうか——。
ゴロゴロと、空の向こうが鳴る。はっと辺りを見渡した次の瞬間、大粒の雨がぽつりと降る。
何故だかは、わからない。わからないと言うのは、嘘かもしれない。ほんの少しの寂しさを感じたその瞬間だったからかもしれない。遼乃は、榴の腕を掴んで走り出していた。




