どろどろ回避
最悪だった。そんな言葉は、すっかり湿ったストッキングとパンプスの隙間が蒸れて気持ち悪いというだけでだって吐ける。つまり、最悪なんて安い言葉だ。その安い最悪の中でも、特別に最悪な一日だった。
失くした財布は見つからないまま、同僚が不在で仕方なく、苦手な上司に頭を下げてお金を借りた。返せる見込みもまだない。口座を開いて以来使っていない通帳の行き場も、キャッシュカードの再発行の方法も、考えるに至れない程に打ちのめされていた。
脳内には、どこかで落とした財布――つい先日別れを告げられた恋人からの最後のプレゼントだったちょっと良いブランドの財布が、今日の大雨で泥まみれになっている様がずっとこびりついている。もう、見つからない方が嬉しいとまで思っている自分がいた。だって、あんなキラキラした財布を見ても、悲しくなるだけなのだ。それよりも、キラキラしていたあの財布がどろどろになって、ぼろぼろになって、中身もいくらかなくなっているとしたら、今の自分みたいでもっと嫌だった。
それでもあの公園にやってきていた。最後に財布を使ったのは昨晩、駅前のスーパーでビールを買ったときだ。その後はこの公園に寄って、ベンチで数十分を潰して、真っ直ぐアパートに帰った。財布がないと気づいたのは、今朝の駅だった。普通に考えたら、公園に落としていると思うだろう。だから、見つからなくていいなんて見栄を張るのにも疲れ切ってしまった身体が、自然と公園に足を向けたのだ。
強い雨音に遮られて、足音は聞こえていない。それでも、傘を傾げるといつもの街灯の下に人影があるのが見えた。昨日目が合った――高校生くらいの男の子だろうか。それだけ認識して、昨日座ったベンチに目を遣る。当然、木の板でできたそれに雨粒が反射するのみで、何もなかった。
そう、当然だ。財布なんてこんなところに落としたとしたら見つからない。こんな暗くて人気の少ない場所で綺麗な財布を見つけたら、自分が不良だったらくすねるだろう。そう自分に言い聞かせるようにして、遼乃は公園を後にしようとした。
「あの」
敷き詰められたジャリジャリの砂は水はけが悪いのか、水溜まりが多すぎて、パンプスは更に水浸しになる。それに顔をしかめるのに精一杯だった彼女には、雨音を煩わしいと思わないように聴覚をシャットアウトすることしかできていなかった。
「ねえ」
傘は垂れる。当然、目の行っている足先を守ろうとする。それは最も無駄なのだが、自然とそうなってしまう。自分を認識しないまま通り過ぎようとする彼女を、榴は腕を掴んで引き止めた。
驚いた。無防備だった。ネガティブなことを考えるくらいならと、無心で部屋に帰ろうとしていた。その帰路では、足元も服ももっと濡れるだけで、何も良いことはないのだから。ポジティブになったって、自分の望む形で財布が見つかることなんてないのだから。
昨日の男の子だった。訝しげとも呼べるくらい眉を潜めて、はあ、と息を吐いた。濡れて垂れ下がった前髪から滴る水が、顎を伝っていった。
「……これ、違いますか」
びしょびしょのビニール袋の曇りの向こう側に、見慣れたカラーレザーが覗いている。彼が差し出したそれと、彼の顔を見比べて、遼乃は唇を震わせた。
混乱していたのだ。これ以上へこまないために、考えることをやめていたから。
「ち、違うんです! もう、要らないから!」
は? と、反射で返事しなかったことを褒めてほしい。けれど、これだから大人は、と思わなかった。それは、彼女を大人だと認識していないのか、その泣きそうな顔が昨晩の様相と相まってあまりにも痛々しかったからなのか、その一度では判断がつかない。
もう一つ、今度は大きく息を吸って、胸に空気を溜めて言葉を選ぶ。
面倒なのは、大人らしいな、とも思った。