掌編:仮面の行進
毎日。変わらない毎日。
それは、苦痛のはずである。同じことを繰り返せば、それだけ自分のやっていることの目的意識を失っていく。
古い拷問にこんな物がある。大きな石をある地点から、ある地点に運ぶ。そして、元の地点に戻す。何も変わらない毎日は本質的にそれと全く変わらない。社会への承認欲求が満たされるならそれも、それでいい。
戻すたびに、それが大きな業績となり、それを褒め称える人間がいる。そうであるとすれば、それは、拷問ではなくなるのだ。誰かに認められ、誰かに声をかけてもらえる。それだけで、世界は少しだけで違って見えるのだ。
しかし、大半は違う。褒め讃えられるのなどほんのひと握り。それ以外は、目にも留められず、ただ同じことを繰り返す。空虚なはずだ、だというのに今日も同じことを繰り返している。
「~をやって。」
「~を頼んだ。」
仕事の場では、こう言ったセリフが飛び交う。頼まれたとして、やるところが違うだけでやる事自体は同じ。そして、それが成ったとして、それは仕事でやっているのだ。それは、金に変わっているのだ。誰も褒めることなどない。
拷問だって変わらない。
「~に運べ。」
「~に戻せ。」
それを、成すことでもっと過酷な拷問に課せられることを避けることが出来る。それが報酬だ。当たり前に、それを褒め称える人間などいない。
報酬より、欲しい物があるというのに、誰もそれを与えてくれない。
あるいは、与えてくれるかも知れない。欲しているその言葉を、だけど、それを褒めているのは貧相なボキャブラリーと希薄な感情表現。つまりは、褒め言葉はマンネリ化するのだ。
そんな状況で、毎日、毎日。何故、やる気になるのだろう。何故、辛くならないのだろう。そのくせ、誰も彼も言ったことを守らない。言うだけ言って、後は放っておく。
社会なんてそんなもんだ、と言われた。
そんなものなら、何故やめてしまいたくならないのか、理解できない。
社会という巨大な拷問装置の中で、拷問官も、虜囚たちも、なぜ笑顔でいれるのか理解できない。
それが、不気味で、まるで仮面のように見えて。
不気味な、仮面の行進は今日も続いていく。