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小噺35 新年の挨拶

作者: 黒田

 ページに薄く頼りない紙の栞を挟み、本を閉じて僕は顔を上げる。

 お揃いの色のコートに身を包んだまだ若い男女が僕のいる店の前を通っていた。奥を歩く男性は黒く大きなキャリーバッグを両手で押して、女性は小さな子どもを抱きかかえていた。長く新幹線に乗って疲れたのか、子どもは女性の腕の中で口を開けて眠っている。


 さっきまで白く湯気を出していたカフェラテは、しかし今は落ち着いた様子で薄茶色い顔をコップから覗かせている。僕はコップを手に持つと、それでも恐る恐る少しづつカフェラテを飲んだ。コップを手にした時、指先にまだほんのりと熱を感じたからだ。だけど、それは僕の指が冷えていただけであってカフェラテは飲みやすい温度だった。


 京都駅の二階。土産屋が両脇に並ぶ通路。その通路に面した小さなカフェで僕はいま時間を潰している。いや、潰すというよりも耐えていた。姉が来るまであと30分以上ある。左腕の腕時計は僕の気持ちを知っていて、わざとゆっくりとすまし顔で針を動かしているようだった。「何だい?何回、私を見ているんだい?」とにやにやと意地悪な笑顔をして。


 時計から顔を上げて人や荷物の行き交う通路を僕はぼんやりと眺める。僕の座っている席は薄いガラスを1枚隔てて通路に面している。自然、僕からはガラスの向こう側の様子がよく見えた。ま、向こうからも僕のことが丸見えだけど。


 大きな荷物を両肩に下げていく若い男たち。金というより薄いベージュ色の髪を整髪剤でしっかりと固めて颯爽と歩く若い男。小さな男の子と手を繋ぎ、でも本人も不安なのか周りをキョロキョロと見渡す女の子。小さな画面から目を離さない女を嫌な顔をして避けるサラリーマン。半そでの外国人旅行客。

 ガラスを一枚隔てているだけなのに、彼らと僕とでは住む世界が全く違う錯覚を覚える。見えているものも、物事の捉え方も。同じ人間なのに。

 いや、錯覚でなく本当に彼らと僕は違う世界の存在かもしれない。むしろ、僕の方が普通でない方の住人なのだろう。事実、僕は今まで彼らが思う「普通」じゃない生き方をしてきた。





 



 小さく音が聞こえる。でも何の音か分からない。その音は途切れることなくずっと続く。突然、ガタンと音がした、と思うと僕の足の方が眩しい。僕が思い出せる中で一番古い記憶。

 泣いていた、と後で那智(なち)さんから聞いたけどきっと僕は驚いたのだ。突然、静寂が壊されて。心の準備ができていなくて。まだそこにいたかったのだ。

 那智さんは新宿駅のコインロッカーからまだ赤ん坊だった僕を引っ張り出して、保護してくれた人だった。


 「驚いたよ」

 昨夜、僕のアパートに「新年の挨拶に」と言って突然、訪問した那智さんは昔のことをアルコールで紅潮した顔をして話した。

 「いやさ、何日も鍵の掛かったロッカーがあったから変だと思ったんだ。それでこっちも商売だからさ。で、開けて中を確認したんだ。すると、君がいたんだよ」


 那智さんは50をとうに超えている。けれど、頬は艶があってお酒が回るとピンク色になり少し色っぽい。生え際がかなり後退しているけど髪は黒々として白髪が一本もない。笑うと眼鏡の奥の丸い目が少し細くなる。日の光を見て眩しいように、顔をくしゃっとさせて笑う様子は可愛らしい。


 「警察に抱いて行っても結局、親は見つからなくてさ。それで僕が君を引き取ったんだ」

 だいぶ前に聞いた話を那智さんはまた繰り返している。でも、僕は目を細めて笑った顔を作って黙って聞いた。那智さんは下戸だから、酔いが醒めると何を話していたか忘れてしまう。で、また酔った時に同じ話をする。それも、このくりくりとした目をもつ男性の愛嬌の1つだった。


 「え?どうして引き取ったんだって?なんていうか…そのさ…笑わないで聞いてくれよ…。うん…。もちろん、慈愛とか道徳とかそういったことも考えたよ…でもさ…うん…なんていうか…これは…運命…っと思ってさ…」

 僕を見ているのか、後ろの壁を見ているのか那智さんの目はさっきから定まらない。くりくりした目を行ったり来たりしながら、那智さんは続ける。


 「ほら…テレビのドキュメンタリー番組で…こういう体験がたまに取り上げられるじゃない。その時、軌跡だとか、運命だとかって言うけど…それと同じなんだよ。君と一緒に暮らすまでさ…僕は彼らと違う世界に住んでいると思っていたんだ…だって、普通ありえないでしょ。ロッカーから子どもなんて!!(ぐいっとコップの中のビールを飲み干して那智さんは続ける。そろそろ、那智さんは限界だ)でもさ、その「普通」って簡単に壊れるもんなんだよ、君を抱いたとき僕は感じたんだ…壊れる…?違う…思い込んでいた?でも…うん…ううん(ぐらっと前に倒れそうになったので僕は慌てて那智さんの身体を支える)…とにかく…受け入れた…そうすると何かよく分からないけど…力が出て来たんだ…大丈夫さ、うまくやれるって…」


 お茶の入ったペットボトルを差し出すと那智さんは嬉しそうに、顔をくしゃっとして「ありがとう」と言ってゴクゴクと飲んだ。「ふうう」とため息を漏らして横になる。同時にすーすーと小さく、でも、当分起きないことを僕に示すようにして那智さんは眠りに落ちた。








 僕の前を人々が通り過ぎていく。駅の出口に向かう人の数がさっきよりも増えた気がする。腕時計を見ると姉の到着する時間だった。僕の前を通り過ぎる人々は、どうやら東京からの新幹線に乗っていた人たちのようだ。

 「(そら)ちゃんが今日、来るんだ」

 新幹線の改札口を前にして那智さんは「そうそう」という言葉に続いて僕に告げた。

 「そう、じゃあ待っているよ」


 それで僕は姉が来るのをこのカフェで待っていた。たいして驚かないのはきっと僕の中の「基準」がおかしいのだ。「普通」というのが彼らの-大きなリュックを背負った男やしゃんと背筋を伸ばして歩くスーツの女性-基準なら。


 「物事はこうでなければいけない」「こうあって当然だ」。それが彼らの世界の「普通」ならば僕にその基準はない。きっとどこかに置いてきたのだ。たぶん、あのロッカーの中に。


 「みっちゃん」

 声の先を見ると、空ちゃんが立っていた。青い瞳-(そら)という名前の由来、空ちゃん自慢の瞳-をして僕を見て笑っている。

 「気づかなかったの?」

 向かいの席に座り、おもしろそうに空ちゃんは僕の顔を見る。

 「うん」

 突然、隣に姉が現れても僕は驚かない。それよりも久々に空ちゃんに会えたことで僕はとても嬉しかった。


 窓ガラスの向こう側は相変わらず、人々が行き交っている。向こう側の世界は相変わらず「普通」だ。忙しそうに、楽しそうに、慌てているように、人々はそれぞれの場所に向かっている。

 彼らをちら、と視界の隅に入れて僕は冷えたカフェラテをぐっと飲み干した。

 

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