前編
どうしてあのとき、うなずいてしまったのだろう。
きっと、あたしの肩を抱き寄せた彼の手が、ふるえていたからだ。だからあたしは。
ひとりでコンビニ弁当を食べたあと、共用リビングで、ぼーっとテレビを見ていた。大きな声の芸人さん達がわれ先にと派手なリアクションをしているのが目に入るけど、脳みその上をするするすべって、まったく内容がはいってこない。
ソファのうえに体育座りして、ひざの上にあごをのっけた。明日も仕事だと思うと憂鬱になる。いま、歌ちゃんのお風呂待ち。一番風呂の沢木さんはもう自分の部屋に引っ込んでしまったし、野村くんは今日も仕事か、あるいはジムに寄っているのかもしれない。
折原くんは……。
ドアの開く音がする。心臓がどきんと跳ねた。
帰ってきたみたい。思いっきり息を吸い込んで、胸に手をあててみるけど、心臓はぜんぜん落ち着いてくれなくて、とくとくとくとく小鳥みたいにせわしなく動きつづける。どうしよう。
「ただいま、です」
折原くんはリビングをのぞきこんで、ぺこん、と頭をさげた。
「陽乃さん」
「は、はい」
「みの虫みたいになってますけど。風邪でもひいたんですか?」
「風邪はひいてません。風邪の、予防」
これはいわゆる「着る毛布」というやつです。去年の冬、セールしてたのを試しに買ってみたら、手放せなくなってしまったんです。あたし、けっこうひどい冷え性なので。暖房代の節約にもなるし。ああ、でも折原くんがここに入居したのは今年の春だから……。はじめて見るんだ、毛布にくるまってるあたし。しまったな。
折原くんは、すとんとあたしの隣に座った。彼の巻いたオリーブグリーンのマフラーから、晩秋の夜のにおいがする。
「遅いね。バイトだったの?」
折原くんはうなずいた。ごはんは、サークルとバイトの間の時間に食べてきたって。
あたし。いちおう、折原くんが帰ってくるの、待ってたわけで。だって、お試しとはいえ……。その、つき合うことになったわけだし。おかえりぐらいは言いたいなって。
正直。まったく想定外の展開だった。折原くんがあたしのことを、その。
まだ学生さんで、十九歳で。だけどしっかりもので、あたしにごはんをつくってくれたり料理を教えてくれたりする、やさしくてたよりになる、かわいいルームメイト。そんな存在、だった。
好きですと告げた彼の、低い声を思い出すと顔がかあっと熱くなる。
おためしのおつき合いをしてください。一か月間の期間限定で。それでいいですかと彼は言った。思考停止したあたしは、ただうなずくだけだった。
「あー、つかれた」
ぐったりとソファにもたれかかった折原くんが、首を回して肩を上下にゆすった。
「忙しいの?」
「レポート提出が続いてて寝不足なんです。学祭準備もあるのにバイト休めないし」
「……折原くん。マフラー、とって? コートも脱いで」
顔にはてなマークを浮かべつつ、折原くんはあたしの言う通りにした。
「あっち向いて」
「? はい」
あたしに背を向けた折原くんの、肩をそっとつかむ。細そうに見えて、結構骨っぽい。
「は、陽乃さ、」
「うわー。すごい凝ってるよ?」
ぐいぐいと、折原くんの肩を揉んだ。薄手のニット越しに、肩甲骨の間をぐりぐり。
「気持ちいい?」
「かなり」
男の子の肩だな、と思う。広くて、揉んでいるとあたしの手は痛くなってしまう。もちろんこれまでも、彼が男の子だってちゃんと認識していたわけだけど。なんというか、あたしが女で、彼が男で、っていう……、感覚では、なかった。あの時までは。
どたどたと、廊下を踏む騒々しい足音。やばい、とあわてて手を放した。
「おまたせー。陽乃サン、風呂空いたよー」
「あ。は、はい」
濡れた洗い髪にタオルをかぶった歌ちゃんが、ダイニングへやって来て冷蔵庫を開けた。ぷしっと、缶のプルタブを起こす音がする。
「ふいー。この一杯がたまらんなー」
「歌子さん、野村さんよりよっぽどおっさんくさいですよ」
「げー。やめてよ、アイツと一緒にすんの」
チャンネル変えてもいい? と、歌ちゃんは発泡酒片手にリモコンをいじっている。
「つーかさ」
「な、なに?」
テレビから目を離して、歌ちゃんはあたしたちをじろじろと見た。
「ん。なんでもない。なんでふたりして顔真っ赤にしてんだろって思っただけ」
黙り込むしかなかった。思いっきり態度に出てしまっていたみたい。
ルームメイト同士の恋愛はとくにルール違反ってわけじゃない。というか規定をつくっていない。だけど、そもそも恋人を部屋に連れ込んだり泊めたりといったことが禁止。だから恋人がいるひとは外で会ってるし、あたしもそうしてきた。もしも、折原くんと、これからもきちんとおつき合いを続けることになれば……、まだわからないけど……、その。みんなに迷惑をかけないようにしなくちゃいけないと、思う。
「あ、あたし、お風呂行ってくるね」
「あ。おれも、部屋戻ります」
ぎこちなく立ち上がってリビングを後にする。折原くんの部屋は二階。あたしは一階。おやすみを言って階段を上ろうとした折原くんが、ふと足を止めて、陽乃さん、とあたしを呼んだ。
「お風呂、今からなんですよね? よかったら、一緒に、銭湯に行きませんか」
着替えなど、もろもろ準備して。ふたりして家を出た。
「さむい」
「さむいね」
くちぐちに言って、笑いあう。吐く息が綿菓子みたいに白い。近所にある銭湯は、ゆっくりと足を伸ばしてお湯に浸かりたい日とか、よく利用する。街中にひっそりと存在する、昭和のにおいのぷんぷんするレトロ銭湯。
お風呂からあがる時間を決めて、それぞれ男湯、女湯ののれんをくぐる。
タイル張りの年季のはいった大浴場。ちょっと熱すぎるぐらいのお湯が気持ちいいんだ。髪とからだをあらって。お湯に浸かって思いっきり手足を伸ばす。
折原くん。
あたし。彼と、どうなりたいんだろう。
突然の告白に頭が真っ白になって。抱き寄せられて、気づいたらうなずいてた。背中にまわされた彼の手がわずかにふるえていて、胸がいっぱいになってしまったの。
一瞬で、折原くんが単なる「弟みたいな男の子」ではなくなってしまった。
あたしの悪いくせだ。好きだと言われたら、すぐにその気になる。自分も相手のことを好きなような「気分」になる。そんなふうにして、流されるようにしてつき合ってきた過去の男たちは、みんなあたしを裏切った。
折原くんはきっとちがう。だって、あんなふるえる手で、不器用に抱き寄せてきたひとなんて、あたしは知らない。
そう思う自分と。
今までだって「この人はちがう。特別だ」って思ってきて、信じた挙句に裏切られたじゃない。好きになっちゃだめ、と思う自分と。ふたりの自分が綱引きしてて、あっちに行ったりこっちに行ったり。あたしって、なんて半端なんだろう。
考えすぎてのぼせそうになってしまった。常連っぽいおばさんたちが世間話している声が反響している。タイル張りの壁の向こうの男湯からも、時折声が響いてくる。
折原くんも、あの壁のむこうにいるんだと。思うと、また顔があつくなる。
先にあがったのはあたしだった。まだ待ち合わせの時間までだいぶあったから、ちょっとだけ、と待合室のマッサージチェアに座った。「肩・背中ほぐしコース」のスイッチをいれて五分ほどしたところで、男湯ののれんを押して出てくる折原くんのすがたが見えた。
あわててチェアから身を起こす。さすがに恥ずかしい。
「陽乃さん。フルーツ牛乳とふつうの牛乳、どっちがいい?」
折原くんのほおが上気して、つやつやにひかってる。さすが十代。最近の男の子はお肌もすべすべで綺麗でうらやましい。
「えっと、ふつうの」
目をそらしてぼそぼそと告げた。あたし、挙動不審だったかも。
折原くんはにっこりわらった。
お試しでつき合いはじめた、わけだけど。順番がいろいろおかしいっていうか。一緒に暮らしてるから、すっぴんも、気の抜けたルームウエアすがたも、何度も見せている。今日は毛布にくるまってるすがたも見られたし。寝顔も、うっかり見せてしまったことがある。そのときは何も思わなかったのに、今は恥ずかしくてたまらない。だけど今さら着飾ってみるのもどうにも不自然だし。
あたしたちは家族じゃない。友だちというのも何かがちがう、他人同士。いちばん素に近いすがたをおたがい見せたあとで、いきなり意識し出すとか、どうしていいかわかんない。
ふたりで瓶入りの牛乳を飲んだあと、同じ家までゆっくり歩いて帰る。冷たく澄んだ夜の空気が頬に触れてきもちいい。永遠に湯冷めなんかしないんじゃないかってぐらい、ほこほことからだがあったかい。
となりを歩く折原くんの手の甲が、ときおり、あたしの手の甲にふれる。
「陽乃さん。もし嫌じゃなかったら」
「うん」
「手を、つないでみても、いいですか」
「……うん」
いいよ。……、いいの、かな。こんなに中途半端な状態のあたしなのに、どんどん許していくこと。だけど、ひんやりした大きな手があたしの手を包んだ瞬間、あたしの迷いはしゅるっとしぼんでしまった。
「陽乃さんの手、小さくてあったかい」
「折原くんの手が、大きくて冷たいんだよ」
だめなあたし。甘えてる、よね。
同じ家を出て同じ家に帰るふたり。まるで同棲してるみたいだけど、男女五人の共同生活の場であるシェアハウスではこの手を離さなくちゃいけない。ルール違反、だから。恋愛は自由だけど、家に持ち込んではいけない。恋愛というか。あたしのはまだ、恋愛未満な、たまごの気持ち。このまま育てていっていいのか、わからない。
「陽乃さん」
呼ばれて、となりの彼を見上げる。折原くんは目を細めて、やわらかくほほえんでる。
「今週の土日、学祭なんです。B級グルメ研究会で、焼きそば出すんで。よかったら遊びに来てください」
学祭、か。そっか。大学生、なんだもんね。うなずいたら、折原くんがちいさく「やった」とつぶやいて、つないでいる手にきゅっと力をこめた。
キャンパスの、銀杏並木のある通り沿いに、折原くんのサークルのお店のテントがあるらしい。秋の終わりの乾いた空気に、学生さんたちの出す出店の、おいしそうなにおいが混じっている。銀杏の葉はもう、半分以上が散ってしまっていた。ここを歩くのは何年ぶりだろう。もう一生来る機会はないんじゃないかと思っていた。あのときとなりにいた彼は、今どこでなにをしているんだろう。
おそろいのTシャツを着た大学生たちが笑いさざめいている。どこかのステージでバンドがライブをしているみたいで、遠いところから、ずんずんと重低音が響いてくる。
なんとなく自分が場違いな気がした。
「B級グルメ研究会 焼きそば」の立て看板が目に入る。ここだ。大きな白いテントの入口に「焼きそば」ののれんがかかっている。おそるおそるのぞきこむと、「いらっしゃい!」と居酒屋顔負けの大きな挨拶に出迎えられた。男の子が三人いる。だれが何歳で何年生なのか見当もつかない。みんな、揃いの青いはっぴを着ている。あつらえられたテーブル席につくと、背の低い、ポニーテールの女の子が注文をとりにきた。折原くんにもらっていた食券を手渡す。
「塩やきそばですね、少々お待ちくださいませ」
にっこり笑うと目じりがくっと下がって、かわいい。メイクしてるのかな? かぎりなくすっぴんっぽい感じだけど……、綺麗。はたちになるかならないか、折原くんと同じくらい、なのかな。
すぐに焼きそばは出てきた。おいしい。食べ終えて「ごちそうさま」をしたところで。
「陽乃さんっ」
テントの裏から、折原くんがあらわれた。
「まじで来てくれたんですね」
「う、うん」
ちょっとだけ、来なけりゃよかったなんて思ってるけど。
「津村―」
折原くんが、さっきのポニテの女の子に呼びかけた。
「つぎ、津村、休憩だよな? ごめん、おれ、つぎも洗い場なんだけどさ、ちょっと代わってもらってもいい?」
「えー? なに? 休憩時間チェンジってこと?」
「お願い! 今、すいてるし。まじ一生のお願い。あとでジュースおごるから」
「ジュース? やすっ。うーん、Aランチなら手をうつ」
「わかった。Aランチな」
「デザートもつけてよね」
津村さんは、ぷーっとほっぺたをふくらませた。ごめんごめん、と折原くんは笑顔で彼女に手を合わせてみせた。
はっぴを脱いだ折原くんとふたり、キャンパスを並んであるく。中庭の、小さな池のほとりにあるベンチに座って、缶のミルクティを飲んだ。
「その髪型、なんていうんですか」
「ハーフ・アップ」
「その。撫でても、……いいですか」
「いいよ」
丁寧語なんてつかわなくていいのに。さっきの「津村さん」には、もっとくだけた感じで話してたのに。
そっと。生まれたての子猫に触れるみたいに、そっと。折原くんはあたしの髪を撫でた。
やさしい手つき。あたしのこと、傷つけたくないって思ってくれてるんだ、きっと。
めんどくさいよね、あたしって。六つも年上なうえに、いくつもの、過去の痛い恋愛の傷をひきずってる。ポニーテールのあの子になら、折原くんはなんの屈託もなく「一生のお願い」なんて甘えることができるのに。
「前から思ってたけど。この髪型、陽乃さんにすごく似合ってる」
「ありがとう」
ポニーテールの季節は、もうとっくに過ぎたんだ。
やっぱり。つき合うの、やめたほうがいいのかもしれない。
帰ってきてからずっと、ベッドでぐだぐだしている。折原くんは今夜も明日も遅いんだろう。なんせ、おまつりだもんね。あたしはといえば、この土日、とくに何の予定も入れていない。学生時代の友達とは住むところがばらけたせいで疎遠になったし、同僚の子たちとは、それなりに仲はいいけど休みの日にわざわざ約束するほどじゃない。
自分の部屋でごろごろしてたって腐るだけだし、せっかくのお休みが勿体ないとも思う。珈琲でも飲もうかとダイニングへ行くと、野村くんが、よれたスウェットの上下でぼさぼさの髪を掻きむしりながら水を飲んでいた。
「ふえー。あたまガンガンする」
「まさかとは思うけど、いま起きたの?」
「そのまさか。さんっざん飲まされたからな」
「毎週のことじゃん」
シェアハウスのいいところは、いつもだれかが居て、うまい具合に寂しい気持ちが紛れるところ。今のメンバーはみんないいひとたちだし、気が合うから心地いい。
面倒くさいルールに縛られてまでルームシェアをするなんて、お金がほしいかコミュニケーションがほしいかのどちらかだ。折原くんや歌ちゃんはお金がないから、野村くんはこう見えてものすごい寂しがり屋だからここに住んでる。沢木さんは謎だけど。
あたしは。安月給でやりくりしていくためにここを選んだのだけど。孤独をまぎらわすために男の人に寄りかかるのをやめたかったという理由もある。なのにあたしは性懲りもなく恋をして、そしてまた裏切られた。
「ため息ばっかりだなー。陽乃ちゃんは」
「まあね。秋の終わりって、もの悲しいっていうか」
「みょうに人恋しいよな」
「うん」
「俺さ、最近すげー結婚願望強くて。同世代のやつらがどんどん結婚してくからさあ。クリスマスとか、彼女じゃなくて家族と過ごしてえなあ、なんて」
「そっか、野村くんてもうアラサ―だっけ」
「アラサ―言うなや。っつーか俺も、三十になるまでにはここを出ないとなあ」
「いいんじゃないの、気が済むまで居れば。ある意味家族でしょ、ここのルームメイトたちって」
くすくすわらう。結婚、か。折原くんが大学を卒業するころ、あたしは二十八になる。社会に出たばかりで精一杯の彼に、結婚を意識しはじめた彼女なんて、重いだけだよね。
やっぱり、断ろう。期限までまだだいぶあるけど、これ以上お互いに深入りするまえに、けじめをつけたほうがいい。
ごめんね。さいしょから、断っておけばよかったんだよね。