BLACK DOG―Empty movie theater and rain―
作:石野タイト
―狭い空に鉛色の雲が切り取られている。
彼は煙草をふかしながらたゆたう紫煙をぼんやり眺めていた。くたびれた黒いスーツと赤黒いシャツ。くしゃくしゃの黒い髪。薄汚れた路地裏のビル壁に寄りかかる彼には何処か浮世離れした雰囲気があった。
「あぁ…こりゃ降りだしそうだな」
嫌そうにそう呟くと、煙草を一口。煙を肺に満たしては吐き出す。
些か気の抜けた瞳で狭間の空を見上げていると、不意に耳に入ったイヤホンから声が聞こえる。
『フロウ、奴はポイントBに入った。そろそろだぞ』
「あいよ」
そう怠そうに答えるが、依然体を動かす気配はなくただただ視線を煙と遊ばせていた。
と、曲がり角から慌てた様子の男が路地へ飛び込んでくる。灰色のストライプ柄のスーツを着た小太りの男だった。
フロウの姿が見えないのか、あるいは慌てていて気にも止めていなかったのか、男は駆け足のままフロウの前を体勢を崩しながら駆け抜けようとする。
そこにフロウは何食わぬ顔で右足を前に出した。
男はフロウの足に引っ掛かり、勢いよくゴミと埃だらけの地面へと熱いキス。口に入ったゴミを吐き出しなが這うように振り返る男。
「き、貴様ぁッ!!何をする…」
転ばされた男は座り込んだまま大声をあげるが、次の瞬間血の気が引くのと同じ速度で言葉が尻すぼんでいく。
男の目と鼻の先には鈍く光る銀の銃口があった。トーラス・レイジングブルと呼ばれる大きなリボルバー式の拳銃だ。
その銃口の先にあるのは、先程とは別人のような鋭い表情のフロウ。
フロウはくわえた煙草を吐き捨てる。
「ジェミィ・ゴードンだな」
「そ…ち、違う!人違いだ!」
一瞬認めかけてからの否定。何処までも肝の小さい、いや、ある意味肝の座ったと言うべきか、フロウは呆れ半分感心半分にため息をついた。
そして左手を懐へ入れると、一枚の紙を取りだし男―ジェミィに投げる。
ふらふらと風に乗りながらその紙はジェミィの股の間へ落ちた。それは自分の顔写真。
「バーカ、こっちが裏とらないで追いかけ回すわけねぇだろ。しっかり下調べはついてんだよ、武器商人さん」
「た、頼む!助けてくれ!金ならいくらでも…」
「あぁ、そういうの間に合ってるんで。散々聞いてきたんで。アンタも銃やら何やらばらまいて生きてきたんだ、この位覚悟してたろ?ま、因果応報ってことで、諦めな」
そう言うと、フロウは撃鉄を起こす。
ジェミィの表情はさらに引き吊り、目には涙を湛え、言葉にならない声で必死に命乞いをしている。
フロウはそのジェミィの顔を見ながら顔色ひとつ変えずに引き金を引いた。
轟咆がビルの壁を反響して駆け回る。音から逃げるように羽ばたくカラスの羽音と鳴き声。銃口からは細い煙が立ち上っていた。
音を発てて崩れたジェミィの体は糸の切れた操り人形の様にだらしなく横たわる。眉間に大きな風穴を開け、だらだらと流れる血液と湛えていた涙が地面に流れ落ちた。
あまりにも惨めで、締まりのないその死に顔にフロウは舌打ちする。
「ッ…死ぬときぐらい、そんな顔すんなよ…」
一人そう呟くと、懐からくしゃくしゃの煙草の箱とジッポライターを取りだし、一息。
そしてイヤホンに手を当てて話始めた。
「ドム、片付いたぜ」
『了解だ、流石黒妖犬ってとこか?』
「茶化すなよ。お前がお膳立てしてんだ、こんなもんガキの使いっぱしりみたいなもんだろ」
『まぁそう言うな。じゃあ処理屋に連絡する。いつものところで落ち合おう』
「あいよ」
フロウがそう答えると、一方的に連絡が切れる。
足元に転がる依頼の品をチロリと横目で見ると、足元に一滴の滴が落ちてきた。
それは二滴、三滴と数を増す。
「チッ、やっぱり降ってきやがった…雨は嫌いなんだよなぁ、どうにも」
そう言い残すと、フロウはポケットに手を突っ込み、何事もなかったかのように背中を丸め煙草をふかしながら路地をあとにした。
******
―雨が降っている。視界が白むほどに強く、滝のような勢いで地面に雨粒を叩きつけている。
その中を走る二つの人影があった。
一人はフロウ。ジャケットを頭に羽織りほぼ無意味な抵抗をしていた。もう一人は黒人でスキンヘッドの大男。左目に黒い眼帯、ピチピチのシャツに革ジャン、ジーンズをはいた筋骨隆々の男だ。
二人は高架橋の遊歩道を走っていた。
そして道沿いにあった建物の屋根のなかに飛び込んだ。
屋根の下に来るなり、フロウはジャケットを絞りながら悪態をつき始める。
「おいドム!お前出るとき今日は雨は降らないって言ってただろ!」
「知るか!!俺は天気予報士じゃねーっての!!朝のだって俺は天気予報で見たことをそのまま伝えただけだ」
フロウの言いがかりに大男―ドムことドミニクは青筋を立てて怒鳴り散らす。
そんな返答に面白くなさそうにフロウはポケットから煙草を取り出しふかし始める。
それに倣うようにドミニクも煙草を吸い始めた。
暫しの沈黙。目の前を何台かの車が通り過ぎ、水溜まりをかき上げていく音がやたらと大きく聞こえる。
ふいに、ドミニクが振り向くと目の前にはシャッターが立ち塞がっている。
そしてボロボロのビラが張り付けてあった。
そのビラを見るや、ドミニクは眉を下げて寂しそうに呟く。
「あぁ…ここは映画館だったのか…」
「お前、映画好きなんだっけ?」
フロウがシャッターに背中を預けたまま、あまり感心なさげにそう聞くとドミニクは感慨深げに目を細めた。
「あぁ、昔からな。俺の住んでた所じゃまともな娯楽なんてなかったが、映画館の廃墟があってな。フィルム時代の骨董品だったが、あの時は仲間内で何とか見れるように直して、台詞を覚えるまで見たもんさ」
「ふぅん」
「今やフィルムもデータも越えて、映画なんて家で見るのが当たり前の時代だもんな。こういう場所は、廃れていくもんなんだなぁ………フロウは見ないのか?映画」
「俺はそういう作り話にゃ興味ないの………ああでも、昔はよく見せられたなぁ。映画が好きな奴がいてさ。それこそ台詞を覚えちまう位まで見せられた」
「ほぅ、お前さんに付き合うとは酔狂な奴もいたもんだ」
「バカ言え、俺が付き合わされてたんだよ」
「何にせよ、顔を拝んでみてぇもんだな。今は何やってんだ?」
ドミニクが茶化すように軽い気持ちでそう言うと、フロウは口許だけ少しつり上げ目を閉じながら煙を吸い込む。
そして一息に吹き出した。
「死んだよ………俺が殺した………」
短くフロウが答える。
車の走り抜ける音だけがハッキリと聞こえた。
壊れたレコードのように雨音だけがエンドレスする。
時間が進んでいないかのような錯覚すら覚える沈黙。
ドミニクは少しばつの悪そうな表情で眼前を見つめ、言葉を探すがうまく見つからないのか小さく唸ると、煙草のフィルターをくわえて曇天に視線を投げた。
そんなドミニクを見かねたのか、その空気に耐えきれなかったのか、フロウは含み笑いを浮かべて口を開いた。
「フッ、もう5年も前の事だ…埃の被った昔話さ…」
そう言うと、煙草の煙を肺に取り込み、ゆっくり解き放つ。
薄れた紫煙がどしゃ降りの雨空へ消えていくのを、フロウは相変わらずやる気のない目で眺めていた。
******
―雨が降っている。町行く人は皆傘を差し、思い思いに足を運んでいる。彼もまた、その傘の群れの中にいた。
黒いスーツに赤いシャツを着た彼は左手をポケットに突っ込んで右手にビニール傘を持ち、少し猫背ぎみに人の波の中を歩く。
そして古ぼけた小さなビルに足を踏み入れた。
券売機で席を指定し券を買うと、窓口の腰の曲がった白髪だらけの眼鏡をかけた男性に渡す。
「またこれかい。アンタも好きだねぇ」
「俺じゃねぇよ、連れが好きなんだ」
男性の言葉に煙たそうに手を振って答えると彼は奥へと入って行く。
奥には一面使い古した毛玉だらけの赤いカーペットの床と廊下沿いに左右互い違いに古ぼけた木製のドアがついていた。
歩く度に靴の音が鳴り響く。
反響した自分の足音を追いかけるように彼は一番奥の扉を目指していった。
ドアの上にある“TheaterRoom 1”の表示を確認し、彼は扉を開いた。
中は明かりが落とされ、眼前の特大スクリーンに写る映像だけが光源となっていた。
下に向かって規則正しく椅子が並ぶ。そこに人影は全くなかった、部屋の中央となる席を除いては。
彼は薄暗くなった階段を1段ずつ下り、人影の横に座した。
「この映画、これで6回目だ」
「あぁ。何度見ても面白いよこの映画は。特にラストの裏切った相棒を涙を流して撃つシーンは最高だね。フロウは何処のシーンが好き?」
その問いに、彼―フロウはあからさまに詰まらないと言いたげに頭の後ろで手を組み、前の座席に足をかけた。
「面白かったためしなんかねぇよ。お前こそよくこんな時間潰しに金が出せるな、ルカス」
フロウが言うと、隣に座る人物―ルカスはあどけない少年のような顔に無邪気な笑みを浮かべて癖の強い金髪を揺らしながらフロウに顔を向ける。首筋に見える蛇のタトゥーがチラリと見え、その表情とのギャップを感じさせた。
「相変わらず、フロウには情緒的な感性がないんだなぁ」
「ケッ、笑顔で人を貶す様なやつに情緒がどうの言われたかねぇよ。んな事よりさっさと本題に入ろうぜ………また仕事の斡旋か?」
「そうなんだよ、悪いね。うちのじゃたぶん手に負えないんだ」
「繁盛してんなぁ、お前のチームは」
まぁね、と答えながら視線をスクリーンに向け、ルカスは懐から2枚の紙をフロウに渡す。
それを受け取り、フロウは僅かな明かりを頼りに紙を確認した。
渡されたその紙は写真。何処かの雰囲気のあるレストランでの会食の様子が離れた距離から写されている物と、アップで顔を納められた物。
フロウは口髭を蓄えた黒髪オールバックの初老の男性がスーツ姿で写るアップの写真を見ると、やる気のない目を更に無気力にして、顔をしかめた。
「マジかよ。これ“ジャック・オー・ランド”じゃねぇか…お前、劉の所の専属にでもなったのか?この前も劉と敵対してたオルカを殺ってただろ」
「専属ってわけじゃないさ、ジャックさんのところも何回も引き受けてるし。劉さんがウチを贔屓にしてくれてるだけだよ」
「そういうのは贔屓じゃなくて都合よく使われてるってんだよ。サーペントのリーダーがそんなんじゃ、お前らも長くねぇな」
ルカスの言葉に軽口を叩きながらゆっくり立ち上がるフロウ。
しかしルカスは相変わらず笑顔のままスクリーンに視線を向けている。
「この仕事でラストだ。これ以上お前の手伝いしてたら俺までお前の仲間扱いされちまう」
フロウは半笑いを浮かべながら懐に写真をしまうと、ルカスに背中を向ける。
「いいじゃない、昔のよしみで。一緒に泥水まで啜った仲だろ?」
「冗談。お前らとつるんで仕事すんのは御免だぜ」
「一匹狼も相変わらず、か………そう言って“あの日”も出てっちゃったもんね」
ルカスは変わらない笑顔でそう言うが、その眼光はとても鋭く冷たい。
その眼光がフロウの背中を突き刺す。
責めるような視線にフロウは後ろ手に手を振り、振り返ることなくその場をあとにした。
******
―翌日、雨の上がった高架橋をフロウは歩いている。
眼前に見えるのは崩れかけた建物やあばら屋が立ち並ぶスラム街。力ない者や明るい世界では生きていけない者、あるいは命を狙われている者が息を潜めて暮らす街。
国も秩序もないこの世界のあちこちに見られる光景だ。
かつてのこの街の栄華を伝えるものは先端の曲がった傾きかけの大きな電波塔くらいのもので、何故この街が、この世界がこうなったのか、今や知るものはいないだろう。
対照的に、フロウの背にある街並みは小綺麗な高層ビルやマンションの立ち並ぶ、きらびやかで文化的な風景。
そこに住まうのはマフィアや武器商人、高額報酬の殺し屋など法が機能していた頃なら非合法とされる者たちだ。
表面上は整備された美しい街だが、そこに住まう人間たちはスラム街と何ら変わらない。ならず者の吹き溜まりなのだ。
そんな外見だけ対照的な二つの街を繋ぐ橋を渡り、入り組んだ路地を進む。
着いた先は庇が歪んだボロボロの店。
扉もない入り口から入ると、向かって右側にあるカウンターの向こうから声がしてきた。
「おやまぁ、誰かと思えばフロウの坊やじゃないのさ」
カウンターにフロウが向き直ると、錆びだらけのパイプ椅子に赤い頭巾を被った小柄の老婆が座っていた。
細いその眼差しは久しぶりに孫にあった祖母の様に暖かい。
「よぅジニー婆さん。“いつもの”と“いつもの”と“例の物”をくれ」
そう言うフロウの表情はいつになく柔らかい微笑だった。
フロウの言葉に老婆―ジニーが頷き、手を叩くと奥から色黒の少年が段ボールを抱えて持ってきた。
「煙草と弾丸と、頼まれてたもんだよ」
「いつも悪いな、婆さん位しかこの街で信用して物を買える相手がいなくてよ」
「ひっひっ、嬉しいこと言ってくれるねぇ。どれ、おまけも付けちゃおうか」
そう言ってジニーは再び手を叩く。その音を聴くと、色黒の少年は手に持った段ボールを砂埃だらけの床に置き、奥に消えていく。
数分後、持ってきたのは先程よりも小さな段ボールだ。
フロウはそれを受けとると、中を開く。
中身は小麦粉の山だった。
あまりにも突拍子もない物にフロウは眉を潜める。
「おいおい婆さん。パン屋でもやらせようってのか?」
「お前さん料理は得意だろ?ひっひっ」
「どうせなら普通に食材をくれよ」
「まぁまぁ、廃品回収だと思いなさいな」
「回収業者でもねーよ」
はぁ、とため息をつき箱から小麦粉を一袋取り出して賞味期限を確認すると、既に数ヵ月は切れていた。
ジロッとジニーを見るフロウ。
ニタニタと悪戯な笑みを浮かべるジニー。
その時、コンッコンッと壁を叩く音が聞こえる。
フロウが振り返ると、人懐っこい笑顔を浮かべたルカスがヒラヒラと手を振っていた。
「こいつは意外なお客さんだなルカス。お前はもうスラム街へは来ないと思ってたぜ」
「そう噛み付かないでよフロウ。俺にだって故郷を思う気持ちはあるのさ」
「ルカスの坊やかい、随分と久しぶりだね。フロウと喧嘩別れしたって聞いてたんだがね」
ジニーがそう言うとルカスは変わらぬ笑顔のまま、爽やかに店内へと足を踏み入れジニーへと近付く。
「やだなばっちゃん、フロウが勝手に出てっただけだよ。まぁ、お互い有名になったわけだから噂くらいは聞いてたんだけどね。実際にあったのは3ヶ月ちょっと前かな」
「それ以来ことあるごとに面倒な仕事を押し付けてきやがる」
「まぁたフロウはそういう言い方をする。報酬は6:4で経費はこっち持ちなんだから文句言われる筋合いはないよ。それより、これなに?パン屋さんでも始めるの?」
言いながらルカスはフロウの持つ小麦粉の袋を指差す。
「焼き上がったら真っ先にお前に食わせてやる…賞味期限がとうの昔に切れた小麦粉製のできたてパンをな」
青筋を立てながらそう答えるフロウ。
フロウを可笑しそうに笑って指差すルカス。
そんな二人をジニーは穏やかな眼差しで見つめていた。
「それで、お前はなにしに来たんだよ」
「ん?俺はばっちゃんの顔を見に来ただけ。里心がついたってやつだよ」
「あっそ。じゃあごゆっくり。世話になったなジニー婆さん」
そう言ってフロウは段ボールを抱えたままルカスの横を通りすぎていく。
そのあとを追うようにルカスは振り返り、声をかけた。
「あ、でもひとつ。フロウには用事があった」
立ち去りかけたフロウにルカスがそう言うが、フロウは振り返ることなく足だけは止めて言葉の続きを待つ。
「最後のお誘い。俺たち“サーペント”に入ってよ」
「…バーカ。お断りだ」
やはり振り返らず答えだけ返してフロウは店をあとにする。
フロウの背中が見えなくなると、いつも通りの笑みを浮かべたままルカスは口を開いた。
「あっちゃー、またフラれちゃったよ………それはそうとさばっちゃん、フロウは何を買ったの?」
ジニーへ尋ねたルカスは張り付いた笑顔が剥がれ落ち、先程とはまるで別人のようにドスの効いた低い声で鋭い眼光を向けた。
しかし、ジニーは動じることなく小さく笑いながら肩を揺らしていた。
「ひっひっひっ…顧客の、ましてやお得意さんの情報を漏らすわけないだろ?信用が要の商売だよ?」
ジニーがそう答えると、ルカスは鋭い刃物のような目でジニーを睨むが、またいつもの張り付いたような笑顔に戻り肩をすくめる。
「だよねー、流石ばっちゃんだ」
「ひっひっひっ。取引相手の事をペラペラ喋る様じゃ三流さね。お前さんこそ、なんでそんなことを聞きたがるんだい?」
ジニーが訪ねると、ルカスは小バカにしたように鼻で笑い、すくめた首をやれやれと横に振る。
「ばっちゃん、もうボケちゃったの?今しがた自分で言ったばかりじゃない。それとも、俺はそんな三流に見えたかい?」
「いやいや。仲の良かったお前さんらが、何時までも仲良くやってって欲しいと願う老婆心さね。悪かったよ」
「ハハッ、いいっていいって。じゃ、またね」
笑ってそう言うと、ヒラヒラと後ろ手に手を振りながらルカスは店をあとにした。
ジニーは表情を変えず、しかし憂いを湛えた細い眼差しでその後ろ姿を見送っていた。
******
―数日後、フロウは日の落ちた街の中にいた。
夜のとばりが包んでも、その暗闇を打ち消すように、星の明かりをかき消す様に街は明かりと活気に包まれている。
そんな中を、フロウはいつものように猫背でポケットに手を突っ込んだまま歩いていた。
そしてふいに足を止める。
眼前には見上げるほどの高さがある超高層ホテル。
ホテルの入り口にはロータリーがあり、入り口はこのホテルの売りでもある“レトロ調”に合わせた回転式扉。
いつもならロータリーには黒塗りのリムジンやら高級車やらがひしめき合っているのだが、今日は一台も止まっていない。
「情報通り、貸しきったみたいだな」
『流石ジニーさん。正確な情報だね』
フロウの言葉に反応し、フロウの耳に入ったイヤホンから声が聞こえた。
少し高い男性の声に、フロウは鼻で笑って返す。
「あの婆さんに知らねぇことはねぇよ。本気出したらトイレの回数まで数えられるだろうぜ。んなことより、テズ。そっちは抜かりないだろうな?」
『もっちろん。ジニーさんのくれた情報と見取り図、それに僕の腕があればほぼ完璧さ。秘密兵器もあるしね』
「そいつは頼もしい。んじゃ、パーティと洒落込もうか」
フロウは答えながら回転扉の前へと歩き出す。
扉に張られた“本日貸し切り”の札を無視して扉を押し、中へと入る。
中は高い天井から吊るされたシャンデリアで照らされ、左右に太い柱が2本。
目の前に左右から伸びる階段があり、床には埃ひとつない絨毯が敷かれていた。壁や柱、手すりに至るまで細かな装飾がなされ、高級感とタイムスリップしたかのようなレトロ感を演出していた。
しかしその雰囲気のあるロビーにいるのは、とても場違いな雰囲気の男達だった。
黒いスーツに険しい表情。手には多種多様な銃が装備されている。
と、一人の男がフロウの来訪に気付き、眉間にシワを寄せたまま歩み寄ってきた。
「なんだテメェ?外の貼り紙が読めなかったのか?」
フロウより少し背の高いその男が、鼻がつくほど距離を詰めて睨みを効かせる。
フロウはそれに動じることなく睨み返す。
そして、小さく失笑。
「…いいや、しっかり読めたぜ」
次の瞬間、ロビー中に鳴り響く轟音。
額から血を流しながら仰向けに倒れる男。
愛用のトーラス・レイジングブルを構えるフロウ。
その銃口からは煙が立ち込めていた。
「地獄待ち団体様、ってな」
そう言って笑うフロウ。
「襲撃だ!殺せ殺せ!」
その場にいた誰かが叫ぶ。その言葉を追うように続く嵐のような発砲音。
弾丸の雨がフロウへ注がれる寸前、フロウは向かって右側の柱に転がり込み、その雨をしのぐ。
「ハハハッ!こいつはたいした歓迎だぜ。テズ、こっちの状況は確認できるか?」
『オッケー、ちょっと待って…………………よっしッ、監視カメラのハッキング成功!人数は15人。1階のロビーに5人。フロウ側の階段に3人、反対に4人。階段上った先に3人…あ、また増えた。階段の先5人だ』
「豪勢なパーティになりそうだな!」
テズの報告にそう返すと、柱の隙間から一瞬顔を覗かせ素早く引き金を引く。
フロウの銃口からは放たれた弾丸は無駄なく確実に相手を捕らえ、階段上の男達を撃ち貫いていく。
更にロビーの一人を撃つと、1度体を柱へ隠しからの薬莢をホイールから吐き出し新たな弾丸を籠める。
タイミングを見計らい、再び身を乗りだしては応戦する。
しかし、その数は減るどころか増えてきてさえいた。
「おいテズ!次のステップはまだかよ」
『もうちょっと…………………はいできた。システム完全掌握完了。エレベーター停止、防火シャッター作動。これ以上のお客さんはお断り願ったよ』
「上等!」
そう言うと、銃を撃ちながらフロウは柱から飛び出した。
階段にいた男達を撃ち倒し、身を屈めながら上まで上がる。
手すりの影から飛び出すように回転し、同時に上の階の残党に弾丸を見舞い引導を渡すと、素早く視線をシャンデリアの方へ向け吊り下げている金具を打ち砕いた。
甲高い音のあと、重力に忠実に従い落下するシャンデリア。
落ちた音とほぼ同時に聞こえた男達の悲鳴。
それに気をとられた反対側の男達を淡々と射殺すると、煙草に火を付け、下のロビーを見渡せる手すりに腰からもたれ掛かった。
反り返るようにして下の階を覗き込むフロウ。
そこにはシャンデリアの下敷きとなった男達と、辛うじて避けたものの腰を抜かしている男が一人。
それを見るとフロウは煙草をくわえながらゆっくり銃に新たな弾丸を込め始めた。
そして弾丸を込め終えると、今度は懐をまさぐり真っ白な粉の入った瓶を数本取り出しロビー上空へ放り投げる。
放物線を描きながら宙を舞う瓶。
そこに片手で照準を合わせ、フロウは的確に撃ち抜いていった。
キラキラと砕け散ったガラス片と撒き散らされた白い粉。
「知ってるか?粉の充満した場所は火気厳禁だそうだ」
そう言い残し、奥へと続く廊下を悠然と歩き出すフロウ。
その後ろへ、吸っていた煙草を指で弾く。
瞬間、爆音と共に焦熱が吹き荒れた。
業火の熱風を背に浴びながら、もう一本煙草をくわえて火をつける。
そして左右対称に壁に備えられたエレベーターの入り口の前に立つ。
「テズ、俺の場所見えるか?」
『バッチリ。じきに迎えの馬車が来るよ』
「上々だな。奴さんは?」
『情報だと最上階だ。そのフロアは部屋がひとつしかないVIPフロアで、エレベーターを出たらすぐ部屋になってる。まぁこの街のVIPと言えばヤバイ連中しかいないから、会合とかによく使うみたいで盗聴対策なのか監視カメラが付いてないんだ』
「つまり、中の様子はわからないってか」
『そういうこと。大丈夫だとは思うけど十分注意してくれ』
「はいはい」
その答えを最後にフロウは1度通信を切る。
煙草をくわえ、鼻歌を歌いながら足先で調子を取り、ドアが開くのを待った。
ものの数秒で開かれた扉に乗り込み、最上階のボタンを押す。
エレベーターは音もなく閉まり、僅かな重力を感じさせながら上がり始めた。
フロアの表示を見つめながら、フロウは煙草を床に捨てもみ消す。
まもなく、扉は開かれた。
一歩エレベーターから降りると、ガラス張りの窓から星々を空から引きずり下ろしたかのような煌めかしい夜景が一望できた。
暖色系の明かりが高級感のあるテーブルや椅子、装飾品の数々をクラシカルな雰囲気で包み込んでいる。
しかし、その場にいたのはターゲットではなく、目出し帽に真っ黒でタイトな上下のスーツ。カーキ色のベストを着た8人の人物だった。
その人物達は一斉にアサルトライフルを構え、フロウへその銃口を向ける。
「おいおい、こりゃ話が違うぜ」
ひきつった表情で笑いながらフロウが呟く。
「撃て!」
8人のうちの誰かが号令し、引き金に全員が指をかけた。
その号令よりも早くフロウは中央の一人にタックルし、中央突破すると一気に走り抜け、テーブルを飛び越える。
引っくり返すとその影に隠れる。
まもなく、耳の痛くなるような弾丸の雨音が聞こえ始めた。
「はぁ…はぁ…今のはヤバかったぜチクショウ」
『どうしたの!フロウ、聞こえる?』
「あぁ、聞こえるよ。どういうわけか奴さんは居ねぇし、代わりにどっかの私兵団みたいな連中がお出迎えしてくれるしで大ピンチだ」
『そんな…情報に嘘があったってこと?』
「あの婆さんに限ってそれはねぇ。そこんところはプロ意識高いからな。んなことよりテズ、例の秘密兵器の出番だぜ」
『了解。30秒後にやるよ』
「おう!」
そう答えると、フロウは胸ポケットからサングラスを取りだしてかける。
次の瞬間、一気にフロア全体の明かりが落ちた。
「な、なんだ!」
「明かりが…」
襲撃者が混乱し始めたその刹那、フロウは暗闇の中から飛び出し、迷わず引き金を引く。
煌めく火花。
轟く銃声。
8つの悲鳴。
次に明かりがついたとき、立っていたのはサングラスをかけたフロウのみ。
襲撃者達は皆床に伏せ、永久の眠りについていた。
「あってよかった暗視グラスってね」
そう言うと、フロウは暗視グラスを胸ポケットに再び仕舞い、倒れている一人に歩み寄った。
すでに事切れたその体を仰向けにすると、目出し帽を外す。
それは金髪の男だった。
そして、首筋には蛇のタトゥーが彫られていた。
「こいつは…!」
それを見るなり、フロウは眉間にシワを寄せその遺体を乱暴に床に置いた。
「テズ。今回の件、全部わかった」
『え?それはどういう………』
「巻き込んで悪かったな。今回のターゲットはジャックじゃねぇ…俺だ」
そう言ったフロウの目には、悲しみと怒りが混在した、とても深く暗い色を写していた。
******
―翌日。今にも雨の振りだしそうな曇天の下をフロウは人の流れに逆らうように歩いている。
誰もが家路に就く頃、フロウが行き着いたのは映画館だった。その入り口を見上げるフロウの表情は、今の空に負けず劣らず曇っていた。
以前と同じ券を買い、いつもそこにいるシワだらけの眼鏡をかけた白髪の老人に券を渡す。
「あんたも好きだねぇ」
「…たぶん、これが最後になる」
そう答えると、フロウは老人の横を通りすぎようとした。しかし老人の声がフロウの足を止める。
「そういえば、いつも来るもう一人のあんちゃんも同じことを言っとった。まぁこの映画館も再来月に閉館が決まったし、いい頃合いじゃろうて」
「…爺さん。これからどんな音がしても気にしないでくれるか?」
「言ったろ。ここはもう閉館する。何があろうが、もうワシには関係ないんじゃよ。好きに使いなさい」
そう言って口元だけを笑わせる老人と、それを聞き少し緩んだ笑みを浮かべるフロウ。
「悪いな、恩に着るぜ」
そう言い残し、映画館の奥へと進んでいく。
コツッコツッと響く足音。
反響する足音を追いかけ、いつもの扉を開く。
なかでは大スクリーンで、もう何度目か分からないシーンが流されていた。
その広く薄暗い空間の中で、中央にただ一人座る人影。
その列まで階段を下り、フロウは人影に銃を突きつけた。
「どうして裏切った」
『どうして裏切った』
フロウの言葉に追従するように、映される映像の人物が続けた。
「仕方なかった…何て言わないよ。これは仕事なんだから」
『仕方なかった…何て言わないよ。これは仕事なんだから』
人影が答えると、やはり同じく台詞が被ってくる。
人影はゆっくりと立ち上がり、ベレッタM92をフロウへ突きつける。
その人影はルカスだった。
「よく俺だと分かったね」
「テメェの部下は皆首筋にテメェと同じタトゥーをしてやがる。そういう馴れ合い臭いのもテメェと別れた理由だよ」
「つれないなぁ、フロウは。腕は立つのに殺しが嫌いで、あの日もそう…お前は俺の全てを否定して出ていった!」
突然激昂し、同時に発砲するルカス。
フロウは横に飛び退いて避けると、椅子の影からルカスへ弾丸を放つ。
ルカスも椅子を盾にし、屈んで弾丸を避けながら移動する。
「劉からの依頼ってのも嘘か?」
「あぁそうさ。本当はジャックからの依頼だよ、フロウを消せってさ。だから、ひと芝居打って貰ってあのホテルにお前を誘い込んだ!」
言葉と共にルカスとフロウは同時にスクリーンへ向かって駆け出し、弾丸を撃ち合った。
弾を打っては装填し、装填しては弾を吐き出す。
放たれた弾丸はそれぞれ肩や足を掠りはするが致命傷には至らない。
やがてスクリーンの目の前の空間で二人はかち合う。
「終わりにしよう、フロウ」
「そうだなルカス。こんな茶番はもう勘弁だ」
その言葉と聞くやいなや、ルカスは懐から投げナイフを素早く引き抜きフロウへ投げつける。
フロウはそのナイフを体を捻って避けながら銃口をルカスへ向けた。
しかし、フロウが銃口を向けるより早く、不安定な体勢にも関わらず正確にルカスは弾丸をフロウへ放った。
その弾丸はフロウの左肩を貫く。
「ぐっ…」
「終わりだ!」
次の瞬間、号砲は轟いた。
床に倒れるフロウ。
刹那の静寂。
そして、フロウの後を追うように胸を真っ赤に染めたルカスが倒れた。
痛む左肩を庇いながらフロウは立ち上がると、スクリーンの前で仰向けに倒れるルカスへと歩み寄る。
か細い光源の中でひきつった笑いとも泣き顔ともとれるその死に顔を見つめ、フロウは呟く。
「なんで俺が、お前から離れたか教えてやるよ…お前が変わっちまったからさ。昔のお前は、この仕事で成り上がろうなんて言う奴じゃなかっただろ?………俺の方こそ、お前に全てを否定された気分だったぜ……………んじゃあな…………相棒…………」
そう言い残し、フロウは階段を上がっていった。
今は重く感じられる木製の扉を何とか押し開け、ゆらりと出口へと向かっていく。
激しい雨音が、遠くの方から次第に聞こえ始めた。
******
―フロウはシャッターに寄りかかったまましゃがみ込み、ゆらゆら漂う紫煙に目を向けていた。
その横では相変わらず黙ったままのドミニクが腕を組んだまま雨空を睨み付けている。
「…以上、カビの生えた昔話でした」
フロウが茶化すようにそう言うが、ドミニクは腕を組んだまま微動だにしない。
なんだか居心地の悪くなったフロウは、小さくため息をついた。
「なぁ、その沈黙やめてくれよ。別にそんな重くなるような話じゃないぜ?」
「…あぁ、そうだな…」
それっきり、ドミニクは口を開かない。
ドミニクが何を考えているのか分からないが、どうにも座りの悪いフロウは小さな舌打ちをすると、再び紫煙と視線を遊ばせた。
「…なぁフロウ」
「ん?」
「その、なんだ………お前と組んで2年になるが、お前の昔話なんてはじめて聞いたぞ」
「そうだったか?」
「ああ、はじめて聞いたよ。俺もお前を絶対裏切らないなんて言い切れないがよ…当分は平気だと思うぜ……」
ドミニクは少し照れくさそうにそう言うと、煙草を口につけた。
そんなドミニクがおかしかったのか、フロウは小さく表情を少し緩めた。
「ハッ…なんだそりゃ………まぁ、信用してるぜ。相棒」
フロウは立ち上がりながらそう言うと、握った拳をドミニクへ向ける。
それを見ると、ドミニクはニッと笑いフロウの拳へ自分の拳を突き合わせる。
―雨足は次第に弱くなり、やがて雲は切れていった。
BGM...Silent.