God bless killers.
作:柚木
God bless you.
神の祝福ってやつは、自分みたいな人間も助けてくれるだろうか。
男は煙草の吸殻を捨てて、それから、天を仰いだ。
「山崎くん、待った?」
ちょっと慌てたような声に、彼は振り返る。
「待ったわ大分」
「ええぇ、ごめんて! そんな怒らんといてぇや」
憮然とした彼に、彼女は本気で悲しそうな顔をした。
「にしたって遅れすぎやろ」
「ほんまごめん」
「行くで」
「う、うん!」
それは、起こらなかった未来だった。
彼女は世界からいなくなって、
彼は殺し屋になった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
山崎隼人は傘を差して歩いていた。もう大分小降りになって、道行く人の八割方は傘を閉じてしまっていたけれど、彼はそうしなかった。少しでも濡れるのが嫌なのだ。
センサイなんやね、と彼女にはよく笑われた。
他人に、神経質だとか、細かいとかいう評価を下されてきたが、繊細というのは珍しい。
彼女――朝戸ゆりかという女性は、まあ、繊細とは程遠い人間だった。良く言えば大らか、悪く言えば少々、大雑把。山崎隼人とはおおよそ共通点がない人間だったと言っても過言ではない。
映画好き、という一点を除いて。
「ね、それ好き?」
軽い声に振り向いたら、想像したよりも緊張した顔で女の子がこっちを見ていた。
友達に付き合って見に行った、他校の文化祭。あまり興味が湧かなかったけれど、「cinema club」の文字にはやっぱり反応してしまう。「cinema club」は贅沢に2つの教室を使っていて、片方は映画上映、もう片方は、部員の好きな映画を紹介する展示室になっているようだった。彼は展示室で見知った映画のタイトルを見つけ、気が合うな、と思って見ていたのだ。
「うん」
この子が紹介文を書いたのだろう。
「そうなんや」
自分から話しかけてきた割に、彼女は言葉少なだった。沈黙に居心地が悪くなって、彼は口を開く。
「君も、映画撮るん?」
「え」
彼女は目をしばたいた。
あ、睫毛長いな、と思ったのを憶えている。
「撮ってみたいけど、なかなか難しくて。えっと、私――」
私、アサドユリカ。
「アサはヘンプの方?」
「ちゃう。モーニング。ここに書いてるけど」
彼女は紹介文の書いてある模造紙の下の方を指さした。
文責・朝戸ゆりか。
「こんな下に書いてあったかて気づけへんわ」
「別に、気づかれたないし」
「……俺は山崎隼人」
「隼人族の?」
「漢字はそうやけど、九州には縁ないねん」
「山崎くんは、撮るん?」
咄嗟に嘘をついた。
「俺は観る専門やから」
「そうなんや」
また沈黙が訪れそうになって、彼は模造紙に視線を戻した。
「この映画好きてことは、SFとか撮りたいん?」
彼女が取り上げていた映画は随分マイナーだけど、骨太なストーリーがコアなSFファンを喜ばせた一本だった。
「うん」
「CGとか使わんと難しそうやけど」
思ったまんまにそう言ってしまってから、人のやる気をそぐような言い方やったかな、と反省する。いつものことやけど。
「タイムトラベルとかなら、CGなしでもいけそうやん?」
「ああ、ええなあそれ」
「ええやろ」
彼女の声が弾んだ。
「タイムトラベルかあ。もうストーリー考えてるん?」
彼女は頷く。
「未来から来た主人公が、運命を変えるねん」
「未来って、めっちゃ先の?」
「ううん。何ヶ月か先、何年かでもええな。未来から来るっていうより、過去に巻き戻されるみたいな感じかなあ」
「面白そうやん」
「そう?」
「設定はSFやけど、運命を変えるために主人公が頑張る話って、ヒューマンドラマって感じでええやん。青春ぽいし」
「あはは、そうやねえ」
うんめいをかえる。
その何だか大それた響きに心が動いたのを憶えている。
朝戸ゆりかはその日、今度一緒に映画を観に行こうと彼を誘った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
God bless you.
神の祝福ってやつは、自分みたいな人間も助けてくれるだろうか。
男は煙草の吸殻を捨てて、それから、天を仰いだ。
天を仰いだけれど、空の代わりに傘が見えた。
「山崎くん、待った?」
ちょっと慌てたような声に、彼は振り返る。
「え」
朝戸ゆりかが、いた。
「あさ、ど?」
「どないしたん、変な顔して」
お前は、来なかったはずだ。
お前は、あの日、いなくなったはずだ。
「いや、何でもない」
「入ろう」
彼女が誘ってくる。
「これ、観たかってん」
2009年の映画だ。その映画が公開されていたことは、記憶していた。6年前の記憶として認識しているその映画のポスターを、彼女は指さした。阿倍野シネマで上映中なのか? そんなはずは――。
目の前で起こった現象を否定するが、脳裏に閃くものがあった。
彼女が撮りたいと言った映画。
未来から来た主人公が、運命を変える。
未来から来るっていうより、過去に巻き戻されるみたいな感じ。
朝戸ゆりかが来なかったから、彼はこの映画を観なかったし、その後も阿倍野シネマの中に足を踏み入れることはなかった。いつも、待ち合わせの場所で煙草を吸うだけ。そして、汚れていく自分を眺めるだけ。
自分は巻き戻された主人公なのか。
でも、運命はもう変わっていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
2人が最初に観た映画は、結論から言うと、2人とも気に入らなかった。だから、映画の後の食事では、ほとんど映画の話をしないで、学校のどうでもいい話をずっとしていた。気に食わない先生だとか、図書館で見つけたお気に入りの本だとかの話を。
映画の好みが合うから、本の好みも合うかもしれないと思ったのに、意外に合わなくて彼は驚いた。彼女はライトノベル以外は全く読まないと彼に言った。洋画を思わせる、訳書のウィットに富んだ表現は受けつけないとも。
「何かまどろっこしいて言うか、気に入らんねんなあ」
「いや、そのもったいぶった感じがええんやんか」
「わからんわあ」
「ラノベなんか、わかりやすすぎへん? こう、読者が推測したり行間読んだりする余地がないっていうか……」
おもんないやん。
言ってしまってから、また後悔した。
まただ。
思ったことをすぐ言ってしまって、引かれてしまう。相手の意見をばっさり切り捨てて、議論にもならずに怖がられてしまう。冷めてるね、と言われる。
そんな愚は何回も犯してきたのに、全然直らない。
正直、映画以外のことには何の興味も湧かなかった。
「ははっ、山崎くんて知的やねえ」
「へ?」
彼女は、引いた様子もなく、あっけらかんと笑った。
「分厚い詩集とか読んでそう」
「読んでへんわ」
「そしたら、文豪やな。芥川とか漱石とか?」
「……芥川は、読んだことは、ある」
映画の羅生門は面白かったが、原作小説となっているのは羅生門ではなく藪の中だった。彼はどちらも読んでいる。
「観てみたいな」
「は? 何を」
「山崎くんが映画撮ったら、観たい」
「撮る予定、ないけど」
「難解なやつでもええから、観てみたいねん」
君が、おもろいと思うやつが、どんなんか。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「んー、微妙やったな」
スクリーン2の外に出るなり、彼女は言った。
「そうやな」
やっぱり意見は一致した。
「もっと殺し屋の心理にリアリティがほしいねんな」
「リアリティ、なあ」
そう言えば朝戸がこの時、殺し屋だったことを、当時の俺は知らなかったけれど、今の俺は知っていて、しかも自分も殺しの味を知ってしまってる。何だか複雑な事情。だが、それを踏まえれば彼女の言い分も納得がいくような、いかない、ような。
「ええ、思わんかった? そら、殺し屋の気持ちなんか、山崎くんは共感はせえへんやろけどもな、殺す前に、これから殺す相手と、あんなぐちゃぐちゃ喋るん嫌やわ」
私は、という主語が透けて見える言葉に、彼は苦笑する。
「主観的すぎるやろ、その感想」
「そうかなあ」
みんな、思うと思うけどなあ。
「俺は同意しかねるわ」
「えー」
「殺し屋に聞いてみたらええんちゃうの」
彼がそう言うと、彼女は口を噤んだ。
「誰か同意してくれるかもしれんやん」
彼女は、彼が殺し屋になったのを知っているのだろうか? 彼女の反応からは窺い知れない。
阿倍野シネマを出たら、傘はもう広げる必要がなくなっていた。
「あれ、やんでる」
「病んでる?」
イントネーションを変えて言ってみたら、彼女は不貞腐れた。
「あー、いらんこと言いなや、折角忘れとったんやから」
「ほんまに病んでるん」
苦笑交じりで聞いてみるけど、答えはなく。仕方ないから映画の話に戻してやった。
「俺が微妙やって思ったんは、中途半端な恋愛要素の方」
「ははっ、そういうことか」
「殺し屋が、恋したから、殺し屋辞めるか悩むってさ……覚悟がなさすぎるっていうか」
「何や、山崎くんも大概感情移入してもうてるやん」
「殺し屋にはせえへんよ。そんな覚悟じゃ、殺された方も浮かばれへんていうか……何やろ」
「殺し屋がどんな覚悟で殺したかなんて、殺される方には関係あれへんやんか」
殺された女友達の言葉は、なかなかの重みである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
2009年8月16日。大学は夏休みの真っ只中。「その日」は小降りになる気配もなくて、彼はずっと傘を差したままだった。阿倍野シネマの前。待ち合わせの時間まで、あと5分。
朝戸ゆりかとは、あれから何度か映画を観に行った。高校を卒業して、彼が大学に入っても、そんな関係が続いた。
彼女はいつだって時間より早く待ち合わせ場所に着いていて、彼が慌てて走って来ると、
「そんな急がんでええよ。まだ待ち合わせの時間ちゃうもん」
と言っていた。
だけど、今日は来ない。
腕時計を自分の方に向ける。もう、数秒だ。
待ち合わせの時間になった。
彼女は現れない。
携帯電話を取り出したら、サブディスプレイが青く光っていた。青色は、Eメールだ。朝戸、という素っ気ない登録名が表示されていた。
慌てて折り畳んだ携帯電話を開いて、メールを確認する。
『あべのしねまのうらのろじ』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ぽたりと滴が落ちる音がした。
自分の血の音やと思ったのに、目を開けたら違った。顔だけ横を向いた私の視界に、畳んだ傘が入ってくる。
傘の先端から、水の粒が垂れる。
「朝戸っ!」
ああ、山崎隼人か。
「どうしたんや」
血まみれの女友達を前にして、どうしたんや、とは。映画好きのくせに、センスあれへんで。
「撃たれたんか? 誰にや」
口を開こうとしたら、喉がごぼっと音を立てて、赤いものを吐き出した。
喉から出たのか、身体に開いた風穴から出たのか、もうわからない。
疲れてきたから、目を閉じた。
「こ、答えんで、ええ――」
「おい! どないしたんや坊主」
他の声が聞こえた。
通行人やろか。
血みどろ死体――いや、まだ辛うじて生きている――を見られるなんて、運の悪い人ら。
彼はその声の問いかけには答えなかった。絶句しているのか。
「うわっ、何や」
「救急車や! はよ電話せえ、坊主!」
「は、はいっ」
残念やな、山崎隼人。
そんなん、全然間に合えへんねん。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「覚悟なんかなくたって、人は殺せる……多分」
取って付けたような「多分」だった。
「でも、自分のしたことが怖くなる。殺した相手が可哀相とか、そんなんちゃう。自分が怖なる」
「何で?」
「戻れへんから」
ああ、その感覚には覚えがある。
「ばいばい」
映画を観終わって、いつもならカフェにくらいは寄るのに、彼女は帰りたいと言った。
運命は変わって、彼女は生き延びたようだけど、もう狙われていないとは限らない。朝戸に手を振った後、彼は跡を尾けていった。
朝戸が向かったのは、阿倍野シネマの裏、だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
部屋は暗かった。
退屈なフィルムが上映されている。勿論映画ではない。芸術論何たらの講義中。
「山崎隼人」
唐突に名前を呼ばれた。階段状の大講義室の、後ろから二番目、右端から三列目の席。声は背後から聞こえた。くぐもった男の囁き声。
振り返ろうとした次の瞬間、首に冷たいものが触れた。
「あんた、誰」
「朝戸ゆりかは、仕事をやり残して死んだ」
彼が沈黙していると、男は焦れたように言った。息が耳に当たる。
「お前、代わりにやってくれるやんな?」
「仕事って……」
「知らんかったんか? まあ、そうやろうな」
他人に言い触らす仕事やないわな。
「朝戸ゆりかは、プロの人殺しやった」
「は?」
突拍子もない話。ごめんなさい、ちょっと意味が分からないです。
「俺のこと、キチガイか何かやと思ってるんやろ」
舌打ちが聞こえる。
「冗談でこんなこと言えへん。信じられへんのは勝手やけど、な」
代わりにやってもらわなあかんからな。
ほら、これ。
膝の上に、肩越しにビニール袋が落ちてきた。
首に当たっていた感触が去る。遅れて振り返ったら、当然誰もいなかった。
袋を開けてみると、黒光りする拳銃と、携帯電話が入っていた。
折り畳み式の電話を開くと、一通だけメールが届いていた。
ターゲットの名前。居場所。殺害予定時刻。
それから、陳腐な脅し文句。
『やらなきゃ、お前がやられるぞ』
彼は大きなくしゃみをして、それから立ち上がった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
初めて人を殺した時、身体は異様な興奮に襲われた。
拳銃を構えて、ターゲットの怯える顔を見据えた瞬間、最も昂ぶったかに思えた感情。しかし、火照ったのは身体だけで、心はうそ寒かった。
発砲した瞬間も、ただ、引き金の重さに驚いているうちに過ぎ去った。重かったけれど、ちゃんと弾は発射されてしまって、目の前の生物はモノに変わってしまった。
慌ただしいオフィス街の雑踏を、鞄の中に拳銃を入れて歩くうち、どんどん身体も冷えていく。
「わらびーもち」
オフィス街には不似合いな声が響き渡った。移動販売車だ。危なっかしいほどの年齢ではなさそうだが、かなり高齢の老人が運転していた。
唐突に、思った。
ああ、もう、自分はこんな普通の老人にはなれない。
「アイスクリーム」
もう、永遠に。
急に叫びたい気持ちになった。
朝戸の吐き出した血で、視界が赤く染まっていくような気がした。
そうや。
殺し屋なんて、きっとみんなそんなもんや。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
路地裏には、クーラーの室外機が置いてあって、熱気が充満していた。
彼女は室外機の下に手を伸ばして、黒いものを取り出した。
彼が近づく間もなく、「黒いもの」は、暴発した。
辺りが、赤く染まる。
「朝戸っ!」
こんなん、おかしい。
同じやないか。
運命は、なんも、変わっていない。
「山崎くん」
「何や」
「残念やけど、私は、自分が怖いなんて思ったことないねん」
「朝戸、喋るな――」
「人を殺す前の自分に戻りたいなんて、私が殺した人に失礼やもん」
「本気で言うてる?」
思わず聞いてしまう。
「どいて」
「は?」
それは質問の答えではなかった。
「どけや!」
凄まじい剣幕で迫られ、彼は横に退く。
朝戸ゆりかは、自前の拳銃を取り出して、躊躇いなく引き金を引いた。
路地裏に、切り裂くような断末魔の声が木霊する。
どさり、と大柄な男が彼の上に崩れ落ちてきた。
「あ、あんた――」
朝戸を発見した時、
「うわっ、何や」
とだけ声を発した、マスクをした男だった。
「お前、殺し屋になり損ねたな」
聞き覚えのあるくぐもった声が、囁いた。
まるで、自分と彼女にしか解らない世界を、誇るかのように。
「おい! どないしたんや……えらい血やないか!」
あの時と同じように、驚愕に満ちたおっさんの声が聞こえた。
「きゅ、救急車呼んでください!」
「お、おう!」
使命感に燃えたおっさんは携帯電話を持って、電波の悪い路地から離れる。
ぽつり。
また、降ってきた。
「朝戸」
彼は、動かなくなったモノを跳ね除けて、彼女に呼びかけた。
彼女は目を閉じている。
ざあざあ、と音を立てて水滴が踊る。
「朝戸……」
ぽつり。
声と一緒に、震えて、落下した。
不意に、朝戸ゆりかは目を開けた。
「傘、させへんの? 顔濡れるで」
「うん」
彼女の目は、きっとごまかせないだろう。
何せ、映画の出来に関しては感性が似ている。こんなお定まりの展開じゃ、怒られてしまう――しかし、彼女は笑って、こちらに手を伸ばしてきた。そして、嬉しそうに彼の頬を指で拭った。
「冷めてへんよ、君は」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「賭けをしようじゃないか」
鏡の中の私が言う。
「賭け?」
私は答える。
「君が彼を救えるか」
鏡の中の彼女は、クソまじめな顔でそうのたまうけど、私は可笑しくて、声を上げて笑ってしまう。
「私が彼を救う?」
冗談もほどほどにせえや、自分。
メールが来た。
『阿倍野シネマの裏 室外機の下 次の仕事に使え』
私は、殺し屋だ。
私は、人を救わない。
こうして殺し屋の彼女も、殺し屋の彼も、世界からいなくなった。
彼は、笑顔で横たわる彼女に、傘を差し掛けた。
BGM:『picture of world』(GARNET CROW)