⑧ラストラン
二〇一三年四月一〇日、午前三時一〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。
首都高速と中央自動車道の起点と言えば、高井戸インターである。
高井戸インターから中央道側に位置する大月ジャンクションの区間が、昨夜の二〇時三〇分から通行止めになっている。
八王子本線料金所周辺にも依然濃霧が立ち込め、いつもの混雑が嘘のように各レーンはひっそりと静まり返っていた。
当然ながら、通行車両の往来など全くあるはずもなかった。
この料金所に努める収受員たちにとって、霧による通行止めはいきなり降って湧いた天の恵みと言えるものだった。同時に時間を持て余すことにも繋がった。
ほとんどの収受員が長時間の仮眠を取る中、監視モニター画面の前で昔話に熱中する者たちがいた。
モニターの前に昨夜から椅子を並べ陣取っているのが、コスモスラインから転職してきた盛田、浅井、長尾、太田、広瀬と元公務員の小室である。
「これだけ視界が悪かったら運転するのは困難すぎますね。三〇キロが限界かな。いや、二〇キロかも知れないな。長尾さんだったらどれくらいの速度で走れそうですか?」
窓際から戻ってきた小室が、モニター監視中の長尾に聞いた。
「そうだな。おれだったら全く動けないかもしれないな。昔から霧は苦手だ。ところでさっき言いかけて止めたことだけど、守川さんは結局どうするつもりだったのだろう。なあ小室、知っているのなら教えてくれないか。浅井と広瀬がいないうちに頼むよ」
長尾は声を潜め、窓際の方を気にした。
「あれは勘違いと言うか、早とちりでした。たぶん守川さんだったらなんて自分勝手な空想に当てはめたのですが、それを言ったら場の空気がしらけそうだったので止めました。それだけです」
「おまえも二条倉庫の川野同様、謎めいたところがあるからな。前職は公務員で、しかもそれが元で離婚したとも聞いたが、もしかして国交省のキャリアだったのではないのか?」
長尾は、横目で小室を見つめた。
「離婚は関係ありませんよ。それにもしキャリアなんかにいたら、定年まで勤め上げますって」
小室は、長尾の視線を外した。
長尾が喋りかけたとき、邪魔が入った。
「あっ、盛田さんが帰ってきた。浅井、広瀬、こっちに来いよ」
太田の呼びかけに、窓の外を眺めていた二人は足早に戻ってきた。
「盛田さん、いきなりですみません。実はCL埼玉支店と高崎支店の専属だった足立物流についてですけど、秘蔵のネタなどあれば教えてもらえませんか? 確か所沢支店にも何台か出入りしていたと思うのですが」
言った浅井の横で、広瀬も頷いた。
「二人とも、窓際にいたのは目視観察のためかと思ったら、そんなことを話していたのか。わるいけど足立物流絡みの伝説はほとんど知らないよ。おれの場合協力会社との付き合いと言えば、この所沢をはじめ、隣の川越、それに八王子周辺の運送屋が多かったからな。足立物流は名前の通り埼玉の方だから、立寄りで荷下ろしに来る程度だ。発送の荷物を積むようであれば、付き合いも深くなるのだけど。それに風切りびとを名乗るとなると、片道五〇〇キロ以上の運行距離があって初めて意義がある。近場の定期で急ぐ必要はないだろ。そうなってくると自然に京都の東寺運輸、神戸の摩耶急送、そして明石に事業所を構えた水戸陸運になってしまう。ただ、黒木の裏番で所沢から明石を走っていた足立物流がいたけど、中央道での事故以来、自主的に速度制限を始めたらしい。だからその手の話は知らないな」
盛田は、お茶のペットボトルに手を伸ばした。
「聞くところによると事故を起こす以前は、あそこのドライバーも中央道で派手な走りをしていたようですから、一風変わった伝説の一つや二つあっても不思議ではないだろうと思いまして」
広瀬の発言に、今度は浅井が頷いた。
「なるほど。もう一つ言い忘れていたが、中央道を走るトラックでなかったらこの伝説が成り立たないのと一緒で、東名を走るトラックでなかったら成り立たない伝説もあるだろう。だから今度はおまえたち専用の伝説を仕立ててみてはどうだ。高崎だったら自動的に関越道になってしまうが、埼玉なら中央や東名より、東北道や常磐道を走ってくるトラックが興味深い伝説を持っているかも知れない。支店の数だけ、いやドライバーの数だけ伝説はあるのだから、いい物語ができるはずだ。二人とも分かってくれたかな? 少し前置きが長くなったが、待たせて悪かったな。今度の伝説は事故から一年目の出来事だ。それでは始めるとするか」
浅井と広瀬は、渋々「はい」と言った。
長尾、太田、小室の三人は、黙ってモニター画面を見ていた。
椅子に座った盛田はお茶で口を湿らせ、静かに語りはじめた――。
一九九七年の一二月一七日は、雪こそ降っていなかったが、全国的に北風の強い一日だった。
まるで一年前のような……。
一七時を回ったころ、CL明石支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。
所沢線と埼玉線の定期を走る水戸陸運の二台も、点検と給油を済ませ関東ブースに揃って入ってきた。
黒木と石井が互いの番線に並び終えたところへ、運行主任の名代が大きな紙袋を持って歩いてきた。
名代はプロフィアと810の真ん前で立ち止まると、黒木と石井を見つめ小さく手招きを始めた。
顔を見合わせた二人がキャビンの外へ出ると、名代が真剣な表情で声を掛けてきた。
「二人とも、今日はどっちを走るつもりだ? 今のところ両方とも快晴で事故の情報も無いようだが」
名代は、持っていた紙袋に手を入れた。
「いつも通り小牧から逸れるつもりです。所沢なのでそれしか考えていませんけど」
黒木は、慎重になっていた。
「実は二人にお願いがあるのだが。今日出発の車両は、フロントにこれを付けてもらいたくて。どうだろう?」
名代が紙袋の中から取り出したのは、小洒落たブラックリースだった。
それを黒木と石井に一つずつ手渡した。
「このリースは? 黒一色というのも渋いですね」
リースを手に取った石井は、まじまじと眺めた。
「今日は本田が逝ってちょうど一年目になる。それで鎮魂の走りを、ということで田辺さんからの差し入れだ。田辺さん曰く、本田に借りが残っていたらしいよ。義理堅いな」
名代は、小さく溜息をついた。
「あれからもう一年ですか。そう言えば最近、二六〇キロポストを通過するとき、路肩に置かれた花束を幾つか見かけました。先輩も見たでしょう?」
黒木は、輪の中から石井を覗いた。
「見たよ。その花束を踏みつぶす現場をね。あんただよ」
石井も、輪の中から覗き返した。
「風に飛ばされたみたいで、向こうからぶつかって来ました。そう言う先輩も踏みつぶしたでしょう?」
「ちゃんと避けたさ。ところでこのリース、田辺さん絡みですか。その借りと言うのは何でしょうね。迷惑でも掛けたのかな?」
輪の中にある石井の視線は、今度は名代に向けられた。
「相変わらず鋭いな。聞いた話では本田に急な頼みごとをしたときのことらしいけど。一切文句を言わず、笑顔で引き受けたそうだ。あいつ、さっぱりした性格だったからな。その原因というのがこの俺らしいよ。困ったものだ」
名代は苦笑いを浮かべ、石井は聞こえない素振りをしていた。
二人は運転席のルームミラーに、ため息の出るようなブラックリースを飾り、本田が逝って一年目の今日は追悼の意を込めて控えめに走ろうと窓越しに誓い合った。
ホームの中央では運行者たちが集まり、ミーティングが始まろうとしている。
右足首の骨折でトラックを降りていた杉田は、田辺に代わり今月初めから運行管理者になっていた。
杉田は、運転席に籠っている黒木と石井に声を掛け、運行者ミーティングを始めた。
「今日は明石支店初の死亡事故から丸一年が過ぎました。あれから幸いなことに人身事故件数ゼロ日を継続しています。この調子で今後とも安全運行をお願いします。次に社内連絡です。最近速度の出し過ぎによる大型車の事故が急増していることから、物流体制の見直し議論が盛んになってきました。その中で浮上してきたのは、大型車の最高速度を抑えるためにスピードリミッターの装着が義務化されるのでは、と言うことです。今日も運輸大臣が、『これさえ装着すれば、高速道路での事故は半減しますよ』などと、こちらからすれば厄介なことを記者会見で言っていました。今のところ実施時期などを含め、全てが未定との事ですが、いずれ強制的に施行されるかもしれません。これはドライバーだけの問題ではなく、物流業界全体を巻き込んだ論争に発展しそうです。詳しいことが分かり次第、追って連絡します。今日の出発予定時刻は、二一時三〇分です。ご安全に!」
運行経験のある杉田は、スピードリミッター装着には反対の姿勢を示した。
ミーティングの後、黒木と石井は黙々と積込み作業に取りかかった。
二一時になるころ、各番線を巡回していた杉田は埼玉の番線で立ち止まり、追い込み作業を始めた石井の元に駆け寄った。
「石井さん! 作業中に申し訳ないが、少しだけいいかな。最近あの二台を見かけることある? 白い光のあれだよ」
杉田は、なぜか小声だった。
「すみません。聞き取り難くて。あの二台って、二条倉庫のことですよね。杉田さんも一緒に走っていたのですか?」
積込みの手を止めた石井は、杉田に近づいた。
「一度だけ。二六〇キロポスト付近だったかな。桁違いのスピードで追い越されたよ。二条倉庫一九‐六〇、白いグレートの方だった。だから今でも二台で走っているのかなと思ってね」
杉田は、やけにそわそわしている。
「黒木がたまに連なっています。あの二人がスピードを下げているのか、黒木が上達したのか分かりませんが、最近ではどうにかついて行けるようになったみたいで、もう私なんか置いてきぼりです。そのうち黒木も神様になったりして。あっ、冗談です!」
石井は、軽く笑った。
突然真顔になった杉田は周りを警戒しながら、小脇に抱えていた袋に手を入れた。
石井は身構えた。
「石井さんという立派な先輩がついているから、黒木も大丈夫だろう。ところで頼みがあるのだが、このリースを上り線の二六〇キロポストから投げてもらいたいたくて」
早口で喋った杉田は、カラフルなリースを取り出した。
「まったく立派な先輩ではありませんが、リースのことは任せてください。本田さんという親友に対しての杉田さんのその思い、無駄にはしません。二六〇キロポストで必ず」
石井は、気持ちよく引き受けた。
『今流れている書類コンテナが最終荷物です』構内放送が流れた。
毎年この時期になると、溢れだす荷物の影響で集配者の午前中配達が完了とならず、その作用により結果的に運行者たちの出発時間を遅らせてしまう。
仕分けコンベアが片付けられ、追込み作業が開始されたプラットホームの上は、卸売市場のように活気付いた。
積込み台車が散乱する中をフォークリフトが走り回り、運行者、集配者、業務員の絡み合いが至る所で起こった。
この混雑が治まったころ、関東便の中でも最後に積込みが終わった水戸陸運の二人が、観音ドアを閉めてアイドリングを始めた。
二一時三〇分、CL明石支店のプラットホームからリースを飾った運行車両が次々に離れていく。
伝票重量八トンの積荷を背負った黒木のプロフィアと、伝票重量九トンの積荷を背負った石井の810が白一文字を小さく揺らし、明石支店を出発して行った。
二台の助手席の熊のぬいぐるみが、魔除けの顔で睨みを利かせていた。
事務所の中から出発風景を見守る視線があった。
「黒木のことだけど、本田に似ていると思わないか。まさかあいつの影を追いかけているのでは。おまえはどう見ている?」
営業課長になった田辺が、杉田に尋ねた。
「ブレーキを知らないところは似ていますが、先輩の石井さんが付いているので大丈夫ですよ。それにあいつを信じましょう。中央道の神様ですから、きっと守ってくれるはずです」
杉田は、胸を張った。
「いつの間にか本田のやつ、神様と呼ばれるようになっていたのか。あいつが平気な顔で安全運転指導者ですからと言っていたころを思い出したよ。一番似合わない言葉だったな」
田辺は、ポケットから取り出した本田の写真を杉田に渡した。
「その件については、おれも言っていたので、何とも」
写真を手にした杉田は、頭をかいた。
「さっきの石井さんだが、八王子ゲートで有名になった〝あの人〟と関係あるのか」
「一人娘だそうです。田辺さん、どうもありがとうございます。有志を募って何かをしようと考えていたところでした。リース代助かります」
「あぁ、いいよ。本田にはいろいろ無理を頼んだからな、遅すぎる対価だ。それよりおまえも小奇麗なリースを持っていたけど、どうするつもりだ。もしかして今から行くのか?」
「行きたかったのですが、外せない用事があって。残念です。それで石井さんに託しました」
語気が弱くなった杉田は、本田の写真から目を逸らした。
「お前もいいところがあるじゃないか。友を思う気持ちは素晴らしいものだ。さあ帰ろう」
田辺は、杉田の肩を軽く叩いた。
杉田は、無言だった。
テールランプの赤い帯が、三号神戸線に伸びている。
西宮ジャンクションから左に逸れた明石発の二台は、北風に向かって名神高速へと進路を変えた。
左カーブを曲がった先の赤い料金所では、水戸陸運の通過を心待ちにしている視線があった。
二二時一〇分、西宮ゲートの係員が、隣のレーンを通り抜けたプロフィアを振り返っている。
係員は、「背中が渋いね!」と石井に言った。
石井は、「どうも!」と返し、黒木のプロフィアに張り付いた。
中央道二六〇キロポストをめざした水戸陸運の二台が、黒いリースをルームミラーに掲げ、力強い加速で立ち上がった。
中国道と交わる吹田ジャンクションを過ぎたころから、ハザードの花が今夜も鮮やかに咲き始めた。
目の前で湧いてくる混雑ぶりに、いつものことだと諦め顔で走っていた二人だったが、京都南インターを通過した辺りで、国旗が目立つ黒塗りのバス三台が前方に現れた。
周囲の異変に気付いた石井は、携帯電話の発信ボタンを押した。
「前にいるバスだけど、ややこしそうだね。無益なバトルはなしだよ。あんた、分かっているのかい?」
「大丈夫です。先輩、安心してください。明石を出発したときから感情を捨てていますから」
黒木はリースを見つめ、携帯を置いた。
大音量で行進曲を流す三台のバスが、重量物運搬のトレーラーを追い越した後、そのまま追い越し車線に居座った。
関わりを避けたいドライバーたちは、遠巻きに眺めて走っている。
そのせいで、バスの周囲だけが広々とした空間を確保していた。
黒木と石井は、追い越し車線をのんびり走り続ける三台のバスに対し、徐々に苛立ちを募らせ始めた。
黒丸パーキングの先にある直線に差し掛かったとき、三台のバスが行儀よく走行車線に戻った。
開かずの踏切が上がるように、前へ出るチャンスがやってきた。
その隙を見逃さなかった二人が、即座にアクセルを踏み込んだ。
黒塗りのバス三台の横を、水戸陸運の二台が猛烈な加速で走り去った。
『小粋だね! 白一文字。ご安全に』
追い抜きざま、呑気な激励が外部スピーカーから流れてきた。
黒木と石井はハザードランプで応え、そのまま走り去った。
やっとのことでバスの前に出た二台だったが、覆面対策のため、一五〇の速度に抑えた走りで滋賀県内を通過した。
今須トンネルを静かに抜け出し、三九二キロポストにあるレーダーの視線もやり過ごした。
関ヶ原インターまで一直線に伸びる下り坂が、黒木の前でいきなり手招きを始めた。
表情が引き締まった黒木は、力任せに踏み込んだ。
吹田ジャンクションから溜め込んでいたストレスは、養老サービスエリアまでの一踏みで軽く吹き飛んだ。
弾けたように走り始めた黒木を、石井は気合を入れて追いかけた。
一宮インターまで続く直線で、水戸陸運の二台が眩しい走りを見せつけた。
三四一キロポストにある東名と中央の電光掲示板には、いつもと変わらず走行注意の文字が二つ並んで光っている。
追い越し車線を流していた黒木と石井が、走行車線へと静かに移った。
一二月一八日午前〇時一〇分、上り線を直進して行く車列の中に見慣れたテールが浮び上がってきた。
そのときが来るのを静かに待っている二人の前を、先頭切って明石を出発した名代が、数台の無線仲間と一緒に走っていた。
黒木と石井が迫ってきたことを察知した名代のテールから、挨拶代わりのハザードが一度だけ光った。
東名本線から左へ逸れる二人は、柔らかなハイビームを返し、さりげなく中央道へ進路を変えた。
一年前、本田が独りでたどった道のりを、リースを掲げた黒木と石井が弔うために走り始めた。
中津川インターを二〇〇超の速度で走り抜けた二台は、神坂パーキングの勾配を軽快なフットワークで駆け上がった。
後ろに張り付く石井が、携帯電話の発信ボタンを押した。
「今夜はどっちかのトンネルで、本田さんが待っているかも知れないね。なんだかそんな気がするよ」
石井は、ひらめきを言った。
「もしも待っているなら、網掛トンネルでしょう。恵那山トンネルなんか誰だって嫌いなはずです。空気は悪い上に、ただ長いばかりで面白くないし、おまけに不気味だしとにかく最悪です。それに今夜はイナズマまで出てきましたよ」
恵那山中腹を走った光を見て、黒木は語気を強めた。
小気味よい加速を続けるプロフィアと810は、横並びで恵那山トンネルに飛び込んだ。
横並びのまま網掛トンネルから出てきた二台だったが、二条倉庫に遭遇することはなかった。二人が抱いた僅かな期待は、この瞬間に消え去った。
トンネル出口から続く坂道を、一八〇に抑えた速度で下りてきた黒木と石井は、二六〇キロポストの表示板を目印に加速を始めた。
上空で轟く冬のイナズマが阿智パーキングに近づくにつれ、散らばっている花束に淡い光を刺し込んだ。
弔いの走りを続ける黒木が、クラクションを軽く叩いたときだった。
七速に入れていたギアが突然抜け、プロフィアのエンジンが吹き上がった。
黒木は中立になったシフトレバーを六速に入れ直し、何事もなかったようにアクセルを踏み込んだ。
このときリースを投げることに集中していた石井は、速度の落ち込みを見逃した。
分離帯めがけて石井が投げたリースは宙を舞い、橋の隙間から阿智の谷間に向けてひらひらと落ちて行った。
黒木と石井はルームミラーに掛けたリースを見つめ、散ってしまった本田に、鎮魂の祈りを捧げながら走り去った。
諏訪湖の黒い湖面が左側に見え始めたころ、一八〇くらいの速度でゆっくり流す二台の810が目の前に現れた。一気に追い越そうとした黒木だったが、守川と伊藤の810だと気付き、走行車線に残った。
黒木は、携帯電話の発信ボタンを押した。
「お疲れさま。黒木です。いま諏訪湖サービスエリア一キロバック、真後ろです」
「やはりそうだったか、お疲れ。守川さんがここで止まるみたいだから一緒に入ろう」
伊藤は、左の指示器を点灯させた。
「わかりました。後ろの石井さんに連絡します。それでは後ほど」
黒木は、すぐに発信ボタンを押した。
先頭の守川に続き、伊藤、黒木、石井の四台が連なり、諏訪湖サービスエリアの減速車線に流れ込んだ。
四人は駐車場の中央付近に停車し、その足で売店へと向かった。
「何事もなく順調だったようだな。ブラックでいいか? 自販機だけどコクと香りは一流だ」
伊藤が二人にコーヒーを渡すと、香ばしさが周囲に充満した。
「ありがとうございます。京都あたりで少しもたついただけで、それから先は順調でした。伊藤さんたちはなぜこんな時間に? 何かありましたか」
言った石井は、コーヒーを美味そうに啜った。
「今日は特別な日だから、守川さんと二人で阿智パーキングに立ち寄ったよ。久しぶりに入ってみたけど、中は相変わらず狭かった」
伊藤はコーヒーを両手に持ち、歩きながら喋った。
「伊藤さん、それって本田さんの追悼ですよね。ご苦労様です」
石井は、早々と飲み終えた。
「そう。駐車場の端っこから本線に向かってシャンパンを抜いたけど、結局足元にばらまいて終わったよ。少しかっこ悪かったかな。近くに落ちた雷鳴に驚いてしまって……、稲光のせいだ」
伊藤は、コーヒーを一口飲んでうなだれた。
石井は笑いをこらえ、話題を変えた。
「何とも伊藤さんらしいですね。すみません、冗談です。そうそう、私も杉田さんに頼まれてリースを投げました。二六〇キロポスト付近です」
何も知らなかった黒木は、伊藤と石井の会話に聞き入った。
「先輩、その話本当ですか? ぜんぜん知りませんでした」
「多分それは本田じゃなくて、一九‐六〇の川野だよ。あいつめ、どさくさにまぎれてこっそり捧げようとしたのだろう」
「なるほど。だから照れくさそうにしていたのか。これで納得できました。でもあの人、足立物流のドライバーに熱中していたはずなのに、隅に置けませんね」
石井は、ひとり頷いた。
「あいつ、本田が逝った後しばらく仕事から離れていたが、久しぶりに復帰した最初の運行で、二条倉庫一九‐六〇にあの場所で出会った。そのときに受けた衝撃が今でも忘れられないのだろう。川野が何処でどのような経緯をたどったのかは不明だけど、杉田にしてみれば、二六〇キロポストが神聖な場所になった。さらりとしたさそい風に射抜かれたと言うことだ」
伊藤がそう言うと、黒木が視線を合わせてきた。
「わたしが射抜かれたのも川野さんでした。あの走りを間近で見たら誰でもそうなりますよ。相手は中央道の神様ですから。でもあの二人、いつか必ず」
コーヒーを一気に飲んだ黒木は、むせそうになった。
「そんなこと言っていると、命が幾つあっても足りないよ。まあ、あんたの場合、一度散らなきゃ分からないだろうけどね」
石井は、黒木の背中をさすった。
「そう言えば、さっき阿智のコーナーで七速ギアが抜けました。聞いた話では本田さんのプロフィアも抜けていたとか。これって何かの前ぶれでしょうか? やばくないですかね」
黒木は、二六〇キロポストでの体験を語った。
「気にするな。プロフィアの宿命とでも言うか、良く聞く話だ。ですよね、守川さん」
伊藤は、咄嗟に守川の顔色を窺った。
「黒木、もう少し……、いや、ただの偶然だろう。それより今日はリースを付けたトラックを何台も見かけたよ。あいつらどういうつもりでいるのかは知らないが、不慣れな走り屋には違いない。どっちみち半端に走っているはずだから、そのつもりで。さあ行こう」
ギア抜けの話を聞いた守川は急に顔を曇らせ、その場を閉めるとすぐに席を立った。
守川を先頭に伊藤、黒木、石井が連なり上り線に復帰した。長坂インターの緩い勾配を二〇〇オーバーの速度で駆け下りた四台は、レーダーの危ない視線を無難にやり過ごし、須玉の最終コーナー手前で一八〇まで減速した。
安定した走りで魔の左カーブを立ち上がってきた四台は、冬色の葡萄畑が広がる甲府の街でフルスロットルに固定した。
「なあ鈴木、あれは新入りの山田と中田のようだが……」
佐藤は、すぐに双眼鏡を置いた。
「そのようだけど。二人とも、余計なことはするなよ!」
双眼鏡を覗いた鈴木は、唸った。
双葉サービスエリアの高台で、山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は普段使うことのない無線機に耳を澄ませた。
隊列を組んで走る四台が、境川パーキング二キロバックの表示板を通過したときだった。
ハイビームのぎらつく光が、遥か後方から激しく迫ってきた。
疾走している四台を猛追してきたのは、赤色灯を光らせ、サイレンを鳴らした一台のパトカーだった。
先頭を走る守川は、反射的に二〇〇超から一〇〇まで一気に減速した。
うしろに張り付く伊藤、黒木、石井も徐々に車間を開け、守川のスピードに合わせた。
だが、少し遅かった。
「そこの四台! 摩耶急送、東寺運輸、それに水戸陸運、速度を落として警察車両に続け」
四台に並びかけたパトカーは、更なる減速と停止の指示を荒々しく叫んできた。
パトカーに誘導され境川バス停に入った四人は、直列に停車した車内で行政処分になることをそれぞれが予感した。
二人の若い警官が、興奮した様子でパトカーから降りてきた。
警官二人は、先頭に停車している摩耶急送の運転席に駆け寄り、守川の足元で声を張り上げた。
「おい、お前たち気は確かか。スピードの出し過ぎだろ! もう少し考えて走れ。お前らのようなスピード狂は、中央道に入って来るな。さっさと降りてこい。早くしろ」
興奮し、険しい顔つきの警官二人が、運転席の下から激しくまくしたてている。
守川が適当にあしらいながら葡萄畑に囲まれた甲府の街を眺めていると、さらりとした風とともに白い光の束が近付いてくるのが見えた。
守川は、静かに身構えた。
上り線を猛スピードで走ってきた二台のトラックが、ストロボ以上の強い光を突き刺してきた。
若い警官二人の顔をピンポイントに照らしつけ、激しい風圧で体を揺さぶり、頭上から砂ぼこりを振り掛けて走り去った。
中央道の神様、二条倉庫の二台だった。
「何だぁ、あいつら正気か。いい気になりやがって。お前らはもういい! おい、あの二台を追いかけるぞ」
二条倉庫の挑発に素早く反応した警官二人は、守川たちへ向けていた怒りの矛先を素早く切り替え、パトカーに飛び乗り本線へと駆け出した。
「あの間抜けどもを何とかしろ!」
無線マイクを握りしめた佐藤が、珍しく怒鳴った。
「おい指令室、聞いているのか!」
鈴木も、指令室の通信員を相手に声を荒げた。
山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、今日も走り屋たちの側にいた。
パトカーが走り去った後、境川バス停に取り残された四人は、トラックの外に集まった。
「本田を弔うはずが、逆に助けられたな。黒木、今度は先頭を走ってくれないか」
つぶやいた守川は、夜空を見上げた。
「了解しました。それでは、気合を入れて行きますので、先輩、うしろを頼みます」
黒木は、真剣な表情になった。
「ああ、いいよ。後ろは任せときな。その代わりよく前を見て踏み込むんだね」
即答した石井は、黒木と先に乗り込んだ。
「守川さん、もしかして黒木がさっき言ったギア抜けの件が……、やはりそれですか?」
勘のいい伊藤は、守川に訪れた心境の変化を素早く察知した。
「なあ伊藤、もうこの辺で終わりにするか。老兵は死なず、ただ消え去るのみだ」
伊藤の気遣いを感じ取った守川は、伊藤の肩に手を添えた。
「分かりました。守川さん、風のようにさりげなく行きましょう。もう少しです」
バス停に取り残された四台のトラックは、そそくさと本線に戻って行った――。
「わるいけど、ちょっとだけ休ませてくれ。のどが渇いたようだ」
盛田は、お茶に手を伸ばした。
「守川さんは何を終わらせたいのですかね?」
浅井は、何気なく尋ねた。
「だから……、それを今から盛田さんが語ってくれるって。それより若い警官二人、後でこっぴどく叱られただろうな。浅井も似たところがあるから気をつけろよ」
ため息をついた長尾は、モニター画面に目を向けた。
「おれは真面目だからな。でも元はと言えば、佐藤と鈴木が走り屋を野放しにしているからだろ。この二人、長尾と一緒で何を考えているのやら?」
浅井は、威勢よく笑い飛ばした。
「佐藤と鈴木は中途採用で、以前はトラックの運転手だったみたいですよ。だからトラックドライバーの気持ちが分かるのではないでしょうか。佐藤元隊員の手記からですが」
小室は、すました顔で言った。
「おまえ、やけに詳しいな。その話、いつかまた教えてくれよ。それでは、守川さんが主役の後半を始めよう」
くるりと五人の様子を見渡し、盛田は物語に戻った――。
黒木が力強い加速を始めた。
石井、伊藤、守川もアクセルを踏み込んだ。
先頭のプロフィアに810の三台が張り付いて、勝沼インターから先の坂道をフルスロットルで駆け上がった。
笹子トンネルを二〇〇オーバーの速度で走り抜け、大月ジャンクションから先も、軽快なフットワークで走り続けた。
水を得た魚のように突き進む黒木に、石井、伊藤、守川の三人はアクセル全開で張り付いた。
午前三時、隊列を組んで走ってきた四台は横並びになり、長距離トラックがひしめく八王子ゲートをくぐり抜けた。
ハザードを点けながら追い越し車線に出た石井が、首都高速に向けて加速を始めた。
黒木、伊藤、守川の三台は軽いクラクションを叩き、国立府中インターの減速車線へと流れ込んだ。
国道二〇号線を少しだけ走った三台は、府中街道を所沢方面に向けて北上した。
午前三時四〇分、冷え込みが強まってきたCL所沢支店のプラットホームに、明石出発の黒木が入ってきた。
京都出発の伊藤と神戸出発の守川もすぐ後ろに続き、到着ホームには関西からの三台が同時に並んだ。
ホームの上で見ていたおれは、降りてきた三人に声を掛けた――。
「おはよう、今日は一斉にお出ましだな。途中で何かあったのか?」
おれは仕分人たちを招集し、三台の荷下ろしに取りかかった――。
「おはようございます。寄り道をしていたもので、少し遅くなりました」
黒木は、運行伝票を手渡した。
「今日は弔いのつもりで走ってきました。おはようございます」
伊藤は、いつになく神妙な表情で荷下ろしを始めた。
「そうだよな。あれから一年か。早いものだな」
おれはその意味を理解した――。
「ここに来ると落ち着きますよ。盛田さん、所沢は最高だ。おーいこれを引いてくれ」
曇り顔の守川は、遠くにいるフォークリフトを呼んだ。
「急にどうした。守川さん、後で食堂に行こう。おれも休憩するよ」
おれは、守川の様子が気になった――。
手慣れた仕分け人たちは、一〇分そこそこで荷下ろしを終わらせた。
空車になったトラックを駐車場に移動した三人は、食堂で待っていたおれにココアを差し入れてくれた――。
「うれしいね。こころまで温まるよ。ところで仲間って、いいものだよな」
「盛田さんこそ急にどうしました? おれたちみんな仲間じゃないですか」
仲間意識の強い守川が言った。
その横で、伊藤と黒木も頷いた。
おれは、三人にもらったココアの缶で手先を温めながら、切りだした――。
「仲間を思うということは偉大なものだよな。ここにもココアがあるだろ。実はおれたち仕分けスタッフは、午前〇時三〇分から交代で休憩を取るのだが、今日はどういう訳か到着荷物が多くてなかなか食堂に行けなかった。結局到着車両が途切れてきたのは、三時を回ってからだった。ついさっきだよ。そのときを見計らって、アルバイトの連中や他の社員たちを先に食堂へ向かわせ、おれは一人ホームに残った。おれが言うのも変だが、誰もいなくなった到着ホームはそれまでとは違い、急に静まりかえっていて何となくいつもと違った。そのときホームの上を風が吹き抜けた。やけにさらりとした風とでも言ったらいいのか、とにかく気持ちいい風を感じた。ちょうどそこへ到着便が二台連なって入ってきたんだ。初めて見る白いトラックだったけど、道に迷ったみたいですぐに方向転換して出て行ったよ。一台は女性ドライバーで、もう一台は分からずじまいだ。ここの水銀灯では薄暗くて社名もはっきり見えなかったが、方向転換しているときに目に留まった車番が、九四‐五一と一九‐六〇だった。それに熊のぬいぐるみが置いてあったのを見て、そのトラックが二条倉庫だったのだと後になって気付いたよ。車番のことなど完全に忘れていたから、気付くのが遅れてしまった。まったく後の祭りさ。その二台を見送った後、おれの机にこれが置いてあったんだ。何でもこれは特別なココアのようで、裾野のとある喫茶店にしかないものだと本田に聞いたことがある。そう、まさかここに本田がやってくるとはどうしたものかと思ってね」
おれは、つい先ほど体験した不思議な出来事を三人に話した――。
伊藤も黒木も黙りこみ、守川は裾野の缶ココアを手に取り、「来ましたか」と、それだけ言って窓の外に目を向けた。
黒木と伊藤がそれぞれの仮眠室に消えたあと、おれは守川と二人だけになった――。
「守川さん、寮はすぐ横にあるし、軽くやるかい。青森の地酒があるよ」
仕事を早めに切り上げるつもりのおれは、守川を誘った――。
「少しだけやりますか。今日は特別な日だから、神戸ワインを持って来ました」
守川は頷き、盛田の部屋へと向かった。
「なあ守川さん、もしかして引退するつもりじゃ?」
おれには直感するものがあった――。
地酒を一口あおった守川は、しみじみと語りはじめた。
「分かりましたか。近ごろつくづく考えていたのですが、このまま走り続けたら、黒木を本田の二の舞にしてしまいそうです。それと言うのも黒木は、いっぱしの風切りびとになった気でいます。風のようにさりげなく、を合言葉に自分たちは走っているつもりですが、それは愚か者にならないための自己啓発を込めたものです。 あいつはそのことを少し勘違いし、二条倉庫を目標にしてしまいました。深追いすれば散ってしまうという現実を見失い、一線を越えようとしています。あのころの本田と全く同じです。今まで多くの走り屋たちがやられた事故には、中央道に吹き荒れる風が絡んでいます。危険で魅力的な風にしろ、さらりとした風にしろ、風を切りそこなった者の末路は儚く散って終わりです。
程々の状態に満足せず、一線を越えてまで挑み続けようとする思いが芽生えたとき、あの世に行って頂点を極めることになるのです。魔性が宿った中央道の神様など、所詮愚か者に変わりありません。そのことをあいつは分かっていない。愚か者は刺激を求めて中央に流れ、最後は派手に散って行く。風は切るもの、呑まれたらおしまいだ、と云うことを。
でも、本田や黒木をそこまで駆り立てた原因は、自分にもあると思っています。そのことについては、いつの日か盛田さんにも詳細を話すつもりです。近いうち本田を見かけたら、話しかけてみます。聞いてくれるか分かりませんが、こうなった以上、あいつに頼むしかありません。その代わりと言っては何ですが、自分も中央道から離れるつもりです。風切りびとですから禁じ手を使う以上、最後は風のようにさりげなく終えなければ示しがつきません」
語り終えた守川は、湯呑に神戸ワインを注いでくれた。
おれは、ワイングラスを持ち合わせていなかった――。
「風切りびとのルールとやらを貫いてのことだろうが、終えるという表現は良くないな。せめて身を引くぐらいにした方がいいと思うよ。ごめん、能書きが過ぎたな。あんたはもう十分走ってきた。風切りびとなんか辞めて残りの人生、地に足の着いたスローな生き方をするのもいいと思うがね。好きな俳句でも作ってさ。
所詮トラックドライバーに要求されているのは、安心と安全を前提にした機械のような正確さだけだし、発送された荷物が時間通り何事もなく最終地点に到着すればいい訳で、途中で何があろうがおかまいなしだ。必要とされるのは一流の黒子。そこにはドライバーの苦労話しや感情は一切必要のない世界だから、まったく影の薄い仕事だよ。唯一自分を主張できるのは、走っている瞬間だけ。もう荷物なんか背負わなくてもいいだろう。あんたの言う通り、誰も傷つけずに済むのなら、その方がましだよ。辞めちまいな。みんな分かってくれるさ。もちろん本田にも伝わるだろう。あいつのことだから、すでに気付いているかも知れないよ。神様なのだろ、二条倉庫は?」
おれは、お返しに守川の湯呑に地酒を注いだ――。
「それを期待しています。勘のいいやつでしたからね。ただ二条倉庫にはもう一人川野という女性ドライバーがいるのですが、これがまた役者なのか、いまひとつ分からない所がありまして。盛田さんのおっしゃる通り、俳句でも作るとするか」
守川は、湯呑を握りしめた。
ヒーローと呼ばれながら中央道の風に逆らい続けた走り屋たちの末路を誰より知っているつもりの守川は、黒木の心に潜む愚かな思いを消し去ろうと考えた。
そして守川自身も、きっぱりと退く決意をした。
中央道への未練をこの瞬間に断ち切ったようだった。
「あー、これでスッキリしました。ありがとうございます。うちの事務所に連絡してきますので、少しだけ待っていてください。後で飲み直しましょう」
守川は、すっきりとした表情になっていた。
「おれは話を聞くだけで酒を注ぐことしかできないからな。こんなおれで良かったら、いつかまた詳しい話を聞かせてくれないか。とりあえず会社に報告だな。待っているよ」
守川が戻ってきてから、二人の話はしばらく続いた。
一七時一〇分、CL所沢支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。
給油を済ませた守川、伊藤、黒木の三台が、それぞれの番線に入ってきた。
ホームの中央にいる加藤は、木枯らしに吹かれながらマイクを握りしめた。
「お疲れさまです。年末が近づくにつれ物量が増えています。車両事故はもちろんのことですが、荷物事故についても、積み下ろしの際は細心の注意を払うよう心掛けてください。もう一点、誤配防止のために徹底した住所確認をお願いします。出発予定時刻は二一時三〇分です。以上!」
ミーティング終了後、守川は事務所に呼ばれた。
おれは、伊藤と黒木を食堂に誘った――。
「さっき盛田さんに聞いたのですが、今年いっぱいで引退するって、本当ですか?」
真剣な表情の加藤は、守川を椅子に座らせた。
「あっ、ありがとう。迷っていたから報告が遅れたけど、最近やっと決心がついてね。急な話だがそうさせてもらおうと思って……。運行計画のことで加藤さんには迷惑をかけたりしないよ。おれたちは到着時間に追われながらアスファルトの上で体を張って生きている。それに、一線を超えないよう心にブレーキを掛けることもわきまえている。全てにおいて自己責任という意識と覚悟で走っている。しかしそのようなことはお構いなしに、スピードリミッターを絶賛する大臣を見ていて思ったことだよ。
業界の悪い仕組みを変えようとはせず、速度制限ばかりに目を向けている奴らを見ていると、荷物を背負ったまま散って行った仲間たちの儚さを思い出してしまう。辛いものがあるよ。スピードリミッターに縛られてまで走り続ける自信などないね。臆病者なのか、愚か者なのか、もうおれの出る幕じゃないことだけは確かなようだ。だからこの辺で身を引きます」
加藤に本当のことを言えなかった守川は、スピードリミッターを第一の理由にした。
「そうですか。もっと深い理由があるのかも知れませんが。本当に残念です。荷主の要求に弱い運輸業界だから、しばらくはスピードリミッター装着論には反対すると思われます。ですが、結局のところ安全第一を引っ張り出されてはどうすることもできません。
国の方針で、これから年々走りにくくなるようです。失礼ですが、それを思うと守川さんにはちょうど良い時期なのかも知れませんね。ところで引き継ぎはいつごろ?」
加藤は話の途中、壁に掛けてあるカレンダーに目を向けた。
「次は女性ドライバーで、斉藤さんの娘だよ。親に似て元気者だから、黒木の仕事仲間にぴったりだ。もしかすると今日が最後の運行になるかも知れないな。加藤さん、色々とお世話になりました」
守川は立ち上がり、深く頭を下げた。
「斉藤さんの娘か、楽しみですね。守川さん、こちらの方こそ助かりました。長い間本当にご苦労様でした。またいつでも遊びに来てください。待っています。それでは最後まで安全運行を!」
頭を下げた加藤は、握手を求めてきた。
会話を終えた守川は、壁掛けカレンダーの横にある桜の風景写真をじっくりと眺め、それから食堂へ向かった。
あいにくテーブルが満席で、おれたちが座っている一つ隣のテーブルに守川は座った――。
「黒木、食事しながら聞いてくれ。これは今までの経験で分かったことだ。魔風には毒があり、そして華もある。もう一方のさそい風には、その毒を分かり難くするような甘い蜜の香りがある。こっちのほうが厄介だぞ。だから知らない間にやられてしまう。いいか、絶対に一線を越えるなよ。それだけだ」
守川は、背中越しに話し掛けてきた。
いきなりだったが、黒木は「はい」と言った。
おれも伊藤も、黙って聞いた――。
守川、伊藤、黒木の三人は食事を済ませた後、それぞれの番線に戻り積込み作業を始めた。
おれは普段通り伝票仕分けをしていたが、もしかすると最終日になりそうな守川のことを思い、神戸の番線を覗きに行った――。
『今流れている書類コンテナが最終荷物です』構内放送が流れた。
ホームの上では、運行者たちが追い込み作業に入った。
二一時になるころ京都、神戸、明石の番線に流れてきた荷物は全て片付いた。
運行伝票を手にした三人は、観音ドアを閉めてアイドリングを始めた。
守川の810から吐き出される排気音が、所沢支店の構内に寂しく響いた。
二一時二〇分、CL所沢支店のプラットホームから運行車両が次々に離れていく。
左手を上げた黒木が、セカンドギアにクラッチを繋いだ。
伊藤と守川が乗る二台の810も、プロフィアに続いてゆっくりと動き始めた。
最後に出発していく守川が、プラットホームに向かってクラクションを叩いた。
おれは左手の代わりに、軽く頭を下げた――。
構内出口のカーブミラーに映る守川の810は、この日を境に姿を消した。
黒木が先頭になって府中街道を走り、伊藤と守川がすぐ後ろに連なっている。
三台が国立府中インターから中央道の下り線に合流したとき、黒木の携帯に着信音が響いた。
「黒木、今どこ? こっちは一六キロポストを過ぎたところだよ」
埼玉帰りの石井からだった。
「先輩、いつも早いですね。いま国立府中インターだから、たぶん同じくらいになると思います。あっ、これですね」
アクセルを踏み込む黒木は、サイドミラーを覗き込んだ。
本線に合流した黒木と伊藤の間に、ハザードを点けた埼玉帰りの石井が入り込んだ。
黒木を先頭に石井、伊藤、守川の三人が連なり、レース前のウォーミングアップが始まった。
石川パーキングを過ぎた四台の前に、グリーンシグナルを点灯させたにぎやかなスタートラインが見えてきた。
二二時〇〇分、横並びになった四台が一斉に八王子ゲートをくぐり抜けた。
力強い加速を始めたプロフィアに、三台の810がぴたりと張り付いている。CL協力会の綺麗な隊列が整った。
大月ジャンクションを二〇〇オーバーで通過した後、なだらかな坂道を四台は余裕のトルクで駆け上がった。
笹子トンネルにフルスロットルで駆け込むプロフィアを追いかけ、三台の810もあとを追って流れ込んだ。
トンネルの中央に差し掛かったとき、四台の周りをさらりとした風が吹き抜けた。
隊列を組んで走っている四人の視界が、スローモーションの流れになり始めた。
同時に、アンカーを務める810のサイドミラーにも眩しい光が映り込んだ。
間もなくして、守川の背後に二つの白い光がぴたりと張り付いた。
真の走り屋の前にしか現れない白い光、中央道の神様だった。
サイドミラーの中から一瞬のうちに飛び出した白い光は、最後尾を走る守川の右横に並び掛けた。
一九‐六〇の白いグレートの後ろに、九四‐五一のプロフィアが続いた。
二条倉庫の二台は、守川の横を緩やかに流した。
暗がりの中で左手を上げている本田が、スローモーションの中を並走している。
魔性の車番、九四‐五一が右横に張り付いた。
守川は素早くルームランプを点け、並走する白いプロフィアに向かって心の中で話しかけた。
『夢のようだ。あれから一年が過ぎたが、今でも〝風のようにさりげなく〟を胸に走っているみたいで嬉しいよ。本田、一つだけ頼みがある。少し面倒かも知れないが、引き受けてくれないか。それはな、仲間のことだ。近い将来黒木が散ると見越した誰かが、シグナルを送り始めたようだ。このままだと、何も分かっていないあいつが一線を越えるのは時間の問題だろう。だから黒木を呼びこまないでくれ。その代わり、おれも今日を最後に中央道から身を引こうと思っている。風切りびとの掟〝風のようにさりげなく〟は、最後まで守り通すつもりだ。これで魔性の車番も見納めになるが、全ては自業自得だな。楽しかったよ』
守川は、一心に思いを伝えた。
プロフィアから、軽いクラクションが返ってきた。
ハザードを点けた一九‐六〇の川野が、先頭を走る黒木の前にさらりと入った。
守川の横に並んでいた九四‐五一の本田は、普通であれば追い越して行くはずなのに、何故か再び守川の後ろに回り込んだ。
ここでスローモーションの流れも終わり、二条倉庫がCL協力会の四台を挟み、中央道最速の隊列を組み上げた。
サイドミラーを睨む守川の目には、過ぎ去りし日の本田が映っていた。
勝沼の下り坂で先頭に立った川野は、電光掲示板の文字を、『さあ一緒に走りましょう!』と差し替えた。
息の合った六台は、勝沼インター付近の勾配を二〇〇オーバーのフルスロットルで駆け下りた。
冬色の葡萄畑が広がる甲府の街が、束になった六台を優しく迎えてくれた。
「なあ鈴木、今夜の白い光は一段と眩しいぞ。ところで山田と中田、どうしたのだろう?」
佐藤は、早々と双眼鏡を置いた。
「特別に言い聞かせてやったよ。白い光と風切りびとには手出し無用だと」
鈴木は、双眼鏡を手に取った。
山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、双葉サービスエリアの高台から今夜も本線を見下ろすだけだった。
須玉インターから続く長い坂道を一気に駆け上がった六台は、岡谷ジャンクションから先も胸のすくような安定した走りを続けた。
月明かりの駒ヶ岳と星空に映える南アルプスの山々が、守川のラストランに花を持たせてくれた。
最高の走りを演じ続けた守川の中央道伝説は、ここに終わった。
「これで一年目の伝説は終わりだ。結局本田の追悼より、守川さんの引退話になってしまったな」
盛田は背もたれを倒し、後ろにのけぞった。
「思いたくありませんが、黒木は川野に引き込まれようとしているのですかね?」
広瀬も、盛田のようにのけぞった。
「それはないだろ。だって、本田の仲間だぞ。それを言ったら川野の兄も引き込まれたことになる。確かに謎めいてはいるが、さすがにそこまでの黒幕ではないだろう」
太田は、のけぞらず背筋だけを伸ばした。
「本当はさそい風のほうが、魔風より始末が悪かったりして。見方によっては十分あり得る話だと思うがね。あっ、危ないだろ。倒れて頭でも打ったらどうするつもりだ」
広瀬は、背もたれを倒した状態で喋った。
そのとき浅井と長尾が、広瀬の両足を抱えた。
広瀬以外は笑っている。
「いつの日か詳しいことを話す、と言っていましたが、守川さんから何か話はありましたか?」
騒がしさの中、小室は盛田に視線を向けた。
「あったよ。もう少し後の話になるけど楽しみにしていてくれ。それでは次の伝説へと進む前に、少しだけ休憩時間を取ろう」
盛田は、ゆっくりと上半身を起こした――。