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⑦走り屋再来

 二〇一三年四月一〇日、午前二時三〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。

 中央道の高井戸インターと大月ジャンクションの間が、昨夜の二〇時三〇分から通行止めになっている。

 その状況は、依然として変わっていない。

 おまけに通行止めが解除になりそうな気配は、今のところ全くなかった。

 今夜出勤している収受員たちは、絶好の機会とばかりに仮眠を取る者が多かったが、目の堅い連中は将棋や小説、テレビの深夜放送に時間を充てたりもした。

 要するに、収受員のほとんどが待機の時間をもてあましていた。

 管理事務所の中では浅井、長尾、太田、広瀬、小室、そして盛田の六人が、監視モニターを時々覗きつつ、一五年以上前にあったとされる中央道伝説に花を咲かせていた。

 物語が後半になるにつれ、場の空気も盛り上がりを見せた。

 脳梗塞を発症したことのある盛田の語りも、何の問題もなく完璧だった。

「次は、『新しい走り屋たちの伝説』だと先ほど聞きましたが、いよいよ登場してきますか、あの女性ドライバー」

 浅井は、含み笑いを始めた。

「いかにも自分だけが知っているように余裕をかましているけど、おまえは会ったこともないだろ。それに下心が見え見えだ。女性だと思ってなめてかかったら怪我するぜ」

 長尾は鼻で笑った。

「盛田さん、こいつらの言うことは無視して物語をはじめてください。はぁー」

 浅井と長尾のやり取りに、広瀬は深いため息をついた。

 太田と小室は、黙ってモニター画面を眺めている。

「いいだろう。整理はできている。それでは中央道伝説の第二幕を始めよう」

 盛田は、五人の顔をさっと見まわし、ゆっくりと語り始めた――。


 一九九七年の四月一日になった。

 春の訪れが遅いCL明石支店の構内に、プレートナンバー五五のプロフィアが入って来たのは一七時を少し回ったころだった。

 シルバーのキャビンと観音ドアに描かれた白一文字、あの〝水戸陸運〟である。

 本田が抜けた後コンテナ輸送になっていた所沢線を、今日から水戸陸運が定期で走ることになった。

 ドライバーは女性だが、なかなか攻めの走りをするという評判の黒木紗希二七歳で、さらっとした男勝りの性格をしていた。

 その黒木も水戸陸運に入社して五年になるが、中央道を走った経験がまったくなかった。

 五年前に起きた八王子ゲートでの乱闘騒ぎで、水戸陸運には中央道通行禁止令が言い渡されたからである。

 あれから五年、水戸陸運のドライバーは真面目に東名を走り続けた。

 そしてこのたび、一九九七年三月末日をもって通行禁止令が解除されるのに合わせ、四月一日付で水戸陸運兵庫事業所を神戸市内に開設した。

 もちろんコスモスラインの専属で、記念すべき第一便として黒木が明石支店から所沢定期を走るという訳である。

 ホームに駆け上がった黒木は、所沢の番線を見渡した。

 マイク片手にミーティングを始めようとしていた田辺が、全く要領を得ていない黒木を呼び寄せた。

「みなさんもご承知のとおり、明石から所沢の定期が本日より再開されました。明石出発を水戸陸運、所沢出発を足立物流が受け持ちます。なお水戸陸運につきましては、神戸市西区に兵庫事業所が開設されました。今後は兵庫県内のCL各支店から、主に関東方面への定期を組んでいただく予定です。それに伴い配達区域が変更になる地域が発生しますので、荷物の取り扱いには十分注意してください。今日の出発予定時刻は二〇時三〇分です。ご安全に!」

 田辺は、黒木を簡単に紹介した後、杉田だけをその場に残した。

「おまえが要望していた所沢線の件だけど、上田さんは回復が早かったから来月には埼玉定期を走ってもらえそうだが、村井さんのほうはまだ車椅子に乗ったままだ。多分あと半年は無理だろうな。杉田、もうしばらく埼玉線で頑張ってくれないか? 支店長にも頼んでみたのだが……、すまないな」

 田辺はみるみるうちに、ゆがんだ表情を作った。

「埼玉線で頑張ります。無理を言ってすみませんでした。その代わりと言っては何ですが、この件とは関係なく一度だけ高崎支店に行かせてもらえませんか? 満開の桜を見たくて」

 杉田はこの時点で諦めた。そして本田と約束していた高崎行きの話題に変えた。

「それくらいだったらいつでもいいぞ。何なら次回でも組んでみようか?」

 田辺の口元が、微かにほころんだ。

「残念ですが肝心な桜が咲いていません。来週の後半でお願いします。それでは積込みがありますので」

 埼玉の番線に引き上げる杉田は、心もち肩を落とし気味だった。

 年度末の忙しさも峠を越したようで、明石支店に集まってくる物量は落ち着きを取り戻していた。


 所沢の番線で積込み中の黒木は、初めて取り扱う荷物を思いのほか上手に積込んだ。荷室の八割ほど積み終えたころ、隣の番線で積込みをしている杉田の元へ挨拶がてら覗きに行った。

「杉田さん、お久しぶりです。年末以来ですか。あのときは本田さんもいましたね」

 黒木は、語気を弱めた。

「あれから四か月か、また会えて嬉しいよ。本田のことは聞いただろ?」

 作業の手を止めた杉田は、積込み台車に腰を下ろした。

「はい。聞いたときは驚きました。盛田さんによると最後まで執念の走りだったとか」

 黒木も同じ台車に腰を下ろした。

「信じ難いが確かにそのようだ。切りそこなったけど、あいつなりに風切りびとを貫いた結果だろう。あの夜、あいつは猛スピードで駆け抜けた。一三六キロポストのオービスが、白い光の束を捉えていたそうだ。計測不能らしいよ」

「それって新幹線並みでしょう。だけど、あれほどの走り屋でも簡単に呑まれたと言うことでしょうか?」

 黒木は、真剣な表情になった。

「さあ、どうだか……。心地よく吹き抜ける危険で魅力的な風、魔風に呑まれたと周りはいっているけど、おれが思うに、『優しく包みこんでくれるさらりとした風、さそい風に背中を押され助かったことがありました。さそい風はおれたちの味方だと思うのですが』と、本人が言っていたくらいだから、迷ったあげく、わざと呑まれたのかも知れないと思っているんだ。超えてはならない一線を越えてまで、二条倉庫の白い光を追いかけた。そして中央道の神様になってしまった。だから事故の後、みんなの前に違和感のない幻影として出て来たのも納得いくよ。これはあくまでおれの仮設だが」

 杉田は、満足げな表情をした。

「盛田さんも、それらしいことを言っていました。じつは去年の年末、所沢の食堂で本田さんに初めて会ったとき、夜の中央道を一緒に走ってみたいと本気で思いました。優しく包みこんでくれそうな、さらりとした風を感じたからです。でも本田さんの裏番だから、すれ違いのまま一緒に走ることなど出来なかったのですけどね。ただただ残念です」

 黒木は、深いため息をついた。

「大丈夫! 守川さんと伊藤さんが、須玉の最終コーナーで遭遇したみたいだから。魔のカーブを二〇〇オーバーのスピードで走り去った二条倉庫のドライバーが本田にそっくりだったらしく、『本物の神様になって帰ってきやがった』なんて言っていたよ。あいつはコスモスラインの運行者だったが、あの世で二条倉庫に再就職したみたいだ。思い存分走らせてくれるところへ行きたいと常々言っていたからそれを実行したのだろう。だから必ず会える。真の走り屋の前にしか現れない白い光、中央道の神様に」

「いつの間にか二条倉庫に変わっていたのですね。やっぱり本田さんと一緒に走ってみたくなりました。わたしもいつか必ず、二条倉庫を切ってみせます」

 黒木の瞳が急に輝いた。

「そうは言っても、〝愚か者は刺激を求めて中央に流れ、最後は派手に散って行く。風は切るもの、呑まれたらおしまいだ〟と先人たちが言っていたくらいだから、お互い気を付けようや。でも何故だろう、あいつと話しているような気になるのは?」

 杉田は、本田と黒木を重ね合わせていた。

「わたしは散ったりしません。愚か者ではなく、本田さん以上の風切りびとになります」

 黒木は胸を張った。

「志が高いのは良いが無理は禁物だな。あいつを目指したかったら、まずはルールを守ることだ。本田のやつ、今でも〝風のようにさりげなく〟の精神を守って、夜の中央道を走っているはずだから。それにしても雰囲気が本田にそっくりだな」

 杉田は、まじまじと黒木を見た。

「そんなに見つめられたら照れると言うか、走り屋の血が騒ぐと言うか、変な事を言ってすみません。でも、いい響きですね。風のようにさりげなく、ですか。わたしもその精神を受け継ぎます」

 黒木は、照れ笑いをした。

 そこへ通りかかった名代が、黒木と杉田の会話に入ってきた。

「安全運行にふさわしい走りを忘れずに! 小田原、厚木定期の名代です。よろしく」

「こちらこそよろしくお願いします。わたしは安全運転指導者ですから大丈夫です」

 黒木は、誰にでもこの調子だった。

「本田にそっくりだな。今日から中央道を走るそうだけど、慣れるまで絶対無理をしないこと。特に風を切って走ろうなどとは、思わないことだ。あくまで運行主任としての意見だが」

 名代は、黒木の肩をポンと叩いた。

「はい。気を付けます。見通しのきかないコーナーでは減速を! これが一番大事ですね」

 黒木は、ぺこりと頭を下げた。

「そうだが……、まいったな。少し時間があるからコーヒーでも飲みに行こう。杉田もどうだ?」

 名代、杉田、黒木の三人は、積込みが忙しくなる前のちょっとした休憩に向かった。

 自販機の前で軽く立ち話をした後それぞれの番線に引き揚げ、残りの荷物を積込んだ。

『今流れている書類コンテナが最終荷物です』構内放送が流れた。

 仕分けコンベアの停止ブザーを合図に、出発と到着の準備が同時に始まった。

 混雑のピークを迎えたホーム上では、運行者たちが追込み作業を始めた。

 明石支店の荷物を初めて扱う黒木も、バランスの取れた荷物の配置と荷崩れ防止を済ませ、運行伝票の置いてある事務所へ向かった。

 黒木が入って来るのを見た田辺が、すたすたと近寄ってきた。

「所沢線の運行重量は、伝票重量が八トンで実重量四トンだったよ。以前とほとんど変わりないようだ。それと今度の日曜日だけど、君たちの歓迎会を予定しているんだ。場所は老舗料理屋の高級懐石だからそれなりに期待していいよ。都合はどうだろう?」

 田辺は、運行伝票と一緒にパンフレットを手渡した。

「はい。大丈夫です。〝君たち〟と言うことは、まだ他に誰か新入りの人が来るのですか?」

 黒木は、田辺の顔を覗きこんだ。

「そのうち出会うよ。一応黒木さんは出席ということにしておくから。それでは中央道の初走行、ご安全に!」

 田辺は、語気を強めた。

「この日のために気合は十分です。田辺さん、歓迎会を楽しみにしています」

 黒木は左手をあげた。

 関東ブースに戻り観音ドアを閉めた黒木は、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。

 新たな走り屋を思わせる乾いた排気音が、明石支店の構内に響き始めた。

 そしてプロフィアの背中には、それまで隠れていた白一文字がようやく姿を現した。

 二〇時二〇分、CL明石支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。

 セカンドギアにクラッチを繋いだ黒木が、アクセルを軽く踏み込んだ。

 車体を小さく揺らしたプロフィアは、構内出口に向けてゆっくりと動き始めた。

 遥か遠くの八王子ゲートを目指し、輝かしい初運行の幕は上がった。


 黒木にとって、何もかもが初めての体験だった。

 明石を出発した後、第二神明を経て阪神高速に入り、自然渋滞で混雑する三号神戸線をだらだらと走り続けた。

 西宮ジャンクションから左に逸れた黒木は、路線トラックの集団にまじって名神高速へと流された。

 左カーブを曲がった先の赤い料金所には、水戸陸運の通過を待ち侘びる係員の姿があった。

 二一時一〇分、西宮ゲートをくぐる際、プロフィアの車体に熱い視線を送る料金所の係員が、何かを言いたげに通行券を渡してくれた。

 黒木は左手を上げ、セカンドギアから再スタートを切った。

 力強い加速で立ち上がってきたプロフィアは、西から吹いてくる春風に背中を押され、タイムアタックの舞台へと押し上げられた。

 中国道と交わる吹田ジャンクションでは、白一文字に群がる路線の走り屋たちが、虚しいだけの団子レースを仕掛けてきた。

 天王山トンネルから始まった自然渋滞は栗東インターまで続き、突如として起こる本線停止が黒木のデビューに不気味な花を添えた。

 日野プロフィアL‐6ターボ七速四四〇馬力を楽に乗りこなしている黒木も、名神上りの混雑ぶりに運転ペースを乱された。

 杉田の助言に従い、滋賀県内を一五〇に抑えた速度で流し、春の陽気に包まれた今須トンネルを静かに抜け、レーダーのあぶない視線をやり過ごした。

 その先の下り勾配が、我慢の走りを終えた黒木に手招きを始めた。目つきの変わった黒木は、プロフィアのアクセルを軽く踏み込んだ。

 滋賀県内で溜まった不完全燃焼ガスを、高回転になった過給機が一気に吐き出してくれた。

 小牧インターを過ぎて出てくる東名と中央の電光掲示板には、走行注意の文字が二つ並んで光っている。

 水戸陸運のドライバーたちは五年の間、中央道の表示板から目を背けてきた。

 悩ましい日々は昨日で終わった。

 今日からまともに向き合える喜びで黒木の胸は高鳴り、東名本線から中央道に逸れていく瞬間を待ちわびていた。

 追い越し車線から早めに左へと移った黒木の前に、中央道の表示板が見えてきた。

 二三時二〇分、東名本線を直進していくトラックの車列から左に逸れたプロフィアが、さりげなく中央道へ流れ込んだ。

 五年前に言い渡された通行禁止の処分以来、水戸陸運のトップを切って中央道に踏み込んだのは黒木だった。

 手探り状態で走りだした黒木は、内津峠に続く坂道を無心に駆け上がった。

 黒木の中央道伝説は、このときから始まった。

 小牧ジャンクションから瑞浪インターまでは、高低差とカーブが連続するテクニカルコースになっている。

 手汗をかいてハンドルを握る黒木は、シフト操作に手間取りながらも、二〇〇の速度を一心に保ち続け、初めて走る中央道の刺激を体中に感じていた。

 落合川に架かる橋の継ぎ目を通過したとき、キャビン全体に強い衝撃が走った。

 質の悪さは一級品という二八一キロポストの段差は、ドライバーシートに座った黒木の目線からは見え辛かった。

 ダッシュボードに置いてあった小物や伝票を、容赦なく散乱させてしまうくらいの破壊力だ。

 一〇〇まで落ちた速度に戸惑いながらも、手際よく片付けて再加速を始めた。

 神坂パーキングの坂道を軽快に駆け上がり、恵那山と網掛山を貫く二つの長いトンネルも、二〇〇の速度をキープしたまま抜け出すことができた。

 緊張状態で坂道を下りてきた黒木は、一八〇に抑えた速度で阿智パーキング一キロバックの表示板をくぐった。

 緩やかな勾配の途中、六速から七速にシフトアップしてから、思いきり踏み込んでみた。

 二六〇キロポストの先にある左カーブを、黒木がフルスロットルで抜けようとしたときだった。

 危険で魅力的な風、魔風が吹き抜けた。

 一瞬プロフィアの足元がふらつき、車体が少しだけ右に傾いた。

 黒木の右足は反射的にアクセルから離れ、シフトダウンが遅れたプロフィアは、情けない格好でカーブを抜けてきた。

 中央道の走り屋たちにとって難所の一つ、〝魔のカーブ、二六〇キロポスト〟の洗礼を受けたのだ。

 限界速度の低さを思い知った黒木は、最適な変速タイミングを見極めることに努めた。

 新鮮な刺激を体中に受けながら、岡谷ジャンクションを二〇〇の速度で通過した。

 迫力満点の初走行を続ける黒木の前方には、月明かりに照らされた諏訪湖の湖面が黒い光を放っていた。

 八王子ゲートまで残すところ一五〇キロを切ったとき、プロフィアを導こうとする何かが手招きを始めた。

 休憩することなど考えてもいなかった黒木が、諏訪湖サービスエリアの減速車線に進路を変えた。


 四月二日午前〇時二〇分、広々とした駐車場には数台のトラックが寂しく並んでいた。

 あまりの少なさに昨日まで利用した東名の混雑ぶりが甦り、湿った懐かしさが一気に襲いかかってきた。

 黒木は満天の星を見上げ、澄みきった信州の空気を一杯に吸い込み、大きく吐き出すことで気を取り直した。

 後気分転換にと立ち寄った売店で、黒木は熊のぬいぐるみの視線を感じた。

 見ているうちに欲しくなり、『魔除けになりますよ』という店員の言葉にも後押しされた。

 黒木は、何のためらいもなく買ってしまった。

 愛くるしさに魅かれ、衝動買いした熊のぬいぐるみを助手席に置き、諏訪湖サービスエリアから本線に向かって加速した。

 小渕沢インターから始まるなだらかな下り坂が、控え目に走ってきた黒木をにわか仕込みの走り屋に仕立て上げた。

 中央道に入って初めて、二〇〇を超えた速度で坂を下り始めた。

 出発前杉田に教わった通り、長坂の下り勾配にあるオービスの視線をやり過ごしたあと、すぐにまた二〇〇を超えた速度に戻した。

 プロフィアのサイドミラーの中で白い光が輝き始めたのは、最終コーナー一つ手前の緩い左カーブだった。

 「来た」とつぶやいた黒木は一瞬固まりかけたが、まだ十分すぎる距離を見定め、フットブレーキを軽く二回踏んで一七〇の速度に下げた。

 それから余裕を持って左カーブに差し掛かった。

 あっという間の出来事だった。

 さらりとした風が吹き抜けた瞬間、白いキャビンのグレートがプロフィアの右横をすり抜け、須玉の最終コーナーを段違いのスピードで曲がって行った。

 真の走り屋の前にしか現れない白い光、中央道の神様に、黒木はこのとき初めて出会った。

 熊のぬいぐるみを乗せている二条倉庫一九‐六〇のドライバーは、包み込むような優しさと誘いかけてくるような親しみをテールランプの奥でちらつかせ、淡々としたハンドリングと落ち着いた走りを見せていた。

 走り屋の本能がむき出しになった黒木は、前走車に追いつくことばかりに囚われ、ひたすらアクセルを踏み込んだ。

 春色の葡萄畑が広がる甲府の街を、フルスロットルの二台が駆け抜けた。

「なあ鈴木、これは新たな走り屋のようだぞ」

 佐藤は、双眼鏡を置いた。

「あぁ、また一つ伝説が増えそうだ」

 鈴木は、双眼鏡を覗いた。

 双葉サービスエリアの高台では、山梨県警高速隊の佐藤と鈴木が今夜も定位置で待機していた。

 勝沼インターからの坂道を軽いフットワークで駆け上がった黒木は、笹子トンネルを抜けてからの小刻みなカーブも一九‐六〇のテールライトをひたすら追いかけた。

 余裕の走りで前を行く白いグレートは、小仏トンネルの中で黒木の視界から徐々に離れて行った。

 午前一時五〇分、二条倉庫一九‐六〇との走りに胸を躍らせたまま、黒木は八王子ゲートをくぐり抜けた。

 諏訪湖で一瞬ふらついた東名への未練がましさを、さらりとした風がきれいさっぱり吹き飛ばしてくれた。

 黒木の記念すべき中央道初ドライブは、国立府中インターで左へ逸れたときに終わり、胸の高鳴りを保ったまま真夜中の府中街道を所沢方面へと向かった。

 午前二時四〇分、CL所沢支店のプラットホームに白一文字を背負ったプロフィアが入ってきた。

 黒木が運転席から降りると同時に、ホームの上にいる夜勤者が声をかけた――。


「声を掛けたのはもちろんおれだよ。中央道だと聞いていたから気になっていたけど、心配することはなかったみたいだ。あいつが目指す目標以外は……。ちょっとお茶を一口飲ませてくれ」

 盛田は喉が渇いていたのか、ペットボトル半分のお茶を飲んだ。

「その目標というのは二条倉庫ですよね。川野なのか、本田なのか、さあどっちでしょう?」

 太田は、盛田に向けていた視線をモニター画面に移した。

「どちらかではなく、要は白い光と一緒に走りたいだけでしょう。あのときの本田と同じですよ。謎めいた川野と一緒に走っていたら、一流の風切りびとではなく、いつかは中央道の神様になりそうだ」

 小室は、モニター画面から盛田に視線を移した。

「お前もそう思っているのか。確かに川野は、何か秘めていそうで得体の知れない部分が見え隠れする。だから魅力的に感じてしまうのだろう。休憩はこれくらいにして先に進めるとしよう」

 盛田は、伝説の続きを語り始めた――。


「おはよう。早かったじゃないか。明石から所沢の初運行、どうだった?」

 おれは、最高の笑顔で黒木を迎えた――。

「盛田さん、おはようございます。葡萄色の街が飛び切りの状態で迎えてくれました。ちなみに、本田さんの到着もこれくらいでしたか?」

 運行伝票を手渡す黒木は、息を弾ませた。

 あいつにはおれの笑顔より、葡萄色の街しか見えていなかったようだ――。

「葡萄色の街って、いい響きだよな。本田も同じことを言っていたかな。到着時間の件だけど、大して変わりはしないよ。似たようなものだ。そんなことなど気にせず、朝までに到着してくれればいいから。守川さんと伊藤さんが食堂で待っているはずだぞ」

 おれはつい、本田と黒木を重ね合わせてしまった――。

「どうしても本田さんを超えたくて……。荷下ろしが済んだら、走り屋の先輩たちにも挨拶してきます」

 抱負を語る黒木は、荷下ろし台車を軽々と押し出した。

 ここでおれは、『本田なんか超えてどうするよ。散りたいのか』と、言いかけて止めた。

 黒木が掲げた目標がどうであれ、それを最初に否定してしまったら立つ瀬がないだろうと考えたからだ。

 でも言うべきだったと後々思った――。


 集まった仕分け人たちが、伝票重量八トンの荷下ろしを手際よく済ませた。

 黒木は、空車になったプロフィアを駐車場の一番手前に停めて食堂へ向かった。

 守川と伊藤は自販機の近くで椅子に座り、コーヒーを飲んでいた。

 黒木は、二人に声を掛けた。

「守川さん、伊藤さん、おはようございます。水戸陸運の黒木です。よろしくお願いします」

 黒木は、軽く頭を下げた。

「おっ、久しぶり。元気だった? 目が血走っているようだが」

 勘の鋭い伊藤は、コーヒーを飲みながら左手をあげた。

「初めて中央道を走りました。刺激が強すぎて、とにかく言葉にならないくらい最高でした」

 黒木の瞳は輝いていた。

「五年間よく辛抱したよ。とりあえず復帰おめでとう。中央道は逃げたりしないから、焦らないことだ」

「はい。ありがとうございます。風のようにさりげなく、を常に心掛けます。あれから四か月が過ぎましたね」

「なるほど。杉田から聞いたのか? でも相変わらずクールだな」

「クールに見えますか? 事故と聞いたときは正直落ち込みました。本田さんと一緒に走ってみたかったです」

 黒木のトーンは急に下がった。

「そのうち葡萄色の街で会えるさ。白い光がサイドミラーに浮かび、さらりとした風が車体を撫で始めたら、間違いなく二条倉庫だよ。その速さは普通じゃないけどね」

 伊藤は、笑顔をにじませた。

「さっき須玉の最終コーナーで、さらりとした風に撫でられたと思ったら、白い光にあっさり抜かれました。二条倉庫の白いグレート、一九‐六〇の車番です。何だか誘われているような感覚でした」

 黒木は、再び語気を強めた。

「そのグレートも速かっただろう。ドライバーは女性だよ」

「えっ、女性ですか。それで優しく包みこんでくれたのか。助手席の窓越しに、熊のぬいぐるみが見えました」

 黒木の目が輝き始めた。

「それなら本田も乗せていたが、確か魔除けだとかいっていたよ。ちなみにあいつはプロフィアの九四‐五一だ」

「プロフィア、九四‐五一、ですか。そうだ、私も熊のぬいぐるみを買いました。諏訪湖の売店です」

「何かの巡り合わせだろうな。本田も諏訪湖だった。走り屋に吹く風のせいかな」

 しみじみとした顔の伊藤は、守川に視線を移した。

「元気そうで……。それにしても初日から二条倉庫に出会うとは、たいしたものだ。君も真の走り屋ってことだ。あまり気負わずに」

 コーヒーをテーブルに置いた守川は、黒木の肩を軽く叩いた。

「お久しぶりです。わたしも守川さんと伊藤さんのような一流の風切りびとを目指します。ところで二条倉庫の二台は、どれくらいの速度で走っているのですか?」

 黒木は、勢いに任せて尋ねた。

「ふっ、無理しなくていいよ。速度については全くおれたちとは次元が違いすぎる連中だ。あのころの本田でさえ、二五〇くらいだったと思うが、二条倉庫は遥かその上を行っていたはずだ。今では本田も走りたい放題だろうけど、どうにも儚く思えてしまう」

 鼻で笑った守川は、吐き捨てるように言った。

「儚い……。確かにそうかもしれませんね。でも風を切って走るのが、真の走り屋だと聞きました。そして二条倉庫に出会った瞬間に決心しました。必ず切ってやると。すみません、生意気ですね」

 黒木は、神妙な表情になった。

「おれたちも中央道の風を切って走っているから、気持ちは分かるのだけど。仲間はみんな〝風のようにさりげなく〟を心掛けてはいるが、結局ただの走り屋に過ぎない。一線を超えて深追いすれば散ることになる。二条倉庫もその口だよ。それに九四‐五一には疫病神が具わっている。魔性の車番だ」

 守川の顔から、笑みが消えていた。

「のどが渇いただろう。ブラックだけど」

 伊藤は絶妙なタイミングで自販機のコーヒーを差し入れた。

「ありがとうございます。飲みたいと思っていたところでした。とにかく九四‐五一は魔性の車番ですね。守川さんの忠告を大事にします。速度の話に戻りますが、いくら踏み込んでも二〇〇ちょいしか出ません。同じプロフィアなのに、本田さんとは何が違うのでしょうか?」

 黒木には、守川の忠告など上の空だった。

「こんなことを言っていいのか分からないが、あいつは過給機と足回りをいじっていた。だが、それ以上に中央道を隅々まで知り尽くしていた。違いはそれだ。まずはコーナーの癖を見極めることだが、何事も程々が肝心だ」

 守川は、テーブルの紙コップに手を伸ばした。

「分かりました。もっと走り込んで中央道の癖をつかみます。二条倉庫を追いかるのはそれからですね。でも、あの走りは最高でした。さすが中央道の神様」

 黒木はまったく分かっていなかった。

 結局思いついたのは、修理工場へ行くことだった。

 携帯番号の交換を済ませ、コーヒーを飲み干し、足早に食堂から出て行った。

「本田と同じことを言いましたよ。どうもあいつとかぶってしまいますね。それと改造箇所を教えてしまったけど、大丈夫ですか?」

 伊藤は、黒木の後ろ姿を目で追った。

「酷なようだが、すべては自己責任。どっちみち隠しても無駄だよ。遅かれ早かれ手を加えるに違いないだろう。困ったものだな」

 冷めたコーヒーを口にした守川は、顔を歪めた。

「こうなったら黒木が一線を超えないよう、本田を信じるしかありませんね」

 伊藤がつぶやいたとき、守川の目が光った。

「何度も言うけど、中央道の風を軽く見ると呑まれてしまう。それに危険で魅力的な風も、さらりとした風も、荒れ狂う風に変わりはない。世間ではさそい風が善で魔風が悪だというが、いままで風を切り続けて分かったことは、魔風には毒があり、そして華もある。もう一方のさそい風には、苦い毒を覆い隠すような甘い蜜の香りがする。知らない間にやられるから、こっちのほうが性悪だ。あいつら中央道の神様などと言われているが、その二条倉庫には、厄介なさそい風が絡んでいる。さらに言えば九四‐五一に付きまとう魔性より、一九‐六〇の川野に秘められた不気味さが気になる。いいか伊藤、おれたちは全てにおいて自己責任の枠から出てはいけない。二条倉庫なんか頼りにしたら、その時点で風切りびとも終わりだ。だから本田を期待してどうこう言うより、黒木自身に変わってもらうしかない。それでも変わらないようであれば、そのときは……」

 守川は、紙コップを握り潰した。

「それって、まさか……」

 伊藤はその後、「分かりました」と言った。

 おれはそのような成り行きだとも知らず、プラットホームの上で到着荷物と格闘していた――。

「盛田さん、トラックの定期点検に行ってきます。これでもどうぞ」

 黒木は駐車場へ向かう途中、おれたちに差し入れをくれた――。

「ありがとう。ココアもいいねー。どこまで行くのか知らないが、睡眠はちゃんと取れよ!」

 仕分け中だったおれは、荷物片手に送り出した――。

 プロフィアに乗り込んだ黒木は、まだ寝静まっている所沢の街へと消えて行った。


 一七時一〇分、春の陽気に包まれたCL所沢支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。

 プロフィアを思い通りの仕様に改良した黒木が、さっそうと明石の番線に入ってきた。

 守川と伊藤の810は神戸と京都の番線に整列し、ホームの中央にはいつもの顔ぶれが勢ぞろいしていた。

 プラットホームに上がって来た黒木に、おれは声を掛けた――。

「長い点検になったな。ちゃんと眠る時間はあったのか? 寝不足は体に悪いぞ」

「はい。ディーラー任せだったので睡眠は十分です」

 黒木は、言葉を濁した。

 本当のことは言えなかったのだろう。

 実のところ黒木は、レッカー業を専門にしているという知り合いのパーツ屋『桜』に無理を言って、過給機と足回りの改造をしてきたようである。

 そのパーツ屋『桜』の店主は、なにぶん裏稼業の身の上とのことだが、以前から水戸陸運と『桜』の間には信頼関係が築かれていたようで、黒木の性急な依頼にもかかわらず、すぐに対応してくれたのだろう。本業以上に改造の腕も確かなようだ――。

 ホーム中央にいる加藤が声を張り上げた。

「水戸陸運の黒木さん、急いでください。運行者ミーティングを始めますよ。それでは労働災害の報告をします。本日早朝、埼玉支店の構内で、荷役作業中のフォークリフトから落下した荷物が、明石支店運行者の杉田さんを直撃し、右足首を複雑骨折するという重大事故が発生しました。現在杉田さんは、近くの病院で検査治療中とのことです。荷物の積み下ろしでフォークリフトを運転する際は、周囲の安全確認と危険予知を心がけ、さらに荷役中のフォークリフトには絶対近づかないようお願いします。出発予定時刻は、二〇時三〇分です。以上!」

 おれはミーティングのあと、三人を食堂に誘った。

 食事しながらの話題は、もちろん杉田の骨折に関することだった――。

「まだ腫れがひどいから、当分手術はできないそうだ。足首複雑骨折だったら、半年位は無理だろうな」

 伊藤は、杉田の症状を知っていた。

「伊藤さん、どこでその情報を仕入れたのですか? やけに詳しいですね」

 黒木は、伊藤の顔を覗きこんだ。

「さっき本人から電話があった。食事会はもう少し先になりそうだって。でも何だか元気そうだったよ。それと言うのもその病院には、たまたま足立物流のドライバーも入院していたそうだ」

 伊藤は、にやけた顔で教えてくれた。

「そうか、杉田が朝食に誘った女性ドライバーだな。あいつの望みが叶った訳だ。急な話だが、杉田の代わりに足立物流が埼玉から、水戸陸運が明石から、交互に定期を組むみたいだ」

 早食いの守川は、そこで箸を置いた。同時に杉田の話も終った。

「守川さんも情報が早いですね。しかし明石からの埼玉便、誰が走るのだろう? 気になるな」

 黒木はまだ、何も知らされていなかったようだ。

 そんな黒木に教えたのは、おれだよ――。

「さっき事務所で聞いたけど、明石発は石井さんらしいよ。元々石井さんには、明石から千葉の定期を予定していたみたいだが、急きょ杉田君の穴埋めなのだろう。仲間が増えて良かったな」

「私の知らないところで、そういう話になっていた訳か。なるほどね。だから田辺さん、思わせぶりなことを言っていたんだ」

 黒木も、箸を止めた。

「その石井さんって、どんな人だろう。若いのか?」

 伊藤が、黒木に聞いた。

「今年三〇歳になる女性で、走り屋の先輩です。走り屋といっても、法定内ですが」

 伊藤と守川は、顔を見合わせていた。

 食事のあと、三人はそれぞれの番線に引き揚げた。

 明石の番線に溜まっている荷物の積込みを始めた黒木は、一刻も早く走り出したいとの思いから、手当たり次第に積込んだ。

『今流れている書類ケースが最終の荷物です』加藤の声が流れた。

 構内放送を境に、ホームの上は卸売市場のように活気づいた。

 出発準備が整った黒木は、運行伝票を持ってプロフィアに乗り込んだ。

 明石向けに発送される積荷は伝票重量八トン、実重量四トンで、四か月前と変わらず走りやすそうな重量になっていた。

「中央道の下り線だけど、今夜初めて走るのだろ。笹子トンネルにはお化けが出るみたいだぞ。特に走り屋を好むらしいから、気を付けることだ」

 黒木のはやる気持ちと不慣れな緊張を解してやろうと、おれは声を掛けた――。

「お化けですか? そのようなことを聞いたら怖くなって余計に飛ばしたくなりますよ。なにぶん、か弱い乙女ですから」

 黒木は、笑みを浮かべていた。

 おれは、次の言葉が出なかった――。

 二〇時三十分、所沢支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。

 軽めのクラクションを叩いた黒木が、セカンドギアにクラッチを繋いだ。

 ゆっくりと動き始めたプロフィアの後を追いかけ、守川と伊藤もクラクションを軽めに叩いた。

 左手をあげて見送るおれは、『か弱さに縁遠い奴に限ってあんなことを言いやがる』とつぶやいたものだった――。


 同時に出発した三台は、暗闇の府中街道を走り始めた。

 溢れかえるタクシーと乗用車をかき分け、何事もなく国立府中インターから中央道に合流した。

 孤独なトラックドライバーがひしめく下り線を、三台は綺麗な隊列を組んで走り始めた。

 石川パーキングを通過した辺りで、二番目を走っている守川の携帯電話に着信音が響いた。

「あいつのプロフィア、何かあったのでしょうか? 踏み込んでいませんが」

 最後尾の伊藤は、黒木の走りに注目していた。

「おまえも気付いていたのか? さすがだな。故障でないことだけは間違いないよ」

 守川の視線は、速度計にあった。

 慣らし運転をしている黒木のスピードに、二台の810は付き合わされた。

 二一時一〇分、所沢出発の三台は、縦並びで八王子ゲートをくぐった。

 まじない程度の慣らしを済ませた黒木の後ろに守川と伊藤が連なり、三台は力強い加速で立ち上がってきた。

 相模湖インターを過ぎたころ、長距離トラックで混雑していた本線にもまばらな車列が戻ってきた。

 大月ジャンクションを一七〇に抑えたスピードで通過した黒木が、それまで我慢していた右足に力を入れた。

 いきなり踏まれたアクセルに、過給機が素早い動作で唸りを上げた。

 豹変したプロフィアのサイドミラーには、次第に離されていく810二台の光が映っていた。

 独走を始めた黒木を遠目に見ていた守川と伊藤は、風のようにさりげなくという自分たちのスタイルにこだわり続けた。

 初狩パーキングをすぎた辺りで、伊藤は発信ボタンを押した。

「本田の走りに似ていませんか? どこもかしこもと言ったところですよ。さっきあいつの携帯に電話を掛けたけど、さっぱりでした。『飛ばし過ぎは右足に負担がかかるぞ』と言ってやりたかったのですが、残念です」

 伊藤が発信したとき、黒木は誰かと通話中だった。

「パワーアップか。本田のやつはブレーキを知らなかったが、黒木も全く一緒だな。まるで生まれ変わってきたようだ。ただし、二条倉庫に追い付くのはかなり先の話になるだろうけど」

 改造を見抜いた守川は、軽い溜息をついた。

 誰かとの通話を済ませた黒木は、初狩パーキングから始まる上り坂も、笹子トンネルの中に伸びる直線も、鋭い過給機音を響かせ、軽快なフットワークで走り続けた。

 四八〇馬力へのパワーアップとスプリングの強化で、力強さとコーナーでの安定感は見違えるものになっていた。

 新生プロフィアは、二〇〇のスピードを超えてからも余裕を見せていた。

 黒木は、十分な手応えを感じた。

 トンネルの出口が見え始めたとき、プロフィアのサイドミラーに白い光が映り込んだ。

 盛田が言っていたお化けとは、真の走り屋の前にしか現れない白い光のことだった。

 進化したプロフィアの実力を試すには絶好の機会だと思った黒木は、勝沼インター付近の坂道をアクセル全開で駆け下りた。

 春色の葡萄畑が広がる甲府の街で、水戸陸運の背後に白い光が張り付いた。

「なあ鈴木、葡萄色の街が騒がしくなってきたようだ」

 佐藤は、双眼鏡を置いた。

「ずっと前にも同じようなことがあったはずだが」

 鈴木は、双眼鏡を覗きこんだ。

 双葉サービスエリアの高台では、山梨県警高速隊の佐藤と鈴木が、今夜も本線を見下ろすだけだった。

 須玉インターからの坂道を軽々と駆け上がり始めた黒木は、後ろに張り付く白い光を引き離しにかかった。

 ドライバーの意思を素直に聞き取り、そのまま速度に変換してくれる改良されたプロフィア。黒木は何の迷いもなくパワーの勝負に出た。

 しかし、長坂インターを通過したとき状況は一変した。

 それまでサイドミラーの中に潜んでいた白い光が、いきなり追い越し車線に飛び出したのだ。

 負けず嫌いの黒木は、思わず右足に力を込めた。

 都合よく勝ち逃げを意識していた黒木だったが、それまでの健闘も虚しく、突き刺さるほどの過給機音とともに、右横から一気に追い越されてしまった。

 このとき、圧倒的な加速を見せつけた白いプロフィアこそ、二条倉庫九四‐五一、魔性の車番だった。

 さらりとした風に撫でられた黒木は、経験の乏しさを痛感しながら後ろ姿を見つめていた。

 熊のぬいぐるみを乗せた九四‐五一は、昨夜の一九‐六〇と同じく、透き通ったクールさと微妙な親しみをテールランプの奥でちらつかせている。

 中央道標高最高地点を過ぎた下り勾配で、黒木は必死になって追いかけた。

 パワーでは敵わなかったにせよ、せっかく本田との再会を果たしたのだから、できるだけ一緒に走ってみたかった。

 だがこの先で人を待たせているという状況は、どうあがいても変更することができなかった。

 それからすぐに諏訪湖サービスエリアの表示板が見えてきた。

 黒木は、やり切れない気持ちを引きずったまま減速車線に進路を変えた。


 広い駐車場の中程に、石井が乗っている810が停まっていた。

 この810はL6ターボの七速で、四二〇馬力の仕様である。

 熱くなり過ぎたプロフィアを810のすぐ横に停めて、黒木は約束通り売店の方へと向かった。

 売店で待っているという石井仁美は姉御肌で、陽気な性格をした三〇歳。

 父親の影響で水戸陸運に入社し、今年でちょうど一〇年目になる。

 今まで関東各地にあるCLのターミナルで、横持ちの運行を重ねてきた。

 五年前まで千葉から小牧の定期を組んでいたことで、中央道の経験は黒木より遥かに豊かだった。

 そんな石井も、肝の据わった黒木の走りには一目置いていた。

「石井先輩、お疲れさまです。電話の後、必死に飛んできました。先輩は早かったのですか?」

 黒木は、息を弾ませた。

「さっき来たところさ。何だか目が血走っているけど、またバトルをしてきたのかい?」

 コーヒーを飲んでいた石井は、黒木の顔を覗きこんだ。

「やっぱり分かりましたか。社名は二条倉庫。白いグレートと白いプロフィアの二台。両方とも桁違いの速さで追い越して行きました。完敗です」

 黒木は、笑顔をにじませた。

「負けたにしてはやけに嬉しそうだね。そのグレートの方だったら知っているよ。川野さんという女性ドライバーで、あんたと一緒くらいだった。自社定期で白河から東京、そして京都まで走っているみたいだけどね。自販機にコイン入れといたから」

 石井は、黒木にコーヒーを勧めた。

「ありがとうございます。今回は負けたけど、新しい目標ができて嬉しいです。でもどうして先輩が知っているのですか。どこかで会ったのですか?」

 自販機からコーヒーを取り出した黒木は、慌てて聞いた。

「駐車場に入ったらたまたま隣にいたよ。少し前まで話し込んでいたからね」

「どんな感じでした? 普通の人間でしたか。途中で消えたとか。ゾンビみたいだとか?」

「普通だったよ。足もあるし、服も着ていたし、何でそんなことを?」

 石井は、黒木を見据えた。

「中央道の神様だからです。プロフィアのほうは去年の年末、阿智で亡くなったCL明石支店の本田さんです」

 黒木も、真剣な眼差しで見返した。

「なるほど。そう言うことか。真の走り屋の前にしか現れない白い光、中央道の神様。と言うことは、うちら二人とも走り屋って訳だ。今度は走っているときに会ってみたいよ。そうそう、熊のぬいぐるみを乗せていたから、それでつい話しかけてしまったのさ。その後ここの売店に来たら、『魔除け』だって言うから買ってみたけど。きっとあんたも欲しくなるはずさ。こげ茶色だよ」

 石井は、真新しい紙袋の中から熊のぬいぐるみを取り出した。

「昨日、わたしも同じ物を上り線で買いました。意外と本当かも知れませんよ。魔除けの話」

 黒木は、声を細めた。

「誰に聞かれてもいいから……。まあこれもちょっとした流行だろうけどね。そろそろ明石に向いて出発しようか」

「先輩が明石に移動だなんて、まったく知りませんでした。また一緒に走りましょう」

「あんたに合わせて走っていたら、命がいくつあっても足りませんけど」

 残りのコーヒーを飲み干した石井は、黒木の肩を軽く叩いて歩き始めた。

「先輩、前を走ってもらえますか? 気合を入れてついていきますから」

 紙袋を持たされた黒木は、石井の後を追った。

「こっちは空車だから、あんまりスピード出ないよ。坂なら強いけどね。さあ行くよ!」

 二二時四〇分、石井の810に続いて黒木のプロフィアが、力強い加速で下り線に合流した。

 諏訪湖を渡ってきた霧ヶ峰の吹きおろしが、岡谷ジャンクションを通過していく二台の背中を押してくれた。

 風を切って走り始めた石井は二〇〇超の速度を保ち、下り線が初めての黒木もその後ろにぴたりと連なった。

 五年ぶりとはいえ中央道を走った経験のある石井は、絶妙な変速のタイミングと抜群のアクセルワークを甦らせた。

 後ろに張り付く黒木は、石井の走り方を食い入るように見つめた。

 フルスロットルの石井と黒木が、阿智パーキング二キロバックの表示板を過ぎたときだった。

 サイドミラーの中で輝き始めた白い光が、新幹線のような加速で二台の真後ろに迫って来た。

 猛烈な勢いで右横に並んできたのは、一九‐六〇と九四‐五一の二条倉庫だった。

 水戸陸運の二台を優しく包み込むように、さらりとした風が吹き抜けた。

 二人の耳元で、「さあ一緒に走りましょう」と誘いかけられたような気がしたときには、白い光はすでに走り去っていた。

 二条倉庫の二台が見せた段違いの速さに、石井も黒木もしびれるだけだった。

 石井はすぐに、携帯電話の発進ボタンを押した。

「最高だね! あの二台。完璧に次元が違い過ぎるよ」

 石井は、少しだけアクセルを緩めた。

「先輩、いつか必ず切りましょう。特に九四‐五一は魔性の車番と言われるくらいだから、切りごたえ十分かも知れませんよ」

 さそい風に誘惑された黒木は、力一杯踏み込み石井の前に出た。

「あんた、気を付けるんだね。いっぱしの風切りびとでも、あの二台は無理だよ。いくら頑張っても呑まれるのが落ちさ」

 電話口で諭した石井は、黒木にハイビームを浴びせた。

 水戸陸運の二台は白一文字をきらりと光らせ、過去と未来を繋ぐという噂の網掛トンネルに弾みをつけて飛び込んで行った――。


「この伝説はこれで終わりだが、新しい展開はどうだった? 全体の六割が過ぎて、そろそろ疲れただろう」

 盛田は背もたれを倒し、背筋を伸ばした。

「おれたちより盛田さんのほう大変だと思います。ところで、黒木は本田を目差してまっしぐらのようですが、少しばかりパワーアップが早すぎたのでは? 中央道の癖もつかんでいないのに、あいつ、大丈夫なのかな。それに守川さんが言った『黒木自身に変わってもらうしかない。それでも変わらないようであれば、そのときは……』が気になります」

 浅井は、盛田に視線を合わせた。

 モニターを見ていた長尾、太田、広瀬も振り向いた。

「そんなに心配する必要はないでしょう。ひと月も走れば、すぐに慣れますよ。あとはバランス感覚と変速タイミング、そして度胸かな。あいつなら一流の風切りびとになります。ただ守川さんが言ったことは……」

 小室は話を中断し、ゆっくりと窓際に向かった。

「小室、どうした。窓の向こうに何かあったのか? 言いかけていきなりためらったりしたら、気になるだろうが。それとも……」

 盛田も、立ち上がった。他の四人も小室に集中した。

「いえ、何でもありません。少し霧が晴れてきたような気がしたので見に来ただけです。この分だと通行止め解除には時間がかかりそうですね。そうそう、黒木には石井という先輩がいるので、たぶん大丈夫でしょう」

 作り笑顔の小室は、何かを隠しているようだった。

「何でもなければいいが。いま小室が言った黒木と石井、まさしく走り屋再来だな。次の伝説を整理してくるよ」

 盛田は、そのまま管理事務所を出て行った――。


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