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⑥風切りびと伝説

 二〇一三年四月一〇日、午前二時〇〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。

 普段であれば、車両の往来が絶えることのない八王子ゲート。

 しかし昨夜の二〇時三〇分以降、一台の車両も通過することはなかった。

 それと言うのも、濃霧による通行止めが延々と続いているからで、滅多に起こらない不思議な出来事だった。

 現在のところ高井戸から大月までの区間では、公務車両と巡回パト以外、本線への立ち入りは不可能となっている。

 このためパーキングに入っていた乗用車や長距離トラックなどは、強制的にその場で足止めを食っていた。

 数年ぶりに通行車両が途絶えた中央道は、依然として深い眠りについたままである。

 一〇年に一度あるかないかの出来事に、暇をもてあました収受員たちの多くは、深夜放送のテレビ観戦か仮眠を取り続けた。

 そんな中、ずらりと並んでいる監視モニターの前だけ、少しばかり様子が違っていた。

 本来なら二時間おきに交代するはずの監視業務だが、昨夜から連続してこの任務に就いている変わり者たちがいた。

 飽きもせず、もっぱら昔話に熱中しているのである。

 その変わり者たちの顔ぶれは、語り手が盛田で聞き手が浅井、長尾、太田、小室という五人だった。

 そこへ、広瀬が起きてきた。

 仮眠を取り過ぎたことに対し、少しばかり決まりが悪そうにしている。

 とりあえず、いつもの顔ぶれは揃った。

「おはよう。まだ続いているみたいだな。恵みの通行止?」

 広瀬は大きなあくびをしながら、モニターの周囲を見渡した。

「ちぇっ、もう少し寝ていてくれても良かったのに。盛田さんの中央道伝説はまだ半分ほどだからな」

 浅井は、白い歯を見せた。

「なんだと。盛田さんが語っているのなら、なぜ起こしてくれなかった。ひどい奴だ」

 広瀬は目をむいた。

「まあそう言わずに。広瀬、これでも飲みな」

 盛田は、お茶のペットボトルを渡した。

 広瀬は、ぺこりと受け取った。

 長尾、太田、小室の三人は、早く次の伝説を聞きたいと言わんばかりに、冷めた目つきで座っている。

「いよいよ前半の大詰めになるのだが……。この伝説はいろいろな人に聞いたものをブレンドしたから重なっている場面もあるかと思うが、正確な線は通っているはずだ。それともう一つ、本田から直接聞いた興味深い話がある。それは不思議なことに、夢の中での出来事だったけど……」

 五人は、「えっ?」と言って盛田を見つめた。

 盛田は、それを確認しながらゆっくりと語りはじめた――。


 一九九六年の一二月一六日、その日は全国的に北風が強かった。

 一七時一〇分、CL明石支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。

 各番線に整列しているトラックの周りでは、簡単な点検に取り組む運行者たちの姿があった。

 プロフィアの給油を済ませた本田も、所沢の番線に入ってきた。

 本田は、新たに買った熊のぬいぐるみを助手席に置いた。

 今まで持っていた物より目つきが鋭く、一段と魔除けになりそうだ。その横には謎の木箱と缶ココアがある。

 木箱の方は前回の運行時、東西水急の少女から輸送依頼を受け、今夜網掛トンネルの東口で二条倉庫の川野に引き渡す予定だ。

 缶ココアはその輸送料として、けなげな少女が添えてくれたものと思われ、裾野のとある喫茶店にしかないレア物だった。

 本田が缶ココアを握りしめていると、いきなり助手席のドアが開いた。

「本田、ちょっといいか……。しかし、いろんなものが置いてあるな。汚い木箱があって熊のぬいぐるみもあって、ん、これは裾野のココアだな。結構いい味だろ。ところで小田、厚どうだった? これブラックだけど」

 名代は車内を見渡しながら、缶コーヒーを差し出した。

「ありがとうございます。久しぶりに東名を走ってきましたが、御殿場の雪には散々な目にあわされました。名代さんこそ、風邪の具合は?」

 本田は、苦笑いを浮かべた。

「お陰様でこの通りだ。悪かったな。斉藤さんにまで迷惑をかけてしまったようだ。それより足柄山の吹きおろし、黒風に撫でられたりしなかったのか? 風切りびとを目がけて吹いて来ると聞くが」

 名代は、軽く咳き込んだ。

「ご心配なく。黒風に吹かれるほどのスピードは出ませんでしたので。でもやっぱりと言うか予想通りと言うか、御殿場と大井松田の区間は相変わらず走り難いですね。それと……、何でもありません。どっちにしてもココアを買いたかったから、ちょうど良かったです。斉藤さんだって所沢に行きたかったみたいだし。そうだ名代さん、突然ですが、網掛トンネルにまつわる神話や昔話なんか知っていることがあれば、教えてもらえませんか」

 本田は迷った末に、鮎沢パーキングで体験した奇妙な出来事を伏せた。

「急にどうした? これはあくまで噂だけど、ひとつ手前の恵那山トンネルには、女の霊が棲みついていると聞いたことがあるよ。確か甘い歌声を響かせながら、真横に並び掛けてくるらしいぞ。おまえのことだから、その女の霊に見初められたのだろう。おっと、網掛トンネルについてだったな。おれもそんなに詳しくはないが、少しだけなら……」

 名代によると、網掛山には大昔に建立された(ほこら)がいくつか残っており、その中には不思議な力を宿すと伝えられるものが今なお存在しているのだと教えてくれた。

 本田としては、それだけ聞きだせば十分だった。

 木箱と網掛山の関係が何となく分かったからだ。

 しかし、名代の話は続いた。

「東口の真下には上下線を繋ぐ地下道があるのだが、その通路が過去と未来を繋ぐ伝説だという奴がいるけど、それは全く違うよ。実際には網掛トンネルの東側に小さな沼があり、過去と未来を繋ぐのはそこに祀られた水神が深くかかわっていると、地元の無線仲間から聞いたことがある。まあ何処にでもある昔話だと言えばそれまでだけど。最近あの付近で何かあったのか?」

 名代が本田を見据えた。

 このような場合、妙な展開になるパターンだった。

「最近七速ギアが抜けるようになり、それも決まった場所です。阿智パーキング西側の二六〇キロポストを通過したときに毎回です。これと言って特別思い当ることはないし、ディーラーでも原因が分からないと言うし、さすがに変だと思い気になっていました。やはり特別な祠がありましたか? でもギア抜けには全く関係ないですね」

 本田は、名代の視線をかわしながら首を傾げた。

 しかし遅かった。

「今どきギアが抜けるなんて……。だが全く関係なくはないかも知れないな。多分おまえの方が詳しいだろうが、網掛トンネルから阿智谷と言えば、中央道の風が激しく吹き抜ける場所だ。そこを常にフルスロットルで駆け下りているのだから、風圧の影響でねじれを起こした車体は悲鳴を上げるしかない。しかし当のおまえはそのことに気付いていない。それを見かねた水神が、ギア抜けとして警告しているのだとしたら……。ふっ、幼稚過ぎるか。でもな、どっちにしても飛ばし過ぎだ。風を切って走るなどつまらないことをやめて、もっと速度を落せ。そうでなければ冗談抜きに死ぬぞ!」

 名代は、いつしか真剣な表情になっていた。

 名代は走り屋の本田に対し、運行主任という立場上水神話を絡めながらも、きつめの説教をする必要があった。

 結局のところ当の本人が悔い改めるはずもないことは、名代も分かってのことである。

 本田にしてみれば、それだけ周囲に対し心配をかけていることに引け目を感じていた。

 ホームの中央では久々のラジオ体操も終わり、マイクを持った田辺の話が始まった。

「本日は明石支店で取り決めた〝集荷終了時刻一八時設定日〟のため、出発予定時間はいつもより早くなりそうです。年末のこの時期は、流通増に伴い通行車両も増加します。同時に事故件数も多くなりますので、常に危険予知を心掛けてください。今日は久しぶりに安全唱和で締めたいと思います。それでは、〝見通しのきかないコーナーでは減速を〟以上、ご安全に!」

 田辺は何を思ったのか、珍しく安全唱和を持ち出した。

 ミーティングのあと、本田はすぐに積込みを始めた。

 今日はパレット物が目立っており、その中に大小さまざまな木枠が並んでいた。

 本田は、木枠以外の荷物から手当たり次第に片付けた。

 後輪付近まで一般雑貨を積み終わったころ、幅広木枠の配置に手間取っていた。

 そこへ埼玉線を走る杉田が、フォークリフトに乗ってやってきた。

 杉田は、幅の広い木枠類を手際よく次々とセットしてくれた。

 杉田のリフト作業の腕前は、明石支店の中でも群を抜いていた。

「中央の雪、どうかな? それさえなければいいのだが」

 杉田は、フォークリフトの爪とハンドルを巧みに動かした。

「さっきの安全唱和で気合を入れて念じたから、絶対大丈夫でしょう。今ごろ中央道では砂埃が舞っているはずです。杉田さんも山道ですか?」

 本田は、木枠の先端に厚手のベニヤ板をあてがった。

「そのつもりだ。ぴったり張り付くから抜かれない様に。それこそ気合を入れて走れよ。ところで中央道の神様って凄いな。あんなに速いとは思っていなかったよ」

 パレット物はここで一区切りついた。

 杉田は先週須玉の最終コーナーで、格段に速いトラックに出会ったらしい。

「二条倉庫でしょ。九四‐五一、それとも一九‐六〇? 真の走り屋の前にしか現れない白い光、二台とも間違いなく神様です。と言うことは杉田さんも走り屋ですね」

 本田は、笑みを浮かべた。

「一緒にするな。おれはお前たちと違って真面目だからな。社名だけど、二条倉庫ではなく確か東西水急と大竜運輸と壬生急行だったはずだ。久しぶりに葡萄色の街で思い切り踏み込んでみたけど、まったく追いつけなかったよ」

「東西水急……。また豪華な顔ぶれですね。その三台もかなり速いと思いますが、二条倉庫はそれ以上です。葡萄色の街に白い光、でも、いつか必ず切ってみせますよ」

 本田は、胸を張ってみせた。

「葡萄色の街と白い光か、いい組み合わせだな。ぜひ会ってみたいよ。その二条倉庫とやらに。でもそんなに速いのだったら、切るのは困難だぞ。なあ、本田。おれがとやかく言うことではないけど、風は切るもの、呑まれたらおしまいなのだろ、それだけだ。ところでお前が助手席に積んでいる熊のぬいぐるみだけど、何か意味でもあるのか?」

 軽く注意を促した杉田は、熊の話題にも触れた。

「あれは二代目の魔除けです。最初のやつは一か月くらい前、諏訪湖のサービスエリアで買いました。あのぬいぐるみを買ってから不思議と良いことが続いています。だから最近もほら、いいことがあったじゃないですか……。あの二人ですよ。足立物流の二人、元気になったみたいでおめでとうございます。事故現場を見たときはもう駄目かと思いましたが、見事に復活してきましたね。お見舞いには行きましたか?」

 本田は、杉田の表情を横目で窺った。

「なるほどね。そうきたか。でも、おめでとうと言われてもなぁ……。どっちにしてもまずはお見舞いだな。近いうちに飯田の病院から地元の埼玉へ転院するそうだ。そうなったら運行のついでに覗いてみようと思っている。おまえも一緒に行ってくれるよな。花束はおれが用意するよ」

 女性ドライバーが回復するにつれ、杉田の言動も明るさを増した。

「いいですよ。付き合います。杉田さん、今日の仕上げを始めましょうか。そろそろ終わりそうです」

『今流れている書類コンテナが最終荷物です』構内放送が流れた。

〝集荷終了時刻、一八時設定日〟が功を奏したようで、この日は普段より一時間ほど早い出発準備が始まった。

 追込み作業に入った運行者たちがフォークリフトを取り合っている間に、パレット物の積込みを済ませている二人は慌てることなく荷崩れ防止に時間をかけることができた。

 仕分けコンベアの端末ローラーが、手際よく収納され始めた。

 プラットホームの上は、卸売市場を思わせる光景へと変化して行く。

 目まぐるしい空気が引き金となり、業務員たちの慌ただしい動きも更に緊張感を押し上げ、ドライバーのアドレナリンはどこまでも上昇する。

 このような一連の流れを先取りするのは気の早い運行者で、意味もなく始めたアイドリングが、ディーゼル色の霞を構内にたなびかせる。

 本田と杉田は煙たい顔で、運行伝票が置いてある事務所へと向かった。

 二人に気付いた田辺が、小走りで近付いてきた。

「杉田、何かいいことでもあったようだが、速度超過にならないよう気を付けてくれよ」

 田辺は埼玉の運行伝票を手渡すとき、杉田の肩を軽く叩いた。

「田辺さん、大丈夫ですよ。おれたち安全運転指導者ですから」

 杉田は、にやけた顔で受け取った。

「その言葉は聞き飽きた。本当に無茶はするなよ。そっちの本田君も同じだ。これ以上言わなくても分かっているだろう」

「分かっていますよ。でも不気味ですね。また本田君なんて呼びかけてくるとは。田辺さん、何か企んでいますか?」

 本田は、白い歯を見せた。

「心配するな。そのうち良いことがあるさ。それより二人とも、安全運転でいってらっしゃい!」

 田辺は、歯切れのよい口調で二人を送り出した。

 所沢線は伝票重量八トン、実重量四トンの普段通り走りやすそうな積み荷になっていた。

 観音ドアを閉めた本田は、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。

 数多くのディーゼルサウンドが飛び交う中、プロフィアの乾いた排気音が構内に嫌みなく響き始めた。

 二〇時一〇分、西風に変わった。

 CL明石支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。

 出発準備を整えた杉田が、埼玉の番線から左手を上げた。

 缶ココアを握りしめていた本田もすぐに左手で返し、手際よくセカンドギアにクラッチを繋いだ。

 杉田の810も本田のプロフィアに続き、軽い身のこなしでホームから離れた。

 ゆっくりと動き始めたプロフィアの助手席では、新しい熊のぬいぐるみが、魔よけの顔で睨みを利かせていた。

 阪神高速神戸線に、テールランプの赤い光が一直線に伸びている。

 西宮ジャンクションから左に逸れた明石発の二台は、小雪がちらつく名神高速へと進路を変えた。

 左カーブを曲がった先の赤いボックスが、グリーンシグナルで出迎えた。

 二〇時五〇分、西宮ゲートをくぐったプロフィアと810が、力強い加速で立ち上がってきた。

 二台から放たれた高回転の過給機音が束になり、黒く冷たいアスファルトの路面を小気味よく突き進む。

 西から吹いて来る強風は、本田をタイムアタックの場に引きずり込んだ。

 新生プロフィアが、激しい風を巻き上げて走り始めた。


 今日の本田は、一段と速かった。

 中央道での本格走行を前に、過給機の反応と足回りの進化を確かめながら、軽い準備運動でもするように走り始めた。

 新幹線並みの加速を見せるプロフィアに、杉田は気合を入れて張り付いた。

 京都南インターをフルスロットルで通過していく本田は、通行車両の少なさに少々戸惑いを感じた。

 いつもなら長距離トラックで溢れている大津インター付近も、日付を間違えたのではと思ってしまうほど静まり返っている。

 出発時間が少しだけ早いからといって、これほどガラガラなはずはないだろうと本田は一人でつぶやいた。

 気味の悪さと走りやすさが交錯する前方に、黒丸パーキングから伸びる直線が見えてきた。

 後ろに張り付く杉田も本田が戸惑っている様子を察したようで、携帯電話の発信ボタンを押した。

「出発時間が早かったせいもあるけど、やっぱり何かあったのかな。この少なさ、少し変だと思わないか? 近くに覆面でも紛れ込んでいそうで、どうにも気味が悪いよ」

「事故の情報は流れていませんし、覆面も大丈夫でしょう。でもこの静けさ、確かに変だな? おっと、同業者です。ぎらついたヘッドライトがすぐ後ろまで迫ってきましたよ」

 本田は、サイドミラーを睨んだ。

「相変わらず忙しそうについてきたな。どうする? たまには左に寄って緩めてみるか」

 杉田は、車線を譲ろうとした。

「だめです。少しだけ踏み込んでみましょう。今日はとことん行くつもりですから」

 携帯を置いた本田が、八日市インターを過ぎた直線で軽く踏み込んだ。

 一五〇に抑えられていたプロフィアのスピードは、二〇〇を超えても止まる様子はなく、杉田はアクセルを目一杯踏み込んで必死に追いかけた。

 二流の走り屋たちが鳴りを潜めたころ、ゲリラ雪が多賀サービスエリアの表示板に絡み始めた。

 彦根インター辺りから降りだした雪で、滑りやすい路面へと変わり始めた。

 どこまでも伸びるテールランプの先頭には、塩カリ散布車の姿があった。

 米原ジャンクションから始まった低速走行が、再び走り屋たちを引き寄せた。

 速度を下げた本田と杉田の後方から、鋭い動きを予感させる二つの光が、ゆっくりと迫りつつあった。

 養老サービスエリアで塩カリ散布車が退散すると同時に、プロフィアと810のサイドミラーには、見慣れた光が入ってきた。

 その光は二台の810だった。

 サイドミラーを食い入るように見つめていた本田と杉田は、守川と伊藤の前を走っていることに気付いた。

 そして記録更新のつもりなのか、いきなり本田だけが加速を始めた。

 誰かと連なって走れば中途半端なアタックになり、平凡な記録に終わってしまうと考えたからだ。

 早急な決断を下した本田の暴走が、ここから始まった。

 取り残された杉田は、新生プロフィアで記録更新を企む本田なら、今日は必ずタイムアタックに挑戦するだろうと見越していた。

 しかしここで始めるとは想像していなかったようで、「あいつめ!」とぼやき、810のハンドルを強く握りしめた。

 急加速を始めた本田の後ろでは、慌ててアクセルを踏み込む三人の姿があった。

 プロフィアのテールライトをじっと眺めていた守川と伊藤は、先行している杉田の前にハザードを点けながら素早く踊り出た。

 守川を先頭に、伊藤と杉田が連なった。

 三台の810が綺麗な隊列を組み上げ、走り去ったプロフィアの追跡を始めた。

 最後尾を走る杉田の携帯電話に、着信音が響いた。

「お疲れ。あいつ急に加速したけど、タイムアタックでもするつもりじゃないのか?」

 伊藤の勘は今夜も鋭かった。

「お疲れさまです。今日は明石のほうが早かったみたいですね。本田のやつ、改良した過給機と足回りをこっそり試すつもりだと思います。もう追いつけないでしょうね。相当気合が入っていましたから」

 杉田は、一人溜息をついた。

「中央道最速狙いか……。今日は守川さんも結構気合入れているようだし、久しぶりにいい記録が出そうだ。おれたちも本気で行こうか」

 伊藤は、杉田に発破をかけた。

 二二時四〇分、三四一キロポストにある東名と中央の電光掲示板には、ユキ走行注意の文字が二つ並んで光っている。

 東名本線から左へ逸れた本田は、さりげなく中央道に進路を変えた。

 力強い加速で坂道を駆け上がり始めたころ、阿智谷の上空で吹き荒れる風たちが、記録更新に挑む本田を今か今かと待ち受けていた。

 少し遅れて中央道に入った守川、伊藤、杉田の三人は、先に走り去った本田をアクセル全開で追いかけた。

 完璧な独走態勢に入ったプロフィアと、二〇〇以上の速度で猛追する810三台のレースが本格的に始まった。

 本田は過給機と足回りの性能を見極めるため、瑞浪インターを通過した後フルスロットルに固定した。

 小刻みなカーブが連続する中津川インターも、きつい上り勾配が続く神坂パーキングも、改良されたプロフィアは軽快な動きと余裕の走りを存分にみせつけた。

 しなやかに動くサスペンションと有り余るパワーは、二条倉庫が射程距離に入ったと思えるほど完璧な仕上がりだった。

 今回の改造レベルに気を良くした本田は、携帯電話の発信ボタンを押した。

「サイドミラーには映っていないけど、三人ともすぐ後ろまで来ているでしょう? さっきは急に加速してすみません。守川さんと伊藤さん、怒っていませんかね。それに杉田先輩も」

 本田は、後ろめたさを感じていた。

「おまえの病気がいつものように出ただけのことだ。誰も怒ったりしないが、全てにおいて自己責任だぞ。しかし化け物だな。これで無敵だよ」

 杉田に溜まっていた僅かな苛立ちは、今の一言で収まった。

「はい。記録更新が楽しみです。杉田さん、もしかすると網掛トンネルの先で停まるかも知れませんが、またすぐに追い越して行きますので、そのときは気を悪くしないでください」

 本田の笑い声が携帯から響いた。

「そんな所で停まってどうする気だ。何だか知らないけど、810の三台を追い越すのはいくらおまえでも大変だぞ。八王子ゲートまで無理だな」

 杉田も軽く笑った。

「杉田さん、恵那山に入ります。それでは……」

 本田の携帯はトンネルに吸い込まれていく途中で、圏外表示になった――。


 語り手の盛田は区切りをつけたかったようで、お茶を手にしてから一旦話を止めた。

「これから先は二元中継でいくよ。本田と810の三人だ。その三人から聞いた話は別として、もう片方、本田の場合は少しばかり事情が違う。最初に『夢の中での出来事だけど』と触れたと思うが、その通り夢物語だ。でもあいつが言ったことだから信じてやってくれ」

 五人の視線が集まった。盛田はゆっくり語り始めた――。


 二三時〇〇分。

 恵那山トンネル内は気温が上昇する。

 フロントガラスの洗浄を思いついた本田が、ワイパースイッチを入れた。

 ノズル部分で凍っていたウォッシャー液が解凍され、ワイパーの動きに合わせ流れ始めた。

 トンネルの外でこの動作を実行すれば、一瞬にしてフロントガラスの表面が凍結し、スリガラスへと変わってしまう。

 これはある意味自殺行為といって良いほど危険なものだった。

 透明度が甦ったフロントガラスの先には、過去と未来を繋ぐという噂の網掛トンネルが見えてきた。

 本田は、アクセル全開で駆け込んだ。

 トンネルに入った途端、流れがスローモーションへと変わった。

 スピードメーターは、二〇〇オーバーを表示している。

 とっさに二条倉庫の気配を感じ取った本田は、サイドミラーで後方を確認してから前方へと慎重に目を凝らした。

 ゆっくりしたペースですれ違うキロポストに、プロフィアのヘッドライトが絡みついた。

 浮き上がってくる数列は、なぜか二六四を繰り返している。

 本田がそのことに気付いたとき、トンネル内ではあるはずもない着信音が鳴りだした。

「お疲れさま。二条倉庫の川野です。トンネルの先で待っています」

 本田が返事をする間もなく着信は途絶えた。

 川野の一方的な通話が終ると同時に、二六四で止まっていたキロポストがふたたび減り始めた。

 川野との距離が縮まっている証だ。

 これで東西水急の少女から依頼された木箱輸送も、トンネルの先で終了することになる。

 川野に追い付くことを一心に、本田は缶ココアを握りしめた。


 スローモーションの流れはまだ続いている。

 二〇〇オーバーの速度で網掛トンネルから抜け出したプロフィアの前に、ハザードを点けて走るトラックの集団が現れた。

 本田は、以前この場所で同じような体験をしていた。

 その時も数台のトラックが、ハザードを点けて走っていた。

 本田は必死に追いかけた。しかしいくら踏み込んでも追いつくことはできず、プロフィアのチューニングを決意するきっかけになった。

 その後所沢の仮眠室で、嫌な夢まで見てしまった。

 危険で魅力的な風に吹かれたプロフィアの車体が、右に傾くという不気味な夢だった。

 忘れかけていた嫌な夢を鮮明に思い出した本田が、その不気味さゆえどうするべきかためらい始めたとき、さらりとしたさそい風が彼の心を吹き抜けた。

 同時に、抱えていた一抹の不安と迷い心も吹き飛んだ。

『もう行くしかない。この風を切ってやる』と、自分に言い聞かせ、思い切って追い越し車線に移った。

 心をよぎった一抹の不安をかき消すように、本田は加速をはじめた。

 この先で待っているという二条倉庫の川野に追い付き、少女から依頼された木箱を渡すためにも、新たな中央道伝説のためにも、手強そうな前走車を追い越さなければと念押しした。

 中央道の風の凄まじさは十分知っているつもりで、生まれ変わったプロフィアの性能を信じ、危険すぎる賭けに打って出た。

 隊列を組むトラックを一気に追い越そうと、下り勾配に舞う粉雪をかき分け、二〇〇オーバーから更に加速した。

 意を決した本田が、記録更新を賭けて中央道の風を切りに行った。

 スローモーションの流れに身を任せ、フルスロットルで二六〇キロポストを通過した。

 七速に入れたギアが今までのように抜けることはなく、まして空吹かしになることもなかった。

 進化したプロフィアは、ゆっくりと左カーブを曲がっていく。

 危険で魅力的な風に吹かれ、さらりとした風に撫でられ、緩い空間を僅かばかりさまよった。

 なにかに優しく包まれているような、滑らかな時間が過ぎた。

 だが、そこから先で何が起こったのか、本田の記憶はすべて飛んでいた。

 僅かな空白の後、地面に激しく叩きつけられ、体が砕け散る思いで我に返った。

 本田は、周囲に目を向けた。

 そこには当たり前の運転席があり、普通の自分がハンドルを握っていた。

 しかし、頭と体は断続的にしびれている。

 そんな中、鮎沢で見かけた例の白い光の粒子が、なぜかプロフィアの周りで飛び交っている。

 本田の意識は、かろうじて残っていた。

 もうろうとしながらも、ハザードを点けて走るトラックの追い越しを済ませたことに気付き始めた。

 周期的にやってくる痛に耐えながら少しずつ分かってきたことは、後ろから壬生急行、大竜運輸、東西水急、二条倉庫九四‐五一、そして先頭が二条倉庫一九‐六〇という中央道最強メンバーの前に、躍り出てしまったと言うことだった。

 トンネルの先で待っていますと言った川野が、ハザードを点けて走る五台の中のしかも先頭にいたとは思ってもいなかった。

 分かっていたら大人しく六番目に並んでいたが、前に出てしまった以上後戻りする訳にもいかなくなった。

 ヒーローたちの先頭に立ってしまった緊張感と、記録更新への強い思いが本田のアドレナリンを増幅させ、体に残る痛みを麻薬のように消してくれた。

 思いもかけない展開に翻弄され続ける本田が、肝心の木箱を川野に渡していないことに気付いたとき、呼び出し音が鳴った。

「本田さん、木箱は後ほど。さあ一緒に走りましょう!」

 川野からの着信を合図に、中央道最速伝説が始まった。

 こうなることを想定していたかのような動きで、華麗なる五台は先頭を走る本田の後ろに連なった。

 計り知れない迫力と、鋭い霊気が背中から伝わってくる。

 決して追い越してはいけない一流の五台を従えてしまった本田は、さそい風に背中を押され力任せに踏み込んだ――。


 ここでいきなり広瀬が口を挟んだ。

「衝撃を受けたようだけど、路肩にでも乗り上げたのかな?」

「広瀬、静かにしていろ」

 浅井は、口の前に人差し指をかざした。

 他の者も困った表情で広瀬を見つめている。

「路肩か。そうかも知れないな」

 にやりとした盛田は、伝説の続きに戻った――。


 二三時一〇分、守川、伊藤、杉田の三人は、一かたまりになったまま上り線の阿智パーキング一キロバックで、渋滞に巻き込まれていた。だらだらと進んでいた三台の810は、二六〇キロポストを過ぎた所で完全に動きを止めた。

 阿智パーキング付近で起きた事故により、二三時過ぎから上下線とも通行止めになっている。

 事故発生直後の現場には、高速隊と道路公団の姿はなく横向きになったトレーラーが、立ちはだかるゲートのように本線を塞でいた。

 今の段階で、どれほど停車させられるのか、三人とも予測すらできない状態だった。

 一時間以上待つことを覚悟した守川と伊藤は、早々と記録更新を諦め、仮眠体制に入った。

 その様子を見ていた杉田は、倒したシートの背もたれに体を伸ばし固まった。

 阿智谷の暗闇にいきなり訪れた静かな時間の中で、三人は強制的に睡眠時間を与えられた。

 しかし、こういう時はどうにも寝つけないものだ。

 高速隊と道路公団が事故処理を始めたのは、それからしばらくしてからのことだった。

 本線を塞ぐ〝くの字〟になったトレーラーの運転席からドライバーが救出され、事故車移動のレッカー作業も始まり、上り線の通行止め解除が少しだけ近付いた。

 反対の下り線では二台のクレーン車が到着し、てきぱきとブームを伸ばし始めた。

 両方向の車線に散乱している大きなガスボンベを、一つずつ取り除く作業が始まったばかりだった。

 眠れずに暇を持て余している杉田は、隣に停車している伊藤に声を掛けた。

 トラックを降りた伊藤と杉田は、守川の元へ歩み寄った。

「いつも思うのですが、本田は運のいい奴ですね。運も実力の内ですか?」

 杉田は、伊藤に視線を向けた。

「まったくだ。ちょっとした時間差だろうけど……。そういえばあいつ、やけに張り切っていたからな。ところで改良したプロフィアだが、どれくらいパワーアップしたのだろう?」

 伊藤が杉田に聞いた。

「軽く五〇〇以上だと言っていました。馬力よりトルクの向上が目的で、速度も二五〇以上は楽勝だそうです」

 杉田は、本田から聞いた通りを伝えた。

「やり過ぎだろう。そこまでしなくても四〇〇馬力あれば十分なはずだが。これであいつを超える者は誰もいなくなりましたね。魔性の車番、九四‐五一の影響ですか? 守川さん」

 伊藤は、守川に視線を移した。

「いや、もう一台の方かも知れないな……。出会った瞬間、あいつの心は疫病神に染められてしまった。どっちみち困ったものだ」

 守川は、深いため息をついた。

「守川さん、本田から聞いたことをいま思い出したのですが、ここを通過するたび七速ギアが抜けるとのことでした。まして原因不明だとも。大丈夫ですかね?」

 杉田は、首を傾げながら守川を見た。

「なに、ギア抜けだと? 走り過ぎ、それだけだ」

 即答した守川は険しい表情になり、本田が走り去った東の空を眺めていた。


 二三時三〇分、スローモーションの流れがまだ続いている。

 ヒーローたちの視線がプロフィアの車体を突き抜け、先頭を走る本田の背中に刺さってきた。

 この眩しすぎるプレッシャーが、うまい具合に体の痛みを取り除いた。

 いつもの調子が戻ってきた本田は、飛び切りのペースで岡谷ジャンクションを通過した。

 舞うだけの粉雪は積もることを知らず、乾燥した路面だけが東へと延びる中、隊列を組んだ六台に槍ヶ岳からの吹きおろしも後押ししてくれた。

 諏訪南インターからの上り坂も、小渕沢インターを過ぎて始まる下り坂も、本田はアクセルを踏み続けた。

 一三六キロポスト付近のあぶない視線も気にすることなく、六台は束になって駆け下りた。

 須玉の最終コーナーが、本田の視界に入ってきた。

 中央道のヒーローたちを従えた本田は、気合の走りを披露した。

 須玉の最終コーナーに二〇〇を超えるスピードで突っ込み、アクセル全開で立ち上がってきた。

 須玉インターを過ぎて更に加速を続ける本田の後ろには、一流の五台が等間隔で連なっている。

 冬色の葡萄畑が広がる甲府の街に、さらりとした風が吹き抜けた。

「なあ鈴木、今夜の白い光は特に眩しいと思わないか?」

 佐藤は、双眼鏡を置いた。

「そのようだな。とうとう一線を越えたのか」

 鈴木は、双眼鏡を覗きこんだ。

 山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、今夜も双葉サービスエリアの高台から監視するだけだった。

 笹子トンネルを抜けた六台は、最後の仕上げに取りかかった。

 粉雪を空高く舞い上げ、中央道最速の隊列を組んでゴールを目指した。

 八王子ゲート二キロバックの表示板を通過と同時に、二〇〇まで速度を緩めた。

 ヒーローたちの眩しい走りは、ここで終わりを迎えた。

「お疲れさま。それではまた今度!」

 川野の声が携帯電話から消えると同時に、スローモーションの景色が終った。

 五台のヒーローたちはハザードを残し、二〇〇に減速した本田を、さりげなく追い越して行った。

 一人になった本田が八王子ゲートをくぐったとき、小牧と八王子間の最速記録を更新したことに気付いた。

 これこそが、白い光に追い付くためプロフィアを改良し、今まで以上に風を切りつづけ、さらにはヒーローたちと連なり、本気の走りに挑戦した結果だった。

 しかし新記録は樹立したものの特別な感動は起こらず、もやもやとした中になぜか虚しさだけが湧いてきた。

 本田は、走り屋としてのプライドをかけ、その思いを払拭するべく帰りの下り線で再び挑戦するつもりだった。

 その思いは、国立府中インターの減速車線へ進路を変えたときに乱れ始めた。

 国立府中インターを下りてしばらくしてから、本田の体に異変が生じた。

 府中街道を走っているとき目の霞で視界が悪くなり、体温の低下と体中の痛みが激しさを増してきた。

 合わせて強烈な眠気にも襲われ、何度もバス停に入っては休憩を繰り返した。

 普段であれば四〇分の行程が、二時間以上かかりそうなくらい立ち止まった。

 今の本田にとって所沢支店までたどり着けるかどうか、一か八かの賭けだった。


 一二月一七日一時四〇分、守川が叩いたクラクションで杉田は目覚めた。

 眠っていた間に〝くの字〟になったトレーラーは片付けられ、本線に並んでいたトラックはすでに走り去った後だった。

 ポツンと取り残されている杉田は、後続車両から聞こえてくるクラクションに再スタートを急かされた。

 下り線では、ガスボンベを片づけていたクレーンが姿を消し、代わりに大型クレーン二台が中央に据えられ、崖下に向けて吊り具を垂らしている。

 杉田がゆっくり加速を始めたとき、下り線の路肩に転がる熊のぬいぐるみが目に入った。

 無性に気になった杉田は、急いで本田に発信してみたが、何度掛けても不通だった。

 そして、守川の携帯に発信した。

「本田のやつ、トンネルの中ですかね。繋がりませんが」

 杉田は、胸騒ぎがした。

「おれも掛けてみたが繋がらなかったよ。あいつ、タイムアタックのときは電源を切っているからな。杉田、心配するな。今ごろ所沢だろう」

 守川は、軽く返した。

「そうですよね。あいつのことだから心配いりませんよね……」

 杉田は、つぶやきながら携帯電話を置いた。

 再スタートを切った守川、伊藤、杉田の三人は、遅れを取り戻すため、長坂インターをフルスロットルで駆け下りた。

 須玉の最終コーナー手前で一八〇に減速した後、安定した足取りで左コーナーから立ち上がり、二〇〇オーバーに戻した速度で須玉インターを通過した。

 葡萄畑が広がる真冬の甲府の街を、三台の810が激しい風を巻き上げて走り去った。

「なあ鈴木、この三台も風きりびとだろ」

 佐藤は、双眼鏡を置いた。

「そうだな。今日は結構気合が入っているようだ」

 鈴木は、双眼鏡を覗いた。

 山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、双葉サービスエリアの高台から本線を見下ろすだけだった。

 二〇〇超の速度で笹子トンネルを通過した三人は、初狩パーキングから続く小刻みなカーブもアクセル全開で走り続けた。

 通行車両がまばらになった八王子ゲートを、三台の810が横並びになってくぐり抜けた。

 首都高速へと進む杉田を見送り、国立府中インターで左に逸れた守川と伊藤は、暗闇の府中街道を所沢方面に向かった。


 午前三時〇〇分、CL所沢支店のプラットホームに一台のトラックが入ってきた。

 塩カリを大量に浴びたらしく、社名も分からないほど黒光りしている。

 夜勤者たちが目を凝らした先にあったのは、薄汚れた明石便だった。

 中途半端なところで停まり、ハンドルにもたれたまま座り込んでいる本田の姿が見えた。

 おれは運転席に駆け寄った――。

「おはよう。どうした? 顔色がさえないようだけど、具合でも悪いのか」

 おれはドアを開けて覗き込んだ――。

「すみません。少し疲れました。急な風邪ですかね。体中痛くて動けません」

 青ざめた顔の本田が、缶ココアと運行伝票を手渡してくれた――。

「珍しいココアだな。ありがとう。おー、二〇時一〇分とあるが、発送が早かったようだな。それにしても大丈夫なのか? とりあえず、もう少しバックしてくれ。荷下ろしは気にするな。少し揺れるが、ここで休んでいろ。あとで痛み止めを持ってくるよ」

 三メートルほどバックするのに、本田はもたついた。

 おれは仕分け人たちを呼び、荷下ろしを始めた。

 少々荷崩れを起こしていたが、明石便はすぐ空車になった――。

「出発が早かった店所は大丈夫なようだけど、今日も阿智パーキング付近で通行止めになったそうだ。まだ来ないところを見ると多分あの二人、事故渋滞に巻き込まれているのだろう。そのうち来るとは思うが。本田、早めに治さないと、こじれたら厄介だぞ。これが痛み止めで、こっちが風邪薬だ。一箱ずつあるよ」

 おれは、運転席でうずくまる本田に薬を渡した――。

「いろいろすみません……。また事故ですか? 守川さんと伊藤さんに電話を掛ける気力もありません」

 本田は、守川たちのことが気になったようだが、返事するのも辛そうにしていた――。

「大丈夫。あの二人なら分かっているさ。心配するな。駐車場まで行けるのか? 早く寝ろよ」

 本田の様子は、反応が鈍く全くの別人に見えた。

 もう一度声を掛けようとしたとき、ようやく動き出した――。

 駐車場に移動した本田の動きはさらに鈍くなり、そのまま一番奥まった場所に頭から突っ込み気配を殺した。

 食事も取らず、痛み止めを飲んで後ろのベッドにそのまま横たわるのがやっとだった。


 午前四時三〇分、CL所沢支店のプラットホームに守川と伊藤の810が同時に入ってきた。

 二台を待ち構えていた仕分け人たちは、到着ホームに並ぶ神戸と京都の荷下ろしを始めた。

 二人は、運行伝票を持って降りてきた。

「おはよう。二人揃って渋滞にでも巻き込まれたのか? 運行者も大変だな!」

 おれは、ホームの上から声を掛けた――。

「おはようございます。今日は久しぶりに仮眠を取る時間があったもので……。おまけに府中街道でも事故渋滞に巻き込まれて、散々な運行になりました。ところで、本田は来ていますか?」

 それとなく本田のことを尋ねてきた守川につられ、伊藤も身を乗り出してきた。

「三時過ぎに荷下ろしが終わってとっくに仮眠中だよ。ただし、そうとう顔色も悪かったし、体中が痛いと言っていた。とにかく元気がなかった。たちの悪い風邪らしいが」

 守川と伊藤は、到着したことを聞いて納得した様子だった。

「盛田さん、本田は風邪など引きませんよ。あいつむちゃくちゃ飛ばすから、神経を使い過ぎてガタが出たのでしょう。寝れば治ります。まったく本田らしいというか、困ったものです」

 伊藤は、笑いながら運行伝票を渡した。

 神戸と京都の荷物はすぐに片付いた。

 守川と伊藤は、空車になった810を駐車場まで移動した。

 プロフィアの車体に付着した塩カリがアルミの艶を奪い、暗闇に溶け込む保護色になっている。

 駐車場の一番奥で佇む明石便を、二人は見つけることができなかった。

「あれっ、本田のプロフィアが見当たりませんけど」

 伊藤は、暗い駐車場を見渡した。

「その辺にいるよ。今日はそっとしといてやろう。行こうか」

 守川と伊藤は、食堂に向かった。

 朝食を済ませ、それぞれの仮眠室に引きあげた。


 死んだように眠る本田に、川野が呼びかけた。

『本田さん、網掛山で熊のぬいぐるみが待っています。どんなことがあっても、その木箱を持って網掛山まで行くのです。私たちも一

緒に行きます。さあ目を覚まして、本田さん……』

 本田は、川野の夢を見ながら目覚め、助手席に目をやった。

 そこで初めて、あるはずの熊のぬいぐるみが消えていることに気付いた。

 二六〇キロポストで感じた僅かな空白の時間、そのとき受けた衝撃、網掛山から阿智谷で何があったのか、本田は夢と現実の区別がつかない状態で運転席のシートにふたたび沈んだ。

 一七時二〇分になった。

 おれは本田のことが気になり、駐車場まで行ってみた。

 塩カリで汚れた車体は、夕闇にまぎれて見つけにくいだろうと思っていたが、得体の知れない白い光の粒子が取り囲んでいたからすぐに分かった。

 一番奥に佇んでいるプロフィアは、とにかく異様な空気に包まれていた。

 不気味さを感じたおれは、白い光の粒子を避けながら助手席のドアを開けた。

 運転席に座っている本田は、高熱なのか痛みなのかそれとも夢なのか、ひどくうなされていた――。

「本田、起き上がれそうか。痛みはどうだ?」

「夢を見ていました。まだ痛み止めが効いているようで頭がふらふらしていますが……、大丈夫です」

 物音に気付いたらしく、すぐに目覚めてくれた――。

「番線に着けてくれたら積込みは任せてくれ。本当に向こうまで行けそうか?」

 本田はうつろな目をしながら、「おれは風切りびとですから」と言った。それから笑みを浮かべ、セルを回した。

 おれも、笑えない笑顔を返した――。


「太田、一ついい? いまの本田にとって二条倉庫の川野は風きりの対象なのかな。本当はどうしようもないくらい、川野のことを思っているような気がするのだけど」

 気を使っているつもりなのか、小声の広瀬は隣の太田に尋ねた。

「さすがのお前も、途中からだと繋がりが分からないのだろう。そう言う俺もまともなことは言えないが。初めのうちは風きりの対象だったはずだよ。しかしいつの間にか、川野の魅力にやられてしまったのかも知れないな。盛田さん、奇麗なバラには刺があるってことですかね」

 太田は、盛田に視線を向けた。

 浅井と長尾はため息交じりに天井を見上げ、小室は黙って聞いていた。

「おれが助手席から覗いて気付いたのは、熊のぬいぐるみが無くなっているということだ。代わりに置いてあったのは、古めかしい木箱だった。荷物なのかと一瞬思ったが、荷札は見当たらなかった。訳を聞こうとしたけど、あいつ自身も分かっていなかったのだと思う。あの時点であいつに残っていたのは、走り屋の魂だけのような気がするよ。どうしても川野と走りたかったのだろう」

 盛田は、五人の顔を順番に見まわし、続きを語りはじめた――。


 一七時三〇分、北風が吹き抜けるCL所沢支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。

 顔色の冴えない本田は、くすんだ色のプロフィアに乗り、駐車場の奥からひっそりと這い出してきた。

 すでに守川と伊藤の810は、神戸と京都の番線に並んでいた。

 ホームの中央では、運行者ミーティングの最中だった。

「最近高速道路で、大型トラックの絡んだ事故が急増しています。昨夜も長野県内の中央道で、上り線を走っていたトレーラーがカーブの出口でスリップした後本線を塞いで停車し、そこへ走ってきた後続のトラックがトレーラーを避けきれず、本線から落下するという事故が発生しました。下り線に散乱した荷物の撤去中に、今度の事故とは無関係と思われる事故車両がもう一台発見され、下り線では一〇時間以上通行止めが続きました。ここはやはり、『見通しのきかないコーナーでは減速を!』の徹底をお願いします。今日の出発予定時刻は二〇時三〇分です。以上!」

 加藤は、真剣な表情でミーティングを終わらせた。

「晩御飯にでも行くべ」

 おれは本田にも声を掛けたが、食欲がないと言って運転席に座っていた。

 守川と伊藤を誘い、結局三人で食堂へ向かった――。

 食堂の中にあるテレビから、阿智パーキングで発生した事故処理の模様が放映されていた。

 谷底に落下していたトラックが、二台のクレーン車に吊られている。

 ちょうどトラックの運転席が見えかけたところで、映像が途切れ、どこのトラックなのか識別できなかった。

 おれたち三人は、途切れた映像と本田のことを気にしたまま、食事を続けた。

 食事の後、普段なら伝票仕分けに回るおれだが、今日は明石の番線で本田の代わりに積込みを始めた。

 アルバイトを呼び寄せ、流れて来る荷物をかたっぱしから片付けてやった――。

『今流れている書類ケースが最終の荷物です』加藤の声が流れた。

 構内放送が集荷の終わりを知らせた。

 明石の番線にある荷物はきれいに片付いた。

 守川と伊藤の積込みも終わったようだった。

 二〇時三〇分、CL所沢支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。

「気を付けて帰れよ」と言って、おれは左手をあげた――。

 本田はセカンドギアにクラッチを繋ぎ、青白い顔で左手を返した。守川と伊藤も、クラクションを一度だけ叩いて出発して行った。

 くすんだプロフィアを先頭に810の二台が連なり、国立府中インターへと向かった。

 府中街道から二〇号線を走り、三台揃って中央道下り線に合流した。

 降雪の予報が出ているためか、本線を走る車両は普段より少な目だった。

 石川パーキングを通過するころには、粉雪まじりの北風も強まってきた。

 二一時二〇分、電光掲示板がユキ走行注意の文字を光らせ、不気味な空気が西の空へとたなびいている。

 所沢帰りの三台が、縦一列で八王子ゲートをくぐった。

 小雪がちらつく下り線を、本田は一八〇の緩い速度で走り始めた。

 先頭を走る本田のドライビングには、いつもの鋭い切れがなかった。

 後ろに張り付く守川と伊藤は、調子の出ない本田にそのまま黙って付き合った。

 談合坂サービスエリアを過ぎた辺りで、降りしきる雪が大粒に変わり始めた。

 吹き荒れる北風にまじって、さらりとしたさそい風も絡むようになってきた。

 川野との夢約束を思い出し、根っからの走り屋魂に火が点いたのか、緩かった本田の走りも激変のときを迎えた。不足気味だったプロフィアの過給機音がようやく高回転に変わった。

 湿った雪で濡れた路面を、ためらいもなく二〇〇以上の速度で走り始めたのだ。

 その様子を後ろから見ていた守川は、これから直面するグリップ不足と不明朗な交通情報に戸惑い、伊藤の携帯に発信した。

「なあ伊藤、この路面では厳しいだろう。東名経由だ。本田に伝えてくれ」

「分かりました。おれもそう思っていたところです」

伊藤は、すぐに発信ボタンを押した。

 走りに目覚めた本田は、鋭い加速を続けている。

 本田の携帯に、着信音が響いた。

「お疲れさま。二条倉庫の川野です。いま初狩パーキング一キロバックを過ぎました。本田さんはどの辺りまで来ましたか?」

 川野は、本田のすぐ前を走っていた。

「大月ジャンクションです。差は二キロだから、すぐに追いつきます」

 本田の語気が強まった。

 川野の電波が、伊藤からの発信を遮った。

 このとき本田は、大月ジャンクションの減速車線を通過し、川野のテールをめがけ猛追を始めていた。

「通じません。本田は通話中です!」

 伊藤は、守川相手に叫んだ。

 810の二台は、大月ジャンクションの減速車線に入った。

 守川は、とっさに激しいパッシングをプロフィアの背中に浴びせたが、前を見ることだけに集中していた本田は、守川が祈りを込めて放ったハイビームを見逃した。

 大月ジャンクションを直進する本田、富士吉田方面へ逸れて行く守川と伊藤、三人はここで別れた。


 加速しながら初狩パーキングを通過している。

 今の本田にとって守川と伊藤のことより、『どんな事があっても、その木箱を持って網掛山まで行くのです。私たちも一緒に行きます』と言った川野の夢語りの方が何より重要だった。

 本田は笹子トンネルの中で、川野のテールを捉えた。

 一九‐六〇のグレートにようやく追いついたとき、プロフィアのサイドミラーに見慣れた白い光が映り込んだ。

 二〇〇オーバーで走っている川野に本田が追いつき、その後ろに中央道の神様九四‐五一が連なった。

 二条倉庫の二台が本田のプロフィアを挟み、路面が白くなりはじめた勝沼インターの坂道をフルスロットルで駆け下りた。

 釈迦堂パーキング付近で、本田の携帯に着信音が響いた。

「本田さん、先ほど木箱は預かりました。これから私が引き受けます。さあ一緒に……、網掛山まで行きましょう」

 言葉を詰まらせた川野は、短めのハザードを点けた。

「えっ、いつの間に。でも渡すことができてホッとしました。とにかくついて行きます」

 本田は木箱のない助手席を見て、笑みを浮かべた。

 冬色の葡萄畑が広がる甲府の街に、三台はさらりとした風を巻き上げた。

「なあ鈴木、これは真の走り屋の前にしか現れない白い光、だよな?」

 佐藤は、持っていた双眼鏡を鈴木に渡した。

「そうだ。中央道の神様だ」

 鈴木は、双眼鏡を覗きこみ溜息をついた。

 双葉サービスエリアの高台では、山梨県警高速隊の佐藤と鈴木が、降りしきる雪の中で今夜も待機中だった――。


「三台が離れ離れになった大月ジャンクションだけど、今とは違って、構造が単純だったからな」

 天井を見上げた浅井が、小さくつぶやいた。

「伊藤からの着信を抑えた川野の電波、運命と言うか、邪魔されたと言うか?」

 長尾は、ため息をついた。

「お前らの意見はどうでもいいから口を挟むな。一番いい所なのに。盛田さん、続きをお願いします」

 広瀬は、澄ました顔で言った。

 太田と小室は鼻先で笑った。

「そんなに急かしなさんな。せっかく戻った記憶が薄れるだろ」

 盛田は、笑いながら語り始めた――。


 二二時二〇分、富士吉田線に迂回した守川と伊藤は、闇夜に浮かぶ富士を見ながら順調に走り続けた。

 810の二台は、山中湖を通過した。

 ここまで来ると雪の影響もなくなり、東名高速の御殿場インターから下り線に合流することができた。

 中央道のことが気になっていた伊藤は、本田の携帯に何度も電話を掛けたが、電波の状態が悪いらしく繋がらずじまいだった。

 伊藤は、前を走る守川に発信した。

「甲府南から先でチェーン規制のようですが、もう通行止めかも知れませんね。発信しても繋がらなくて」

「あいつならなんとかするさ。夜の中央道をとことん知り尽くした一流の走り屋だからな」

 守川は、無愛想な返事をした。

「あいつの顔色があまりにも悪かったので、一瞬抜け殻かと思ったほどです。本当に大丈夫でしょうか?」

 伊藤の心配は募る一方だった。

「抜け殻……。まさか、切りそこなったとでも?」

 守川は甲府方面の空をちらりと眺め、わき上がってくる不安を解消すべくアクセルを踏み込んだ。

 富士川を通過した二台が由比パーキングに差し掛かったとき、伊藤のすぐうしろに見慣れた光が張り付いてきた。

 埼玉帰りの杉田だった。

 杉田は、携帯の発信ボタンを押した。

「こんな所で会うなんて、これも偶然でしょうか? お疲れさまです。本田は今日も山越えみたいですね」

 杉田は、無理に明るく言った。

「大月付近ではぐれてしまったよ。あいつのことだ、もう諏訪湖辺りかな。タイムアタックをしているみたいで電話が繋がらないそうだ」

 通話を終えた守川の視線は、北の空に向けられていた。

 清水インターから焼津インターは四六時中混雑しているはずだが、中央道が雪になっている割には通行車両が少なかった。

 二〇〇超の速度で走る守川、伊藤、杉田の三人は、ハザードを点灯させることなく吉田インターを過ぎて行った。

 牧之原サービスエリアの上り坂も、三ヶ日インターからの坂道も、豊川バリア以外でブレーキを踏むことはなかった。

 名古屋インターの表示板をくぐった三台は、綺麗な隊列を組んで走り続けた。


 二二時三〇分、凍りかけの電光掲示板が、インター閉鎖になっていることを教えてくれた。

 白さが増してきた本線を走っているのは、本田と川野兄妹だけだった。

 一九‐六〇の川野が、積もった雪を高く舞い上げ先導している。

 後ろから九四‐五一が、プロフィアの背中を押している。

 二条倉庫の二台に挟まれた本田は、県境にある中央道標高最高地点を超えて信州に入った。

 諏訪湖まで続くなだらかな坂道を、三台は滑るように駆け下りた。

 岡谷ジャンクションから先では別世界が広がっていた。

 伊北インターを境に路面を覆っていた雪は姿を消し、駒ケ岳からの吹きおろしが、満天の星と乾燥した路面を連れてきた。

 駒ヶ根インターを通過した後、一九‐六〇のハザードが点灯した。

 先頭を走る川野が追い越し車線に移動し、本田は走行車線のまま加速を始めた。少しだけ並走を続けた二人は互いに左手を上げ、プロフィアの後ろに二台のグレートがあうんの呼吸で連なった。

 プロフィアのサイドミラーには二つの白い光が輝き、風を切り続ける三台は眩しすぎる走りで突き進んだ。

 阿智パーキング二キロバックの表示板が、三台の頭上で寂しく揺れていた。

 本田が二六〇キロポストの手前にある右カーブを通過したとき、地面から伝わる衝撃と同時に、プロフィアがいきなりスローダウンを起こした。

 金属同士のこすれ合う凄まじい音が、阿智の谷間に鳴り響いた。

 それはまさに、駆動系のほとんどを一瞬にして失ったことを意味していた。

 同時に本田自身も糸の切れた操り人形のように、体を支える力がスッと抜けてしまった。

 さらには、プロフィアのサイドミラーに映っていた二つの白い光も消えていた。

 二条倉庫が阿智の暗闇に消えてからも、本田は息切れ寸前のプロフィアで登坂車線をとろとろと這い上がった。

 川野との約束を果たすため、最後の力を振り絞りながら、一歩一歩坂道を上った。

 塩カリでくすんだあげく駆動系まで破損した姿は、昨日までの輝きからすると、信じられないくらい哀れなものだった。

 一人ぼっちになった本田の前に、網掛トンネル東口の臨時駐車場がぼんやりと浮び上がってきた。

 無心に風を切り続けた本田も、中央道最速を誇ったプロフィアも、気が付けば薄暗闇の中で立ち止まっていた。

 記録更新の儚い夢を一途に追いかけた結果、最終的にたどり着いたゴールは、過去と未来を繋ぐという噂のある網掛山だった。

 一連の出来事を理解できないまま、本田はしびれた体をシートに沈めた。

 プロフィアの鼓動が弱々しくなると同時に、ドライバーシートで固まる本田を強烈な寒さが襲い始めた。

 運転席を暖めようとヒーターの温度を最高にしてみたが、吹き出し口から出てくる風はクーラーより冷たいものだった。

 五〇〇馬力以上あったはずの動力性能が、結果も出さず消えて無くなろうとしている。

 体温低下とともに本田の意識も次第に薄れ、上り線の二六〇キロポストで飛んだ記憶の谷間に再び落ちて行った。

 輝いていた本田の中央道伝説に、終演のときが迫ってきた。


 一二月一八日午前〇時〇〇分。三台の810が、春日井インターを二〇〇オーバーで通過したときだった。

 遥か後方から接近してくる眩しい光の束が、三台のサイドミラーに映り込んだ。

 一番後ろを走る杉田が一度だけパッシングを放つと、守川と伊藤は無駄のない動きで走行車線に戻った。

 三台の810を上回る速さで軽々と並んできたのは、東西水急、大竜運輸、それに壬生急行という一流のヒーローたちだった。

 この三台は、守川や伊藤らと一緒に中央道を攻める走り屋仲間なのだが、最近ではめっきり見かけなくなっていた。

 追い越し際、軽く叩かれたクラクションに素早く反応した守川と伊藤は、反射的に軽いクラクションで応えた。

 東西水急の助手席から、熊のぬいぐるみを抱いた少女が微笑んだ。それに気付いた杉田は、無意識のうちに左手を振って見送った。

 東西水急、大竜運輸、壬生急行の三台は、立体交差の小牧ジャンクションから、さりげなく中央道に逸れていった。

 本田が合流してくることを期待している三人は、左側に視線を向けたまま小牧ジャンクションを通り過ぎていった。


 一二月一八日午前二時〇〇分、裾野支店帰りの名代は昨夜の事故現場を確認するため、雪の難所を避けながら遠回りしてきた。

 名代が中央道に回ってきたのは、『どっちにしても飛ばし過ぎだ。風を切って走るなどつまらないことをやめて、もっと速度を落せ。そうでなければ冗談抜きに死ぬぞ!』と、本田に言い放ったことを悔やんでいたからだった。

 阿智パーキングから徐々に速度を緩めた名代は、現場とされる谷底を一通り見渡した。

 二六〇キロポストを過ぎてからも周囲に視線を送り続け、網掛トンネルに向かう坂道でも登坂車線を徐行で走り、手前の臨時駐車場も食い入るように眺めた。

 本田が近くにいるかも知れないと思う一心で、「おーい、本田!」と、名代は何度も何度も呼び続けた。

 網掛トンネルに吸い込まれていく途中、もう一度「おーい、本田!」と叫び、サイドミラーの中でプロフィアの光を捜していた。


「おーい、本田!」と誰かに呼ばれたような気がして、薄れかけていた意識が少し戻った。

 水銀灯の明かりに照らされた駐車場を、本田はもうろうとしたまま見渡した。

 人の気配はなく、プロフィアの周りを吹き抜ける風が地面の落ち葉を引き寄せ、次第にこちらへ向かってくる様子が目に入った。

 同時に『本田さん! 早く外へ』という川野の声が、何処からともなく聞こえてきた。

 本田は一瞬で我に返った。

 しびれた体を引きずり、車外に這い出した。

 フロントバンパーを伝ってゆっくりと正面に回り込み、薄明かりに目を凝らした。

 渦巻の先では、二条倉庫一九‐六〇と思われるトラックの観音ドアが開かれ、小田原支店から持ち帰った謎の木箱が荷台の後ろで淡い光を放っている。

 そのとき木箱の蓋がすっと開き、一斉に飛び出してきた白い光の粒子が、風の流れに合わせ大きな渦を巻き始めた。

 渦の中から東西水急、大竜運輸、壬生急行、そして二条倉庫九四‐五一が浮かび上がってきた。

 二条倉庫一九‐六〇に積まれた木箱を中心に、プロフィアを含めた五台が周りを取り囲んだ。

 この六台こそ、昨夜隊列を組んだ顔ぶれだった。

 立ち尽くすだけの本田は、成り行きを静かに見守った。

 全体に傷を負った五台が謎の木箱を取り囲み、その五台を白い光の粒子が包み込んでいる。

 傷だらけになったプロフィアが、途切れてしまった本田の記憶を徐々に蘇らせた。

 今まで失くしていた空白の時間、そこで何が起こったのかをようやく思い出させた。

 僅かな空白の時間、それは二六〇キロポストからの飛び出しだった。

 心地よく吹き抜ける危険で魅力的な風、魔風に押されたプロフィアは、阿智の谷間へと急降下した。そして、優しく包みこんでくれるさらりとした風、さそい風に撫でられた。

 いずれにしても昨夜、本田は風を切りそこなっていた。

 約一月前、二条倉庫の九四‐五一は、同じくこの場所で魔風に呑まれた。

 東西水急、大竜運輸、壬生急行の三台は、それぞれ遡ること数年前、御殿場に吹く黒風に呑まれた。

 それから三台は東名から中央へと周回しながら、この日がくるのを待っていた、と川野が教えてくれた。

 しかし川野自身について、過去にどのような経緯があったのかは謎のままだった。

 七速ギアが抜けてスローダウンを起こしたのは、前轍を踏ませないために、九四‐五一が出したシグナルだった。

 その願いもむなしく、荷物を背負い、同じ運命をたどる結果となった。

 しかし本田がプロフィアに謎の木箱を載せていたことで、五台としては木箱を守る必要があった。そして木箱から出てきた白い光の粒子と、さらりとした風に包み込まれた分、落下の衝撃が和らいだ。

 さらに所沢までの往復運行についても、最後まで風切りびととして執念の走りを見せた本田に、五台が出してくれた助け舟のおかげでもあった。

 ここでようやく一連の流れを理解することができた本田は、白い光の粒子に包まれながら、ふたたび意識が薄れていった。


 一九九六年一二月一八日、午前六時。

「おーい、本田が見つかったぞー」という田辺の声が、CL明石支店の構内を駆け巡った。

 夜勤者をはじめ、運行を終えたドライバーが慌ただしく事務所に集まってきた。

 行方不明になっていた本田が、阿智パーキング西側にある崖下から発見されたと長野県警から連絡があり、前日から対応に追われていた社員たちにもどよめきが起こった。

 事故処理時点で見つかった二台の車両に、ドライバーの姿が確認できなかったため、社名を伏せて行方不明扱いになっていた。それで会社側としても対応が遅れた訳だが、日付が変わるころになって崖下に落下したトラックから少し離れた吹き溜まりの中で、成人男性二名の遺体が発見されたと説明があった。

「本田のやつ、やはりあの駐車場に運ばれていたか。寒かっただろうに」

 名代は、火のないタバコをふかした。

「最後の通話で、あいつ笑っていました。熊のぬいぐるみが現場に落ちていました。あのときすぐそばにいたと思います」

 肩を落とした杉田は、伊藤に電話を掛けた。

 杉田から訃報を聞いた伊藤は、すぐに発信ボタンを押した。

「本田のやつ、散ってしまいましたよ。最後は幻になってまで、おれたちに執念の走りを見せてくれましたね。あいつの走りは、ピカイチだったと思いませんか」

 つぶやいた伊藤は、目を閉じた。

「そうだな。束の間のヒーローだったよ。呑まれたか……」

 守川は中央道がある東の空を見上げ、携帯を握りしめた。発信履歴には、本田の番号が無数に連なっていた。


 網掛トンネル東口の臨時駐車場では、計れないほどの時間が流れた。

 渦を巻いて立ち上っていた白い光の粒子が途絶えたあとには、淡い光が霧のように立ち込め、見事に様変わりした五台のトラックが一九‐六〇と木箱を取り囲んでいる。

 東西水急、大竜運輸、壬生急行、二条倉庫九四‐五一、そしてCLカラーだったアイボリーから純白のヘッドに変わり、二条倉庫の社名がきらりと光るプロフィアの五台が揃って息を吹き返した。

 プロフィアの助手席には、熊のぬいぐるみも戻っている。

 五名のドライバーと一人の少女が、木箱の周りに集まった。

 二条倉庫の川野が中央に進み、これからのことについて説明を始めた。

「事故で傷ついてしまった体と車体を、ここにある木箱が元通りに修復してくれました。この木箱を探し出したのは東西水急の阿部瞳さんで、ここまで運んだのはコスモスライン、いいえ二条倉庫の本田さんです。お二人に感謝です。これからのことですが、別世界に旅立つのもこのままさそい風としてさらりと中央道を流すのも自由です。それでは順番に……」

 東西水急は静岡、大竜運輸は宮城、壬生急行は山口と、それぞれ故郷へ帰る意思を伝えた。

 それから間もなく三台と四人は、謎の木箱の中に吸い込まれて行った。

 三台が消えた後、『この木箱、網掛トンネルまで』と書かれたメモ書きがひらひらと舞い降りた。

 東西水急の少女は熊のぬいぐるみを抱え、輸送依頼の受取りを残して消えた。

 川野兄妹と本田の三人が、木箱を取り囲んで残っている。

「歴代車番の九四‐五一を永遠に!」

 川野の兄は持っていたナンバープレートを本田に手渡し、何かを言いたげに左手を上げた。

 それから間もなくグレートとともに、木箱の中へと吸い込まれた。

 皮肉なことに初めての会話が別れの挨拶になった。

 魔性の車番は、巡り巡って本田の元に落ち着いた。

「さあ一緒に走りましょう!」

 グレートに乗り込んだ川野は、笑みを浮かべながら誘っている。

「風のようにさりげなく」

 本田は復活を果たしたプロフィアに乗り込み、この場所から再スタートを切った。

 二条倉庫の二台はさりげなく中央道へと戻り、残された謎の木箱はさらりとしたさそい風に吹かれ何処かへ消えた。


 一九九七年三月一三日、午前〇時〇〇分。

 東名上りの小牧ジャンクションを直進する名代が、挨拶代りのハザードを点けた。

 後ろの杉田は軽いパッシングを返し、さりげなく中央道に逸れた。

 二〇〇を超える速度で走り続ける杉田が恵那山トンネルを抜け、網掛トンネルに入ったとき、810のサイドミラーに白い光が張り付いた。

 杉田は即座にアクセルを踏み込んだ。

 トンネルの出口から伸びる坂道を、捨て身の覚悟で駆け下り、阿智パーキング一キロバックの表示板も二〇〇超の速度で通過した。

 余裕を見せる杉田が、左カーブに差し掛かった。

 それは一瞬の出来事だった。

 サイドミラーから消えた白い光が、さらりとした風を810に浴びせ、二六〇キロポストの先にある魔のカーブを段違いのスピードで曲がって行った。

 熊のぬいぐるみを助手席に乗せた白いグレート、一九‐六〇の車番には、二条倉庫の社名が浮かんでいた。

 さそい風とともに走り去る中央道の神様に、杉田はこのときはじめて出会った。


 一九九七年三月一三日、午前〇時四〇分。

 須玉の最終コーナーに、さらりとした風が流れた。

 長坂インターを通過した二台の810が、魔の左カーブに向けてフルスロットルで下りてきた。

 守川と伊藤の810は二〇〇オーバーの速度保ちながら、最終コーナーへ向かっている。

 それまでサイドミラーに映っていた白い光がスッと消えたとき、ハザードを点けた二条倉庫の白いプロフィア九四‐五一が、圧倒的な速さで追い抜いて行った。

 春色の葡萄畑が広がる甲府の街に、あの懐かしい高回転の過給機音が鳴り響いた。

「守川さん、今の二条倉庫、もしかして……」

 伊藤は、電話片手に声を張り上げた。

「魔性の車番か、本物の神様になって帰ってきやがった」

 携帯を置いた守川は僅かに目を閉じ、「元気だったか」とつぶやいた。

 二人がピカイチの走り屋と再会した瞬間だった――。


「この伝説は、これで終わりだ。少し長すぎたかな?」

 問いかける盛田に対し、五人は無口だった。

 静まり返った管理事務所の中で、小室が喋り出した。

「不思議な木箱は何処に行ったのでしょうか?」

 小室の視線は、盛田に向けられた。

「どこにあるのか誰も知らないが、とにかく突然動き始める。そこにはいつも川野が絡んでいるから、彼女こそ持ち主なのかも知れないな。そのうちもう一度出てくるよ。楽しみに待っていてくれ」

 盛田は、小室の肩を軽く叩いた。

「本田は中央道の神様になった。それも二条倉庫として。最後に望みが叶ったと言う訳ですか。でも川野の兄のように、いつか消えてしまうのでは? 川野あゆみと言う女、いま一つ分からないな」

 広瀬は、盛田に視線を向けた。

「そこのところは全く同感だ。本田にとって敵なのか味方なのか、今度川野に会ったら直接聞いてみるさ」

 盛田は、にやりとした。

「本田のやつ、最後まで風切りびとを通しやがった。凄い執念ですね。盛田さん、あいつの幻影を見た感想は?」

 腕組みした浅井は、盛田に目を向けた。

「あれは何だったのか、今でも不思議な出来事としか言いようがないし、説明できるものではないな。あのあとおれは何度か本田の夢を見たけど、その内容と言えば、阿智の谷間にダイブしてからの往復運行だった。風切りびととして最後まで走り続けようとする思いと、どうしても伝えたいという思いが重なって、おれの夢に何度も出てきたのだろうよ。最近何年も見てはいないが……。次は新しい走り屋たちの伝説だ。期待していてくれ」

 盛田は天井を見上げ、大きく背伸びした――。


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