⑤東名鮎沢の少女
二〇一三年四月一〇日、午前一時三〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。
高井戸と大月の間が通行止めになってから、かれこれ五時間が経過しようとしている。
昨夜の二〇時三〇分以降、当然のことながらこのゲートを通過した車両は一台もいない。
普段であれば真夜中でも混雑が絶えない料金所も、今夜はしんと静まり返ったままである。
この料金所に収受員として勤務する盛田は、ここへ来て一三年になるベテランだ。
以前はコスモスラインに在職していたが、脳梗塞を発症したことが引き金になり退職を決意した。
それから真面目にリハビリを受けたことで健康体を取り戻し、縁あってこの八王子本線料金所へ転職する運びとなった。
その三年後、浅井、長尾、太田、そしてまだ起きて来ない広瀬の四名が連れ立って、コスモスラインから一気に転職してきた。
「盛田さん、本田が所沢定期を走り始めてから一度だけ厚木に立ち寄ったことがあるのですが、そのことは聞いていませんか?」
モニターを向いていた長尾の視線は、ゆっくりと盛田に移った。
「そうそう、小田原にも一度だけ立ち寄って来ましたよ。確かそのとき、誤発送の荷物を持たせた記憶があります」
太田も同じように視線を移した。
盛田は、そんな二人を交互に見つめ笑みを浮かべた。
「偶然にも長尾と太田の話を聞いて思い出した訳ではないが、本田が突発対応で厚木と小田原に運行したときの伝説だ。あの日、東名を走る羽目になったのはあいつの運命だったような気がする。どう考えてみても、ただの成り行きだけでは済まされない。だから伝説の内容としては東名になるのだけど、このストーリーが無かったら全体が繋がらなくなるから、これも中央道伝説と言うことで聞いてくれ。それと内容が違っていたり抜けていたりしたら、すぐに教えてくれないか。長尾、太田、頼んだぞ」
浅井と小室は、三人のやり取りを黙って聞いていた。
東名御殿場で本田が遭遇したという不思議な伝説を、盛田は静かに語りはじめた――。
一九九六年一二月一二日、この日は時折小雪がちらつく寒空で、低い雲に覆われ、一日中どんよりとしていた。
一七時を少しばかり過ぎたころ、CL明石支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。
プロフィアの給油を済ませた本田が、サイドミラーを拭き終え、普段通り所沢の番線に入ろうとしたとき、ホームの上から絶叫に近い呼び声が聞こえてきた。
「おーい、本田。こっち、こっち。小田厚だ!」
本田は、その場にプロフィアを停めた。
プラットホームの上から、運行管理者の田辺が踊るように両手を振ってわめいている。
なぜか田辺は小田原と厚木の番線に着けるよう手招きしているのだが、本田はその訳を聞く間もなくバックギアにクラッチを繋いだ。
とっさにハンドルを大きく切り直し、小田原と厚木の番線にプロフィアのテールを振り向け、田辺の指示通りバックを続けた。
気付けば、都合よく一発で番線枠に納まっていた。
運転席を降りた本田は、田辺の待つホームに駆け上がった。
「本田君、急で悪いけど、今日だけゴメン。所沢線は摩耶急送の斉藤さんに走ってもらうから、小田原と厚木に行ってくれ。帰りは裾野支店から明石一本だ。申し訳ない。この通り」
田辺は、真剣な眼差しを本田に向けてきた。
おまけに手まで合わせている。
聞くところによると、小田原、厚木の定期を走っている名代が風邪で寝込んでしまい、その代役になるはずの摩耶急送の斉藤は、なぜか所沢を希望したようで、夕方になって早急な配車の組み替えが行われたようだ。
田辺は、他の運行者に手当たり次第依頼して断られ、残るは本田しかいなかったという事情があってのことらしい。
「大丈夫です。任せてください。斉藤さんか……。懐かしいですね」
本田は田辺に対し、忘年会の誘いを断ったという負い目を感じていた。それと、もう一つ理由があった。今日の場合いきなりではあるが、誰かが背中を押してくれなければなかなか実現しなかった東名走行である。
懐かしいものだと割り切り、簡単に引き受けた。
「本田君、ありがとう」
田辺は都合のいいときに出る君付けで応え、笑顔まで振りまいた。
本田にとって四年ぶりとなる東名走行は、何とも感慨深いものがあった。しかし思わぬ急展開のため、今回試そうと考えていた新生プロフィアの中央道走行テストは、次回へ持ち越しとなった。
安堵した様子の田辺は、こうなった経緯を喋り始めた。
「その斉藤さんだけど、厚木支店に出入りしている癖の悪い業者とトラブルになったみたいだ。要は極道の、いや本職の血が騒いだのだろう。相手の四人全員を病院送りにしたらしいよ。結局は喧嘩両成敗ということになったのだが、周囲の目を気にした厚木の支店長が、しばらくの間出入り禁止という処分を下したそうだ。ある意味周囲からは感謝されているらしいが……。でも褒め称える訳にもいかないし、こればかりは仕方ないな。
まあ、その様な経緯は関係のないことだが、シフト変更のことで他の運行者にも当たってみたけど、みんなこのコースだけは敬遠してしまうみたいだ。なんだかんだと色々理由付けしていたけど、本当は運行旅費の金額が少ないからだと思うよ。東京まで足を延ばせばそれだけで八千円になるのに、神奈川止まりでは五千円しか出ないからな。だから君に頼んだと言う訳ではないけど、正直言って頼める人材が他にいなかったもので……。やれやれ、本当に助かった。この埋め合わせは必ずさせてもらうよ。本田君」
田辺は、本田の手を強く握りしめた。
「手首の骨が砕けます。田辺さん、埋め合わせなんか必要ないですし、本田君と言うのも止めてください。実のところ、以前から名代さんにも誘われていたので、いつ行こうかと思っていたくらいだから、今日は昔を偲んで御殿場の坂を走ってきます」
本田は、屈託のない笑顔を見せた。
このコースを本田が走るのは、名代の横乗りで走った教育運行以来だった。
当時は小田原支店に立ち寄った後で厚木支店に入っていたが、今日は厚木向けの集荷物が普段より少ない見込みだと、番線の仕分け担当者が教えてくれた。
本田は先に厚木支店まで行き、その後小田原支店へ立ち寄ってから、最終的に裾野支店まで引き返す運行予定を決めた。
頭に積込むことになった小田原支店向けの荷物は、大口ロットで軽いケース物が目立った。
CLに限らずこの業界の傾向として、重量、距離、立寄箇所の多いほど、給料も多くなるという仕組みになっている。
本田は高収入より、〝走る、曲がる、止まる〟に適した範囲、伝票重量七、八トンで実重量三、四トンの積荷になりさえすれば良かった。
本田がこの仕事について以来、早く走るための条件をとことん追求した結果、重たすぎればコーナーで膨らみ、更に止まれず、逆に軽すぎても全く走らないということを体験してきた。
それを元に最適な積荷の重量を導き出したのである。
今夜もこの番線に集まってくる物量が、この範囲内であることを本田は願った。
ホームの中央で体を震わせている田辺が、マイクのスイッチを入れた。
「それでは始めます。現在インフルエンザが流行っているようです。今日も小田原、厚木便の代打で、所沢線の本田君が走ることになりました。急なシフト変更は調整が難しく、多くの人に影響を与えます。運行者の皆さんも、体調管理に十分注意してください。次に経過報告です。先日の事故により意識不明だった足立物流のドライバー二人が、回復に向かっているという一報が入ってきました。しばらく療養は必要でしょうが、そのうち復帰できる見込みだとのことです。今日の出発予定時刻は、二〇時四〇分です。ご安全に!」
頼みを聞いてくれた本田のことを、田辺はそれとなく言った。
小田原、厚木の番線に戻ってから、本田は黙々と積込み作業を続けた。
小田原向けの荷物を半分近くまで積み込み、それから厚木向けの荷物に取りかかった。
全ての荷物に貼り付けてあるバーコードシールを、専用の端末で読み取り、一つずつ確実に積込んだ。
気付けば、番線に並んでいた荷物を全て片付けていた。
『今流れている書類ケースが最終の荷物です』構内放送が流れた。
集荷の終わりを知らせるアナウンスが鳴り響くと、プラットホームの上は卸売市場のように慌ただしくなった。
昼勤と夜勤の業務員たちが、幅広のベルトコンベアを手際よく収納していく。
居残り当番の集配者が、積込み台車の後片付けを始めた。
短時間のうちに繰り広げられる出発と到着の準備風景が、運行者たちの緊張度合を強制的に押し上げていく。
本田が荷崩れ防止終えたとき、摩耶急送の斉藤が喋りながら歩いてきた。
「あの下り勾配はどうも性に合わん。御殿場の右ルートだが、最近火の玉が出るらしいぞ。特に風を切って走る奴のところへは好んで近寄ってくるそうだから、本田、せいぜい気を付けることだ」
斉藤の言う〝性に合わん〟とは、厚木支店のことだった。
斉藤は、大井松田と御殿場の間にある右ルートの下り線で、逆向きに飛んでくるという火の玉の情報を教えてくれた。
本田も以前その付近を走っていたとき、一度だけ遭遇したことがある。
それは白い光の粒子だったが、火の玉とまでは言えないものだという記憶が残っていた。
「火の玉ですか? そっちの方は何歳になっても苦手です。それに、自分も右ルートは性に合いません」
本田は、口裏を合わせた。
「おまえ本当は怖いのだろう。よし、今日は久しぶりに連なってみるか。小牧までだが、おれに抜かれるなよ」
斉藤は、本田の肩を軽く叩いた。
「小牧まで抜けなかったとしたら、東名を走りませんか?」
本田は、すまし顔で応えた。
「残念だが今日は中央だ。本田、たまには御殿場で幽霊に絡まれるのも刺激的だぞ。何でも、女の幽霊らしいから楽しみだな」
斉藤の笑い声がこだました。
風を切って走る風切りびとは、この斉藤から始まったと守川が洩らしたことがある。
守川と同じ仕様の810に乗る斉藤は、〝伝説のドライバー〟とも呼ばれ、六〇歳間近になった今でも攻めることに関しては、一切手抜きをしない筋金入りの走り屋だ。
その斉藤でさえも、本田の走りがハイレベルの域に達していることを認めていた。
本田と斉藤は、運行伝票を取りに事務所へと向かった。
二人の姿を見かけた田辺が、笑顔で近付いてきた。
「本田君、近いうちに必ず埋め合わせをするから楽しみにしていてくれ。そうだな、花束でも送るよ」
田辺は、小田原と厚木の運行伝票を手渡した。
「埋め合わせなんかいりません。特に花束なんて。田辺さんの君付けは、どうにも不気味ですね」
「素直に受け取れ。誠意の表れだぞ。斉藤さんも久しぶりの所沢線、気を付けて運行してください」
田辺は、所沢の運行伝票を斉藤に手渡した。
「いろいろと配慮してくれたみたいで……。田辺さん、恩に着るよ」
斉藤は、照れくさそうに頭を下げた。
「二人とも安全運転指導者でしょうから、特に心配ないと思うけど、気を付けて行ってらっしゃい!」
明るく送り出そうとする田辺に、本田と斉藤は左手を上げながら事務所を後にした。
本田は観音ドアを閉め、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。
甲高い始動音と同時に、プロフィアのアイドリングがスタートした。
乾いたディーゼルサウンドが、明石支店の構内に響き渡っている。
伝票重量八トン、実重量四トンの走りやすそうな積み荷を背負い、出発準備が整った。
斉藤が、所沢の番線から左手を上げている。
本田も、短めのクラクションを返した。
二〇時四〇分、小雪が舞いはじめたCL明石支店のプラットホームから、次々に運行車両が離れていく。
セカンドギアにクラッチを繋いだプロフィアに810が続き、関東便の二台は軽い身のこなしで動き始めた。
プロフィアの助手席に陣取る熊のぬいぐるみが、魔除けの顔で睨みを利かせていた。
阪神高速を灯す照明が、大阪の空まで一直線に伸びている。
西宮ジャンクションから左に逸れたプロフィアと810は、路線トラックの集団にまじって名神高速へと流された。
左カーブを回った先の赤いボックスが、グリーンシグナルを点けて待っていた。
明石出発の二台が横並びで西宮ゲートをくぐり抜けたのは、二一時三〇分になろうとするころだった。
力強い加速を始めた本田のプロフィアに、伝説のドライバー斉藤の810がぴたりと張り付いた。
本田と斉藤は、吹田ジャンクションをフルスロットルで走り抜けた。
中国道から合流してきた路線の走り屋たちと、今夜も虚しいだけの団子レースが始まった。
京都東インターを過ぎたころ、激しさを増した大粒の雪が、公団の塩カリ散布車を呼び出した。
栗東インターを通過するころには、低速作業が原因のハザードランプが咲き乱れ、何度も本線停止を引き起こした。
渋滞に巻き込まれて走る本田の携帯に、後ろの斉藤から着信が届いた。
「本田、この分だと関東近辺も似たようなものだぞ。御殿場の雪、いや、黒風はどうだろうな?」
斉藤は、降りしきるゲリラ雪を窓越しに眺めた。
「黒風ですか、その響きが懐かしいですね。なにぶん御殿場から先は何が起きても不思議ではありませんが、今日は風より雪でしょう。
それに……、いえ、斉藤さんは中央で良かったですね」
幽霊話を思い出した本田は、身震いした。
「そうだな。盛田さんにも会えることだし、おまえには感謝しているよ。今日はせっかくだから、中央道の最速記録に挑戦してみるか。二時間以内だろ?」
「元祖風切りびとの斉藤さんだったら、神戸出発の守川さんに追い付いてしまうのではないですか?」
「あいつとお前には無理だよ。いつかまた中央で会おう! 本田、意識しているだろう、女の幽霊がお待ちかねだぞ」
斉藤は笑みを浮かべ、一方の本田はため息をついた。
五〇キロ走行中の二人は、電話片手にこのようなやり取りを続け、しばらく滋賀県内でもたついていた。
関ヶ原インターを通過したとき、塩カリ散布車が姿を消した。
二台のエンジンに溜まった排ガスを吐き出す時間がやってきた。
本田と斉藤は、アクセルを軽く踏み込んだ。
二人は養老サービスエリアから伸びる直線を、二〇〇オーバーの速度で駆け抜けた。
プロフィアの加速が鋭くなっていることを斉藤は見抜いたのか、本田のアクセルワークを後ろからじっと見つめていた。
新しくなった過給機から確かな手応えを感じ取った本田は、それからしばらくの間積極的に踏み込んだ。
雪に苦しめられた明石出発の二台は、高回転の過給機音を響かせ一宮インターを通過した。
三四一キロポストにある東名と中央の電光掲示板には、東名御殿場ユキと、中央道走行注意の表示が場違いのように光っていた。
本田は、中央道への未練を断ち切るように、追い越し車線を走っている。
小牧ジャンクションの表示板が、すぐ目の前に迫ってきた。
本田の携帯電話に、再び着信音が響いた。
「とうとう、化け物に仕立てたな」
斉藤は、パッシングと同時に走行車線へと進路を変え、本田の左横に並んできた。
「分かりましたか。おれも伝説のドライバーになりたくて……」
「一〇年早いよ」と、返してきた斉藤に、本田は軽めのクラクションを二回叩き、追い越し車線に居残った。
二三時三〇分、フル加速を始めた斉藤が左手を上げ、小牧ジャンクションからさりげなく中央道に逸れて行った。
路線トラックの集団に挟まれた本田は、東名本線を流されるまま走った。
ここで二台は、右と左に離れて行った。
本田が豊川バリアを通過した直後、首都高速まで続きそうな混雑の中で、不吉な予兆のハザードランプが両方向で点き始めた。
そのときすれ違いざまに聞こえてきたのは、命の灯火が消えかけた断末魔の叫びだった。荷物を背負ったまま、儚くも散って逝こうとする同業者の悔しさが、クラッシュ音に絡み合い悲鳴となって伝わってきた。
四年ぶりに戻ってきた本田を、東名の生々しい事故物語が出迎えてくれた――。
「久しぶりの東名なのに、これだと先が思いやられますね。だいたい東名なんて車が溢れかえっていることぐらい分かっていたことでしょう。本田のやつ、昔を偲んで走るとか言っていましたが、そんな余裕などあるのかな?」
言い放った浅井は、監視モニターから視線を外した。
「風を切って走るのは無理だな。これだけ混んでいたら、飛ばしても長続きしないだろう。〝呪いの東名、恨みの中央〟などと言う奴もいたが、今夜の本田は、何かに呪われているかも知れないぞ」
そう言った盛田は、お茶を一口飲んだ。
「突然ですが、中央に回った斉藤さんですけど、けっこういいタイムで走ったみたいですよ」
いきなり小室が言った。
「なぜそれを……。一体、誰に聞いたのだ?」
盛田は目を細めた。長尾と太田も、小室に視線を向けている。
「単なる予想ですよ。伝説のドライバーだったら、そのような流れになるだろうってね」
小室は、薄笑いを浮かべた。
「斉藤さんか。懐かしいなぁ。あのとき、誰より速いではなく強かったと思いますよ」
長尾がつぶやいたところで、盛田は伝説の続きを語り始めた――。
新顔の走り屋たちが本田の後ろに迫ってきたのは、焼津インターの先にある日本坂トンネルを抜けたときだった。
パッシングの嵐と乱暴なあおり運転で、追い越し車線を我が物顔で走る厄介者だ。その集団が、プロフィアの真後ろに張り付いた。
当然のことながら、コスモスラインの協力会社ではなかった。
サイドミラーを眺めていた本田は、素知らぬ顔で団子状態の追い越し車線を走り続けた。
静岡インターまで一〇〇から一五〇の間を上下していたスピードメーターの表示は、沼津インターを通過してから短時間だけ二〇〇の大台を超えた。
遊び心が芽生えた本田は、裾野の上り勾配でアクセルを軽く踏み込んだ。
後ろに張り付いていた二流の走り屋たちは、あっさりとサイドミラーの中で消滅してしまった。
胸のすく走りは瞬く間に終わり、本田はまたしても一五〇以下の速度に抑制された。
ひしめき合う車列の中で、御殿場インター二キロバックの表示板をくぐった。
この辺りまで上ってくると、雪を絡ませた黒風が横殴りに出迎えてくれた。同時にプロフィアの後ろから、別口の走り屋たちが息を殺し、何所からとも無く集まってきた。
走り屋に張り付かれたとき、そのドライバーが一流なのか二流なのかはすぐに分かる、と本田は思っていた。
まず二流の走り屋は、障害物を蹴散らすように迫ってくる。対して一流の走り屋は、無言の圧力で迫ってくる、と言うものだ。
しかし先ほどから張付いている走り屋には、この二つとも当てはまらなかった。
まるで影のように気配がなく、それでいてどことなく哀愁を漂わせているのである。
本田は昔の仲間を偲ぶ思いで、新しくなった坂道を下り始めた。
本田が横浜定期を走り始める以前から、御殿場と大井松田の区間は通行量も事故件数もずば抜けていた。
その当時、悪条件が揃い過ぎた改築前の上り線を、フルスロットルで下っていた本田は、多くの走り屋たちと命がけのバトルを重ねてきた。
連日のように重大事故と通行止めが発生し、数えきれないほどの魂が御殿場の坂に散った。
その後一九九一年の三月に新設されたのが、この上り線だ。
当時を振り返る本田は時計の針を巻き戻し、現在下り線として使用されている旧の上り線に思いをはせた。
まるで横浜定期を走っていたころに逆戻りしてしまったかのような情景を、眼下に思い浮かべていた時だった。
運転席にあるデジタル時計の表示が、一二月一三日の日付で鮮やかに浮かび上がってきた。
一二月一三日の数列に目が留まった瞬間、心に引っ掛かる〝何か〟を感じた。
本田は心の奥で、その〝何か〟を探してみたが、結局何も思い浮かばなかった。
吾妻山トンネルを抜けたところで、下り線の左右ルートが再び眼下に見えてきた。
本田が覗きこむと、谷底から舞い上がる雪にまじって、白い光の粒子が旧道の周りで舞っていた。
斉藤が教えてくれた火の玉なのかは不明だが、昔から下り線で起こる不思議な現象には違いなかった。
そのときまたしても〝何か〟が脳裏をかすめたが、幽霊話を思い出し、鳥肌になってそれで終わった。
心霊現象が苦手な本田は、すっきりしないまま混雑する車列に紛れて走り続けた。
一二月一三日、午前三時〇〇分。
団子状態の東名本線からはじき出されたプロフィアは、厚木インターの減速車線に進路を変えた。
料金所をくぐり抜け、国道一二九号線を五分ほど走り、相模川を渡ってすぐの交差点を右に曲がると、CL厚木支店の明かりが見えてきた。
名代との教育運行から六年ぶりの本田が、厚木支店のプラットホームに入ってきた。
夜勤者たちは明石便に注目した。
「聞いてなかったから誰かと思ったよ。確か明石の……。頑張っているようだな」
到着主任の長尾は、名前が出てこないようだった。
「本田です。お久しぶりです。今日は、代打の身代わりで来ました」
本田は、運行伝票を長尾に渡した。
「そうそう、今思い出した。本田君だったな。やっぱり名代さんは風邪をこじらせたのか? 前回きつそうにしていたから心配していたんだ。それと斉藤さんだけど、厄介な仕事を派手に片付けてくれた見返りに、特別休暇中なのだろ。でも、見ていてすっきりしたよ。それにしても中央を走りたい気持ちが分からなくはないが、たまにはこっちにも立ち寄ってきたらどうだ」
運行伝票の氏名欄を見ていた長尾は、笑顔で誘ってきた。
伝票重量四トンの荷下ろしは、仕分人たちが即座に片付けてくれた。
「はい。次回こそ斉藤さんの武勇伝をじっくり聞かせてもらいます。いまから小田原に帰りますので。それでは、また今度」
CL厚木支店を出発した本田は、折り返しの行程に入った。
三時二〇分、本田は粉雪が舞う厚木インターから、東名高速下り線に合流した。
混雑から解放され風を切りながら走り始めた本田は、下り線の通行車両が途切れたのを見計らい、二〇〇オーバーのフルスロットルで走ってみた。
過給機と足回りのチューニングを済ませたプロフィアは、今までとは全く別物の走りを披露してくれた。
別次元の世界へと導かれた本田は、今のプロフィアの能力なら、魔風であろうがさそい風であろうが、中央道の風を切って走るのはたやすいことだと確信した。
CL小田原支店のプラットホームに、厚木帰りのプロフィアが入ってきたのは、三時三〇分を回ったころだった。
長尾から連絡が入っていたようで、本田が到着ホームに着けると同時に、待ち構えていた仕分人たちが約四トン分の荷下ろしに取りかかった。
「本田、久しぶりだな。ここに来るのは何年ぶりだ?」
到着主任の太田は、笑顔で迎えてくれた。
「六年ぶりですよ。懐かしいですね。特に今日は、雪と風とおまけに火の玉まで出迎えてくれましたけど」
本田は、運行伝票を渡した。
「雪は仕方ないにしても、御殿場の黒風には気を付けろよ。それと火の玉だか何だか知らないが、夜が明けたら富士山が綺麗だぞ。得体の知れない火の玉より、日本一のお日様を拝むことだ。朝焼けの富士山を見ると長生きするって言うだろ。だから、また来いよ」
「御殿場から見てみます。またそのうち来ますよ。今度は裾野のココアを目当てに! 太田さん、燃料を入れて帰ります」
荷下ろしのあと、構内にあるスタンドに移動した。
本田は給油の最中、塩カリが付着したフロントガラス周りの拭き掃除を始めた。
ウイングマークのところに、用意していたリースを取り付けるためだ。
御殿場の黒風に呑まれた走り屋仲間に対する追悼の意である。
そこへ、太田が何かを持って近付いてきた。
「本田、さっき降ろした明石の到着荷物の中から、行き先不明の木箱が見つかったよ。荷札も伝票も見当たらないし、どうしようもなくて……。悪いけど、持ち帰ってもらうと助かるのだが。明石支店としてもその方が対応し易いだろう」
太田は、気の毒そうに古びた木箱を本田に手渡した。
その木箱は、全面アールデコ調の深い彫り物で覆われ、留め具の付いた蓋があり、一〇キロ程度の重量で、みかん箱くらいの大きさだった。
本田には自信があった。見る限り明石支店で積み込んだ荷物の中にこの木箱は含まれていなかった。
それでも「分かりました。持って帰ります」と、快く受け取った。
本田が心当たりのない木箱を荷室に積込み、小田原支店を出発したのは、午前四時前だった。
大井松田インターの路面は、すでに白くなりかけている。
空車状態のトラックというのは情けないもので、ちょっとしたことで足元をすくわれてしまう。
東名高速下り線に合流した本田は、下り勾配になっている左右の分岐まで慎重な運転を続け、予定していた通り左ルートを走り始めた。
一九九一年一二月を境に、工事中だった旧の上り線が、下り線の右ルートとして生まれ変わった。
それからというもの、過去の英雄たちと正面衝突するような気がして、本田は右ルートを避けてきた。
プロフィアのフロントでは、弔いのリースが向風に揺れていた。
並行する右ルートが、左ルートからの視界に絡んでくる。
本田は、眩しく輝いていた当時を振り返ってみた。
東名しか知らなかった六年前、壬生急行、大竜運輸といった一流の走り屋たちと一緒に、この長い坂をフルスロットルで駆け下りた。
そして、御殿場に吹く黒風に多くの仲間を呑まれた。
荷物を背負い、儚くも七〇キロポストの橋を曲がりきれなかった走り屋たちが、今にも右ルートを逆向きに駆け下りて来そうな気がしてならなかった。
斉藤の言った火の玉は、それを物語っているかのようだった。
いずれにしてもこの手の話が苦手な本田は、恐怖心に満たされていた。
その思いを払拭するべく弔いのつもりで走る本田の前に、鮎沢の雪は容赦なく舞い下りた。
都夫良野トンネルを抜けると同時に、滑りやすくなった路面で何度もハンドルを取られ、裾野支店まで帰って仮眠しようとする思いが薄れ始めた。
その原因は、タイヤにあった。
ドライ路面での走行が何よりと考えていた本田は、未だに冬用タイヤを着けていなかった。
急速に悪くなった視界も、ギブアップを助長した。
遠くまで届くはずのヘッドライトは、情けないほど手前を灯している。
追い打ちをかけるように、速度が落ちたプロフィアをめがけ、白い光の粒子が大粒の雪にまじって飛んできた。
不思議な光景を目の当たりにしている本田は、不気味さと一緒に心に引っ掛かる〝何か〟をまたしても感じた。
暗闇の中で大きく動くワイパーの先に、鮎沢パーキングの光がかすかに見えた。
迷った末、タイヤチェーンを付けようと考えた本田は、慌ててハンドルを左に切ってしまった。
減速車線に入ったはずのプロフィアは、段差を乗り越えたときのような衝撃の後、なす術もなく滑り始めた。
白い光の粒子に導かれるまま、駐車場の中央にある水銀灯の下まで、長い時間をかけてスリップしてしまった。
想定外の出来事に、本田の鼓動は激しく波打っていた。
通行車両が途絶えた下り線の鮎沢パーキングで、悲しい光を放つ水銀灯が、斜めを向いて停まったプロフィアを真面目に照らしている。
深呼吸を何度も繰り返しながら、本田は薄暗い駐車場を見渡した。
広い敷地の中に見えているのは、鮮魚の保冷車らしきトラックが一台だけだった。
何故か他に駐車している車両は見当たらず、普段目にするパーキングの風景とは違っていた。
保冷車の運転席にはドライバーの気配はなく、開けっ放しにされた観音ドアから、かなりの雪が荷室に舞い込んでいる。
ここで再び思い出したくもない幽霊話が、沸々と湧き上がってきた。その反面怖いもの見たさにかられた本田は、温もりを感じさせない保冷車の車体に目を凝らした。
するとそこには、見覚えのある社名がすっと浮かび上がってきたのである。その瞬間再び鼓動が乱れた。
ひっそりと佇んでいた保冷車は、本田もよく知っている東西水急だった。
東西水急は、路線トラックがはびこる以前から夜の高速では名の知れた走り屋で、清水港を拠点に全国の保冷倉庫や市場を速足で駆け回っていた。
マナーの良さと車両の美しさには定評があり、何度か一緒に走ったというところまでは思い出した。
しかし、またしても〝何か〟が本田の脳裏をかすめた。
しんと静まり返った暗闇の中に、思い出せない〝何か〟が隠れていた。
裾野支店まで移動しようとする本田を、薄っぺらに積もった雪が引き止めた。
タイヤチェーンを着けるため、プロフィアの左後部に回り込んだ。
だが、専用フックに掛けていたはずのチェーンは跡形もなく消えていた。
盗難にでも遭ったのだろうか、などとあれこれ思い、誰ひとりいない鮎沢パーキングで、本田の心はどこまでもしおれていった。
しばらくして、本田はあることを思いついた。
それは車検のとき、ディーラーが外したのではないかと考え直したのである。
もしそうであれば、必ず工具箱の中に入れてあるはずだとひらめき、車体右側にある工具箱を開けた。
懐中電灯を照らし、奥の方まで手探りで調べてみたが、あると思われたタイヤチェーンはどこにも見当たらなかった。
気付けば、本田の両手はハンドルを握れないくらい真っ黒になっていた。
手袋をするべきだったと後悔したが、今更ながら始まらないと諦め、足取りも重く薄暗い洗面所へと向かった。
洗面所の四隅に枯れ葉が積り、鏡と手洗いの周りには埃が溜まっている。
何かが潜んでいそうな雰囲気に、思わずその場から逃げ出しそうになった。
だが真っ黒になった両手を水洗いしなければならず、思い留まり、水道のガランに手を掛けた。
蛇口から出てきた水は圧が弱く、凍りかけの冷たさで指がちぎれるほどの痛みが刺し込んできた。
そのとき、すぐ近くで人の気配を感じた。本田の体から一瞬にして血の気が引いた。
「ココア買って!」
しんと静まり返った空間に少女の高らかな声が響いた。
ほどなく、カタカタカタと自販機の中で缶が落ちる音がした。それは売店の方からだった。
普段よく耳にする日常の雑音は、恐怖感に潰されそうな心を僅かながら支えてくれた。
同時に冷たくなった指先を、ココアで温めようとする思考回路も復活させた。
気を取り直した本田は、売店へと向かった。
しかし、自販機があると思われた場所には何も見当たらず、ましてや今しがた気配を感じた少女らしき姿もなかった。
売店の中を覗いてみても営業を思わせる状況ではなく、何もかも取り除かれた空間がそこにあった。
鮎沢パーキングが工事中だとは聞いていなかったが、駐車スペースががら空きになっている理由はこのためなのだと分かった。
しかし、その一方でまたしても大混乱が始まった。
斉藤から聞いた女の幽霊話がさらに拍車をかけ、駐車場のプロフィアめざして一目散に駆け出した。
叫び声までは上げないものの、足がもつれ、途中何度も尻もちをついたあげく、やっとのことで運転席まで這い上がった。
息を切らすほど走ったのに、体の震えは治まらない。
急いでヒーターの温度を最高に設定し、ベッドから毛布を取出し体にまとった。
勢いに任せ、震える左手でギアを二速に入れ、クラッチを繋いでみたが、プロフィアの足元は空回りを続けた。
最後は溜息さえつくことも忘れ、運転席のシートに沈んだ。
しばらくすると温度が上がってきた運転席で、徐々に落ち着きを取り戻した。
まだぼんやりとする中、本田の視線は助手席に置いた熊のぬいぐるみ越しに外へと向けられた。
先程と変わらず、東西水急の周りを白い光の粒子が取り囲んでいる。
見方を変えればその様子は不気味と言うより、むしろ幻想的な光景にも見えた。
いかにもココアの少女が、保冷車の中で無邪気に遊んでいるのでは、と錯覚しそうになった。
しかしこれ以上深入りする勇気も体力もなく、明るくなるまで仮眠を取ろうと、プロフィアのベッドにもぐり込むしかなかった。
足柄山を越えてきた小雪が、今なお降りつづいている。
継続中の通行止めを物語るように、本線を走る車両は上下線とも全くいない。
冷たく静まり返ったパーキングで本田が目覚めたとき、六時を指した時計の針が周りの暗さの中で光っていた。
まだ十分に疲れが取れていないのか、すぐには動き出せなかった。
時刻からして僅か一時間だけの睡眠だと思った後、違うことにすぐ気付いた。
それは携帯のデジタル表示が一八時の並びで、寝過ぎたことをストレートに教えてくれたからだ。
この時点で火の玉や幽霊などの恐怖心より、仕事への責任感で頭は一杯だった。
すでに裾野支店ではミーティングも終わり、積込みが始まっている時間である。
一二時間以上眠り続けたと思った本田は、目覚めたばかりの気持ちを前方に集中させ、二速に入れたギアにクラッチを繋いだ。
プロフィアは、全く前に進まなかった。
何度となくスタートを試みたが、タイヤチェーンのない足元は空回りを続けた。
ラジオも携帯も電波を受信できず、完全孤立を思い知ったあげく、成す術などまったく無かった。
移動を諦めるしかない本田は、ただ茫然と運転席に座った。
『♪~』白銀になった鮎沢の谷間に、ピアノらしき音が響き始めた。
本田は無意識のまま車外に出ると、メロディを追いかけ耳を澄ませた。
今にも止まりそうな曲ではあったが、やがてプロフィアの後部からだと分かり、小田原で積込んだ木箱のことを真っ先に疑った。
本田は、プロフィアの観音ドアを片側ずつ緊張気味に開けた。
真っ暗な室内を見渡しながら、慎重に荷台までよじのぼり、室内灯のスイッチに手を伸ばした。
照らし出された荷室には例の木箱があるにはあったが、なぜか蓋が開いた状態になっていた。
本田は木箱に吸い寄せられた。
『♪~』メロディの正体は、箱の中で回るオルゴールドラムだった。
本田が箱の中を覗くと、五、六歳くらいの少女と帽子を深めにかぶった男性の写真が一枚入っていた。
裏には〝一九九〇年一二月一三日木曜日、鮎沢にて〟とあり、その少女は缶ココアを握っていた。
写真を手にした本田は、六年前の今日を振り返ってみた。
断片的に状況が蘇る中、その日もかなりの雪が降っていたことをおぼろげに思い出した――。
その日、東西水急と二台連なって御殿場の坂道を下りてきた。
まだドルフィンに乗っていたころで、横浜支店に向かう途中だった。
滑り始めた本線で渋滞に巻き込まれた二台は、上り線の鮎沢パーキングに避難し、空いたスペースを見つけ、そこで朝を迎えた。
そのとき東西水急の助手席に乗っていたのが写真の少女で、脳裏をかすめ続けた〝何か〟は、少女と出会った日付のことだったと、ここでようやく繋がった。
本田は、これで全てが解決したと思った。
更には、この木箱に隠された過去の経緯まで知る由もなかったが、小田原支店で渡された時点で、東西水急に届けるべき荷物だったのだと判断し、夜が明けてから東西水急のトラックに積み直すつもりで、一旦助手席の足元まで運んだ、はずだった。
「あっ、熊さんだ!」
静かな駐車場に、少女の声が響き渡った。
本田が目覚めたとき、携帯のデジタルは七時を表示していた。
一瞬夜の七時かと思ったが、空が白み始めている光景を見て、早朝の時間だと分かった。
ここで本田は、慎重な行動に移った。
何度も携帯電話とタコメーターの時刻を見比べては、先ほどの出来事すべてが夢だったのではないかと、思考回路をフル回転させた。
それは、助手席の足元に置いたはずの木箱が、どこにも見当たらなかったからで、一八時に目覚めたことも、荷台によじのぼったことも、全てが一つの夢だと分かってきた。
ただ脳裏をかすめ続けた〝何か〟は、東西水急の少女に出会った日付で、このことだけは正夢だと自信を持った。
しかしそのことを思えば思うほど、入り乱れる夢と現実のはざまに、本田は落ちこみそうになった。
「あっ、熊さんだ」と聞こえたのは何だったのだろうかと、本田がため息まじりに外を眺めたとき、白い光の粒子が東西水急とプロフィアを繋ぎ始めた。
ヘッドライトを点けてみると、雪に覆われた駐車場に残るくぼみが小さな靴跡になって現れた。
ココアの少女が近くにいる。
本田は木箱のことが気になり、じっとして居られなくなった。
急いで荷室に駆け込むと、木箱は静かに待っていた。
室内灯の下で木箱の蓋をそっと開けてみた。
箱の中には、『この木箱、網掛トンネル東口まで』と書かれたメモと缶ココアが一本入っているだけで、少女の写真もオルゴールも今度はなかった。
本田は、なぜ網掛トンネルなのかという疑問より、これはあるはずのない自販機で少女が買ってくれたものでは、と思った。
その瞬間冷え切った缶ココアから、少女の温もりが伝わってくるようだった。
この缶ココアは、裾野のとある場所にある喫茶店が製造している物で、横浜定期を組んでいたときに知り、お気に入りの部類に入っていた。
それ以来ずっと気にはなっていたが、なかなか縁のなかった代物だ。
缶ココアを手にした本田は次の運行で必ずと誓い、プロフィアの助手席に木箱を積み込んだあと、東西水急のトラックまで足を延ばした。
「あっ、熊さんだ」という響きが耳から離れず、ココアの少女が喜んでくれるだろうと期待を込め、熊のぬいぐるみをそっと置いた。
どこからか、少女のはしゃぎ声が聞こえているようだった。
電波の回復したラジオが、七時三〇分を教えてくれた。
鳥手山の稜線目がけ、日本一のお日様も昇ってきた。
薄く積もっていた雪は瞬く間に融けてしまい、朝まで続いた悪天候に代わって、快晴の空が広がった。
通行止めが解除になった本線からは、通行車両の走行音も聞こえてきた。
本田は、はやる気持ちを抑え、裾野支店に向けて再スタートを切り始めた。
そのとき、携帯電話に着信音が響いた。
「二条倉庫の川野です。おはようございます。本田さん、少女の願いを叶えてください。網掛トンネルの東口で、私が荷受人になります。だから必ず」
川野は、いきなり木箱のことに触れた。
「なぜ、そのことを? 分かりました……」
疑問が湧いた本田だったが、突然川野の声を聞いたことで妙に心が弾み、それ以上の詮索をする気にならなかった。
気を良くした本田は、軽い気持ちでセカンドギアにクラッチを繋ぎ、加速車線の方に進みかけた。
「本田さん、気を付けて! そこは右ルートにある臨時駐車場です。そのまま左から合流すると右ルートに逆走で進入します。本線に出るには、右側から追い越し車線に合流してください」
いつも冷静な川野が、声を張り上げた。
急ブレーキで止まった本田は、本線を見渡し言葉を失った。
今まで左ルートの鮎沢パーキングだと思い込んでいた場所は、数年前に閉鎖された右ルートの旧鮎沢パーキングだったのだ。
数時間前、大井松田インターから東名下り線に合流したとき、左ルートに入ったのは間違いなかったはずだ。
しかし今いる場所は、右ルートの閉鎖されたパーキングだった。
本田は信じ難い光景を目の当たりにして、ここにたどり着くまでの行程を振り返えろうとした。
そのことについて、電話の向こうの川野が教えてくれた。
「それは六年前の今日、一二月一三日のことです。本田さんが本線に復帰した後、少し遅れて東西水急も出発しました。走り出して間もなく悲惨な事故に巻き込まれ、二人は帰らぬ人となりました。原因は足柄山の吹きおろし、黒風です。少女にとって最後に出会った人が本田さんだった。だから木箱の輸送を本田さんに依頼するため、少女はあの日からずっとここで待ち続けました。鮎沢パーキングの減速車線で衝撃を受けてスリップしたときが、閉鎖された駐車場へと続く分岐だったのです。本田さん、その木箱には特別な力があります。いまはそこまでしか言えませんが、網掛トンネルの東口まで輸送すれば、素晴らしい未来に繋がります。少女の願いは私の願いでもあります。だから……、お願いします。それでは、また今度!」
謎めいた川野は、言葉を詰まらせた。
「そのようなことだったとは知りませんでした。木箱のことは任せてください。それで川野さんは今どこに?」
本田が返したときには通話が途絶えていた。
電話をくれた川野は、さらりとした風を残し、今日もどこかに消えてしまった。
風切りびとの血が騒ぎはじめた本田は、走り慣れた中央道のことを一心に思い描く一方で、どうしようもないくらい川野のことが気になっていた。
その思いを封印するかのように、次回のテスト走行で必ず新記録に挑戦すると心に決め、再びセカンドギアにクラッチを繋いだ。
朝の光を浴びたプロフィアのフロントでは、鎮魂のリースがひと際輝いている。
またいつの日か御殿場で会おうと一人つぶやき、駐車場の奥に佇む東西水急の保冷車と、御殿場の坂に散った旧友たちに別れのクラクションを捧げ、本田はさりげなく右ルートに流れ込んだ――。
「長尾、お前も失礼な奴だな。運行者の名前ぐらい憶えろよ」
浅井は、すまし顔で言った。
「ほー、おれと太田をいつも間違えていたくせに。その言葉、そのまま返すよ」
長尾は、笑い飛ばした。
「はい、二人ともそれまで。そんなことより、小田原での出来事ですが、まったくその通りでした。しかしあの古めかしい木箱は、それほど特別なものには見えなかったけど」
腕組みした太田は、首を傾げた。
「太田さんが見たという古めかしい木箱は、まるで魔法仕掛けですね。いったい何が始まるのでしょうか? 網掛トンネル東口というのも気になりますし、少女の願いはわたしの願いと言ったのも気になりますね」
小室は、太田のほうを向いた。
「それは川野に聞かなければ分からないさ。とにかくあの木箱を網掛トンネルの東口に運べば、素晴らしい未来が待っているのだろう。次の伝説が面白くなりそうだ。それにしても本田のやつ、情に流され缶ココア一本の運賃で引き受けたのでしょうが、木箱輸送の大役は果たせますかね? 新生プロフィアにしても過大評価しすぎでしょう。途中でエンストでもしなければいいけど」
まくし立てた太田は、困った様子で盛田に視線を向けた。
「あいつは単純だから、少女の願いを素直に聞くつもりだった。途中で川野が絡んでいることを知り、嬉しさの反面、これ以上浮かれてはいけないと思い、わざと風切りびとへの執着心を強めた。それこそ精一杯のやせ我慢だろう。新生プロフィアの件だが、確かに化け物に仕上がっていたそうだ。斉藤さんがそのようなことを言っていたから間違いない」
盛田はお茶を一口含み、「東名の伝説はここまでだ。謎の木箱については次の伝説ではっきりするよ」と言って、椅子の背もたれを倒し、感慨深げに天井を見上げた――。