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③琴崎バスNo.5

 二〇一三年四月九日、二三時三〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。

 依然として高井戸と大月間の通行止めは継続中である。

 今夜の霧はなかなかしつこいようで、今のところ晴れそうな気配などなかった。

 管理事務所の中では収受員の浅井と小室が、一列に並んだレーン監視用モニターの前で目を光らせているが、二〇時三〇分以降、強行突破の誤作動警報が一度きりあっただけで、ゲートを通過した車両は一台も確認されていなかった。

 通行止めなのだから当然のことだが、二人は真面目にモニター監視を続けていた。

 そんな中、不思議な通行券を発見した盛田と浅井は、通行券の入口情報に記載されていた一五年以上前の日付がきっかけとなり、風切りびとの中央道伝説を振り返ることとなった。

 その後小室が加わり、今度は仮眠を取っていた長尾がふらふらと起きてきた。

 語り手の盛田は、飲みかけのコーヒーを置いて、次なる伝説に取りかかろうとしている。

「やっぱりコーヒーの良い香りだ……。この集まりは中央道伝説ですね? さきほどからなんとなくわかっていました。盛田さん、おれも仲間に入れてください」

 長尾は言うが早いか、机に腰掛けた。

「ちぇっ、もう少しゆっくり寝てればいいのに。元々おまえは東名沿いの厚木だから、中央道の話を聞いても仕方ないだろ」

 浅井は、大げさに顔をしかめた。

「おまえこそ埼玉なのに、勝手なことを言うな。そろそろ寝る時間だぞ。代わりにおれが伝説を聞いといてやるよ」

 長尾は、余裕の笑顔で返した。

 この二人のやり取りはいつものことで、実際には気心の知れた遊び仲間でもある。

「長尾、寝起きから元気だな。この分だと太田と広瀬も起きてきそうだからもう少し待ってみるか。それともこのまま次の伝説に取りかかる方がいいか。さあどっちだ?」

 盛田の問いかけに対し、浅井、小室、長尾の三人は、すぐに始めてほしいと即答した。

 その返事を聞いた盛田は、もう一度コーヒーを口に含み、新たな伝説を静かに語りはじめた――。


 一九九六年一二月二日。この日は寒波の影響で、CL明石支店のプラットホームにも木枯らしが吹き抜けていた。

 運行車両が各番線に並び始めたのは、いつものように一七時を回ったころだった。

 プロフィアの給油を済ませた本田も、所沢の番線に入ってきた。

 仕分けコンベアのスタートブザーが、トラックのバックブザーをかき消すように鳴り響いている。

 十七時過ぎになるとコンベアの操作員が席に着き、荷物を載せた幅広のベルトを勢いよくスタートさせる。

 めまぐるしく通り過ぎてゆく荷物を、決められた番線まで流れ着くように、単純なコード番号を早業で入力する。

 この仕分けコンベアのスタートブザーが、運行者たちの作業開始を知らせる合図にもなっていた。

 ホームの中央では防寒着を着込んだ田辺が、マイクを握りしめた。

「皆さん、ご苦労様です。このところの寒波により、今日も各地から規制の情報が入っています。一七時現在、東名の沼津から大井松田、中央道の長野県内、名神の京都東から関ヶ原まで、各高速道路は雪のため速度規制中です。タイヤチェーンの点検と今後の道路情報に注意し、より一層の安全運行をお願いします。今日の出発予定時刻は、年末とクリスマスの絡みで物量が増えていることから、通常より一時間ほど遅くなりそうです。ご安全に!」

 終了時刻を明言しなかった田辺が、ミーティングを終わらせた。

 本田は、田辺の話をうわの空で聞きながら、台車に並べられた所沢方面の荷物を見渡していた。

 まだこの時間では断定こそできないが、今日もプロフィアの荷室が満載になるような気配などなかった。

 ドライバーも勝手なもので、冬場はある程度の重量を積みたがる。

 積載量が増した分、雪の中にタイヤが食い込むからだ。ただし、適量範囲は当然あった。

 雪が降り出すこの時期、運行者たちに付きまとう悩みと言えば荷物の配置で、まさしく最適な重量配分の追求である。本田も安定したグリップを得るため、三軸の荷重バランスには気を使っていた。

 急ブレーキを掛けても荷崩れしないよう、積荷の固定にも注意を払わなければならなかった。

 本田が荷物を持って頭を痛めているところへ、隣の埼玉線で積込をしていた杉田が体を震わせ、寒そうな表情で近づいてきた。

「よく冷えるな。この分だと明日の関東到着、遅くなるのは確実だぞ。悩みでもあるのか? 本田先輩」

 三三歳の杉田は、CL明石支店に入社して十年以上になる。

 七年ほど地場の集配業務に就いた後、五年前から埼玉線の定期を走るようになった。

 明石支店に所属する運行者の中で本田の次に若い杉田は、この先輩ネタで話し掛けてくることが多かった。

 年齢と勤務年数では杉田の方が先輩だが、運行歴だけ見れば本田の方が一つ先輩ということになる。

「先輩なんてやめてください。そうだ、先輩として言いますが、今日は絶対中央を走りましょう。冬の諏訪湖もなかなか神秘的ですよ。それに山梨に入れば必ずドライ路面になるはずです」

 本田は、会話中でも積込みの手を止めなかった。

「信州の雪、大丈夫なのか? いくら本田先輩の命令でも、この時期は東名の方が正解だと思うが。本当におまえは懲りない奴だな」

 杉田は、空になった積込み台車を押し出した。

 本田と杉田の会話がプロフィアの荷台から聞こえている。そこへ運行主任の名代が通りかかった。

「本田! 中央道上りの諏訪南付近、雪と事故で一九時から通行止になっているそうだ。まだ事故処理中だよ」

 名代は、アマチュア無線仲間から仕入れたばかりの新鮮な情報を教えてくれた。

「また通行止めですか。やっぱり冬場は東名の方が無難ですよね」

 杉田は、本田の肩をポンと叩いた。

「そのうち星空が戻ってきて砂埃が舞い上がりますので、お二人共ご安心ください。やっぱり今日も中央にします」

 本田は、語気を強めた。

 無難に東名を走ろうとする杉田と、中央に回ろうとする本田の会話はここで終わった。

『今流れている書類コンテナが最終荷物です』田辺の声が流れた。

 構内放送を境に各番線の仕分けコンベアは素早く収納され、見通しの良くなったホームの上はこの日一番にぎやかな光景に早変わりした。

 卸売市場のような混雑の中、運行者たちは追い込み作業に取りかかった。

 同時に気の早いドライバーがアイドリングを始めたことで、明石支店の構内はディーゼル色の霞に染まった。

 不完全燃焼ガスが充満したとき、どの番線も出発準備が整った。

 何があろうと中央道を走るつもりの本田は、慌てる素振りも見せず、マイペースで運行伝票が置いてある事務所へと向かった。

 本田が事務所に入るなり待ち構えていた田辺が、何やらカラフルな用紙を持って詰め寄ってきた。

 本田の前に差し出されたのは、老舗料理屋のパンフレットだった。

「今度の日曜だけど、年末恒例の忘年会を予定しているんだ。明石支店の運行者全員に声を掛けているのだが、行けそうか? 今年は高級ふぐ鍋だぞ。これだよ。美味そうだろう」

 田辺は、パンフレットを指差した。

「ふぐ鍋か……。食べてみたいけど、確かその日は用事があったので出席は無理だと思います。すみません」

 本田は、うつむき加減で言った。

 アルコールの苦手な本田は、酒に酔った運行者仲間の相手をする自信がなく、毎年適当な理由を付けて欠席していた。

 それを見かねた田辺は、どうにかして連れて行こうとするが、本田は今年も不参加を告げた。

 本田は田辺に対し、小さな借りを作ることになった。

 田辺から受け取った運行伝票には伝票重量八トン、実重量四トンとあり、雪道を走るには少しばかり軽いくらいだった。

 仕方のないことだとさらりと割り切り、所沢の番線に戻った本田は、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。

 力強い始動音とともにプロフィアの鼓動が始まり、乾いた音色の排気音が構内に響き渡った。

 二一時三〇分、CL明石支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。

 普段より一時間遅れの出発が運行者たちの緊張感をあおり立て、構内出口付近では、我先にと急ぐトラックが折り重なった。

 中でも到着予定時刻を逆算していた関東便のドライバーたちは、諦め顔でプラットホームから離れて行った。

 出発が一時間遅くなれば、翌朝の終了時間が一時間延びるのではなく、特に関東便では幹線道路の渋滞が激しいため、その二倍以上の時間がかかることになる。

 到着時間の予測より中央道の記録更新のことばかり考えている本田は、諏訪南インター付近で行われているという事故処理のことを思い悩んでいた。

 小牧ジャンクションまで一緒に走ろうと言い出した杉田が、軽いクラクションを叩き勢いよく左手を上げた。

 後ろを走るつもりの本田も、同じように左手を返した。

「本田、前を走ってくれ!」

 杉田は、全開にした助手席の窓越しに叫んだ。

「分かりました。それでは気合を入れて行きますか!」

 本田は、クラクションを叩いた。

 関東便の二台が、揃ってプラットホームから離れていく。

 プロフィアの助手席に陣取っている熊のぬいぐるみが、今日も魔除けの顔で睨みを利かせていた。

 透き通った冬空に映える神戸の夜景に、阪神高速の照明が一直線に伸びている。

 西宮ジャンクションから左に逸れたプロフィアと810は、路線トラックの集団にまじって名神高速へと流されていく。

 左カーブを回った先には、赤いボックスのスタートラインが、グリーンシグナルを点して待っていた。

 浜風が西宮ゲートを吹き抜けている。

 本田と杉田が縦並びでくぐり抜けたのは、普段より遅めの二二時になろうとするころだった。

 プロフィアと810は、アスファルトの上を流れゆく小雪を蹴散らし、力強い加速で立ち上がってきた。

 杉田の810はL‐6ターボの七速で四二〇馬力の動力性能があり、この業界で使用されているエンジンとしては高性能な部類に入る。

 守川や伊藤が乗っている810と全く同じ仕様のエンジンである。

 そしてもう一つ、この810のタコメーターには、走り屋に都合の良い欠点があった。

 その欠点とは、タコメーター内にあるプラスチック製の歯車が、時間の経過と共に摩擦熱で膨張し、いくら踏み込んでも一〇〇以上のスピードをグラフに記録しないと言うもので、〝幻のタコ〟とも呼ばれているスピードメーターだった。

 走り屋としてそこそこ名の売れていた杉田が提出するタコグラフは、まったく指摘されるような箇所など見当たらなかった。

 杉田は頼りにならないタコメーターに併せ、二四〇キロ表示のアナログメーターも取り付けていた。

 ちなみに本田が乗っているプロフィアの場合、同じような時期に製造されたもので、やはり都合の良い幻のタコが付いていた。

 本田は常々二〇〇を超えてしまう時間が長く、これとは別に三〇〇キロスケールのデジタルメーターを後付していた。

 この幻のタコというのは、大手計量器メーカーが新製品として販売し、短期間に少数ロットだけ出回った完全な失敗作である。

 名神高速上り線、二台のタコメーターは程良い状態に発熱してきた。

 天王山トンネルに入ってすぐ、ハザードランプの花が鮮やかに点きはじめた。

 この付近では、原因不明の自然渋滞が毎日のように発生する。

 京都東インターを過ぎるころには、お決まりの本線停止まで頻発するほど流れが悪くなってきた。


 滋賀県内に入った本田と杉田の前方に、アマチュア無線仲間の数台と連なって走る名代のグレートが見えてきた。

 やり過ごすことを企てた本田は、ひとまず名代の数台後ろに張り付いた。

 本田の携帯電話に着信音が響いた。

「このスピードで引っ張られたら、ある意味迷惑行為と同じだぞ。無線があるのにくっつかなくてもいいだろ。そう思わないか?」

 吐き捨てた杉田は、軽いパッシングをした。

「杉田さんも意外と短気ですね。名代さんたち無線屋はいつものことですよ。もう少し待ちましょう。その時が来るまで」

 杉田と同じ思いになりかけていた本田は、ハザードを一度だけ点け、あえて余裕のある発言をして見せた。

「いい子ぶるなよ、本田先輩。その時なんて当分来ないだろ」

「必ず来ます。もうすぐですよ」

 本田はいらだつ杉田に対し、名代たちを抜き去るチャンスがやって来るまで射程範囲内で静かに待つよう諭した。

 長距離輸送の通行量が増えるこの時間帯は、追い越車線を一〇〇から一五〇の速度で占領するトラックと、走行車線を一〇〇以下で走るトラックに分かれてしまう。

 重量物運搬車や自衛隊車両の姿を走行車線に見かけた途端、ほとんどの車両はウインカーを点け右側車線へと移る。そのぶん車両が増えた追い越し車線ではハザードの花が咲き乱れ、本線停止が頻発する。

 いつも連なって行動する名代たちは、長い編成列車のように走行車線から移動し、右側走行ばかり続けていた。

 本田と杉田のストレスは増えるばかりだったが、そんな二人に運よく前へ出るチャンスがやってきた。

 本田は、携帯の発信ボタンを押した。

「杉田さん、そろそろですよ。この直線で片付けましょう」

「やっぱりここか。本田、思いっきり行けよ」

 杉田は、ハイビームで合図した。

 諦めかけていた二人の前に、八日市の直線が瞬時に伸びた。

 溢れていたトラックの車列を切り裂くように、追い越し車線の見通しがにわかに良くなった。

 携帯を置いた本田は、軽く踏み込んだ。

 この瞬間を見逃さなかった本田と杉田は、挨拶代りのハザードを残し、あっと言う間に名代たちの前に躍り出た。

 しばらくの間二人は、一六〇に抑えたスピードで軽く流した。

 滋賀県警高速隊の取り締まりが厳しいこの付近で、際どい場面に何度も遭遇していたからだ。

 三九二キロポストにある危ない視線をかわした二台の前に、関ヶ原インターに向かってにぎやかな照明の下り勾配が見えてきた。

 早い時間に出された交通規制はすでに解除され、東の空には満天の星が顔をのぞかせている。

 ここまで来れば一安心と、養老サービスエリアから一宮インターにかけての長い直線を、プロフィアと810の二台は二〇〇を超えた速度で駆け抜けた。

 一二月三日になった。

 タコメーター内の時計が、午前〇時を指している。

 小牧インターを過ぎて出てくる東名と中央の電光掲示板には、走行注意の文字が二つ並んで光っていたが、どうした訳か今のところ雪の情報は表示されていなかった。

 中央道から吹き込んでくるさらりとした風が、プロフィアと810を包み込んでいる。

 その影響なのか、分岐が近付いているというのに杉田はまだ本田の後ろから離れようとしなかった。

 小牧ジャンクションにさしかかったとき、プロフィアのサイドミラーにパッシングの光が映り込んだ。

 東名本線を直進する杉田は、結局さそい風になびかなかった。

 さりげなく中央道へ逸れていく本田も、独走態勢を整えながら短いハザードを返した。

 CL明石支店を出発した関東便の二台は、ここで右と左に離れて行った。


 一人になった本田は、中津川インターを二〇〇オーバーで通過し、神坂パーキングの坂道も余裕の加速で駆け上がってきた。

 恵那山トンネルをフルスロットルで走り抜け、その勢いを保ったまま網掛トンネルにすべりこんだ。

 反対側から押し出された圧縮空気が激しさを増し、危険で魅力的な風と絡み合い、阿智の谷間を荒々しく吹き抜けた。

 下り勾配が終わり、七速のまま阿智パーキング一キロバックの表示板を通過したときだった。

 シフトレバーに添えていた左手が今夜も弾かれ、またしてもギアが抜けてしまった。

 プロフィアのエンジンは一時的に吹き上がり、僅かな時間だけ加速が停滞した。

 こうなることを想定していたのか、本田は素早いシフト操作でスローダウンを切り抜けた。

 プロフィアは何事もなかったように再び加速を始めたが、納得のいかない本田は、一番疑わしいと思われる駆動系の点検履歴を振り返ってみた。

 しかし、ミッションとデフのオイル交換やジョイントのグリスアップは最近済ませたばかりで、どうしてもギア抜けの原因を見いだすことが出来ず、結局ディーラー頼みを決めた。

 本田はすっきりしないまま阿智パーキングを通過した後、御払いでもするかのように全力でアクセルを踏み込んでいた。

 夜空に横たわる天の川を見ながら、伊北インターまで順調に走ってきた。

 久々の記録更新に期待が高まり、好タイムへと繋がりそうな予感に本田の心はときめいた。

 外気温の表示がなければ真冬とは分からないほど、電光掲示板に光る走行注意の文字が呑気に通り過ぎて行った。

 絵に描いたようなドライ路面が続く上り線で、本田は順調すぎる成り行きに違和感を覚えながら、孤独なレースを楽しんだ。


 いきなり空模様が変わり始めたのは、岡谷ジャンクション二キロバックの表示板を過ぎてからだった。

 諏訪湖上空に突然現れた雪雲が、澄み切った星空を手当たり次第に覆い隠した。

 初めはみぞれ混じりだった視界が次第に粉雪へと変わり、大粒の雪に成長するまで大した時間は必要なかった。

 ユキ五〇キロ規制に早変わりした電光掲示板が、慌ただしく異常を知らせ、同時にタイムアタックの強制終了を本田に伝えてきた。

 諏訪湖の周囲は白一色になった。

 岡谷ジャンクションをフルスロットルで走るプロフィアの足元は、路面に積もり始めた雪で早くも滑りやすくなってきた。

 いつの間にか大粒の雪が全ての通行車両を消しさり、現時点でこの付近を走っているのは本田のプロフィアだけになっていた。

 静まり返った中央道は白銀の世界へと変り果て、凍りかけの水銀灯が、ここから始まる雪舞台の花道を静かに照らしていた。

 雪国を思わせる景色の中で、怪しい仕掛が、走り屋の本田を待ち構えている。

 白い悪魔が主演の諏訪南‐長坂、上り舞台の幕があがったのだ。

 本田は、雪の花道に独りで立たされていることを全く分かっていなかった――。


「この伝説を聞くのは初めてかも知れません。なにせ埼玉支店だったから本田と会う機会が少なかったし、杉田のやつと言えば東名を好んでいたようだし……。聞けば聞くほど中央道は面白いですね」

 浅井は、モニター画面から視線を外した。

「聞いていたとしても、すでに忘れているのだろうが。今度は忘れるなよ」

 机に座っている長尾が、痛烈に笑い飛ばした。

「おまえたちとは違うよ。そうだ、そのおまえたちに聞きたいことがあったのだけど……。まぁ、三人揃ってからにするか。どうせ白を切るだろうけどな」

 含みを持たせた浅井は、長尾に目を向けた。

「浅井、おれたちに聞きたいことって何だよ。何だか知らないが、後ろめたいことなど何もないぞ。女好きのおまえと一緒にするな」

 長尾は、強い口調で返した。

 浅井が反論しかけたとき、盛田が止めに入った。

「おまえたちは本当に相変わらずだな。浅井、その件は後にしよう。今は物語を先に進めさせてもらうぞ」

 長尾と小室は、どうにも意味が分からない素振りをした。

 盛田はコーヒーを一口含んだ後、雪舞台のくだりを語りはじめた――。


 本田は、ぼたん雪に視界を邪魔された上に、固まりかけたシャーベット状の路面にもスピードを奪われた。

 乾燥路面でのグリップ不足を理由に、冬用タイヤを履きそびれていたことが裏目に出た。

 以前、守川から聞いたことのある〝雪の花道、悪魔道〟というアドバイスを思い出し、一三〇まで落としていたスピードを更に八〇以下まで手際よく下げていった。

 もう、プロフィアに装着している夏用タイヤでは、ブレーキも踏めないくらい厳しい状況になっていた。

 一六一キロポスト付近にある諏訪南インターの表示板を通過したときだった。

 激しく降りしきる雪のすき間から、いきなり薄暗いテールランプが飛び出してきた。

 咄嗟に本田は、筋が伸びきるほど右足に力を込めた。

 急ブレーキが掛けられたプロフィアは、四五度ひねって斜めに進み、規制速度以下まで落ち込んだ後、徐々にまともな姿勢を取り戻した。

 数秒間の出来事を長々と感じた本田の前に、いわくありげな大型バスが、あぶり出されるように現れた。

 故障車を思わせるほどゆっくりしたスピードで、ハザードも点けず走行車線を堂々と走る姿には、何とも悪巧みの気配が漂っていた。

 黒いボディーのせいなのか、全体的に薄暗く、大きなヒビが入ったリアウインドウの下には、琴崎バスNo.5の文字が怪しげに浮んでいる。

 得体の知れない真っ暗なバスは、政治結社のそれとは違って独特の不気味さを漂わせていた。

 バスの窓から放たれる複数の視線が、暗闇の中からジワリと伝わってきた。

 計り知れないほどの薄気味悪さを感じた本田は、すぐさま引き離しにかかった。

 規制速度の五〇で追い越し車線に移り、慎重過ぎるくらいのアクセルワークで加速を始めた。

 小気味よいシフトアップを重ね、追い越し車線を飽きるくらい走った。

 ホラー映画にでも出てきそうなバスと十分な距離が開いたと思ったときには、プロフィアのスピードは一五〇を超えようとしていた。早く離れたいと焦るあまり、手の付けられない速度に上昇してしまったのだ。

 一五〇を超えて更に上がろうとするスピードを、必死で抑えようとシフトダウンを始めたときだった。

 軽い衝撃とともに、制限速度以下まで一気に落とすことができた。と言うより、勝手に落ちてしまった。

 いきなり力が抜けていくように……。

 予想外の急激な減速ぶりに、メカニカルトラブルが発生したとも考えられたが、メーターパネルのランプ類には故障や異常を知らせる表示は見当たらず、全てが正常に作動していることが一目で分かった。

 積込時の荷崩れ防止策にも自信があった。

 しかし、軽い衝撃の原因まではつかめなかった。

 本田の意思に従順だったプロフィアの動力機能と制御機能は、このときから反応を鈍らせ始めた。

 プロフィアの身のこなしが急に重たくなってきた。

 四八〇馬力がどこかに消えているとつぶやきつつ、本田は見通しがきかない視界の中を、規制速度にも満たない領域でもたついた。

 上り勾配に対し、十分なはずの三速では完全に力不足になり、二速に下げてアクセルを踏み込んでもまだ速度が落ち、勾配のきつい坂道発進でしか使うことのない一速まで落した。

 シャーベットの路面にタイヤのトラクションが奪われたときのような空転とは違い、アクセルを踏み込んでも一向に反応しない回転計を見つめていた本田は、燃料系統の詰まりを一度は想像したが、クラッチを踏めばすぐに吹き上がってくることから、エンジンには何も異常がないと判断した。

 上等の動力性能を備えているプロフィアに、思いがけない異変が起きたことは間違いなかった。

 一速に入っているシフトレバーに左手を差し伸べ、大粒の雪が舞う諏訪南の斜面をのろのろと上っていくしかなかった。

 中央道標高最高地点の標識が、降りしきる雪の隙間にちらりと見えた。

 この辺りでようやく上り坂が終わり、一転して長い下り勾配が始まる訳だが、またしても先程と同じような軽い衝撃と車体の揺れに見舞われた。

 それから間もなくのこと、小渕沢インターからの下り坂で、本田意思を無視したプロフィアの暴走が始まった。

 上り勾配で苦しめられた車体の重さが下り勾配になった途端、遥かに厄介なものへと変化した。

 エンジンブレーキ、排気ブレーキ、フットブレーキ、どの制動装置も効き目がなく、プロフィアはじわじわと加速を続けている。

 さらに背後から押されているような感触が、見えない圧力になって伝わってきた。

 本田は、半信半疑でサイドミラーに目を凝らした。

 そこには、降りしきる雪に身を隠し、こちらを覗く不気味な淡い光が両脇のミラーに潜んでいた。


 あの真っ暗なバスのヘッドライトだった。

 プロフィアの後ろに真っ暗なバスがぶら下がっているのだ。

 諏訪南の上り坂で置き去りにしてきたはずの琴崎バスNo.5が、サイドミラーの中から覗き見している。

 何度か受けた衝撃と急激なパワー不足の原因は、後ろにこのバスが連結したことだと分かった。

 上り坂で引っ張られ、下り坂で押される〝しゃくられた感覚〟だった。

 本田の視界を遮り、足元の摩擦力を奪っている吹雪の中に、琴崎バスNo.5が怪しい姿で潜んでいた。

 そしてここから、白い悪魔が主演の小渕沢‐須玉、下り舞台の幕があがった。

 琴崎バスNo.5に押され、制御不能の状態で長坂インターを通過した。

 二〇〇以上になったスピードを簡単に減速することはできなかった。

 フットブレーキもエンジンブレーキも、さらには普段使うことのない排気ブレーキまでも、すべて封印された状態だ。

 本田は、雪の花道に独りで立たされていること、そしてこの長い下り坂で主導権を握っているのが真っ暗なバスだということを改めて思い知らされた。

 土砂降りの雨に打たれた前回の運行で、中央道の神様と一緒に追い抜いた大型バスにどことなく似ていると本田は思った。

 しかしあのバスだとしても、恨みを買うような絡みは一切なかったはずだ。

 いずれにしても琴崎バスNo.5の目的が、須玉の最終コーナーにあることだけは間違いなさそうだった。

 夏タイヤを履き、雪上を猛スピードで、しかも押されながら魔のカーブを曲がる自信など今の本田には全くなかった。

 得体の知れないバスに憑かれて走るプロフィアは、ただの暴走列車になっていた。

 成す術がないことを痛感した本田は、「あぁ、神様」とだけつぶやいた。

 降りしきる大粒の雪と滑る路面が下り舞台の花道を飾り、脇役の本田が真っ暗なバスに憑かれて下りてきた。

 最終コーナーのはるか手前、レーダーの危ない視線を過ぎたころだった。南アルプスからの強烈な吹きおろしが、プロフィアの周りで渦を巻き始めた。

 危険で魅力的な風、魔風へと変わっていく様子を目の当たりにした本田は、深いため息をついた。

 その反面、心の迷いも吹っ切れた。

 絶望色に染まりかけていた本田の心に、魔風を乗り切ろうとする風切りびとの闘争心がよみがえった。

 この下り坂で最後にやるべきこと……、それはアクセル全開で左コーナーに突っ込むことだと悟った。

 追い詰められた本田は、あまりにも危険な道を選択した。

 シートベルトを締め直し、覚悟を決めた本田は、フルスロットルで須玉の最終コーナーに侵入した。

 それまで後ろに連なっていた琴崎バスNo.5は、突然路肩を走りながらプロフィアの左横に張り付いてきた。

 オーバースピードの遠心力で膨らんでいるところへ、外に押し出そうと内側から妖しい力を入れてきたのだ。

 押されながらも必死に踏ん張っていたプロフィアのサスペンションが底を着いてしまい、大きな車体がゆっくりと右に傾き始めた。

 さすがにもうこれまでなのかと、本田も諦めかけたときだった。

 周囲の景色がスローモーションの流れになると同時に、降りしきる雪を一気に吹き散らすようなさらりとした強風が吹き抜けた。

 本田がサイドミラーに目をやると、後方から急接近してくる二つの白い光が映り込んだ。

 次の瞬間、その片方が素早い動きでプロフィアの右横に並びかけた。二条倉庫、一九‐六〇の川野だった。

 諦めかけていた本田の心に、希望のさそい風が吹き抜けた。

 追い越し車線を並走する川野は、外側に膨れようとしているプロフィアを、グレートの車体でしっかりと受け止めた。

 最終コーナーの真中で、二台は力を合わせて踏ん張った。

 琴崎バスNo.5が、本田と川野を左側から押し出そうとしている。

 三台が横並びで、須玉の最終コーナーを流されていく。

 本田と川野の二台が、いよいよはみ出しそうになったとき、後方から様子を窺っていたもう一つの白い光が、琴崎バスNo.5の後部めがけ激しく追突してきた。

 前方に押し出されたバスに代わり、プロフィアの左横に並んできたのは、中央道の神様九四‐五一だった。

 外側へ倒れそうになっていた本田と川野を、魔性の車番が引き止めてくれた。

 二条倉庫の白いグレート二台が、プロフィアを両側から挟んだまま、横並びで最終コーナーを抜けてきた。

 中央道の神様に玉突きされた琴崎バスNo.5は、プロフィアの左横から路肩の外へと突き出され、須玉の空で煙のように消え去った。


 長い間苦しめた割には、何ともあっけない最後だった。

 幻想的なスローモーションの終りとともに、あれほど激しく降っていた雪は見る見るうちに止んでしまった。

 須玉インターが近づくにつれ、シャーベット状だった路面は乾燥路面へと早変わりを済ませた。

 魔風と一つになった琴崎バスNo.5の悪巧み、小渕沢‐須玉下り舞台の幕は、ここでようやく閉じる事となった。

 さらりとしたさそい風が、白い悪魔ともども、きれいさっぱり吹き飛ばしてくれた。

 本田はこのときから、川野兄妹に対し、しこりのように残っていた全ての疑念を晴らし始めた。

 魔風よりもさそい風を切って走ること、言い換えれば二条倉庫を追い越すこと、それだけを目標に走ってきたが、ついさっき二台に助けられたことで、挑戦的だった風切りびととしての考えを改めようとしている。

 本田の心を惑わす何かがまたしても息を吹き返した。そんな本田の携帯に着信音が響いた。

「本田さん、お疲れさま。さあ一緒に走りましょう!」

 川野のグレートから、短めのハザードが光った。

「ありがとう……」

 それだけしか言えなかった本田は、聞こえようもないクラクションを一度叩いた。

 先頭の川野に本田が張り付き、その後ろから中央道の神様が続いている。

 韮崎インターの表示板をアクセル全開で通過していく三台は、中央道最速の隊列を組み上げた。

 一流の走り屋たちが連なって、冬色の葡萄畑が広がる甲府の街を一気に駆け抜けた。

「なあ鈴木、白い光と風切りびとが束になっているようだぞ」

 佐藤は、双眼鏡を置いた。

「そうだな。肩を並べるのは良いが……。これからが見ものだな」

 鈴木は、双眼鏡を覗いていた。

 山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、今夜も双葉サービスエリアの高台から静観するだけだった。

 三台は綺麗な隊列を保ったまま、二〇〇オーバーのフルスロットルで勝沼インターの坂道を駆け上がった。

 笹子トンネルから先の小刻みなカーブも滑るように走り、雪の影響で閑散としている八王子ゲートをくぐり抜けた。

 ハザードを点けた二条倉庫の二台は首都高速へと進み、軽いパッシングで返した本田は国立府中インターの減速車線に流れ込んだ。

 国道二〇号線から府中街道を北上し、寝静まっている所沢の街までたどり着いた。


 午前三時を回ったころ、CL所沢支店のプラットホームに、塩カリまみれになった本田のプロフィアが入ってきた。

 仕分け作業をしていたおれたちは、普段と違う車体の汚れ具合に気付いた。

 本田は、夜勤者たちの視線が何を意味するのか分からないまま後進しているようだった。

 プロフィアの観音ドアが二メートルくらいまで迫ったとき、おれは本田の元に駆け寄った――。

「雪がひどかったようだが、観音ドア、どうかしたのか?」

 おれは運転席の下から声を掛けた――。

「おはようございます。観音ドア……、ですか? どうせ塩カリでしょう」

 降りてきた本田は、観音ドアに目を向け沈黙した。

 そこには、アルミ板一面を覆い尽くすほどの真っ黒なシミが残っていた。

 琴崎バスNo.5が執拗に絡み合ってきたことを物語っているかのように、不気味な汚れとなってまとわりついていた。

 荷下ろしに取りかかった仕分け人たちは、伝票重量八トン、実重量四トンの積荷を手際よく片付けた。

 本田は、空車になったプロフィアを駐車場ではなく洗車場に乗りつけた。観音ドアにへばりついている黒い汚れを、温水洗浄機で洗い落とすためだ。

 ペンキのような黒いシミは、高圧をかけると見事に吹き飛んだ。

 プロフィアを駐車場まで移動した本田は、食堂でたむろしている守川と伊藤の元へ向かった。

 二人は自販機の温かいコーヒーを飲んでいた。

 休憩時間になったおれも、本田に誘われた――。

「おはよう。おっ、何だかお疲れのようだが、誰かとバトルでもしてきたのか?」

 勘の鋭い伊藤が、本田を見るなり第一声を発した。

「長野と山梨の県境で、白い悪魔と舞台稽古ですよ。さすがに疲れました」

 苦笑いを浮かべた本田は、諏訪南から須玉で起きた悪夢のような出来事を語り始めた。

「諏訪南を通過した後、琴崎バスNo.5という真っ暗なバスに憑かれました。例えるなら、二〇トン以上のウエイトを背負わされたような感覚でした。諏訪の上り坂で引っ張られ、長坂を無理やり押されて下りてきました。その途中南アルプスからの吹きおろしが、危険で魅力的な風となって絡んできました。深刻な状態でした。まさにそこからです。反骨精神というか、風を乗り切ろうとする強い思いが湧きあがり、覚悟を決めて真っ暗なバスに押されたまま、アクセル全開で須玉の最終コーナーへ突っ込みました。

 希望の風が吹いたのは、バスに押し出されそうになり、限界を超えようとしたときです。二つの白い光が、さらりとした風とともに現れ、プロフィアの両脇を支えてくれました。それが二条倉庫の二台でした。九四‐五一に追突された琴崎バスNo.5は呆気ないもので、路肩の斜面を乗り越え、雪雲と一緒に須玉の空に消えました。なぜこのようなことになったのかは分かりませんが、長々と続いた雪の花道、下り舞台もそこで幕になりました」

 深呼吸した本田は、胸を撫で下ろした。

「その真っ暗なバスは論外だが……、二条倉庫の二人、いよいよ妖しいな。だってあり得ないだろ、映画の一コマみたいな芸当なんて」

 伊藤は、コーヒーを飲みながら首を傾げた。

「そんなに深く考えない方がいいと思いますよ。二条倉庫は間違いなく神様だし、おれたち走り屋の味方です」

 本田は、白い歯を見せた。

「自信有りげだな。そこまで言うのだったら、神様かも知れないが。しかし、味方だと決めつけるのはまだ早いだろう。本田、同類にならないよう気を付けろよ。気付いたときは手遅れかもしれないぞ」

 コーヒーを飲み終えた伊藤は、珍しく真剣な表情になっていた。対照的に、本田は笑顔でコーヒーを飲み始めた。

 そのとき、コーヒーカップをテーブルに置いた守川が急に口を開いた。

「その話、聞いたことがある! 今でもはっきり覚えているよ。琴崎バスNo.5だろ」

 守川は詳しい事情を知っているようで、過去に起こった事故の詳細を話し始めた。

「一〇年以上前の冬、満員のスキー客を乗せた琴崎バスNo.5が、須玉の最終コーナーで暴走トラックに追突された。バスとトラックの二台とも横転炎上するというものだった。トラックのドライバーは運よく救出されたが、バスの乗務員と乗客全員が死亡するという悲惨な事故に繋がった。そのころからあの付近を通過するトラックに、バスがぶら下がると言う噂が流れるようになった。独走しているトラックの前に低速走行のバスが突然現れ、逃げようとするトラックを押してみたり引っ張ってみたりしたあげく、須玉の最終コーナーからはじき出してしまうという信じ難い内容だった。

 でも最近では全く聞かなかったから、すっかり忘れていたよ。バスにしてみればよほどの恨みがあるのだろが、全く関係のないトラックにしてみたら、この上ない迷惑な物の怪だ。しかし本田が主演するとは、お前も立派な大根役者になったな」

 皮肉を言った守川は、本田の肩を軽く叩いた。

「残念ですが脇役でしたし、大根役者になるつもりはありません。最終コーナーへの突っ込みは決死の覚悟でした。希望のさそい風が吹かなかったらと思うとぞっとします。バスはもうこりごりです」

 本田は、肩を落とした。

「そうか。だったらこれで清めてやる」

 守川は、食堂にあった味塩を本田の体に振りかけた。

 素直に塩をかぶった本田は、もうひとつの出来事を打ち明けることにした。

「実は先週、土砂降りの中で、このバスに遭遇していました。守川さんと伊藤さんの到着が夕方になった日のことです。諏訪南付近で、低速走行のバスがいきなり現れ、危うく追突しそうになったのですが、たまたま九四‐五一の先導でどうにかかわすことができました。やはり琴崎バスNo.5は先週出会ったとき、次の獲物を見定めていたのだと思われます。手口としては南アルプスからの吹きおろしを魔風に変えて、事故を誘発させるはずだった。だけど、中央道の神様が一緒にいたからできなかった。あのときも、さそい風のさらりとした空間に包みこまれて無事でした。これからは、危険で魅力的な風に負けないよう、そして乗り切るよう、気を引き締めます」

 本田は、肩に乗っている塩を払いのけた。

「気を引き締めるだと? おまえの言う通り、雨の中で独走していたら憑かれていただろうな。魔性の車番、九四‐五一のおかげという訳か……。たいしたものだ。だがな、危険で魅力的な風も、希望の風とやらも、中央道の風に変わりはない。所詮、魔風もさそい風も紙一重だ。確かにおまえは速いし、勘の鋭い風切りびとだったが、少しばかり変わったようだな。そんな甘っちょろい考えなら、風を切って走ろうなどと口にしないほうが身のためだ。呑気なことを言っていると、怪我では済まんぞ」

 本田の一言に反応し守川は険しい表情になり、清めの塩として持っていた味塩のビンをテーブルに激しくたたきつけた。

「守川さん、さそい風は違いますよ。それに二条倉庫は俺たちの……。でもあの二人、いつか必ず切ってみせます」

 守川に対し、二条倉庫を擁護しようとした本田だったが、何かにつまずき、強がりを言ってしまった。

「それはどうだか、今のお前にそんなことができるのか? 迷っているようにしか見えないが……」

 守川の目が、きらりと光った。

 そこへ、伊藤が割って入った。

「本田、どっちにしても須玉の最終コーナーは厄介過ぎる。そこで提案だ。琴崎バスNo.5の無念さを晴らすためにも、一度みんなで御払いでもするか」

 無理やり話題を変えた伊藤の発言は、とりあえずその場を和ませた。

 守川はゆっくり頷き、本田も言い過ぎたと思ったのか、照れくさそうに頭を下げた。

 それまで黙って聞いていたおれだが、アドバイスのつもりで話し掛けた――。

「たぶん、炎に包まれて亡くなった人たちが喉の渇きを抑えきれず、通りかかったトラックに助けを求めたのがきっかけだろう。初めは次のパーキングまでのつもりだったが、少しばかり度が過ぎて悪ふざけに発展したと思うよ。実際、今までの事故全てに琴崎バスNo.5が絡んでいるのなら、こんな軽はずみなことは言えないが、ここら辺で妙なこだわりなど捨ててみないか。風切りびとたる者、風のことを四の五の言わず切りまくる……。結果はすべてにおいて自己責任のはずではなかったのかい。風のようにさりげなく、を旗印にしているのだろう。どうせなら、さっぱりとした風を吹かせてくれよ。さっきだれかさんが言ったように、近いうち供養の祈りでも捧げるといいのでは……。その思いは必ず届くはずだ。どうだい、関西の走り屋さん」

 おれがそう言って三人を見渡すと、みんな目を閉じていた。

 あとで聞いたことだが、あのとき三人とも、身につまされる思いだったそうだ――。

 結局三人は所沢からの帰り道、下り線の八ヶ岳パーキングに立ち寄った。

 本線に近い駐車場の片隅から、今走ってきた須玉インターに向かって鎮魂の酒を振り撒き、琴崎バスNo.5に乗っていた人々の無念さを慰める黙祷を捧げた――。


 盛田の語りが終ったとき、八王子本線料金所はまだ霧の中だった。

 浅井と小室は周期的にモニター画面をチェックしていたが、長尾は机に座ったまま盛田の話を聞いていた。

「本田のやつ、二条倉庫の川野あゆみにぞっこんですね。虜にされた本田はこれから先、まともに風を切れるでしょうか?」

 背もたれを倒した浅井は、天井を見上げた。

「本田が勝手に魅かれているのだから、おまえが心配しても始まらないだろ。走り屋のことは走り屋に任せておけば大丈夫さ。それくらいのことはおれにでも分かるぞ」

 長尾は胸を張った。

「分かったようなことをぬけぬけと……。どうせ思いつきで言っているのだろ。そろそろ交代だ。早くこっちへ来い」

 口を尖らせた浅井が手招きした。

「よく言った。一度だけなら変わってやるよ」

 即答した長尾は、笑みを浮かべ机から下りた。

「伝説は、いつも須玉の最終コーナーから始まると少し前に聞きましたが、風切りびとにとって魔の左カーブを全開で抜けた後に見えてくる葡萄色の街は、ひときわ鮮やかに映ったことでしょうね。だから中央道は、この上なく神聖な場所なのか。懐かしいな……」

 ため息をついた小室は、盛田に視線を向けた。

「本当に懐かしいよ。ずっと昔のことになるが、初めて須玉の最終コーナーを抜けたとき、逆バンクのように思えて怖かった記憶があるよ。そのときの速度がせいぜい一六〇位だったはずだ。ましてや乗用車でのことだし、それを思うと風切りびとたちの凄さを痛感してしまう。

 余談になるが、本田が明石から所沢まで走っても、せいぜい七〇〇キロ未満だろう。しかし片道一五〇〇キロを一人で、それもほとんど休憩なしのフルスロットルで走りきる風切りびとたちがいたのだが、そいつらが言うには、『中国道から名神、そして中央道を走り、更には東北道に乗り換えて目的地へとたどり着く。その行程の中で中央道を走っているときは、常に胸を躍らせているけど、須玉の最終コーナーを抜けた先で出迎えてくれる葡萄色の街と、そこから勝沼までの僅かな時間がひときわ最高かな。その区間を走っているときは、風になれたような気がするよ』だとさ。ところで、小室の前職は?」

 盛田が小室に尋ねたとき、すかさず長尾が「確か公務員だろ、どこの市役所だ? うらやましいよ」と言いながら、浅井と小室が座っている椅子の間に割って入った。

 小室からの返事はうやむやになったが、モニター画面の前には四人が並び、少しずつにぎやかになってきた――。


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