②中央道の神様
二〇一三年四月九日、二二時三〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。
白いガスの中で、レーン監視用のモニターが目を光らせている。
普段なら慌ただしく通過していく車両をひっきりなしに映し出している画面だが、今は何の変化もない映像を退屈そうに流しているだけだった。
それはモニターの故障でも何でもなく、高井戸と大月間が濃霧のため、二〇時三〇分から通行止めになっているからだ。
この料金所の管理事務所でモニター監視をしているのは、盛田、浅井、それに小室の三人である。
通行止め以前からモニターの前に座っていたのは盛田と浅井で、二人は厄介なことに、不可解な入口情報が印字された通行券を見付けてしまった。
発券された日付が一五年前ということもあり、手の込んだいたずらだと判断した。その悪巧みをしたのが、いま休憩中の同僚三人の仕業だろうと結論付けた二人は、不可解な通行券の処理を棚上げにしたままである。
しかし、この通行券を見つけたことがきっかけになり、一五年以上前にあったとされる風切りびとの中央道伝説の語りが始まった。
語り手が盛田で浅井一人が聞き役だったが、いつしか収受員仲間の小室が加わり、盛田の話も波に乗り始めたところだ。
初めの伝説も無事におわり、浅井と小室は第二幕の伝説を待ち望んでいた。
盛田が休憩から帰ってきた。
「お待たせ。少しばかり記憶の整理をしていたのだが、どうにか繋がってきたのでほっとしたよ。二人に間違ったことを聞かせちゃわるいだろ」
盛田は、コーヒーカップを持って椅子に座った。
「待っていたところです。早く聞かせてください。相変わらず各レーンには何の異常もありません」
モニターを見ていた浅井は、せがむように言った。
「通行止めはまだまだ続きますよ。盛田さん、二条倉庫の二人ですけど、怪しくないですか? 特に一九‐六〇の川野あゆみは、本田にとってどのような存在になるのかというところが気になりますね」
窓際にいた小室は、難しい顔でモニターの前に戻ってきた。
「小室、おまえも川野あゆみのことが引っ掛かるようだな。おれは、素顔を見たいだけだ」
浅井は口元を緩めた。
「同感です。おれだって浅井さんと一緒ですよ。やっぱり素顔が気になります。盛田さんは、川野あゆみを見ましたか?」
「見たとしてもすでに忘れているよ。本田が傾くくらいだから、魅力的な女性なのだろう。さあ、それでは始めようか」
深呼吸をした盛田は、次なる伝説を語りはじめた――。
一九九六年一一月二五日といえば、この季節には珍しく、全国的に雨模様の一日だった。
雨足も夕方以降激しさを増してきた。
CL明石支店のプラットホームに運行車両が並び始めたのが、一七時過ぎのこと。
所沢の番線にもプロフィアの給油を済ませた本田が入ってきた。
本田はいつも一七時くらいに出勤し、タイムカードを押してプロフィアの始業点検を始める。まず八輪あるタイヤの状態を見て回り、エンジンオイルの量をチェックする。
それから運転席に乗り込み、スピードメーターを開け、三日分のタコグラフを装着した後でセルを回す。エンジン音を聞きながら給油所に向かい、オイルが不足気味のときは適量だけ補充する、と言うのが一連の流れだった。
今日は雨のため給油に手間取り、始業点検を省略した。番線に入ってからサイドミラーだけを軽く磨き、そのまま荷室の掃除を始めた。
一七時三〇分になるころ、プラットホームの中央で運行者ミーティングが始まった。
「一七時現在の情報です。雨の影響により速度制限を伴った通行規制が出されている高速道路がありますが、出発までには幾らか状況が変わるかもしれませんので、新しい交通情報が出たら報告します。また、今夜は全国的に雨足が強まり、土砂災害の危険性も高まりそうです。運行者の皆さんは、急な車線変更や無理な追い越しや成り行き任せの速度超過にも十分注意してください。雨対策を忘れず前方を注視し、余裕のある運行をお願いします。出発予定時刻は二〇時三〇分です。ご安全に!」
運行管理者の田辺が、手短にミーティングを終わらせた。
本田はミーティングが終った後、所沢の番線に戻り荷物の積込みに取りかかった。
荷室の八割くらいまで積み込みを終えたとき、呼び声が聞こえてきた。
「雨の高速は視界が命。見通しは良いか、ヨシ! 本田、聞こえるか、こっちに来てくれ」
野太い声だった。
プラットホームに並ぶトラックの隙間から、交通標語のような危険予知を口ずさんでいるのは、明石支店運行主任の名代だ。
東名専門の厚木定期を組んでいる名代は、趣味のアマチュア無線を活かし、交信仲間から伝わってくる新鮮な交通情報を頼りに、事故や工事渋滞を上手に切り抜け、時間に正確な運行を重ねていた。
「プロフィアのワイパーだけど、劣化が激しいようだな。交換しておいた方がいいと思うが、どうだ?」
名代は、左右の手をワイパーのように動かしている。
「気になってはいたのですが、まだ大丈夫かなと思っていました。すぐに取り替えます」
本田は名代に指摘を受け、部品庫から新品のワイパーを三本持ってきて取り替えた。
新しくなったワイパーの動きを確かめているところへ、再び名代が話し掛けてきた。
「今夜の雨はひどくなりそうだぞ。たまには海側を走らないか? 東名は運転が楽だし、霧の心配もいらないし、良いことずくめだ。お前もいい加減御殿場が懐かしくなっただろう」
「その思いはあるのですが、所沢に行くにはどうしても中央の方が近いもので……。またそのうちに走ります」
本田は、古いワイパーをバトンのように回しながら説明した。
「だろうな。今のところ事故情報は入ってないが、今夜は絶対何かが起こりそうだぞ。中央道は油断禁物だ」
名代は、不敵な笑みを浮かべた。
「雨の中央は最高ですよ。ドライバーから敬遠された分、通行量が激減して走りやすさが増します。たぶん今夜もそうなるでしょう」
負けず嫌いの本田は、語気を強めた。
「そんなに中央が好きなら仕方ないな。また新しい情報が入ったら連絡するよ。そろそろ追込みだぞ」
二人の会話を断ち切るように、ホームの上が騒がしくなってきた。
『今流れている書類コンテナが最終です』構内放送が流れた。
集荷の終わりを知らせるアナウンスを合図に、積込み途中の運行者たちは追い込み作業に入った。
出発と到着の準備が同時に始まったプラットホームの上は、その日を締めくくる一番慌ただしい時間が巡ってきた。
運行伝票を受け取った気の早いドライバーが、我先へと出口に向かう中、本田は慌てる素振りもなく事務所へ向かった。
「本田、無茶な運転だけはするなよ。承知の上だろうが、中央道で何かあったら厄介だからな」
運行伝票の処理を済ませた田辺が、本田の肩をポンと叩いた。
「大丈夫ですよ。田辺さん、安全運転指導者のおれに任せてください。法定速度を守りますのでご安心を」
本田は、ピースサインをしてみせた。
「何が法定速度だ。本当に交通法規を知っているのか? そんなことはどうでもいいから、とにかく安全運転だぞ」
田辺から受け取った運行伝票には伝票重量八トン、実重量四トンとあり、普段通り走りやすそうな重量になっていた。
本田は、左手を上げ笑顔で事務所を出て行った。
関東ブースに戻り観音ドアを閉めた本田は、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。
力強い始動音とともに、軽快なアイドリングが始まった。
湿った空気が流れ込む明石支店の構内には、プロフィアの乾いたディーゼルサウンドが響き渡った。
雨足が強くなったCL明石支店のプラットホームから次々に運行車両が離れだしたのは、二〇時三〇分を過ぎてからだった。
本田は、サイドブレーキを戻してセカンドギアにクラッチを繋いだ。
エンジンが程良く温もったプロフィアは、軽い身のこなしでプラットホームから離れて行った。
助手席では、降りしきる雨を警戒するかのように、熊のぬいぐるみが魔除けの顔で睨みを利かせている。
震災が起きたことをすっかり忘れてしまうくらい、街や道路に希望の灯りが戻ってきた。
車線規制がなくなった阪神高速に、光の帯が一直線に伸びている。
西宮ジャンクションから左に逸れたプロフィアは、路線トラックの集団にまじって名神高速へと流された。
左カーブを回った先に、孤独なドライバーたちがひしめくスタートラインが見えてきた。
二一時一〇分、西宮ゲートをくぐった本田は、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
雨に濡れた路面には不気味なしぶきが湧き上り、ヘッドライトの光を手当たり次第に吸い込んでいく。
暗黒に包まれたアスファルトの上を暴れまわる大粒の雨が、今夜も〝不穏なレース〟を連れてきた。
「これだけ降っていれば東の方はもっとやばいはずだぞ。どうせウエット路面では記録も出ないだろうし、何より雨の日は東名の方が安心だ。こっちへ来いよ、本田」
京都南インターを過ぎたとき、少し前を走っている名代が誘いの電話を掛けてきた。
「すみません。どうしても中央が待っていますので……」
二人の会話は蝉丸トンネルで途切れた。
八日市インターから先では名代が言った通りの展開になってきた。
季節を間違えたような土砂降りの雨が、プロフィアの上空から勢いよくこぼれてきた。
空を覆う雨雲は広範囲にまたがり、周期的に激しくなる雨が関東平野にまで続いていることを、ラジオから流れる交通情報が教えてくれた。
立ち上がるしぶきで視界が悪くなると同時に、名代の誘い言葉が何度も頭をよぎるようになってきた。
しかし、これだけ雨が降ればどこを走っても条件は同じだと自分に言い聞かせた。
本田は、中央道まっしぐらと言う思いを最後まで崩さなかった。
米原ジャンクションを過ぎても雨の勢いは衰える気配はなく、一宮インターを通過するころには雷まで呼び寄せ、それにつられた稲妻も中部の夜空を鮮やかに飾っていた。
小牧インターを過ぎて出てくる東名と中央の電光掲示板には、雨スリップ注意の文字が二つ並んで光っているだけで、順調な流れを疑う要素などなかった。
本田は注意喚起のつもりなのか、『愚か者は刺激を求めて中央に流れ、最後は派手に散ってしまう』と、ヒーローたちが残した言伝を口ずさんでいた。
二三時一〇分、小牧ジャンクションの先に続く東名本線では、あたり前のようにハザードの花が咲き乱れている。
平坦で走りやすいとしても、これだけ混雑している中ではストレスが溜まってしまう。
本田が中央道を好むのは東名の混雑を避けるためだが、そもそもコスモスラインには中央道の路線免許が下りておらず、事故や故障などがあれば自己責任を負わされる。だからCLの運行者は、仕方なく東名を走るしかなかった。
出発前、田辺が心配していた理由もそこにあった。
彼らにとっての中央道は禁断の場所である。
だが協力会の運送業者であれば制約も関係ないことから、コスモスラインという社名に憧れて入社した本田も、いずれどこかの協力会に再就職し、思い存分中央道を走りたいとの思いを強めていた。
社内規定を無視しての中央道走行には、スリルとリスクが常に入り乱れ、必要以上に冒険心が掻き立てられてしまう。
いつものことではあるが、この日も早くから心を決めていた本田の前方に、中央道の表示板がくっきりと見えてきた。
この瞬間を待ち望んでいた本田は、東名本線からさりげなく左へ逸れた。
そのとき本田の携帯が、名代からの着信を知らせた。
「本田、中央はだめだ。ここではもう無理だから小牧東で下りろ。東名に引き返せ。必ず戻ってこいよ!」
東名本線を進むグレートの運転席から、電話片手に名代が手招きしている。
「雑音が……。それでは、名代さんも気を付けて」
聞き取れない素振りの本田は早めに電話を切り、何食わぬ顔で左手を振ってアクセルを踏み込んだ。
二台は、ここで左右に別れて行った。
本田は、中央道に入って間もなく、通行車両が全くいないということに気付いた。
土砂降りの雨のせいで前も後ろもヘッドライトの光は見つけ出せず、暗黒の世界に独りで迷い込んだようだった。
往来の途絶えた多治見インターを控えめに通過した本田は、瑞浪インターから先の小刻みなカーブも一八〇に抑えた速度で軽く流した。
水しぶきを高く巻き上げて走るプロフィアの遥か前方では、魔風の吹き荒れた爪痕が激しい雨に洗い流されていた。
一八〇に抑えた速度で中津川インターを通過し、神坂パーキングの坂道でも静かな過給機音で駆け上がった。
本田は激しい雨から逃れるよう、雨宿りの恵那山トンネルへと滑り込んだ。
貸し切り状態の本線に降る大粒の雨を、恵那山トンネルの直線が手品のように消してくれた。車体から垂れていた滴もすべて吹き飛び、フロントガラスの外で激しく動いていた三本ワイパーにも束の間の休みが訪れた。
濡れネズミだったプロフィアが、完全ドライになって恵那山トンネルから出てくると、目の前にはもう一つのトンネルが不気味な口を開けて待っていた。
網掛トンネルに入った本田は、普段と違う空気を素早く察知した。
二〇〇オーバーを取り戻したプロフィアの周囲が、突然スローモーションの流れになり始めた。ゆっくりと進みゆく景色の中で、ハザードを点けて走る数台のトラックが前方に現れた。
本田は迷うことなく右側車線へ移り、一気に追い越しをかけた。
スローモーションの流れが続く中、スピードメーターは二〇〇オーバーを指示している。
追い越し車線を走り続ける本田は、トンネル内で前に出ようと更に踏み込んでみたが、隊列を組んで走るトラックの速度は自信を無くすほど並外れていた。結局、近付くことさえできないまま間隔は広がるばかりだった。
本田の周りを時間だけが無音で過ぎる間に、前走車のハザードランプは次第に遠くなってしまった。隊列を組んで走るトラックが消えた網掛トンネルの出口では、今までとは桁違いの激しい雨が待っていた。
視界とアクセルを強引に奪われたプロフィアのスピードは、二〇〇オーバーからいきなり一五〇の指示に急落した。
網掛山の下り勾配を過ぎても、まだスローモーションの景色が続いている。
土砂降りの雨に打たれ、意識しながら例の二六〇キロポストを通過した。
そのときまで七速だったシフトレバーは、今夜もニュートラルの位置に押し戻された。
プロフィアのエンジンは一気に吹き上がり、一五〇を保っていたスピードは敢え無く一〇〇以下にまで落ち込んだ。変速にもたついた状態で阿智パーキングに差し掛かると、スローモーションの流れもそこで終わった。
プロフィアの周りを包み込む土砂降りの雨が、本田の視界を何処までも遮ろうとしている。
本田が再加速を始めたとき、左前方を素早く移動して来た赤い光がいきなり目の前に浮かび上がった。
急な割り込みに慌てた本田は、咄嗟にブレーキを合わせた。
阿智パーキングの加速車線から突然プロフィアの前に入り込んできたテールランプは、一〇〇、一四〇、一八〇と加速を続け、悪条件の中で異常な速さのペースメーカーとして走り始めた。
不意に割り込んできた車両のテールランプは、見えにくい視界の中を走るには好都合でもあった。
本田は赤い誘導灯を頼りに走り、無意識のうちに連なっていた。
土砂降りの雨としぶきのせいで、突然現れた淡い光のテールランプが4tか10tか分からず、岡谷ジャンクションを過ぎてようやく大型トラックだと確認できた。
本田は、一八〇の速度で走る謎のトラックのすぐ後ろを一定間隔で追走した。
巻き上げられた水しぶきがフロントガラスにまとわりつき、見えにくくなった視界を新しい三本のワイパーが見事に拭き取ってくれた。
名代の指摘が功を奏した結果だが、さすがに前走車のナンバープレートまでは依然として確認できなかった。プロフィアの周囲には、水しぶきの幕が幾重にも立ち込めていた。
諏訪南インターを通過してすぐのこと、前走車のトラックがいきなり追い越し車線に移り、鋭い加速を始めた。
走行車線から逃げだすように、本田も釣られてアクセルを踏み込んだ。
そのとき、水しぶきの中から突如として黒塗りのバスが姿を現した。
諏訪の暗闇に潜む奇妙なものかと思えるくらいゆっくりとしたスピードで、這うように走っている。
あまりの遅さに危うく左側のミラーを引っ掛けそうになった。
走行車線を徐行する挙動不審のバスが、中央道を走り始めて最初に追い越した車両になった。
中央道標高最高地点を通過してからも、激しい雨が止みそうな気配はなかった。
長野から山梨にかけての長い下り坂を、フルスロットルの走り屋二台が足早に駆け下りていく。
巻き上げられた水しぶきにすっぽりと包まれた二台は、水面を走る高波のように、濡れたアスファルトの上を須玉の最終コーナーに向けて突き進んだ。
ペースメーカーを務める謎のトラックは、一定間隔で張り付いてくるプロフィアを道ずれに、須玉インター一キロバックの表示板をあっさりくぐり抜けた。
本田は、そこで初めて魔の左カーブを何の抵抗もなく曲がったことに気付き、物足りなさと同時に前を行くドライバーの正体が気になり始めた。
本田は須玉の最終コーナーで、前走車のコース取りを目の当たりにしてから、もしかするとこの走りは中央道の神様九四‐五一ではないかと妙に期待し始めた。
そして、水しぶきにけむる後ろ姿を食い入るように見つめているうち、観音ドアについた傷の具合からしてまったく別のトラックだと判断するに至った。
ペースメーカーを務める謎のトラックは、降りしきる雨の中で順調な走りを見せていた。
水しぶきに優しく包みこまれて走る本田は、夜の中央道に広がる不思議な空間をさまよっているような気がしてならなかった。
秋色に染まった甲府の街が、最高の土砂降りで迎えてくれた。
「なあ鈴木、まるでレースのカーテンが移動しているようだぞ」
佐藤は、双眼鏡を置いた。
「なるほど、カーテンにくるまれての移動か。雨が降ってもあの走り方は、間違いなく風切りびとだな」
鈴木は、双眼鏡を覗き込んだ。
山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、今夜も双葉サービスエリアの高台から静観するだけだった。
境川パーキング一キロバックの表示板を通過したとき、前を走る謎のトラックが急にアクセルを緩めた。
高く舞い上がっていた水しぶきが徐々に静まり、減速車線に入ろうとするトラックのナンバープレートがゆっくりと、そして鮮明に浮かび上がってきた。
なんと、そこに並んでいた数字は九四‐五一に他ならなかった。
水しぶきと傷まみれになった後ろ姿が、魔性の車番に気付くのを遅らせた。
前回遭遇した時の九四‐五一の観音ドアには傷などなく、綺麗な状態だったのだ。
本田にしてみれば、良い意味での期待外れになった。
一瞬のうちに本田の鼓動は早打ちを始めた。
前走車が中央道の神様、二条倉庫だと分かり、追い越し車線に移りかけていたプロフィアのハンドルをウインカーも点けず、素早く左に切った。
二〇〇に近かったスピードをフットブレーキで一〇〇まで下げ、二条倉庫の後を追ってそのまま境川パーキングの減速車線に流れ込んだ。
がらんとして他に誰もいない駐車場の真ん中で、九四‐五一の動きは完全に止まった。
「今なら話し掛けられる」と思いながらも、本田は一台分の間隔を空け、グレートの左横に停車し、雨足が弱まるのを待つことにした。
激走を続けた二台が横並びで立ち止まった。
二条倉庫九四‐五一は、激しい雨の中で安定したペースメーカーを務めてくれた。
阿智パーキングで出会い、ここまで一緒に走ってきたことが、偶然なのか必然なのかを思ううち、前回の運行で出会った川野のことが無性に気になり始めた。
いま九四‐五一が真横にいることを川野に連絡しようと、何度か発信ボタンを押してみたが、圏外案内の気のない音声が携帯から聞こえてくるだけだった。
衰えを知らない土砂降りの雨が、本田をプロフィアの運転席に閉じ込め、ついでに強力な睡魔も呼び寄せた。
一一月二六日の午前三時になった。
分厚い雨雲は東の空に流れ去り、上空には満天の星が戻ってきた。
本田が流れ星を見ながら目覚めたときには、プロフィアの真横に停まっていた二条倉庫九四‐五一の姿は、駐車場の隅々まで見渡しても何処にもなかった。
中央道の神様は、大粒の雨と一緒にどこかへ消えてしまったようだ。
本田は、停車していた時間の遅れを取り戻そうと、手際よくセカンドギアにクラッチを繋ぎ、境川パーキングの加速車線から単独で本線へと復帰した。
視界が悪かった先程とは打って変わり、遠くまで見渡せる夜空が上下線に戻ってきた。
果てしなく透き通った視界の中で、プロフィアの力強い走りが始まった。
笹子トンネルを二〇〇オーバーで抜け出し、大月ジャンクションから先の小刻みなカーブを軽快に走り、八王子ゲートもスムーズにくぐった。
いつもの混雑に邪魔をされることなく、国立府中インターを下りた本田は、国道二〇号線から府中街道へと進んだ――。
「今まで滅多に停まることさえなかったのに、まして途中で眠るなんて、本田にしては珍しいですね」
モニターを見つめていた浅井は、背伸びしながら盛田に尋ねた。
「ああ、最初で最後だろう。眠らされたのかな?」
手短に返した盛田は、笑みを浮かべた。
「網掛トンネルでハザードを点けて隊列を組んだトラックがいたけど、あれはいったい何だったのですか? てっきり二条倉庫かと思いましたが、どうも違っていたようですね」
小室は、盛田を見つめた。
「なあ小室、ここで喋ってもいいが、それでは面白くないだろう。もう少し後で分かるはずだから、それまで待っていてくれ。さあ続きを始めよう」
コーヒーを一口飲んだ盛田は、その先を語りはじめた――。
午前四時二〇分を過ぎたころ、静まり返ったCL所沢支店のプラットホームに、明石出発の本田が普段より大幅遅れで入ってきた。
運行車両が途絶えた到着ホームは休日のように閑散とし、この時間からして明石便が一台だけ停車している光景は少々不自然だった。
運行伝票を持って降りた本田を、おれは笑顔で出迎えた――。
「おはようございます。今日は久しぶりにゆっくり来ました。何だか到着便の数が少ないようですが?」
本田は、余裕のあくびをしながら伝票を手渡した。
「おはよう。暇だよ、暇。暇すぎるよ。名古屋から西の店所で明石便が一番乗りだぞ。ちょうど体が鈍りかけていたところだ。さっそく荷下ろしでも始めるか」
まくし立てたおれは、仕分け人を呼んだ――。
「ということは、守川さんと伊藤さんもまだですね。変だな、あの二人どこにいたのだろう?」
手袋をはめた本田は、腕組みをした。
「途中で事故があったようだから、一般道に下りたのだろう。そういう自分はどこを走って来た?」
おれは何気なく聞いた――。
「普段通り中央道です。それしかありませんから。でも、上り線で事故なんか見かけませんでしたけど……」
荷下ろしを始めた本田は、首を傾げた。
「恵那山トンネルの東側に阿智パーキングってあるだろ? 二三時一〇分から通行止めらしいよ。ひどい事故があったみたいで、今でも上下線で事故処理が続いているようだ。おまけに東名の御殿場でも通行止めらしく、まだ来ないところを見ると、あの二人も巻き込まれているのだろう。この分だと到着便のピークは昼過ぎになりそうだな。後々まで大変だぞ」
おれは、ため息をついた――。
「まったく気付きませんでした。守川さんと伊藤さんには悪いけど、中央道の女神はおれを選んでくれたのでしょう。運が良かったというか、日ごろの行いが……、いや違う」
本田は、荷物を持ったまま固まった。
『名代さんと別れて中央道に逸れたのが、二三時一〇分だった。そのときすでに通行止めになっていたことになる。小牧ジャンクションで名代さんが手招きしてきたのは、無線仲間から入った事故情報を伝えたかったのではないか? だとすれば、せっかく教えてくれたのに軽くあしらってしまった。先輩に対し少々やり過ぎたかも知れない……』などと、本田は呪文のようにつぶやいた。
その上で、『通行止めも事故現場も見当たらなかったし、とにかく異常な箇所などどこにもなかった……』ともつぶやいた。
「何をぶつぶつ言っている? 箱の中はすでに空だぞ。手袋なんてもういらないだろ」
伝票重量八トンの荷下ろしが終わったところで、おれは本田に声を掛けた――。
「すみません。ちょっと考え事をしていました。すぐに出します」
ぺこりと頭を下げた本田は、苦笑いを浮かべた。
「シャワーでも浴びて早く寝ろよ!」
おれは、ホームの上から言ってやった――。
プロフィアを駐車場に停め、シャワーを浴び始めてからも、本田の頭の中は中央道の神様と通行止めのことで一杯だった。
真水の位置に下げた温度で頭を冷やし、巻き戻した運行時間の整理を始めてはみたが、異常なほどの激しい雨に苦しめられたということばかりが蘇ってきた。
ましてや、がら空きの本線で出会った車両と言えば、ハザードを点けて走る数台のトラックと低速で走るバス、それに中央道の神様だけである。
結局、いくら思い起こしてみても事故や渋滞の形跡を確認できなかったことに変わりはなく、どこを走ってきたのか自信をなくしかけたころ、最も都合のよい答えに落ち着いた。
それは、中央道の神様は初めから先導目的で自分の前に割り込み、その後ろを走った自分は巻き上がる水しぶきの中にできた不思議な空間を漂流したのかも知れないというものだ。
こうして大雨が連れてきた〝不穏なレース〟は、ぼんやりした形で締めくくりになった。
朝食を済ませた本田は、守川と伊藤の到着を待ちきれず独り仮眠室に引き揚げた。
『数台のトラックを追い越そうと、フルスロットルで二六〇キロポストを通過した。危険で魅力的な風にあおられたプロフィアは、左カーブの真ん中でゆっくり右に傾いた。魔除けの熊のぬいぐるみが、助手席から転がり落ちていく、本田はとっさに手を伸ばした』
一七時〇〇分にセットしていた目覚まし代わりの携帯に、伸ばした手が届いたところで本田は夢から覚めた。
網掛トンネルで出会ったトラックのことが気になっていたせいか、何とも言いようのない不吉な夢を見てしまったようだ。
仮眠室のドアを閉める際、たかが夢だと自分に言い聞かせながらも、何か特別な事情が阿智谷に隠されているのではないかと、真っ暗になった部屋を何度も振り返る本田だった。
CL所沢支店の周辺は、この時期一七時を過ぎると夕闇に染まってしまう。
相当な延着が見込まれた割には、ほとんどの運行車両が各番線に並び終えている。
神戸と京都の番線にも、守川と伊藤の810が並んでいた。
プロフィアの給油を済ませた本田が、少し遅れて明石の番線に入ってきた。
ホームの中央で待ち構える加藤が、マイクを握りしめた。
「昨夜のことになりますが、各高速道路では重大事故が多発し、関西方面からの到着荷物が大幅に遅れました。所沢定期の数便も犠牲になっています。中津川インターで強制的に下ろされた神戸便の守川さんと京都便の伊藤さんは、飯田インターに向けて一般国道を移動中、土砂災害に遭って身動きが取れなくなり、ここへたどり着いたのが一六時前でした。運行者の皆さんもお疲れのところ大変でしょうが、最新の道路状況を常に把握し、安全運行に努めてください。出発予定時刻は二〇時三〇です」
加藤は、マイクの音量を絞りぎみでミーティングを終わらせた。
「あの二人、遅かったみたいだからもう少し寝かせといてやろう」
そう言ったのは、おれだ――。
キャビンに寝ている守川さんと伊藤さんをそのままに、おれは本田と二人で食堂に向かった。
この日は会話も弾まず、食事はすぐに終わった。
夕食の後、本田は積込み作業に取りかかり、おれは普段通り伝票仕分けに向かった――。
明石の番線に集まった荷物は、二〇時を過ぎるころにはすべて片付いた。
本田が出発準備を始めたとき、あくびも出ないくらい眠そうな顔の守川と伊藤がプラットホームに上がってきた。
二人は、目をこすりながら左手を上げた。
「お前には、おれたちの知らない特別なルートでもあるのだろう? つくづく運のいい奴だな」
伊藤は、背伸びしながら笑った。
「日頃の行いですよ。長時間止められていたら、マンガ本読み放題だったでしょう。守川さんは俳句でしたっけ? さあ、気合を入れて帰りましょう。積込み、手伝いますよ」
本田は、ふたたびゴム手袋をはめた。
「歌を詠むような気分ではなかったけどな……。まだ荷下ろしがあるから今日はゆっくり帰るつもりだ。またな!」
左手をあげた守川も、笑みを浮かべた。
守川と伊藤に対し、今回の上り線で魔性の車番九四‐五一が先導してくれたことや、通行止めを伴う事故処理にも遭遇しなかったことを説明する時間はなかった。
本田は、寝不足の二人をホームに残し、プロフィアの観音ドアを閉めてアイドリングを始めた。
二〇時二〇分、CL所沢支店のプラットホームから一斉に運行車両が離れていく。
守川と伊藤に見送られた本田は、暗闇の府中街道をひたすら走り、国立府中インターから中央道下り線に合流した。
この時間帯であれば混みあっているはずの広い道で、昨夜の事故の反動なのか、路線トラックの姿を見かけることはなかった。
普段より少ない車列の中に、ある思いを胸に秘めた本田が、そっと紛れ込んだ。
二一時〇〇分、八王子ゲートをくぐったプロフィアは、鋭い加速で立ち上がってきた。
その挙動は、真の走り屋の前にしか現れない白い光を導き出すかのように、本田は乾いたアスファルト路面の上で力任せに踏み込んだ。
小仏トンネルも、相模湖も、そして大月ジャンクションから始まる坂道も、瞬く間に通り過ぎて行った。
スピードは、すでに二〇〇オーバーを指している。
本田が笹子トンネルに駆け込んだとき、圧縮された空気が反対側から押し出されるほどだった。
しかし、アクセルを緩めることなく走り続けてみても、前回遭遇した白い光がサイドミラーに現れることはなかった。
淡い期待も虚しく、単独で笹子トンネルから出てきた本田を、甲府盆地に吹き抜けるさそい風が勝沼の下り坂で待っていた。
フルスロットルの本田が釈迦堂パーキングを通過したとき、携帯電話から着信音が響いてきた。
「お疲れさま。二条倉庫の川野です。いま下りの九〇キロポストを通過しました」
川野は、息を弾ませていた。
「こちらは釈迦堂、九三キロポストです。お疲れさま」
本田は、アクセルを少しだけ緩めた。
「いま追い上げ中です。もうすぐだから緩めずそのまま走り続けてください」
「分かり? ました。あの、少しだけいいですか」
緩めずと聞いて戸惑った本田だが、とりあえず昨夜の出来事から伝えることにした。
「昨日の夜、神様、いえ川野さんの兄さんと出会いました。すぐに連絡しようと電話を掛けてみたのですが、どうも圏外だったようで通じませんでした。遅くなってすみません。それともう一つ、車番九四‐五一の観音ドアが傷だらけになっていました。何かあったのでしょうか? 結局のところ阿智から境川まで土砂降りの中を先導してもらって助かったのだけど、気になったもので……」
「実は今日、兄から連絡がありました。京都から福島に帰る途中で体調不良を起こし、二週間前から飯田の病院に入院していたそうです。一週間前に退院し、そのまま仕事に復帰したとのことでした。心配をおかけしてすみませんでした。もう大丈夫だと……」
猛追してくる川野は、なぜか急にトーンを下げた。
本田は、これ以上聞いて良いものか迷った末、前回、川野の兄が取った謎の行動について切り出した。
「連絡があって良かったですね。ところで網掛トンネル手前で急停止したことについて何か分かりましたか?」
結局、その件についての返事は川野から帰ってこない代わりに、何か別のことを喋ろうとしてためらっている様子が伝わってきた。
もうこれ以上聞かない方がいいと判断した本田は、出会ったときから気になっている熊のぬいぐるみのことに話を移した。
同じ夢を何度も見たあげく川野と全く同じものを買ってしまった本田は、軽い気持ちで聞いてみた。
「川野さんが、熊のぬいぐるみを買ったのはいつごろですか?」
「子供のころ、雪に囲まれた白河の実家で母親からもらいました。手作りです。今では魔除けになっています。本田さん、熊のぬいぐるみの夢はどうでしたか? 案外正夢かも知れませんよ」
川野は語気を強めた。
「えっ、夢ですか? どうしてそれを……」
今度は、本田のトーンが下がってしまった。
川野は、本田にしか分からないはずの夢物語を知っていた。
やはり彼女も真の走り屋の前にしか現れない白い光、中央道の神様ではないかと息を呑みつつ、謎めいていることに冒険心がかき立てられた。
そして、「今は二条倉庫一九‐六〇の川野と一緒に走りたい、このままどこまでも」と、それだけを願ったりもしていた。
本田は、風切りびととしての誇りを失くしかけていた。
境川パーキングを通過した本田の後ろでは、白い光の輝きが激しさを増してきた。
その走りこそ一九‐六〇の川野であり、鋭い威圧感は中央道の神様九四‐五一以上のものだった。
先行する本田のプロフィアに、川野の白いグレートがぴたりと張り付いた。
「さあ一緒に走りましょう!」
電話越しに、川野が誘ってきた。
本物の走りを始めた川野は、前を走る本田を別次元の領域に押し上げ、もう一つの白い光、中央道の神様を呼び出した。
二台を猛追してくる九四‐五一は、激しい風を巻き上げながら、あっという間に一九‐六〇川野の後ろまで迫ってきた。
本田を先頭に、二条倉庫の二台が連なった。
最速の隊列を組み上げた三台は、秋色の葡萄畑が広がる甲府の街に、さらりとした風を巻き上げた。
「なあ鈴木、葡萄色の街で白い光が入り乱れているぞ」
佐藤は、双眼鏡を鈴木に渡した。
「あぁ、本線を舞台にして足早に駆け抜ける踊り子のようだな」
鈴木は、双眼鏡を覗いた。
山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、今夜も双葉サービスエリアの高台から静観しているだけだった。
二〇〇オーバーのスピードで岡谷ジャンクションを通過し、滑るように駒ヶ岳サービスエリアを走り抜けた。
飯田インターの表示板を激しい風圧で揺らして行く三台は、綺麗な隊列を崩すことなく走り続けた。
後追いしてくる過給機の鋭い金属音が、阿智の谷間に響き渡った。
先頭を走る本田が、阿智パーキングをフルスロットルで通過したときだった。
意識して左手を添えていたシフトレバーが、強い力で跳ね返され中立になった。
いきなりエンジンが吹き上がったプロフィアは、ここで息を切らせてしまった。
本田は、素早いギアチェンジと絶妙なアクセルワークで、更なるスローダウンをくい止めはしたが、あえなく一五〇の速度まで落とすことになった。
気付けば、上り勾配の途中まで張り付いていた二つの白い光は、サイドミラーの中から忽然と消えてしまい、阿智谷の暗闇がぼんやりと映っていた。
今夜もギア抜けと同時に、二条倉庫がいなくなった。
ため息の本田が助手席に目を移すと、魔除けの熊のぬいぐるみが鋭い視線を放ち、どこかに消えた二条倉庫の二台を、本田の代わりに追いかけているようだった。
川野のことを完全に意識している本田は、「いつか必ず……」と強がりを残し、過去と未来を繋ぐという噂の網掛トンネルに吸い込まれて行った――。
「この伝説はここまでだ。二人ともお疲れさま」
盛田が、コーヒーカップを持って立ち上がった。
「これで決まりでしょう。一九‐六〇の川野あゆみも中央道の神様に違いありませんね。だって、本人にしか分からないはずの夢物語を知っているのですから。普通ではありませんよ。本田のやつも、こんなことで大丈夫かな?」
モニター画面を見ていた浅井は、盛田に視線を向けた。
「走り屋は、全てにおいて自己責任。あいつならそれくらい分かっているさ。何といっても、風きりびとのエースだからな」
盛田は、ため息まじりにつぶやいた。
「踊り子のように本線上を駆け抜けるか……。高速隊の鈴木でしたっけ、上手い表現ですね。ところで本田は、川野に惚れてしまったのでしょうか?」
小室も、盛田に視線を向けた。
「走ることしか頭になかった奴だけど、そこのところは何とも言えないな。あいつも男だから、異性に魅かれて当然だ。
川野が謎めいている分、余計に魅力的なのだろう。
見ていて思ったのは、魅かれないよう敢えて強がりを言っているような気もするし、はっきりと言えずにやせ我慢をしているようにも見える。どっちにしても川野を意識すればするほど、本田は深みにはまっていくだろう。おれの考え過ぎか?」
目のやり場に困った様子の盛田は、含み笑いを浮かべた――。