⑩愚か者
二〇一三年四月一〇日、午前四時三〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。
高井戸から大月までの区間が濃霧により通行止めになって、かれこれ八時間が経過してしまった。
その間、この八王子本線料金所を通過した車両は一台もいない。
霧による通行止めに気を緩めた収受員たちは、長時間にわたる特別休憩の最中で、テレビの深夜放送や読書に将棋などで時間つぶしをしていた。
そんな中、コスモスラインから転職してきた浅井、長尾、太田、広瀬、そして元公務員の小室が行儀よく椅子を並べている。
交代でモニター画面の監視をしながら、一五年以上前の中央道伝説に耳を傾けているのだ。
伝説の語り手は、年長者である盛田が務め、栄光の風切りびとを現代に蘇らせた。
盛田は途切れかけた記憶をたどり、大詰めとなるところまで物語を展開させてきた。
いよいよ最終章が始まりかけたとき、何かを思いついた浅井がモニターから視線を外した。
「そうだ。おまえたちに聞きたいことがある。強行突破のアラームを鳴らした上に、通行券に小細工して二レーンの発券機に仕掛けをしただろう? それも一五年も前の日付をわざわざ打込んで……。図星のようだな」
浅井は、長尾と太田、それに広瀬の顔を見渡した。
「そんな子供じみたことする訳ないよ。強行突破のアラームにしても通行券にしても、遊び道具にしたら懲戒ものだぞ。それくらいの事はいくらおまえだって分かるだろ」
長尾は、口を尖らせた。
「まったくだ。そんなことをしている時間があったら、寝ていた方がましだ。冗談がきついぞ、浅井」
太田は、吐き捨てた。
「失礼な奴だ。なあ浅井、アラームの件は別として、その奇妙な通行券を見せてみろ。それならお前の話を聞いてやるよ」
広瀬は、笑い飛ばした。
「よし、見せてやるよ。言い訳の準備でもするんだな」
浅井は、勢いよく事務机の引き出しを開けた。
「なぜだ? 確かに入れたはずだが……。盛田さん、通行券がなくなっています。誰かが持ち去ったのかも知れません」
浅井がいくら見渡しても、そこに通行券はなかった。
「よく探してみろ。どこかにあるはずだ。そう言えばあのとき携帯に撮ったじゃないか」
盛田は、立ち上がった。
浅井は、すぐに携帯を開いた。
全員が覗きこんでいる。
残念なことに手ぶれなのか、入口情報のほとんどがぼやけていた。ただ、いちばん端の印字が車種二と鮮明に見えることで、大型車だと確認できる程度だった。
「ピンボケだな。おまえらしいよ。みんな聞いてくれ。浅井が言ったことは本当だ。確かに強行突破のアラームが鳴ったのは誤作動かもしれない。ビデオを何度も再生したけど、何も映っていなかった。
しかし通行券については、おれも確認したから間違いない。確かにあった。それがなぜ消失したのかは、何とも言いようがない。分かっていることは一五年前の今日、発券はこの料金所の二レーン、大型車、車番末尾は五五だったはずだ。
誰かが軽い冗談で二レーンに仕掛けたのだろうと思ったばかりに、つまらぬ疑念を抱いてしまって本当にすまなかった。
気を取り直してほしい……。ところでこの伝説も最後だから、もう少しだけ付き合ってもらいたい。知っている限りの全てを話すよ」
「待っていました。お願いします」
浅井を除く全員が声を揃えた。
首を傾げていた浅井も、少し遅れてお願いしますと言った。
盛田はその様子を確認してから、ゆっくりと語りはじめた――。
一九九八年四月九日と言えば、今からちょうど一五年前のこと。すっかり春めいたCL明石支店のプラットホームに、運行車両が並び始めたのは、いつものごとく一七時過ぎだった。
給油を済ませた水戸陸運の黒木と石井も、関東ブースにある所沢と埼玉の番線に揃って入ってきた。
トラックから降りた二人の頬を、終わりかけの桜を連れた柔らかな風が撫でている。
最近まで吹き荒れていた季節外れの北風はいつしか静まり、穏やかな春の陽気が、二人の気持ちを華やかな場所に誘い込んだ。
810のヘッドライトを拭き始めた石井が、隣の番線でプロフィアのサイドミラーを磨いている黒木に話しかけた。
「最近あの二台、どうしたものかね。ちっとも見かけないけど……」
石井は、黙々と拭いている。
「先輩、それですよ。あのとき本田さん、何か言いたげでした。それが気になって走りに集中できません。どうしましょう?」
黒木も、サイドミラーを磨いている。
「どうもしなくていいよ。多分あんたのドラテクにむかついて、文句でも言いたかったのさ。でもあの二台が雲隠れしたおかげで、黒木も無茶な運転をしなくなったとみんな思っているよ。そうだろ?」
ここで石井は、一段高いところにいる黒木の顔を見上げた。
「はい。二条倉庫に追い付きたい、一緒に走りたいと思って今まで必死に走ってきました。絶対、さらりとした風を切ってやろうとも考えていました。でも最近になって、その思いが薄れてきたような気がします。『一線を越えるなよ!』と、守川さんに釘を刺されたことがようやく身にしみて分かってきました。
今度あの二台と走ることがあっても、その言葉だけを肝に銘じて対処するつもりです。言っておきますけど、別に熱がある訳ではありませんから。風切りびととしての常識を述べさせてもらいました」
運転のことに触れられた黒木は、得意の真面目な顔で語った。
「ほーっ、あんたにしてはなかなかの志だね。守川さんからいいこと教わったよ。二条倉庫を悪く言うつもりはないけど、いくら神様だろうが散ったら終わりだからね。守川さんの思いは、きっとそれだよ。そうは言っても、走り屋のあんたには未練があるだろうけどさ。いずれにしても、全ては自己責任。そのときになって弱気になっちゃだめだよ。その変な顔さえしなければ、本気で言っているように聞こえるんだけど」
石井は、黒木の顔を横目で見ていた。
「お見通しですね。先輩、白い光を誘い出すために、今夜もとことん全開で行きましょう。そうでもしなければあの二人、なかなか出てきませんよ」
サイドミラーを拭き終えた黒木は、笑みを浮かべた。
「あんたは、やっぱり分かっちゃいないね。何事も程々に、と言う肝心なセリフが抜けているよ」
石井は、手にしたウエスで黒木の頭をこつんとやった。
〝最近あの二台、どうしたのだろう?〟という会話が、黒木と石井の合言葉になるくらい、二条倉庫の姿を見かけなくなった。
中央道をフルスロットルで走っているとき、プロフィアのサイドミラーに入ってきた光を見ると神経が急に高ぶる。一瞬ドキッとして妙な期待を持ってしまうが、白い光と違うことが分かると、いつもため息と一緒に消えてしまう。
最近では、そのような運行が毎回のように続いていた。
魔女とのバトルからまだひと月しか経っていないというのに、黒木にとっては気が遠くなるほど長い空白の日々が続いていた。
走り屋にとってヒーローだった二条倉庫の二台が消え、心の中には大きな穴が開いたままになっている。
連なって走っていたあのころに戻りたいと、眩しかった過去を振り返る時間も多くなった。
そんな後ろ向きになっている黒木の元へ、天の声が届いた。
「黒木さん、ちょっといい? プラットホームの上に来てもらえないかな」
並んでいるトラックのすき間から、運行管理者の杉田が手招きしている。
「はい。すぐに行きます……」
軽く返事をしながら、黒木は呼ばれた理由を石井に尋ねた。
「さあね。ミーティングにしてはまだ時間があるし……。あんたのことだから、きっとスピード違反の事情聴取が待ち受けているのかも知れないよ。いよいよ運行停止だね」
石井は、大げさな表情で答えた。
少しばかり早すぎる呼びかけに、黒木の表情は冴えなかった。
「黒木さん、今回だけ高崎まで行ってくれないかな。高崎支店向けに出た六トンの大口荷物と、所沢向けの集荷物を積み合わせで運行してもらいたいと思って……。どうだろう?」
杉田は、黒木の反応を見ていた。
「分かりました。任せてください。帰りはどうなるのですか?」
話しの内容に安心した黒木は、杉田の依頼を何のためらいもなく引き受けた。
「普段通り所沢でお願いします。ただ片道七五〇キロくらいになるし、それに今は気候もいいから、居眠り運転するかも知れないな。自信のほどは?」
杉田は視線を外し、勘ぐるように聞いた。
「まったく問題ありません。どこへでも行きますよ。もっと遠くても平気ですから」
黒木は、クールな顔で平然と言い放った。
「それでは急な展開で申し訳ないけど、よろしくお願いします。高崎支店の担当者には連絡しておくから、安心して運行するといいよ。そろそろ運行者ミーティングを始めようか」
杉田は、ホーム中央へ向かった。
七五〇キロ彼方に突然現れた目的地では、これから走って来る黒木を待ち受けるものがあった。
何かを企む杉田が言葉巧みに高崎を押し付けたことで、よどんでいた黒木の気持ちは、少しだけ紛れることになった。
「あんたなら青森、いや北海道まででも楽に行きそうだけど」
石井は、黒木の背中を軽く押した。
「青森定期でも始めるのか。ここからだと一三〇〇キロ以上になるが、黒木なら行きそうだな」
ミーティングの誘いに来た名代が、追い打ちをかけるように話し掛けてきた。
「一三〇〇キロか……。走り応えがありそうですね。いつか杉田さんに頼んでみようかな」
余裕の黒木は即答した。
「それって明石から埼玉の往復距離より長いけど、完全に無理だね」
石井は、即座に首を振った。
喋りながら近づいてくる黒木と石井を、マイクを握った杉田が待っていた。
「最近、とりわけ北関東への荷物が増えてきました。今日も高崎支店向けに大口が出たため、急きょ水戸陸運の黒木さんに走ってもらうことになりました。大口の荷物はなるべく貸し切り便に回す予定ですが、今日のように配車が間に合わなければ、皆さんに声をかけさせて頂きますので、その際はご協力のほど、よろしくお願いします。出発予定時刻は二〇時四〇分です。尚、明日から明後日にかけて強風注意報が出ています。横風に注意し、安全運行に努めてください。それでは、ご安全に!」
杉田は、桜前線予報の最新版を片手にミーティングを終わらせた。
黒木は高崎支店向けに出たという大口荷物を、荷室の前からすき間なく積み込んだ。
軽くて大きなケース物が多く、三軸の重量配分に時間を取られた。
積込状況の確認に来た杉田は、荷室の半分以上が大口荷物で埋め尽くされた状況を見た途端、所沢向けの通常集荷物が残ってしまいそうな気配を感じたようで、落ち着きのない表情になっていた。
『今流れている書類コンテナが最終です』構内放送が流れた。
仕分けコンベアが片付けられたホームの上では、出発と到着の準備がいつものように始まった。
所沢の番線に溢れかけていた荷物は、黒木が上手に積込んだことでどうにか片付いた。
胸を撫で下ろした杉田は、発送伝票の整理をすると言い残し事務所へ引き上げた。
荷崩れ防止をしている黒木の元へ、追込み作業を終えた石井が覗きに来た。
「ロットものを積んだから、結構な量になったみたいだね」
腕組みをしている石井は、荷物の多さに唸ってみせた。
「重量は大丈夫かな? 二店積みは結構疲れますね。先輩の埼玉線も満載のようですけど、ちょっと重すぎませんか?」
黒木は、石井のトラックを眺めた。
「へっちゃらだよ。そろそろ事務所に行こうか」
他の運行者たちが駆け足で行き交う中、黒木と石井は慌てる素振りもなく、ゆっくりとした足取りで事務所に向かった。
「こっちは伝票重量が九トンで、実重量は五トンだって。まいったね。黒木は?」
「二つ合わせて伝票重量が一四トンで、実重量が七トンです。大したことはありません。これくらいならまだ十分な余裕があります」
両者とも、走りに支障をきたすような重量でもなかった。
「今回は雨も降らなさそうだし、高崎向け、気を付けて行ってらっしゃい。あっ、埼玉もね」
何かを言いかけた杉田が、意味ありげな笑いでごまかした。
二人は笑顔を振りまき、手を振って事務所から出てきた。
観音ドアを閉めた黒木と石井は、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。
力強い始動音とともに二台が奏でるディーゼルサウンドが、心地よい響きで構内を駆け巡った。
黒木が所沢の番線から左手を上げた。
石井は、軽めのクラクションを叩いた。
二〇時三〇分、爽やかな風が吹き抜けるCL明石支店のプラットホームから、次々に運行車両が離れていく。
水戸陸運の二台が、セカンドギアにクラッチを繋いだ。
七五〇キロ先のゴールに向け、動き始めた黒木のプロフィアに続き、石井の810もホームから離れて行った。
魔除けのスイッチが切れた熊のぬいぐるみが、二台の助手席にポツンと乗っていた。
阪神高速三号神戸線に、テールランプの帯が伸びている。
西宮ジャンクションから左へ逸れるトラックの車列にまぎれ、プロフィアと810が左カーブを流されて行く。
目の前に見えてきた赤いボックスには、二人の通過を待ち侘びる視線があった。
二一時一〇分、縦並びになった水戸陸運の二台が、西宮ゲートをくぐった。
「小粋だね。気を付けて!」と、プロフィアの後ろ姿を見ていた係員が石井に言った。
「ありがとう。またね!」と、軽く返した石井は、黒木に続いて小気味良く立ち上がってきた。
走り屋たちが合流してくる吹田ジャンクションには、柔らかい春の風に乗って桜の花が吹き込んでいる。
舞い散る花びらが絡み合い、白一文字の後姿に花を添えた。
不器用な走り屋たちの心は和み、儚いバトルの炎は立ち消えた。
前を走っている黒木が、心もちスピードを緩めた。
後ろに張り付く石井は、携帯電話の発信ボタンを押した。
「窓を開けてごらんよ。花びらがひらひらと風に舞っているから。夜桜も綺麗だね」
石井は、運転席の窓を全開にした。
「先輩、風流とはこんな光景でしょうか。自分で言うのも何ですが、やっぱり似合いませんかね」
窓を開けた黒木は一人で照れていた。
京都南インターの先にある下り勾配の直線で、通行車両の少なさに気が緩み、ついつい踏み込みそうになった黒木を、後ろの石井がパッシングで引きとめた。
レーダーの危ない視線を直前でかわした二台は、一五〇に抑えた速度で黒丸パーキングまで走ってきた。
春の陽気に誘われ、弾けそうになっている黒木の背中に、張り付く石井がそっと力を入れた。
「なんだか走り屋の血が騒いできたような気がするよ。この辺りで踏んでみようか?」
石井のトーンは高かった。
「今日は土曜の夜みたいに少ないですね。先輩、ちょっとだけ走ってみましょうよ」
携帯電話を置いた黒木は、瞳を輝かせた。
八日市の直線が月の光に照らされ、白く浮かび上がっている。
本能のままに、黒木は右足に力を入れた。
一瞬のうちに過給機音が変わったプロフィアに、810がピタリと張り付いた。
二台の白一文字が連なって、滋賀県内を駆け抜けた。
三九二キロポストの危ない視線も上手にかわし、関ヶ原インター二キロバックの表示板を全開でくぐり抜けた。
伊吹山からの吹きおろしに背中を押されたプロフィアと810が、養老サービスエリアを二〇〇超の速度で通過した。
沿道に咲くソメイヨシノが、二台の風圧に激しく揺らされた。
プロフィアのフロントガラスにまとわりついた花びらが、窓ガラスの隙間から運転席に迷い込み、淡い春の香りになって車内に広がった。
桜の刺激を受けた水戸陸運の二台は、養老から一宮までの直線をしなやかに駆け抜けた。
小牧インターを過ぎて出てくる東名と中央の電光掲示板には、普段目にする走行注意の文字さえ消えていた。
早々と走行車線に移った黒木が、携帯電話の発信ボタンを押した。
「先輩、東名本線から中央道に逸れて行くときの、さりげなさが最高だと思いませんか?」
思いつきを述べた黒木は、一度だけハザードを点けた。
「あぁ、そうだね。それが小牧ジャンクションの魅力だよ。でも、その言い回しはどこかで聞いたような気がするけど。あんた、誰かの言葉を引っ張り出してきたね?」
石井は、軽いパッシングを返した。
「中央道のヒーローたちが残した言伝です」
その後二人は、携帯を置いた。
二三時一〇分、小牧ジャンクションを通過する水戸陸運の二台が、東名本線からさりげなく中央道へと進路を変えた。
桜の花びらを星空に舞い上げ、内津峠を軽快に駆け上がった。
輝く銀河が横たわる夜の中央道で、黒木と石井は二人だけのタイムアタックを始めた。
二〇〇オーバーの速度で中津川インターを通過した後、二八一キロポストの段差を見越して一〇〇まで落した。
再スタートを切るように力強い加速を始めた二台が、神坂パーキングの坂道をフルスロットルで駆け上がり、その勢いで二つのトンネルも抜けてきた。
網掛トンネルからの坂道を一気に駆け下りた二台は、二六〇キロポストの左カーブをめがけて加速した。
多くのヒーローたちを呑み込んだ阿智パーキング西側のコーナーを、きびきびしたフットワークで二人は立ち上がってきた。
車体を浮かせた初運行から徹底的に走り込んだ黒木は、中央道を早く走るためのコツを身に付けた。
今では黒木の右に出る者はいない、と言われるまでになっていた。階段を一歩ずつ上り詰めるように、手の届くところまで近づいた希望の白い光が、あの日を境にどこかへ消えてしまった。
突然目標を見失った黒木は、無理やりアクセルを踏むことが多くなった。
時おり襲ってくる湿りかけた気持ちを、きれいさっぱり拭い去るには、速度に変換することが一番手っ取り早かったのだ。
心を揺らしながらハンドルを握る黒木を、後ろの石井はとことん突っ張った。
プロフィアと810は、二〇〇オーバーの速度で岡谷ジャンクションを通過した。
息を合わせた水戸陸運の二台は、長坂の緩い勾配をフルスロットルで駆け下りた。
須玉の最終コーナーに向けてアクセルを踏み続けた二人は、軽めのフットブレーキを一度だけ踏み込んだ。
一八〇に減速してからコーナーに入り、立ち上がるときには二〇〇以上の速度に戻っていた。
黒木と石井の頭上を須玉インターの表示板が通り過ぎたとき、春色の葡萄畑が広がる甲府の街が優しい光で迎えてくれた。
「なあ鈴木、風のように走っている奴をどう思う?」
佐藤は、持っていた双眼鏡を置いた。
「急にどうした? 風切りびとだろ。うらやましいけど、事故と隣り合わせの儚い商売だ」
鈴木は、双眼鏡を覗き込んだ。
「そうだよな。切りそこなったら散るだけだったな。ところで白い光だけど、最近見かけないだろ。どこかへ行ったのか?」
「そのうち舞い戻ってくるさ。中央道の神様と呼ばれるくらいだから。善か悪かは別として、他に巣くう場所などないよ」
鈴木は、双眼鏡を置いた。
「それって、いわくありげだな」
佐藤は、鼻で笑った。
山梨県警高速隊の佐藤と鈴木は、今夜も双葉サービスエリアで待機中だった。
勝沼インターからの上り勾配も、笹子トンネルを抜けた先の小刻みなカーブも、水戸陸運の二台は二〇〇超の速度で走り抜けた。
サイドミラーに入って来る白い光を一度も見ることなく、黒木と石井は静まり返った八王子ゲートをくぐり抜けた。
ハザードを点けた石井が首都高速へ進み、軽いパッシングで返した黒木は、国立府中インターの減速車線に進路を変えた。
白一文字を揺らし、最終目的地の高崎目指してひた走る黒木を、八分咲きの府中街道が癒してくれた。
四月一〇日午前二時〇〇分、CL所沢支店のプラットホームに、明石出発のプロフィアが軽い足取りで入ってきた。
黒木は、一四トンの運行伝票から所沢降ろしの八トン分だけを持って降りてきた。
「おはよう! 珍しく満載になっていると思ったら、通過点という訳だな」
おれはさっそく仕分人を呼び集め、所沢支店分の荷下ろしに取りかかった――。
「おはようございます。前半分は高崎です。急ぎの荷物があれば横持ちしますよ」
黒木は、声を弾ませた。
「荷物は大丈夫なようだ。黒木だったら高崎まであっと言う間だろ。まぁ頑張って!」
おれは、残荷がないことを確認した――。
「今日も早かったね。今から高崎に行くのなら、わたしも一緒に行こうかな?」
すでに荷下ろしを済ませた摩耶急送の斉藤が、コーヒーを持って走って来た。
「うん。行こう! さあ横に乗って。盛田さん、また後で」
黒木は斉藤を助手席に乗せ、柔らかな風が吹き抜けるプラットホームから離れて行った。
午前二時二〇分、関越道の所沢インターから下り線に合流した黒木は、八〇キロ先の高崎インターをめざし、三車線の真ん中で力強い加速を始めた。
黒木にしてみれば久しぶりに走る関越道は、変化に富んだ中央道に比べ道幅が広く単調で、運転するには楽だが、何ともつまらない行程でしかなかった。
『二条倉庫だけど、最近見かけなくなったね』
しばらく無口だった黒木と斉藤は、声を揃えてしまった。
「今日もサイドミラーをずっと眺めていたけど、迫って来る光といえば先輩の810だけだったし、それらしい風も全く吹かなかった。どうしたのかな。白い光」
黒木は、深いため息をついた。
「やっぱり、あのとき木箱と一緒に二条倉庫の中央道伝説も消えたのかも。なぜかそんな気がする……」
斉藤は、語気を弱めた。
『本当に速かったなー、あの二台。懐かしいね』と、二人はまた声を揃えた。
嵐山パーキングを過ぎてもアクセルを緩めない黒木は、二〇〇超のスピードを保ったまま花園インターを通過した後、高崎インター出口の表示板をチェッカーフラッグのようにくぐり抜けた。
料金所を出て県道を五分ほど走ったころ、殺風景な工業団地が見えてきた。
最初の交差点を左折した二人の前に、最終目的地のCL高崎支店が現れた。
構内出入り口のカーブミラーにプロフィアの光が映ったとき、片道七五〇キロの上り運行が終了した。
「前半はこれで終わりだ。このあと広瀬が出てくるが、自分で語ってみるか?」
盛田は、広瀬の顔を覗き込んだ。
「とんでもない。盛田さんにお任せします。聴いているほうが面白いし、話が脱線してはみんなからクレームが出ます」
広瀬は、珍しく照れていた。
そこへ突然、一人の男が現れた。
「おれにも、盛田さんの語りを聞かせてくれないか。実は書庫で仮眠していたのだが、ずっと話し声が聞こえていたよ。なかなか面白い内容だったから、早く仕上げを聞きたくてうずうずしているんだ。通行止めはもうしばらく続くだろうし、気にすることはないさ。管制センターも静かなものだ」
椅子を押してきた男性は、六人の中に紛れ込んだ。
全員が背筋を伸ばした。
その人物は、八王子本線料金所所長の柴田である。
柴田は緊急事態ということで、昨夜から居残りしていたらしい。
六人は話に夢中で、気付きもしなかった。
「柴田所長……、勤務中に長話をしてすみません。これでお開きにします」
盛田は立ち上がり、頭を下げた。
「それはないよ、盛田さん。大丈夫。所長のおれが言っているんだから続けてくれなきゃ。それに今やめてしまったら、ここにいる連中だって怒りだすかもしれない。そうだろう?」
柴田は、笑いながら言った。
他の者も、一様にコクリとした。
「分かりました。少々緊張しますが、柴田所長のお許しが出たところで。それでは……」
盛田は、お茶を一口含み、伝説の続きを語りはじめた――。
午前三時〇〇分、高い防音壁で囲まれたCL高崎支店のプラットホームに、水戸陸運のプロフィアがゆっくりと入ってきた。
一足先に降りた斉藤が観音ドアを開け、黒木が手際よくバックで着けた。
「おはようございます。所沢と二店積みで来ました。ここで終わって、折り返します」
黒木は、残りの伝票と運行表を手渡した。
「おはよう。久しぶり! 杉田君から聞いていたけど、ずいぶん早かったじゃないか。あれあれ、斉藤さんまでお出ましとは」
到着主任の広瀬は、運行表にメモ用紙を挿んだ。
「広瀬さん、お久しぶりです。所沢から黒木さんと一緒に来ました」
斉藤は、声を弾ませた。
待ち構えていた仕分人たちが、伝票重量六トンの荷物をすぐに片付けた。
荷下ろしも終り、二人がプラットホームから離れかけたとき、広瀬が駆け寄ってきた。
「今から所沢に帰るのなら、この工業団地の裏通りを走ってみるといいよ。いいことが待っているから絶対にお勧めだぞ。地図もあるし、騙されたと思って行ってみな。さあ出発だ!」
「地図……。あっ、これですね。わたしたち、期待してもいいですか? それでは広瀬さんを信じて裏通りに行ってみます」
黒木と斉藤が手を振ると、広瀬も笑顔で手を振って応えた。
軽めのクラクションを鳴らし、プロフィアは裏通りへと消えた。
広瀬にもらった手書きの地図に従い、二つ目の筋を右に曲がり、しばらく道なりに走った。
間もなくして、街路樹が張り出した裏通りに出た。
のろのろと進み始めたプロフィアの前に、牡丹雪を思わせるような大ぶりの花びらが降ってきた。
満開を過ぎた桜が、風にあおられ乱舞している。
春爛漫の光景が、突然二人の前に広がった。
今日は桜の花びらに何度も励まされ、高崎まで走って来た。そして広瀬に勧められるまま通りかかった裏通りで、締めになる最高の夜桜が待っていた。
儚く散りゆく花びらが一斉に降り注ぐ桜吹雪の中を、二人はとろけるように進んだ。
身の回りの面倒なことをすべて忘れさせ、ゆったり、ふんわり、のんびりとした幻想的な気分を与えてくれる桜道だった。
高崎インターから関越道の上り線に合流した後、二人は桜吹雪の余韻に浸ったまま流された。
アクセルを踏み込む理由がなくなり、スピードを一〇〇以下に抑えたプロフィアが、いつの間にかCL所沢支店にたどり着いていた、という具合だった。
駐車場に停めたプロフィアから黒木と斉藤が降りたとき、無言状態だった二人の間に会話が戻った。
『綺麗だねー。最高だねー。また来年も!』
黒木と斉藤は、またしても声を揃えた。
「さっき見た桜道の風景、何となく見たような気がするけど、どこだっけ?」
黒木は、どうしても思い出せなかった。
「多分、ここの事務所に掛けてある風景写真のはずだよ」
斉藤は、黒木にそっと教えた。
早めの朝食を済ませた二人は、しばらく話し込んでから同じ仮眠室へ消えて行った。
一七時二〇分、CL所沢支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。
そよ風が吹き抜ける中、給油を済ませた水戸陸運の黒木と、摩耶急送の斉藤、そして東寺運輸の伊藤も関西ブースに入ってきた。
ホームの中央で待ち構えていた加藤が、マイクを握りしめた。
「初めに各高速隊からの情報です。このところの陽気のせいで、突然予測不能な運転をするドライバーが増加傾向にあるとの連絡がありました。一般道でもそうですが、高速道路を頻繁に利用している運行者の方は、ハンドルを握ったら気を緩めることなく、『かも知れない』運転に努めてください。他にはこれと言った連絡事項はありません。本日の出発予定時刻は、二〇時です。以上!」
今日のミーティングは、いつになく短かった。
加藤は大事な連絡事項を忘れていた。
「そろそろ、晩御飯にでも行こうか」
おれは関西の三人組に声を掛け、いつもの四人で食事を始めた――。
「朝方は見かけなかったけど、何かトラブルでもあったのか?」
伊藤は湯呑を持ったまま、黒木に視線を向けた。
「高崎と積み合わせだったので、伊藤さんの顔を見る時間もなく出発したのですが、工業団地の裏通りにある桜並木を斉藤さんと二人でくぐって、儚さと美しさに感動してきました」
黒木は、うっとりとした表情をしていた。
「散りゆく花びらは儚くもあり、美しくもありと言うからな。感動して当然だよ。あの桜を見ると平和的な思想が芽生えるから、いつも挑戦的で硬派な黒木に是非とも見せたくて杉田が仕組んだことだと思うな。本田と見に行くつもりでいたけど果たせなかった。だから自分の思いを託したのだろう。良かったな」
伊藤は、しみじみとお茶をすすった。
「本田さんと見に行く予定だった高崎の桜か……。あの桜吹雪を見ることができて、本当に良かったです。杉田さんも見たかったでしょうね」
斉藤は、思いがけない花見に感謝している様子だった。
「杉田さん、凝った仕掛けを考えましたね。それでわざわざ高崎まで走らせたのか。だとしたら本田さんは桜を見ないまま……」
黒木は、おれに視線を合わせてきた――。
「そうだよ……。事務所に掛けてある風景写真を見ていた本田が、春になったら桜を見に行こうっておれに言うから、『あぁ、いいよ』って答えたんだ。でもどうせ行くのだったら、守川さんや伊藤さん、それに杉田君も誘って、みんなで行こうと言ったままそれで終わってしまった。さっき、伊藤さんが言ったように、あの桜には癒し効果があるという評判だ。日陰で働くおれたちに、ひと目だけでも桜の花を、という杉田君の切なる願いだろうよ」
おれは、杉田の気持ちを代弁した――。
「黒木、杉田の気持ちを大事にしろよ。二条倉庫を追いかけてばかりいたら、桜のように散ってしまうのが落ちだぞ。あいつも今では中央道の神様などと呼ばれてはいるが、所詮風切りびとの成れの果てだ。一線を超えないよう何ごとも程々に、ってことだよ」
伊藤は、真剣な眼差しをしていた。
「先輩たちの言葉、染みています。伊藤さん、その二条倉庫ですけど、最近見かけなくなりましたね。葡萄色の街を独りきりで走っていると、何かを言い残した本田さんのことを思い出してしまいます。もう終わったのでしょうか、中央道伝説は?」
黒木は、しょんぼりと肩を落とした。
「難しいところだな。謎めいた川野が絡んでいるから、魔女と一緒に消えてしまったのかも知れないが……。ただ、あいつだけは信じていたい。何か言伝があるのなら、またいつの日か舞い戻ってくるだろう。だから信じてやれ。それに黒木、伝説は自分で作るものだ。いいな!」
伊藤の一言は、しおれかけた心を見事に立ち直らせるくらい、効いた。
食事を済ませた伊藤、斉藤、黒木の三人は、それぞれの番線で積込み作業に取りかかった。
二〇時になろうとするころ、京都、神戸、明石の番線に集まった荷物のほとんどが片付けられ、プラットホームの上は風通しが良くなった。
『今流れている書類コンテナが最終です』加藤の声が流れた。
集荷の終わりを知らせる構内放送と同時に、仕分けコンベアの動きが止まった。
出発を急ぐ気の早い運行者が、アイドリングを始めた。
トラックから吐き出された排気ガスが、ディーゼル色の霞になって広い構内に立ち込めた。
そのとき、桜の花びらを根こそぎ持っていきそうな強い風が、プラットホームの上を走りだした。
台車に載った荷物が風にあおられ、番線の間をゆっくりと動いている。
その様子を見ていた加藤は、忘れていた注意事項を思い出し、素早い反応を見せた。
『一〇番線から一八番線の担当者に連絡します。出発準備が整い次第、表側のシャッターを閉めてください。今夜から明日にかけ、全国的に大荒れの天気になるようです。運行者の皆さんは、横風に十分注意してください。以上!』
不完全燃焼ガスが一掃された構内に、加藤の声が響き渡った。
「三人とも気を付けて運転しろよ。今夜は春の嵐が来るそうだ」
警報が出ていたことを思い出したおれは、念を押した――。
二〇時一〇分、強風吹きすさぶCL所沢支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。
出発態勢に入っていた伊藤、斉藤、黒木の三台が動き始めたところで、加藤がホームの上から声を張り上げた。
素早く察知した三台は、すぐさまその場に停車した。
「黒木さん、あと三〇分だけ待って! 明石宛に時間指定の追加荷物が出たんだ。いつも無理言ってゴメン」
加藤は、明石の番線から黒木だけを呼び止めた。
「分かりました。待ちます」
番線に残ることになった黒木は、伊藤と斉藤に後から追いかけると伝えた。
二人は左手を上げながら、一足先に府中街道へと消えて行った。
伊藤と斉藤を見送った黒木は、プラットホームの上で追加荷物の到着を待っていた。
「こんな日のことだろうな、『葡萄色の街を独りで走っていると、白い光がやって来るんです。さらりとした風とともに』ってね。思い出すよ。今日は条件が揃っているから期待大だぞ。これでも飲みな。ブラックだけど」
黒木のことが気になったおれは、コーヒーを差し入れた――。
「ありがとうございます。それって本田さんのことでしょう? 何となく分かります」
黒木は、白い歯を見せた。
「葡萄色の街って、なんともいい響きだよな。あれっ、そこにいるのは……」
隣の番線を見ていたおれは、鉄骨柱の陰でうごめく人影に声を掛けた――。
「葡萄色の街と言ったら、間違いなく中央道でしょう。最高ですよ。二人とも元気そうで」
そう言いながら荷物の陰から突然現れたのは、摩耶急送の元ドライバー守川だった。
「守川さんじゃないか。久しぶりだな。来ることが分かっていれば休暇を取っていたのに……。京都便も神戸便も、さっき出て行ったところだ。残念だったな」
おれは正直驚いていたし、何より懐かしかった――。
「ご無沙汰しています。あの二人には先週会ってきました。今日は、本田と約束していた高崎の桜を見に行ったのですが、心に染みました。本当に素晴らしかった」
乗用車で朝早く神戸を出発した守川は、北陸道の長岡ジャンクションから関越道を南下し、高崎で桜を見た帰りのようで、CLの看板を見て懐かしくなり、ここへ立ち寄ってきたらしい。
「それは良かった。おれも気にはなっていたけど、まだなんだ……。そうそう、黒木が早朝に行って来たよ。まるで別人になって帰ってきた、そうだよな」
おれは黒木に振った――。
「お久しぶりです。杉田さんの計らいで、斉藤さんと一緒に行ってきました。あんなに綺麗な桜道を走ったのは初めてです。おかげで、飛ばす気にはなれませんでした。ただ、本田さんも見たがっていた桜だと後で分かり、なんだかやりきれない思いになりました。残念だけど、どうしようもありませんね」
黒木のトーンは、徐々に下がった。
「本田のことだが桜と、同じで、散ってしまえばそれで終わりと言うことだ。たとえ神様になったとしても、愚か者には変わりない。二条倉庫がいなくなり、そしてこのおれもいなくなった。桜を見た黒木も別人のようになれたようだし、安全運転に少しでも目覚めたのなら、人のことより自分の心配が先だろう。本田もそれを望んでいるはずだ」
守川の口調は、柔らかかった。
以前おれは、『本田なんか超えてどうするよ、散りたいのか』と、黒木に言いかけて止めたときのことを思い出した。
言うべきだったと後悔したものだが、守川が代わりに言ってくれた――。
「絶対に一線を超えるなよ、でしたね。守川さんから最後に聞いた教えです。わたしは今まで二条倉庫を、必死に追いかけてきました。いつか必ず切ってやるという一心で、一流の風切りびとをめざしてきたつもりです……。
守川さんがいきなり引退した上に、二条倉庫まで姿を消した今、正直なところ目標を見失いかけていました。でも高崎の桜道を走ってから、散りゆくものの儚さが分かったような気がします。これから先、二条倉庫と出会ったとしても、風のようにさりげなく走るだけです」
黒木は、缶コーヒーを握りしめた。
「迷いは禁物……。これも風切りびととしての心得だ。憶えておいてくれ。それと、二条倉庫には気を許さない方がいい。いくら本田とはいえ、九四‐五一は魔性の車番だし控えめに見える一九‐六〇の川野は、なんとも危険な香りを秘めている」
「危険な香り……。二条倉庫についてそのような意見が多いのは確かなことですが、わたしとしては信じていたい。川野さんも……。だからその点に関しては、一切疑念はありません。ところで、なぜ急に中央道から消えたのでしょうか?」
黒木は、きっぱりと言い切った。
守川は、一瞬表情が曇った。
「その前に! 知らない間にやられてしまう、それが二条倉庫の川野だ……。さっきの話だが、二条倉庫を見かけなくなったのはおれのせいかも知れない。みんなと最後に走ったとき、あいつに頼みごとをしてそれを聞いてくれたからだろう。あのとき、『仲間を引き込まないでくれ』と伝えた。それで白い光を見かけなくなり、同時におれもいなくなった。自業自得だよ」
守川は、ため息まじりに言った。
「ギア抜けのことですよね。そう言えば、あれから一度も抜けていません。守川さんと本田さんに助けられたのか……。お礼を言わなければなりませんね。守川さん、本当にありがとうございました。本田さんにもお礼を言いたいけど、白い光は、夜の中央道に帰って来るでしょうか?」
黒木は、神妙な顔で頭を下げた。
「魔性の車番に乗っている限り、あいつは中央道を捨てきれないはずだ。消えてさえいなければだが、舞い戻ってくるだろう。川野の良し悪しは別として、今は本田を信じたい。それだけだ」
守川は、作り笑顔を浮かべた。
「分かりました。『信じてやれ』と、伊藤さんにも言われました。だから信じます。守川さん、またどこかで会いましょう。それでは、そろそろ出発します。盛田さんも、また今度!」
黒木の出発を待ち望む春風が、プラットホームのシャッターを叩き始めた。
「運転、気を付けて!」
おれの声は風の音にかき消され、黒木に届かなかったようだ――。
二〇時四〇分になったころ、シャッターの向こうで吹き荒れる風の音を抑え、プロフィアの力強い始動音が広い構内に響き渡った。
明石支店向けの追加荷物を積込んだ黒木が左手を上げ、伊藤と斉藤に三〇分遅れで所沢支店のプラットホームから離れて行った。
「昔、これとよく似たことがあったな。そうだろう、風きりの守川さん。ところで、あんたのことを中央道の神様だと言ったドライバーがいたよ。噂で聞いたのだが、九四‐五一というのは元々守川さんの車番だって? 良かったら教えてくれないか。その訳を……」
おれは、気になっていたことを尋ねてみた――。
「言ったのは本田でしょう? 聞かれたことがありますよ。だから今日は、盛田さんにそのことを話すつもりで来ました」
守川は、時計を見ながら続きを語り始めた。
「確かにその通りです。そのむかし、中央道の神様と言われていたのは事実です。とは言っても、こっちは生身の人間ですがね……。もう何年も前のこと、夜の中央道を走っている仲間たちから、『神様』と呼ばれるくらい攻めの走りをしていた時期がありました。
常に先頭に立ち、どのような場面でもフェアな走りを貫いていました。ただ、見方によっては自己満足にしか映らなかったでしょうけど……。
そのとき乗っていたトラックの車番がたまたま九四‐五一でした。この九四‐五一の数列は、一九九四年五月一日、イモラサーキットのタンブレロコーナーで散ったFIドライバーに由来していると言う者もいますが、当時ブームになっていたF1にはそれほど興味も無かったし、これはまったくの偶然です。強いて言えば、『村下孝蔵のソネット』という曲の方がよりどころだったのかもしれません……。すみません、冗談です。いずれにしろ中央道の神様、という噂が九四‐五一の車番だけをさらって暴走するようになったのはその頃からです。
自慢にもなりませんが、響きが良かったせいか、正直悪い気はしませんでした。でも厄介なことに一度噂が立つと、過激な走り屋たちが群がるようになり、毎回殺伐としたバトルへと展開していくのです。こうなってくると純粋な走りというか記録更新はおろか、まともな運転など出来なくなり、そのうえ高速隊にも目を付けられ、研ぎ澄まされた神経は極限状態に達していました。ただ山梨県警の高速隊だけは、なぜか太っ腹な対応だったと思います。結局中央道の神様という看板が手に負えなくなったおれは、風のようにさりげなくという志だけを残し、ある日を境に魔性の車番と縁を切りました。
ですが因果なもので、巡り巡って今では本田が持つことになった。儚くも中央道の神様として……。このことについては、全てにおいて自己責任と言いたいところですが、たとえ自分にはどうすることもできない領域だったとしても、あのときおれは仲間としてどうだったのか、などと今でも考えさせられます。いくら川野に魅かれていたとはいえ、仲間を散らせてしまったことに変わりない訳ですから、引き止められなかったのは、おれの責任です。そして今回の黒木の件でも、二条倉庫の川野が絡んでいるのは確かです。それで悩んだ末、得体の知れない川野を相手にするには、本田に頼むしかなかった。でもあいつにしてみれば、散ってまで中央道の神様になったのに、昔の仲間を助けることで自分も中央道から消えるかも知れないと思ったでしょう。これまであいつが取った行動については、おれも未だに納得できませんが、反面その思いは痛いほど分かる。
この依頼は間違いなく禁じ手でした。なのに、あいつは黙って引き受けてくれた。交換条件と言うのは感心しませんが、後のないおれにはこれしかなかった。だから引退を約束したのです。あいつに比べ取るに足りない覚悟ですけど、決意した段階で、いや本田に依頼した時点で、風切りびととしてのおれの存在は終わったのです。中央道と風切りびとを捨てることで、仲間を助けられるのなら本望です。いつかまた戻ってくるだろう二条倉庫はさて置き、風のようにさりげなく消えたのですから、今さら何を言っても始まりませんが……。やれやれ、未練がましくなりました」
守川は、風切りびとの顔になっていた。
「そうか、あんたにとって中央道と風切りびとは、この上なく大切なものだったのだな……。その決意を聞いた本田も、さぞかし納得しただろう。ということは中央道の初代神様もそうだが、九四‐五一が魔性の車番の起源なのだから伝説の車番には違いないし、いっそのことイモラサーキットで散ったヒーローに絡めたらどうだい。それこそ洒落になるよ」
おれは本田のことより、守川のことが気になった――。
「なにぶんF1には疎くて……」
F1の話を濁した守川は、風の話を持ち出した。
「今夜中央道に吹く風には、十分注意しなければなりません。舐めてかかったらそれでしまいです。先程そのことを黒木に伝えたのですが、愚か者にならなければいいが……」
「大丈夫。愚か者は刺激を求めて中央に流れ、最期は派手に散って行く。やっぱり、風切りびとはF1レーサーだよ。あいつも真の走り屋なら、あんたの気持ちは分かっているさ。それにしても一流だったはずの本田は、なぜ風を切りそこなったのだろう? 原因は謎めいた川野なのか? それと、あいつは戻ってくるのか?」
おれは、矢継ぎ早に聞いてみた――。
「結論から言えば、分かりません。あのとき本田は冷静さに欠けていましたから。どうしようもないほど川野を意識していた彼の心は、完全にやられた状態だった。悪く言ってしまえば、愚か者の側に踏み込んでいた。そして何処かに迷いを抱えたまま、あいつは自らさそい風に呑まれたつもりでいた。しかしすべては川野の筋書きだったとしたら……。これは勝手な推測ですが、本田がそのことに気付いたとき、風切りびととしての誇りをもう一度取り戻そうとした。下手をすれば消えてしまうというリスクを背負い、仲間の依頼に応えるため、敢えて危険な道を選択したような気がします。おまけに川野まで道連れにしようとしたが、彼女は一筋縄でいく相手ではなかった。ここで一つだけ本田の肩を持つとすれば、あいつこそ初めから全て見越していたのでは、と思うところもありますが……。おっと、そろそろ切り上げなければ。用事もあることだし今日はこれにて。それでは盛田さんもお元気で。また、いつの日か」
「相変わらず忙しそうだな。今度はこっちから出向くよ。今日は、わざわざありがとう。守川さんも元気で。そうだ……」
おれが俳句のことを尋ねようとしたとき、守川は左手をあげながら去って行った。守川から詳しい説明を聞いたおれは、シャッターの外で音を立て始めた春風に耳を澄ませていた。
それから間もなくして、ホームの上をさらりとした風が吹き抜けた。さそい風だと思ったおれは、急に胸騒ぎを覚えた。
反射的に〝黒木〟と叫び、あいつの携帯に発信したが繋がらなかった。仕方なく作業を始めたものの、おれの胸騒ぎは続いていた――。
府中街道を南下していた黒木は、中央道を走っている石井と通話中だった。
「さっきから、ずっと話し中だったね」
石井が言った。
「すみません。守川さんと……」
黒木は、口ごもった。
「守川さんか……。元気だった? ねえ、葡萄色の街に最高の風が吹いてきたよ。どこかで待っていようか」
石井は、勝沼の勾配を下りていた。
「守川さんからの伝言で、『石井によろしく』だそうです。先輩、緩めないで走ってください。すぐに追いつきますから」
強がりを言った黒木は、国立府中インターから中央道下り線に合流した。
二一時三〇分、黒木は八王子ゲートをくぐった。
先に通過した三台の軌跡をたどり、孤独な走り屋の追っかけ走行が始まった。
サイドミラーに映るゲートの灯りが、白一文字の後ろ姿を見送ってくれた。
激しく吹きぬける東風も、仲間たちとの距離を縮めてやろうとプロフィアの背中を押してきた。
心のどこかで、白い光との出会いに淡い期待をかけている黒木は、月明かりの中を西に向かって加速を続けた。
相模湖を通過するとき湖に浮かぶ満月が、小波に揺らされている光景が目に入った。周りの山肌も水面を走ってきた春風に撫でられている。
樹木は大きく波打ち、飛ばされてきた山桜がひらひらと舞い落ちてきた。
何かが近くまで来ている、と予感させる風の演出だった。
久々の単独走行に心をときめかせ、黒木は我を忘れて踏み込んだ。
鋭さを増した過給機音が、一流の走り屋を呼び出す起爆剤になった。
大月ジャンクションを通過した後、坂道を軽快に駆け上がった黒木が、笹子トンネルを二〇〇オーバーのフルスロットルで走り始めたときだった。
サイドミラーの奥で、白い光が輝き始めた。
足早に追いかけてくる眩しい光を見つめていた黒木は、鳥肌と一緒に身震いまで起こした。
長い間待ち侘びていたあの白い光が、すぐそばまで迫ってきている。
初めて出会った瞬間のような、さっぱりとした刺激が、黒木の背後にじわりと伝わってきた。
氷のようなクールさと微妙な親しみ、それを黒木は胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと風に流した。
「さあ一緒に走りましょう!」
夢にまで見たあの懐かしい声が、黒木の耳元で囁いた。
トンネルを抜けた瞬間、黒木の携帯に着信音が鳴った。
「風に逆らったりせず、気を付けて運転しろよ!」
胸騒ぎを取り払いたいおれは、黒木に電話を掛けた。結局、思い過ごしだった――。
「大丈夫ですよ、盛田さん。最高の追い風が吹いてきたから、これに乗って帰ります」
黒木は、はしゃぐように言った。
勝沼インターを通過した黒木は白い光と絡み合い、葡萄色の街で格別の加速を始めた。
さらりとしたさそい風が、弾けそうな黒木の心を支えてくれた。
この日、夜の中央道に、あの白い光が舞い戻ってきた――。
おれの語りは、すべて終わった――。
「所長の顔が目の前にあったので、少しばかり緊張しました。黒木を送り出してから感じていた胸騒ぎは、脳梗塞の前兆だったようです。結局夜中過ぎには病院送りになったと、後から聞きました。まだ、その辺りが思い出せないから、風切りびとたちの中央道伝説もこれにて終わりということで……。ご清聴ありがとうございました」
胸をなでおろした盛田は、深く頭を下げた。
「盛田さん、お疲れさま。なかなか面白い話を拝聴できて良かったです。まだまだ先がありそうだが……」
柴田は、にっこり微笑んだ。
「残念ながらそれから一年間の入院生活になり、その時点で前の職場とは縁が切れてしまいまったく情報が入って来ませんでした。退院後に始まったリハビリ施設で、元高速隊員の佐藤氏に出会いました。彼も同じように脳梗塞を患い、リハビリのために施設通いをしていたのです。そこから知り合いになり、佐藤氏が中央道伝説の手記を書いたことを知った自分は、ドライバー以外の視点で捉えた走り屋たちのことについて教わりました。
さっきも言いましたが、黒木が出発した後のことは、あいつとの通話を元に、佐藤氏が書いた手記を付け加えて展開させました。もう、ネタがありません。今日はたまたま浅井にせがまれ、自分としても記憶をたどってみたくなり、どうにか語ることができました。途切れていた場面を繋ぐことができて良かった。本当に終わりです」
盛田は、肩で大きく息をした。
周りから拍手が起こった。
「そう言うことだったら無理はよそう。盛田さん、ありがとう。諸君もモニター監視ご苦労さま。もうすぐ夜明けだが、白一色に変わりはないようだ」
柴田が残念そうに席を立ったとき、突然ブザーが鳴りだした。
「あっ、一二レーンのモニターを見てください。トラックです。人が降りてきました」
モニターを覗いていた小室が、声を張り上げた。
時計の針が午前五時を回ったころ、車両進入を知らせる短いブザーとともに、一台のトラックが霧の立ち込める一二レーンに入ってきたのだ。
このレーンは、自動精算機になっている。
全員一斉にモニター画面を睨んだ。
五〇代と思われる強面の男性ドライバーが、霧の中に映し出された。
そのドライバーは通行券とカードを右手に持ち、左手で精算機の操作ボタンをむやみに押し始めた。
管理事務所に設置された精算機にも、手順違いのランプが点灯している。
ズームを利かせた小室が、マイクのスイッチを入れた。
「お客様、おはようございます。どこを走ってこられましたか?」
小室は、カメラの視点を小刻みに動かした。
『吊り上げだ。二台いるぞ』と、収受員たちがざわめいた。
「どこって……、中央道だよ! 乗ったのは甲府南で夜中の二時、そこからここまで引っ張って来たと言うわけさ。眠たかったから初狩で停まっていたけど、まだ先は長いし、大丈夫そうなので走ってきただけ。それが何か?」
ドライバーは口を尖らせた。
「お客様、走ってきたというのは、大月ジャンクションを突破、いや通過してきたということですね……。高井戸と大月間は昨夜の二〇時三〇分から霧で通行止めなので、何処からも入れないはずですが?」
小室の声が、一二レーンに響いた。
「眠たいこと言うなよ。おたくらの指示で引っ張ってきたのに、失礼だね。突破などする訳ないだろ。確かに霧は深かったが、普通に走れたし……。そんなことより早く精算したいんだよ。後ろの事故車は券持ちだが、Uターンになるはずだ。詳しいことは山梨の高速隊か、甲府南の料金所にでも聞いてくれ」
ドライバーの男が、『桜』という社名が入った一台目の精算を行った後、小室はバーの開閉を済ませ、二台目の通行券が挿入できるように操作した。
男は何食わぬ顔で、吊り上げている二台目の精算に取りかかった。
精算機に通行券が入ると同時に、管理事務所側にある精算機の操作盤から異常を知らせるアラームが鳴りだした。
仮眠を取っていた収受員たちも、何事かと注目した。
男が言った通り、Uターンによる経路異常が表示されている。
事故車だと聞いていた小室は、確認ボタンを押して精算を終了させようとした。
しかしアラームは鳴り止まず、今度は時間超過異常が表示された。
「盛田さん、浅井さん、これを見てください。この入口情報です」
小室は、精算機のパネルを見て叫んだ。
それはまさしく、盛田と浅井が発見したがその後どこかに消えてしまった通行券の入口情報だった。
そこにいる全員の顔に、緊張が走った。
一五年前の今日、発券はこの料金所の二レーン、大型車、車番末尾は五五と小室が口ずさんでいる中、盛田と浅井は一二レーンへ向けて一目散に駆け出した。
「お客様、その通行券はどこにありましたか? なぜそれを持っているのですか」
小室は、マイクを引き寄せた。
「うるさいな。事故車の中だろうよ。おたくの仲間が渡してくれたから間違いはないはずだが、もしかして偽物なのか? それよりUターンだったら課金なしだろ。早く通してくれよ。そうでなかったら、バーをへし折ることになるぞ」
その男は、怒りをあらわにした。
いかにも料金を払ったのだから文句はないだろう、急いでいるのにもたつくな、というドライバーの表情がモニター画面に映っている。
「お客様、申しわけございません。入口情報が一五年前になっておりますので、処理に少々時間が掛かります。もうしばらくお待ちください」
小室は丁寧な対応を続け、一二レーンを見守った。
そこへ二人が駆けつけた。
盛田が男の対応をする間、浅井は通行券が入っている精算機を開けた。
機械の中にあった通行券は、昨夜見つけたものに間違いなかった。
引き出しにしまったはずなのに、なぜこのドライバーが持っているのかを問うこともできず、レッカー車の流出処理に追われた。
「浅井です。例の通行券に間違いなさそうです。とりあえずバーを開けて、前方の広場に車両を誘導します。もう少し確認を済ませてから帰ります」
インターホンで報告した浅井は、通行券を回収した。
盛田と浅井は、出口レーンの先にある広い路肩に二台を流出させた。
二人は、ドライバーの男からこれといって進展のない事情を聴き取り、通行止めの最中だから気を付けて走るよう念を押した。
不満そうな男は、吊り上げ車両とともに霧の中へ消えて行った。
いずれにせよ、それ以上問い詰める権限など持たされていない収受員であるため、料金を払ってくれた時点で善良なお客様と言うことだ。
二人が管理事務所に戻ると、モニター画面の前では小室をはじめ、長尾、太田、広瀬、それに所長の柴田までが固まっていた。
どうしたものかと詰め寄った二人も、すぐに固まってしまった。
一二レーンに設置され後ろ姿を専門にとらえるモニターが、一時停止状態になっている。
モニターは観音ドアとナンバープレートに向けられ、右側上部に白一文字と、プレートナンバー五五番が映っていた。
吊り上げられていたのは、あの水戸陸運だった。
現場にいた二人は、いらだつ男の相手と通行券の処理で、トラックを見ている余裕などなかった。
先ほどまで盛田の語りを聞いていた者にとって、通行券の入口情報を照らし合わせれば、一五年前の今日、CL所沢支店を出発した明石便の水戸陸運だと容易に想像できた。
黒木が乗っていたプロフィアが、薄汚れた姿で映っている。
なぜ今なのか、今までどうしていたのか、そして何があったのか、という疑問がそこいら中に転がっていた。
所長の柴田が甲府南インターに問い合わせたところ、レッカー車の流入は確認できたが、事故車移動については連絡ミスのようで、対応した収受員は聞かされていなかったようだ。
「盛田さん、やはりあのとき、強行突破のアラームが鳴ったのは誤作動ではなく、あの世からの使者がこの通行券を……」
回収券を手にした浅井が、つぶやいた。
「仮にそうだとしても、今のおれには通行券のことなど関係ないね。それよりお前ら、なぜ今まで教えてくれなかったのだ。おれは何も知らずいい気になって、黒木の中央道伝説を最後まで語ったが、あの日、あいつは死んだのかも知れない。あいつもおれも、愚か者だ……」
感情的だった盛田は次第に肩を落とし、椅子に座りこんだ。
「こんな事になっていたとは……。おれたちも全く知らなかった。本当です盛田さん、信じてください。水戸陸運と言えばその筋の会社ですから情報管理が徹底していたようで、CLの一般社員までなかなか詳しいことは伝わって来ませんでした。でも水戸陸運がなぜ急に北関東へ引きあげたのか、これでつじつまが合いました」
浅井は、盛田を見つめ力説した。
午前五時三〇分を回ったころ、静まり返った管理事務所に電話のコール音が響いた。
柴田が、受話器を取った。
聞こえてくる内容からして、相手は管制センターのようである。
午前六時まで様子を見て、その後三〇分おきに規制解除の判断をするらしい。
通行止めはまだ継続ということのようだが、見る限り外にはまだ濃い霧が立ち込めている。
モニターを見ていた小室は何を思ったのか、急に振り返った。
「少しだけいいですか。その時のことは、おれたちが見ていました。最後の風切りびと、とでも言うべきなのか、水戸陸運の黒木は生きています。ただし、本人には当分会えないかも知れませんが……。さっき盛田さんの語りがいい感じで終わったものだから、言い出しきれず、黙っていました。すみません」
小室は、盛田に視線を向けた。
「その場を見ていただと……、あいつは今どこにいる? それに小室、おまえ何者だ」
うなだれていた盛田は険しい表情になり、小室の顔を見据えた。
「実は、山梨県警高速隊に所属しておりました。佐藤という相棒が病気になってから、他の者とコンビを組んでいたのですが、なかなかそりが合わず、それで警察を去りました。その後調布インターの収受員になり、この料金所に転勤して来て二年になります。高速隊を止めると同時に、結婚生活も終りました。そのとき、鈴木から小室の姓に戻ったという訳です。前置きはこの程度にして、よろしければ、水戸陸運の事故についての詳細を聞いて頂けないでしょうか」
小室に、注目が集まった。
「そうだったのか。それでいろいろと知っていたわけだ。佐藤氏についても当時のことを明言しなかったのは、おれに気を使ってのことだったのだろう。知らなかったとはいえ、本人を前に、勝手な話を聞かせてしまったよ。申し訳ない。許してもらえないだろうか。それと黒木のことだが、会えないという話をぜひとも聞かせてくれないか、小室。いいえ、鈴木隊員、このとおりです」
盛田は立ち上がり、深く頭を下げた。
他の者も、頷いている。
「佐藤隊員ですが、そこのところだけ、記憶が戻らなかったのかも知れませんよ。盛田さん、頭をあげてください。昨夜から存分に楽しませてもらったのですから、自分の方こそこのとおりです……」
小室は、立ったままの盛田の手を握りしめ、椅子に座らせた。
「それでは、あの夜の出来事と今までに判明したこと全ての『風切りびと外伝』を伝えさせて頂きます」
真顔になった小室は、経緯から話し始めた――。
「あの日、白い光と絡み合った水戸陸運の黒木は、勝沼インターを通過するころには、二五〇を遥かに超えた速度で走っていたと思われます。その様子を見ていた佐藤が、『なあ鈴木、白い光だぞ。久しぶりだな。あっ、妙なやつが』と、双眼鏡を手渡しながら言いました。双眼鏡を覗いた自分は、急加速を始めた光を見た瞬間、深刻な事態を直感しました。
それは陽気のせいというか、季節の変わり目に多発する光景で、過去の事例からして大事故に結び付くものだと分かったからです。思わず『やばい』と答えた直後、境川パーキングからいきなり本線に合流してきた一台の乗用車が、白い光と水戸陸運の前で急停車したのです。当然激しくぶつかることになりました。もともと白い光はまともな存在ではないので、かわすことができたようですが、水戸陸運の黒木はその乗用車にノーブレーキで追突した模様です。瞬間的に火花が飛び散ったと記憶しています。
ただちに現場確認へ向かった我々の目に飛び込んできた光景は、場数を踏んできたとはいうものの、想像していた以上に悲惨なものでした。残骸が散らばるなか状況を確認していくと、急停止した乗用車のドライバーは無残なもので即死状態でした。それにひきかえ、追突した側の黒木は軽い怪我を負っただけのようでしたが、あまりのショックのせいなのか、精神的に終りかけているのは一目で伝わってきました。
その後刑が確定した彼女は、服役につくと同時に精神科の診療も受けることになったそうです。黒木に会えないと言ったのは、彼女の方から面会を拒んでいたからにほかなりませんが、その気持ち何となく分かるような気がします。
結局この事故がきっかけとなり、スピードリミッターの義務化論争にも終止符が打たれました。これを境に、眩しく輝いていた風切りびとは、自然消滅に向かって加速を始めたのです。一方、大破した乗用車の所有者というのが、関西で組絡みの商売をしていたようで、表向き足を洗っているとはいえ、同業者の水戸陸運は、この事故によりその関西の業者と長期間もめることになりました。ですが最近になって両者の和解が成立し、時を同じくして全快した黒木の出所も決まったということを、風の便りで聞きました。
その黒木ですけど、彼女自身なぜか出所するつもりがなかったらしく、引き伸ばし工作をしていたようです。先ほど一二レーンで対応したレッカー車につきましては、依頼主が誰なのか、なぜこのタイミングなのかを突き詰めなければなりませんが、そこのところは後ほどお伝えすることにします。
レッカーに関連したことでもう一つ申しますと、甲府南インターの空き地に放置されていた水戸陸運の事故車両が、所有者のもとに返されるというのは、今更ながら良かったと思います。中にはよからぬことを企む輩もいるでしょうから……。
ちなみに、亡くなった乗用車のドライバーは、残念なことに摩耶急送に在籍していた守川さんでした。守川さんは、もうこれ以上仲間を失いたくなかったのだと思います。黒木を絶対に死なせたくなかった。どういう形であれ、生きていてほしかった。だから手荒なように見えますが、白い光の未練を断ち切るにはこうするしかなかったのでしょう。
『散り終えて、再度煌めく、愚か者』といった内容の歌というか、書置きが、ブラジル国旗にくるまれた状態で、車内から見つかりました。盛田さんからお聞きした話によれば、魔性の車番とされる九四‐五一の数列は、イモラサーキットのタンブレロコーナーで、一九九四年五月一日に事故死したF1ドライバーとは全く関係ないと、守川さんが言っていたようですが、状況からしてこのドライバーへの相当な想い入れがあってのことだったと推察されます。守川さんにとって、〝風のようにさりげなく〟を貫くうえで、このF1ドライバーこそ唯一無二の存在だった。もう一つ、彼にとって中央道は、数ある高速道路の中でこの上なく神聖な場所だった。加えて村下孝蔵の曲も、〝彼ら〟のよりどころになっていたような気がします。いずれにしろ風切りびとの儚さをあれだけ語り続けたのに、結局自分が実践する羽目になった。さぞかし、無念だったことでしょう。
それと事故処理班が駆けつけてから立ち去った例の白い光は、当然のことながら二条倉庫でした。その日は一台だけが確認されておりまして、車番が一九‐六〇でしたから川野ということになります。結局魔性の車番九四‐五一の本田は、どういう訳か姿を現しませんでした。そのこと自体何を意味するのか、川野が何を目的としていたのか……。
自分が思うに、彼女自身の孤独さを紛らわすための新しい協力者を必要としていた。さらに言えば、非常時に容赦なく切ってしまえる捨て駒が必要だったということです。それが実の兄であり、本田であり、黒木までも中央道の神様として都合よく仕立て上げようとした。しかしそのことを悟った守川さんが強引に割って入った。もしかするとそのとき、黒木の代わりとして、川野に引っ張られたのかも知れません。
これについては残された歌の内容からして、自分から身代わりになったという表現の方が正しいような気もします。こうして魔性の車番を再び背負った彼は、中央道の神様として走り続けることになってしまった。残念ながら中央道の神様は、真の走り屋の前にしか現れない白い光、という伝えがありますので、簡単に見つけだすことはできませんが、黒幕の川野については、今なお中央道の何処かで棲み続けているのは間違いありません。
それと言うのも、先ほど大騒ぎになった〝いわくつき〟の通行券です。あくまで憶測ですが、自分なりに整理してみました。まず、盛田さんと浅井さんが見つけたあと、しまい込んだはずの引き出しから忽然と消失した。それがどういうわけか、レッカーされてゲートをくぐった水戸陸運の事故車両と一緒に、また舞い戻ってきた。同時に、我々の記憶をゆっくりとよみがえらせながら……。つまり、これは守川さんが放った一つのメッセージだったのではないでしょうか。だとすると、やはり昨夜の強行突破は誤作動などではなく、一五年前に発券された通行券を使って、守川さんが意図的に通り抜けたのです。我々に気付かせるために。
だから、自分にはトラックが通過したように見えた。それならアラームが鳴ったことも説明がつきます。以上のことを踏まえ、中央道の神様は、風切りびととして散った者でなければならない、を前提にまとめますと……。黒木の復調を心待ちにしていた川野が、悲願達成に向けてまた触手を伸ばし始めた。その野望を阻止する行動に打って出たのが、またしても守川さんなのです。
黒木の出所引き延ばしにしても、先ほどの事故車の移動許可についても、彼が取った対策の一つだと考えられます。最近彼の遺品から別の歌が見つかりました。『風切りの、心忍ばせ、露払い、夜霧をまとい、幕引き計る』とあったそうです。永遠に消え去る覚悟がうかがえるこの歌は、一五年ものあいだ、魔性の車番九四‐五一を背負わされた彼なりのけじめなのだと思います。結果はどうであれ、風切りびととしての意地を押し通したのでしょう。
最後になりますが、謎の木箱同様、川野が今どこにいるのか、今後どのようなアクションを起こすのかは依然として謎のままです。ただ確実に言えることは、元々中央道の神様などではなく、彼女こそ真の魔女だったのだと……。以上です」
全員が呆然とする中、小室の話は終わった――。
そのころ須玉の最終コーナーでは、『さあ一緒に走りましょう』という声音とともに、さらりとした風が吹き抜けていた。 了