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①須玉の最終コーナー

 二〇一三年四月九日、二一時三〇分。中央自動車道八王子本線料金所――。

『異常車両進入、異常車両進入』

 せわしげな音声アラームが二回流れた。

 それは、強行突破の車両進入を知らせるものだった。

 レーン同様、管理事務所内に設置された発券機の操作パネルにも異常車両の進入を示す赤みがかったランプが点滅し、くどくどしい警報ブザーも鳴っている。

 これこそ通行料金未払いの強行突破であり、非常時対応の緊迫した空気に包まれて当然のはずだが、今夜は少し様子が違っていた。

 それと言うのも、普段であれば一〇名以上の収受員が二四時間体制で常駐しているはずの管理事務所にもかかわらず、何故かこの時点で勤務体制にあったのは二人だけだった。

 これだけでも尋常な話ではない上に、ただならぬ異変が生じていることをこの二人はまだ気付いていなかった――。


「異常車両は二レーンのようです。おれ、見てきます。盛田さんは監視モニターで追いかけてください」

 言うが早いか浅井は、LED電飾が施されたベストとヘルメットを着用し、各種計器のスペアキーが束ねられたキーホルダーを腰のベルトフックに掛け、蛍光棒と懐中電灯を持って出口へ向かった。

「おい浅井、慌てるな。戻ってこい!」

 居並ぶ監視モニターを睨んでいた盛田は、耳障りな警報ブザーと異常車両進入ランプの解除ボタンを押した。

「どういう事ですか? 二レーンに行かなくても良いと……」

 興奮気味の浅井が、モニター画面の前に走ってきた。

「いいか、よく見てみろ。車両の進入などあるものか。誤作動だ」

 盛田は、監視モニターの再生ボタンを押した。

 画像は少々白みがかってはいるが、アラームが鳴った瞬間、二レーンを通過した車両が一台もいなかったことを証明していた。

 それは二レーンだけでなく、ずらりと並んだ上下線全てのレーンに共通するものだった。

 浅井は録画されている区間を何度も再生していたが、しばらくすると納得したようで、「誤作動でしょうね」と一言つぶやいた。

 通常ETCレーンにおいて、異常車両進入の音声アラームが鳴る原因はETCカードの無効または接続不良、そして車載器の感知不良が九割を占める。

 先ほどのケースであればレーンにも警報が鳴るし、当然のことながら遮断バーが開かないので、該当する車両が実際にいたとしてもその場で余儀なく停車させられてしまう。

 それを無理やり通過しようとする行為が強行突破であり、もし実行すれば各センサーが敏感に反応し、くどくどしい音声アラームへと繋がる。

 同時に一部始終が録画されるという仕組みだが、それが何故か心霊現象のように何も映っていなかったわけで、早々に誤作動と判断されてしまった。

 この会社では異常を知らせる警報が鳴った場合、ただちに各レーンへの直行が常識とされていた。

 今回は直接モニターを監視していた盛田が、冷静な判断と対応をしたことにより、すぐに誤作動だと分かった。

 浅井は無駄な労力を使わずに済んだ。

 それにしても中央道の八王子本線料金所にしては、あまりにもお粗末すぎる人員配置になっているが、これには特別な理由があったのである。

「盛田さん、さっきはびっくりしましたよ。やはりこの霧のせいですかね。だいたいこんな夜に強行突破だなんて……。あー、事務処理が厄介だな。でもこの霧のおかげで、今夜は久しぶりに楽ができそうです。夜霧の神様、ありがとうってとこかな」

 浅井は、レーン監視用カメラを操作しながら言った。

「報告書は誤作動と書けばいいさ。なあ、浅井。この霧もさっきの事も、夜霧の神様の仕業ではないかもしれないぞ。おまえも知っているだろうが、レーンを通過するのは車両だけではないはずだ。動物だって往来するし、夏の夜になると昆虫も増えてくる。レーンを通過する全ての物体は、踏み板を含め複数のセンサーに必ず反応してしまう。ということは、同時に録画もされる。

 でも、その録画ビデオに何も映っていないのだから、誤作動として処理するしかない。ここで一つ、おまえが言うところの夜霧の神様ではなく、厄介な魔物の仕業だとしたら?」

 そう言った盛田の表情が、急に険しくなった。

「またまた盛田さん、顔が怖いですよ。何ですか……、魔物って?」

 浅井は、監視カメラを操作していた手を止めた。

「昔の話だが、『中央道の夜霧は魔物を通す』と聞いたことがある。今夜は条件が揃っているから、十分あり得る話だと思うがね。

 どうした、気になるようだな。それにしても通行止めなんて何年ぶりだろう。高井戸から大月までだから二〇号線も混んでいるだろうな」

 盛田は、モニター画面を見つめながら、「何も見えないぞ」と言った。

「どうせ迷信でしょ。おれ、信じませんから。それより、どの画面も真っ白だ。これだと東名の東京料金所、車両集中で、いつになく大変でしょうね」

 浅井は、すました顔をしている。

「そうか、怖いものなしか。まあいいだろ。おまえが言うように、東名の通行量は桁違いだから、考えただけでぞっとするよ」

「盛田さん、大きい声では言えませんが、明日の朝、勤務が終えるころまで霧が晴れずにいてくれたらいいですね」

 小声の浅井は、監視カメラの操作レバーを動かしている。

「まったくだ。誰だってそう思っているさ。ところで浅井、二レーンの発券機だけど、ランプが点灯しているようだが……。今度は何だ、またトラブルなのか? 監視カメラを二レーンに向けてくれ」

 盛田は、ズームされた画像に目を凝らした。

 監視カメラの操作レバーから手を放した浅井も、モニター画面を覗き込んだ。


 高井戸インターと大月ジャンクションの間が、濃霧のため通行止めになったのは二〇時三〇分からだった。

 各インターは閉鎖され、パーキングからの流出も止められたままだ。

 当然のごとく二〇時三〇分以降、このゲートを通過した車両は一台もいないのである。

 それなのに強行突破の異常車両進入と聞いたものだから、浅井が舞い上がったのも無理はなかった。

 霧による通行止めがいつ解除になるのか、予測不能の八王子本線料金所。

 ここに収受員として勤める盛田と浅井は、レーンモニターの監視中、またしてもトラブルに遭遇した――。


 今度は、発券機だった。

 誰も発券ボタンを押してないのに、発券機が勝手に通行券を発行してしまったようである。

 こういった現象も厄介な出来事に他ならない。

 厄介というのは、トラブル対応の事務処理が一つ増えるのはもちろんのこと、発券機の故障なら修理する必要があり、修理が長引くようであれば、その間ブースに詰めて通行券の手渡し業務が待っているからだ。

 今日はたまたま通行止めの最中で、この二人にとっては不幸中の幸いということになる。

 いずれにしろ通行券というものは、この職場、この会社、そして利用者にとって何より大事なものである。

「やれやれ、これで二度目ですよ。通行車両もないのに通行券が出るなんて……。ちょっと見てきます」

 キーホルダーをぶら下げた浅井は、LED電飾のベストとヘルメットを着用し、蛍光棒と懐中電灯を手にした。

「確かに変だな。雷は鳴ってないし、発券ボタンも押してないし、今度も誤作動か? あのレーンは強制発行以外、発券はできないはずだ。浅井、回収任せたぞ。もし故障ならついでに修理も頼むよ。報告書類はこっちで書いとくから」

 盛田は、浅井の肩を軽く叩いて送り出した。


 浅井が着用している保護具のLEDが、霧の中でゆらゆらと微かな光を放っている。

「浅井、そっちはどうだ?」

「発券機の故障ではないようですが、誤発行でもなさそうですよ。それにこの通行券、ちゃんと入口情報がすべて印字されているようです。しかし不思議と言うか、不気味と言うか、とりあえず回収します」

 インターホンから聞こえてくる浅井の声は、動揺している様子だった。

「ふん」と唸った盛田は、窓越しにレーンを眺めていたが、しばらくたってもなかなか帰って来ない浅井に対し、再びマイクを手にした。

「浅井、さっきも言ったように、こんな霧の深い夜は、あの世から使者が来るらしいぞ。さっきの誤作動騒ぎは前ぶれだ。やはり現れたかな、魔物が……。どうだ、怖くなっただろう。てこずっているようだから、おれもそっちへ行こうか?」

 盛田は低い声で、わざとらしく言った。

「迷信、迷信。そんな前ぶれなんてあるはずないでしょう。あの世からの使者がいたら会ってみたいものです。残念ですが、おれには通用しませんよ。

 それと発券機ですけど、念のため中も確認しましたが、やはり異常は無いようです。

 盛田さん、現時点での二レーンは何枚発券されていますか?」

 強がりを言った浅井は、レーンのカメラに笑顔を見せている。

「おまえの斜め後ろ、誰か立っているぞ! 冗談だよ。いま調べるからもう少しだけ待ってくれ」

 余裕から一転、硬直している浅井をモニターで確認した盛田は、笑いをこらえながら所長席に置いてあるレーンごとの集計表に目を凝らした。

「浅井、動けなかったようだけど、どうかしたのか? あった、これだ。通行止めになるまでだから……、今まで二レーンで発券されたのは七枚で、その七枚目の一連番号が〇四九番だよ。さすがにETCレーンだけあって発券枚数は少ないな。今月はまだこれだけだ」

「盛田さん、脅かしっこなしですよ。正直この霧は不気味です……。その七枚目、〇四九に間違いありませんか? やはりおかしいですね。発券機に残っている通行券の一連番号は、〇五〇番からですから残券も合致しています。と言うことは、一連番号から見てもこの券、まったくの別物になりますね。どういうことでしょうか?」

 浅井は、回収した通行券を指で弾いた。

「そんなバカな。発券機から出てきたものではないと言うのか? だったら、どこから来たというのだ」

 静まり返ったレーンに、盛田の声が響いた。

「一旦引き揚げます」と言った浅井が電飾を揺らし、管理事務所に駆け込んできたのはそれから間もなくのことだった。

「なあ浅井、冗談です、なんて言うのではないだろうな」

「実は……、なんてないですよ。これを見てください。でも、こんなことって絶対あり得ませんよね。誰かのいたずらではないでしょうか?」

 浅井は、回収してきた通行券を取り出した。

 その通行券には、車種、流入インター、年月日、発券機番号、一連番号、車番下二桁の入口情報がきちんと印字されていた。

 いつも目にする見慣れた通行券である。

 ただし、あることを除いては……。

「車種が二ということは大型車だな。当然だが流入インターはここだ。車番は、下二桁が五五、発券は二レーンの三八四八枚目。この一連番号はでたらめだな。あそこはETCレーンだからこんなに通行券を発券するはずはない。それにこの日時がばかげている。お前の言う通り、誰かのいたずらかも知れないな」

 盛田は、首をかしげた。

「逆に本物だとしたらずいぶんと古い通行券ですよ。流入時間が一九九八年四月一〇日、二一時三〇分、ちょうど、一五年前ということは、まだETCがなかったはずです。だったらこの一連番号もあり得る話ですけどね」

「でも無理があるな。やっぱりこれはいたずらに決まりだろう。それにしても、わざわざ手打ちしたのかな?」

 盛田は、納得いかない表情で通行券を机に置いた。

「強行突破のアラームは誤作動にしても、この通行券は黒ですよ。こんな手の込んだことをするのは……、いま休憩している連中の仕業かも知れません。特にあの三人、長尾、太田、広瀬、あいつらならやりそうです」

 顔をしかめた浅井は、念のためと言って携帯のカメラに収め、謎の通行券を事務机の引き出しに入れた。

 この怪しげな通行券の処理に迷ったあげく、ただのいたずらかも知れないという期待と、説明し難い煩わしさから、二人の間に沈黙が続いた。


 管理事務所の中には、盛田と浅井以外誰もいない。

 その他の収受員たちは、食堂や休憩室でたむろしているからだ。

 二人は白一色のモニター画面を無言で見つめていたが、そのうちしびれを切らした浅井が口を開いた。

「一五年前と言えばコスモスラインで到着係をしていたころですよ。盛田さんが所沢支店で俺は埼玉支店、そしてあの三人が厚木、小田原、高崎支店だったかな。よく仕事を休んでゴルフに出かけましたよね。憶えていますか?」

 モニターから視線を外した浅井は、盛田の顔を覗きこんだ。

「憶えているさ。CLか、昨日のことのようだ。芝刈りの後といえば、いつも居酒屋に直行だったっけ。こうなったのもきっと、不摂生ばかりしていたつけが回ったのだろうよ。ところであの走り屋たち、見かけないけどどうしているのだろう。摩耶急送の守川さんは引退したから良いとして、東寺運輸の伊藤さんや兵庫に出向していた水戸陸運の二人、なんとも懐かしくなってきたよ」

 盛田は椅子の背もたれを倒し、天井を見上げた。

「懐かしいという言葉が出るということは、結構思い出したのですね。盛田さんは急に辞めることになったから知らないままなのか……。そう言う自分も埼玉絡みのことしか知りませんけど、やはり心筋梗塞で一年間も入院していたのですから仕方ないですよ。今ではこうして社会復帰できたのだからよしとしましょう」

 浅井は、笑みを浮かべた。

「何をまとめてやがる。それで、みんなのこと知っているのか? 気になるだろうが」

 盛田の眉間に、小じわが寄った。

「やっと盛田さんらしくなりましたね。確かに一台だけ、明石から埼玉定期を組んでいた水戸陸運がいましたが、いきなり足立物流に代わってしまいました。聞いたところによると、事業縮小だとか言っていたようです。急にどうしたものか、一年弱で兵庫事業所を引き払い、北関東に戻ったらしいですよ。あそこは硬派な会社ですから立ち入ったことなど聞けないし、噂話をする奴もいなくて、そんな訳ではっきりとしたことが答えらず、すみません」

 浅井は、軽く頭を下げた。

「水戸陸運は、それほどおっかない会社ではないはずだが? お前が知らないのなら長尾や太田が知っているはずもないか。広瀬だったら……、いや、やっぱり無理かな。近いうちCL所沢支店でも訪ねてみようか。入院中、運行管理者だった加藤さん宛てに手紙は送ったのだけど、結局あのことがあって以来、行きそびれたままだ」

 盛田は、椅子の背もたれを起こした。

「今ではCLも様変わりしたでしょうね。盛田さん、CLに出向く前にお願いがあります。じつは先ほど不可解な通行券を見た瞬間思ったのですが、あくまで本物だとしたらですけど……、あの入口情報からして何となくですが、路線トラックではないかと思います。逆にいたずらだとしても、犯人はそのことを意識していたのでは……。あっ、すみません。そんなことより盛田さんの記憶の中に走り屋たちの、いえ、風切りびとの中央道伝説は蘇りましたか? よろしければぜひ聞かせてください。ずっと待っていました。今までみたいに憶えてないなんて言わず、お願いします」

 椅子から立ち上がりかけた盛田の腕を、浅井が素早く握りしめた。

「懐かしい響きだよな。中央道の風を切って走る風切りびとね……。まあ成り行きとはいえ、路線トラックなんか持ち出して、無理やりこの話題に誘導したってわけか。お前らしいよ、まいったな。それと記憶のことだが、リセットされたのは本当だ。しかし心筋梗塞ではなく脳梗塞だよ。こっちの方が記憶には厄介者らしいけど、たいした後遺症もなく復帰できたみたいで運が良かったのだろう。おい浅井、手が痛いから放してくれ」

 盛田は、力任せに握りしめている浅井の手を解いた。

「すみません。つい力んでしまいました。盛田さんは以前とまったく変わりませんよ。逆に冴えてきたくらいです」

「よく言うよ。最近になって少しずつ回路が繋がるようになってきたのは確かだが……。そうだな、いつか話そうと思っていたことだし、今日は久々にゆっくりできそうだから、精一杯記憶を辿ってみるとするか。その当時、本田や他の運行者たちから聞いた話は、細部まで憶えているつもりだし、何とかなりそうな気もしてきたよ。とりあえずやってみるから聞いてくれ。それと、佐藤という高速隊員が警察を辞めてから発表した手記に、中央道伝説についての詳しい記録が書き綴ってあったから、それも利用させてもらうよ」

 盛田は、思いを巡らすように目を閉じた。

「お願いします。せっかくだからみんな起こしてこようかな」

 唯一のリスナーである浅井は目を輝かせた。

「いいよ。そのうち起きてくるだろう。まず初めに、しょっちゅう出てくるトラックだが、グレートが三菱自動車、810がイスズ自動車、UDは日産自動車、最後がプロフィアで日野自動車だ。それと、タコメーターは知っているだろ。速度などの運行状況を常時記録する円形のグラフ用紙が入った速度計だ。それでは、CL明石支店にいたドライバーのことから語らせてもらおうか。浅井も知っている通り、本田についてだ。多少重複するかも知れないが、あいつのことを抜きに風切りびとの中央道伝説は語れないからな」


 一五年以上も前にあったとされる走り屋たちの伝説を、盛田は甦らせようとしている。

「大型トラックがスピードリミッターに縛られる以前、二〇〇以上の速度で高速道路を移動する走り屋たちがいた。前輪二軸、後輪一軸の路線トラックに乗り、夜の中央道を舞台に、二時間以内の最速記録をかけながら儚いバトルを繰り広げていた。他のドライバーに迷惑をかけることなく、常に先頭で風を切り続けて走る彼らは、いつしか風切りびとと呼ばれるようになった。

 一九九六年一一月十九日のこと。

 真夜中の中央自動車道上り線は、この日も快晴だった。

 一三三キロポストといえば、長坂の緩やかな下り勾配の果てに待ち構えている須玉の最終コーナーだ。

 そこに一筋のさらりとした風が流れた。その風は、誘うために吹いてきたような感覚だった、と本田が言っていた。さらに摩耶急送の守川さんは、『伝説はいつも、須玉の最終コーナーから始まる』とも教えてくれた。それだけこのカーブは、手強いってことだろう。 だが残念なことに、おれはこの日休みだった。誰かさんと一緒にお出かけしていたからだ。あとになって本田と守川さんに、このときの出来事を二回も聞いたからよく覚えている」

 盛田は、浅井に目を向けた。

「盛田さん、それってゴルフでしょ。誰かさんと言うのは、間違いなく俺しかいませんね」

 苦笑いをしている浅井の横で、盛田おれの語りがついに始まった――。


 長坂の下り勾配、レーダーの危ない視線をくぐり抜けた辺りで、白い光が息をひそめ、プロフィアのサイドミラーに入ってきた。

 張り付かれることなく消えてしまうほどの十分な距離を見定め、誰にも負けたことのない自信をスピードに乗せ、本田はいつものごとくフルスロットルで駆け下りてきた。

 中央道の癖を知り尽くし、速く走るための極意も身に付けたトラックドライバーの本田が、須玉の最終コーナー手前で、二〇〇オーバーから一八〇まで減速したときだった。

 ミラーの中で白い光が輝きを増すと同時に、高回転モーターのような鋭い過給機音が、遥か後方から風に乗って一気に近づいてきた。

 まるで誘いかけているかのようなその風は、プロフィアごと本田を包み込んだ。

 次の瞬間、白いキャビンのグレートが、プロフィアの右横を段違いのスピードですり抜け、滑らかなハンドリングで須玉の最終コーナーを曲がって行った。

 さらりとした風に撫でられたプロフィアの車体も、いつになく安定した状態で最終コーナーから立ち上がることができた。

 このとき、白いグレートの眩しすぎる走りが、本田の心に深く染み込んでしまった。

 本田が乗っている日野自動車製のプロフィアには、排気量一七〇〇〇CC、L‐6ターボ七速、四八〇馬力、最大トルク二六〇キロ以上という動力が搭載され、路線便業界で使用されているトラックのディーゼルエンジンとしては、極めて高性能な部類に入るものだった。

 その上このプロフィアには、高速走行に合わせた専用のミッションとデフが備わっており、本田は今まで中央道最速の路線トラックだと自負していた。

 しかし白いキャビンのグレートが、その思いを一瞬のうちに根こそぎさらって行った。

 それは本田にとって何より衝撃的な出会いになった。

 夜の中央道を常にフルスロットルで駆け抜ける本田は、今までプロフィアのサイドミラーに入ってきた追走車の光を全て暗闇の中に置き去りにしてきた。

 たまに飛ばし屋のスポーツカーやその筋のベンツが、短時間だけ勢いづいては自然消滅するくらいで、とりわけ同業者に抜かれることなど全くなかった。

 まして須玉の最終コーナーが、死亡事故の多発する別名〝魔の左カーブ〟だと知っているドライバーなら、無理することなく大人しく曲がっていた。

 負けた事などなかった本田は、置き去りにされた瞬間、何かに取りつかれたようにアクセルを踏み込むだけだった。

 新幹線の通過駅で感じるような横殴りの風圧が、痛みのないさっぱりとした敗北感になって本田に伝わってきた。

 前を走る謎のドライバーは、透き通ったクールさと微妙な親しみをテールランプの奥でちらつかせ、必死に張り付いてくる本田に対し、落ち着いた走りを見せつけた。

 秋色の葡萄畑が広がる甲府の街を、フルスピードの二台は駆け抜けた。

 このとき双葉サービスエリアの高台では、山梨県警高速隊の覆面パトカーが待機していた。

 だが本線を監視しているはずの二人の隊員は、どうしたものか何の行動もとらなかった。

 笹子トンネルから相模湖まで続くテクニカルコースでも、前走車の白いグレートは鮮やかな走りを披露してくれた。

 二〇〇を超える速度で八王子ゲート二キロバックの表示板を通過したとき、つかず離れず先行していた白いグレートのテールランプは、本田の視界から遠く離れてしまった。

 目立ちにくい小さな白文字で、二条○○と書かれた前輪二軸、後輪一軸の一〇トンアルミバントラック。

 二条の後ろに続く文字は小さい上に暗すぎて良く見えなかったが、ナンバープレートの九四‐五一だけは鮮明に確認することができた。

 一一月一九日の午前一時二〇分、「いつか必ず切ってやる」と本田はつぶやきながら、路線トラックがひしめく八王子ゲートをくぐり抜けた。

 石川パーキングを過ぎても二条○○九四‐五一のことが抜けきらない本田は、首都高速へ向かう車列からはじき出されるように、国立府中インターの減速車線に流れ込んだ。

 国道二〇号線を少しだけ走り、府中街道に進路を変えてひたすら北上を続ければ、目的地となる所沢市内には四〇分ほどでたどり着く。明石を出発してから約六時間の道のりだ。本田は週二回のペースで、このルートを往復していた――。


 浅井一人しかいなかったところへ、途中から収受員仲間がもう一人加わっていた。いつの間にかそこにいた、というほうが正しいかもしれない。

「小室じゃないか。そんなところに立ってないで椅子にでも座って聞くといいさ。盛田さんの中央道伝説は、なかなかお勧めだぞ。まだ始まったばかりだ。さあさあ」

 浅井は、近くの椅子を引き寄せた。

「ありがとうございます。自分もその手の話には興味がありました。すみません、少し前、トラックが通過しませんでしたか? そう見えたのですが……」

 小室は、自信なさそうに言った。

「おいおい、脅かすなよ。通行止めなのにトラックだなんてあり得ないだろ。確かにブザーは鳴ったけど誤作動だよ」

 浅井は、笑って見せた。

「すですよね。すみません、変な事言ってしまって……。遠くからだったので錯覚でしょう。盛田さん、よろしくお願いします」

 小室は軽く頭を下げ、モニター画面の前に置かれた椅子に座った。

「錯覚か……、おもしろい奴だな。小室、最初に断っておくが、これはあくまで一五年以上前の物語だし、おれたちだけが知っている前職絡みのローカルな内容だ。『お勧めだ』などと、誰かさんが勝手なことを言っているけど、期待外れになるかもしれない。ただそうは言っても、せっかくだから小室にも分かってもらいたいので、少しだけ説明させてもらうよ。浅井は聞き流してくれ。

 テレビコマーシャルで流れているから知っていると思うが、これから出てくるCLとはコスモスラインの略で、全国展開している路線大手の物流会社だ。その中の一つ、所沢支店というのが表舞台だと思ってくれ。ここは、関越自動車道所沢インターに近い畑の中にポツンとあり、広大な敷地には大型トラックが上下移動できる地下一階、地上二階建ての馬鹿でかい倉庫造りだ。

 全国のCL各支店から、雑貨荷物を積んだトラックが絶え間なく到着する物流ターミナルになっている。構内には給油設備、食堂、風呂、仮眠室、寮などが揃い、協力会社にも広く開放され、数あるCLターミナルの中でもこの所沢支店は、気楽で親しみやすい雰囲気が特徴だった。

 二七歳になる本田宗次は、二一歳で大型免許を取得、その後コスモスラインの社名に憧れCL明石支店に入社して六年目の運行ドライバーだ。最初の二年間は東名専門の横浜定期を走っていたが、あとで所沢定期に組み替えてもらい四年が経つ。仕事の内容はといえば、明石と所沢の支店間を足掛け三日で移動する運行形態を取っていた。

 いつも一七時になるころ明石支店に出勤し、三時間以上かけて所沢向けの荷物を積込み、集荷が終わる二一時前後に明石を出発する。名神から中央道経由で走り、六時間後には所沢支店の到着ホームで荷卸しを終え、夕方まで仮眠を取る。そこから逆の流れで進めば、次の朝には明石で仕事が終わり、その日と次の日が休みというもので、一般の人たちとは生活のリズムがまったく反対と言ったところだ。

 それと白い光という表現だが、これは単にヘッドライトのことだよ。今でこそ白く光るヘッドライトが主流になっているけど、当時はまだ珍しく、なんとも幻想的に映ったものだ。ドキッとするくらい異様に青白く、それだけ眩しい光だったということだ。トラック業界では、三菱グレートの新型が最初にこのヘッドライトを採用したと聞いたことがある。こんなものかな……」

 小室にもタコグラフやトラックの車種などの細かな説明を済ませ、徐々に調子づいたおれは、このまま続けた――。


 午前二時を回ったころ、CL所沢支店のプラットホームに明石出発のプロフィアが入ってきた。

 この日も所沢支店の到着ホームには、当然ながら神戸支店発送の荷物が先着していた。

 本田は神戸発の便に追いつこうと、いつも必死にアクセルを踏み込んでいるが、四〇キロという距離の壁はなかなか越えられるものではなかった。

 そのことが分かっていてもアクセルを緩めようとしないため、タコグラフに描かれるのはコンパスで引いたような一本線が常だったが、今夜はその図形が微かに乱れてしまった。

 ホームへ上がってきた本田は、荷下ろしに取りかかった。

「おはよう、相変わらず早いじゃないか。おまえ専用の近道でもあるみたいだ」

 声をかけてきたのは、CL神戸支店の協力会に所属している摩耶急送の守川である。すでに荷下ろしを済ませた彼は、着替えの詰まったバッグを持って、食堂に向かう途中でのことだった。

 三〇年近くこの世界に浸っている守川の走りは、五〇歳間近の今でも最高の水準を保っている。フェアな運転に徹しながら、〝風のようにさりげなく〟を旗印に、神戸と所沢の間を五時間ちょっとで走るというプロドライバー集団を率いていた。

 さらっとしたその走りには嫌みがなく、切れとマナーの良さが光り、基本的に独走を好んでいる本田も、守川に影響され時折連なることもあった。常に先頭で風を切って走っている彼らは、いつのころからか風切りびとと呼ばれるようになり、夜の高速、特に中央道では名の知れた存在になっていた。

「守川さんに追いつこうと踏み込んでみたのですが、どうにも……」

 荷下ろし中の本田は、手を止めることなく言った。

「冗談だろ。ここで追いついたじゃないか。早すぎるくらいだ」

「守川さん、今から食堂でしょ? 終ったらすぐに行きます。今日は少しだけ話が……」

「ほう、どうせ新記録でも達成した自慢話だな。何でもいいから早く済ますことだ。向こうで待っているよ」

 守川は、バッグを抱えて立ち去った。

 本田は、フォークリフトを呼んでパレットを二枚引いた。

 伝票重量八トン、実重量四トンの荷下ろしは間もなく終わった。

 プロフィアを駐車場に移動した本田は、守川のいる食堂へ向かった。

 食堂はこの時間まだ準備中だが、常に開放されているので、仕事を終えた運行者たちのたまり場になっている。

 守川を見つけた本田は、自販機のコーヒーを持ってテーブルに着いた。

 そこにはいつものように先客が座っていた。東寺運輸の伊藤だ。

 伊藤はCL京都支店の協力会に所属し、京都と所沢の定期を一〇年以上続けている。

 伊藤も守川に影響を受けた風切りびとの一人で、やはり中央道の魅力に取りつかれた根っからの走り屋である。

 コーヒーを飲んでいる伊藤が、本田を見るなり口を開いた。

「よう、お疲れ。今日は一段と早いようだが、右足は痛くないか。たまには力を抜いたらどうだ」

 作り笑顔の伊藤は、皮肉たっぷりに声をかけてきた。

 直線、下り坂、カーブ、どんな場面でもお構いなしに攻め続けていてはアクセルを踏む右足に負担がかかるし、何より危ないだろうと注意を促している。

 実のところ本田は、〝見通しのきかないコーナーでは減速〟という言葉を持ち合わせておらず、ただひたすら加速することだけに神経を集中させていた。

 そんな本田に対して戒めるつもりの伊藤は、どうしてもこのような挨拶をしてしまう。

「安全運転指導者ですから! それより、今日は須玉でやられてしまいました」

 本田も笑顔で返し、白い光に追い越されたときのことを淡々とした口調で語りはじめた。

「長坂を二〇〇オーバーで下りてきて、須玉の最終コーナー手前で一八〇まで落としたときです。高回転モーターのような過給機音が、さらりとした風に乗って聞こえてきたと思ったら、何かに包まれたように一瞬だけ静かになりました。

 そこからです。

 サイドミラーの中で遥か後ろにいたはずの白い光が、猛烈な速さで迫り、そのスピードのまま安定したハンドルさばきで、最終コーナーを抜けていきました。たぶん、二五〇以上は出ていたはずです。要するに負けました。完敗です」

「負けて悔しくないのか? 白い光に、さらりとした風が二五〇キロ以上だと。いったいどういうことだ」

 笑みの消えた伊藤は、コーヒーカップを置いた。

「白い光に気付いたときには、さらりとした風に包みこまれていました。すぐ近くで誰かが、『さあ一緒に走ろう』と囁いているような。そう、別次元の世界から誘ってきたと言うか、不思議な感覚でした。それも優しく……。だからあれは、さらりとしたさそい風ですよ」

 本田は、ようやくコーヒーに口をつけた。

「凄腕のさそい風とやらに吹かれたってことか。もう一つ、分かり辛いな。その相手というのは乗用車か? それとも四トン車なのか」

「二条○○という白いグレートで、プレートが九四‐五一の路線用前輪二軸、後輪一軸車です」

 いきなり現れた大型トラックが、本田以上の鋭い走りをしたという事実は、伊藤にも新鮮な衝撃を与えた。

「風切りびとの中でも断トツのおまえが、同業者に切られたということなのか。あのカーブで……。その二条○○九四‐五一、聞いたことがないけど、何者だ?」

 伊藤は、首を傾げた。

「最終コーナーを抜けてからフルスロットルで追いかけたけど、八王子の手前で視界から消えました。何度も言いますが、包み込まれているような、誘われているような、不思議な気分でした。差を詰めることなど全く出来ませんし、後ろの様子を窺いつつ、余裕で走っているようにも見えました。このトラックは、おれも初めてです。分かっていることは今のところそれだけです。でも、いつか必ず切ってみせますよ。さらりとね」

 本田は、早口でまくしたてた。

「そんなにいきり立つな。あのプロフィアでさえ敵わないのだから仕方ないさ。人間、諦めが……」

 ここで伊藤の発言は、守川に遮られた。

 本田と伊藤の会話に突然割り込んできた守川は、プレートナンバーが九四‐五一だと聞いた途端真顔になっていた。

「どうやら、事故で逝った中央道の神様に憑かれたのかも知れないな。そのうち道連れにされておまえもあの世行きだ。さそい風だか何だか知らないが、中央道の風を軽く見ると呑まれるぞ。いいか本田、F1ドライバーでさえ風圧をコントロールできずに散ってしまうのが現実だろう。風は切るもの、呑まれたらおしまいだ。いい気になっているようだから言っておくが、そのことを忘れるな! もう一度言う。どのような風であれ、中央道の風などすべて魔風だ」

 守川は、紙コップを握りつぶした。

 飲みかけのコーヒーが、床に散らばった。

 守川の一言は、本田の心に染み渡った。

 それは、常に死と隣り合わせの危うさを背負ったトラックドライバーの現実を思い起こさせ、夜の中央道を激しく吹き抜ける魔風に油断していたことをあらためて自覚させるものだった。

 しかし、須玉に吹いたあの風だけは魔風などではなく新たな目標になり得る特別な風だと、本田は身勝手な風切りびととしての考えを押し通した。

 今まで中央道の神様伝説を淡い噂話程度に聞いていた本田は、その考えをこれからも変えるつもりはなかった。本田にとって二条○○九四‐五一とそのドライバーにまつわることよりも、段違いに速いトラックと一緒に葡萄色の街で風になれたこと、純粋にそれだけで良かったし、それ以上のものは何も思い浮かばなかった。

 あの風だけは、危険で魅力的な風、魔風ではないと何度も念押しするほど、さらりとした風、さそい風を意識していた。いずれにせよ本田の心は、優しく包みこんでくれるさそい風とやらに吹きさらされていた。

「うらやましいねー。真の走り屋の前にしか現れない白い光、中央道の女神様と走った感想は?」

 伊藤は、守川に指摘され黙り込んでいる本田にジョークを飛ばしてきた。

「最高の気分でした……。伊藤さん、中央道の神様は女性だと言うことですか?」

 本田の表情が和らいだ。

「真面目なやつだな。冗談だよ。雰囲気的に男性より女性の方がいいだろう。それだけだ。気にするな」

 伊藤は、その場を和ませるように笑いでごまかした。

「あいつは女神なんかじゃない。厄介な魔性の車番。九四‐五一に憑いているのは疫病神だ。本田、そんな得体の知れない風を切って走るより、帰りは俺たちと一緒に走らないか?」

 守川は、ため息まじりに誘ってきた。

「たしか、守川さんは……」

 本田は、そこまで言って止めた。

 そして、「二〇〇オーバーのフルスロットルで良ければ!」と言い換え、窮屈そうな笑顔を返した。

「無理だな。お前のプロフィアには敵わんよ。何事も程々に!」

 そう言ったまま、守川は黙りこんだ。

 二条○○九四‐五一の走りに通用しなかったことを平気で並べ立てる本田に対し守川は、中央道の神様と呼ばれるドライバーが、いかに愚かで儚いものなのかを気付かせようとした。

 本田はその忠告を受け入れようとしたが素直になれず、守川のことについて、何かを言いかけたところで急にためらった。

 伊藤は、二人のやり取りを黙って見つめているだけだった。

 三人はしらけ顔のまま、早めの朝食を済ませ、シャワーの後、それぞれの仮眠室に引き揚げた。

 本田が使用している仮眠室のエアコンは、送風ドラムに問題がるようで、周期的に起こる異音に悩まされたあげく、浅い眠りを夕方まで引きずった。

 そのせいなのか何の因果なのか分からないが、本田は熊のぬいぐるみが魔除けになるという夢を何度も見てしまった。


 一七時二〇分を過ぎたころ、CL所沢支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。

 給油を済ませた本田が、明石の番線に入ってきた。

 神戸と京都の番線には、守川と伊藤のトラックがすでに並んでいた。

 二人は共にイスズ自動車製の810に乗っており、L‐6ターボ七速、四二〇馬力という仕様まで同じだった。

 プラットホームの上では運行者たちが集まり、ミーティングが始まろうとしていた。

「ご苦労様です。まずは陸運局からの通達です。最近スピード超過による事故件数が急増していることから、路線連盟による運行記録の抜き打ち調査が実施されるそうです。皆さんはタコグラフの取扱いに慣れていると思いますが、くれぐれも入れ忘れの無いようお願いします。今日は新規に獲得した荷主の集荷が遅れ気味で、関西方面に時間指定の集荷物が出そうだとの連絡が入りました。そのため出発時間が遅くなる番線もあります。出発予定時刻は、とりあえず二〇時三〇分です。以上!」

 所沢支店運行管理者の加藤は、手短にミーティングを終わらせた。

 運行記録の抜き打ち調査というのは、大型車による重大事故を減らすためスピード超過だけでなく、過酷な労働環境の改善を目的とした陸運局による前向きな取り組みである。

 だが、これはあくまでキャンペーン期間だけの年間行事に過ぎず、通達を受けた路線連盟としても、本気で取り締まる気などさらさらなかった。

 そのことを知っている運行者たちは、加藤の話を上の空で聞き流すだけだった。

「おーい伊藤、本田、食堂に行くか」

 守川は、眠たそうな声で誘った。

 いつもならおれも加わるところだが、今日はたまたま休みでいなかった――。


 三人の夕食風景は朝の一件があったせいか、普段より口数の少ない静かなものになった。しっくりこなかったのだろう。

 その後、二時間以上をかけての積込み作業が始まった。

 パレットに載った荷物以外すべて手積み手下ろしが、雑貨荷役の現実である。

 どこの店所に於いても積荷は缶類や袋物が二割、ケース物が七割、残りの一割が長尺物というくらいの割合だった。パレット物は全体の三割程度といった具合で、すべてが不揃いな荷物ばかりである。

 古株の運行者たちでさえ積込みに手間取ることもあったが、日々集まって来る荷物を手慣れたクロスワードパズルのように気持ち良く収めていく場合もざらだった。

 二〇時を過ぎるころになると、どのトラックの荷室も見慣れた荷物で満たされた。

『今流れているケース物が最終荷物です』加藤の声が流れた。

 構内放送を境にホームの上が慌しくなった。

 追込み作業を始めた運行者と早く家に帰ろうとする集配者、それに発送と到着の業務員たちがめまぐるしく動き回り、卸売市場のような光景に様変わりした。

 気の早い運行者たちがアイドリングを始めるなか、守川と伊藤も早々と観音ドアを閉めて出発体制を整えた。しかし明石の番線、本田だけは加藤に制止されてしまった。

 二〇時三〇分、所沢支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。

 守川と伊藤が乗る二台の810も軽めのクラクションを残し、プラットホームを離れて行った。

 本来なら一緒に出発するはずの本田は、ホーム上で左手を上げ笑顔で見送った。

 トラックドライバーの挨拶は右手ではなく、シフトチェンジをする左手で交わすのが流儀だった。

 本田が残ることになったのは追加荷物の持ち込みを待ってのことで、半年に一度あるかないかの突発的なものだ。本田は、嫌な顔などせず快く引き受けた。

 伝票重量八トン、実重量四トンの荷物を背負った明石便だけが、観音ドアを開けてプラットホームに繋がれていた。

 一人になった本田は、温もりのない運転席に籠った。ルームミラーには、寂しげな自分の顔が映っていた。

 二一時一〇分、明石市内に七時配達という時間指定付き小荷物二ケースが持ち込まれた。

 本田は観音ドアを閉め、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。

 同時に最高速度二五〇キロの怪物が、鋭い唸り声を上げた。プロフィアから吐き出される乾いた排気音が、所沢支店の構内に小気味よく響き渡った。

 追加荷物の伝票を手にした加藤が駆け寄ってきた。

「本田、遅くまで待たせて悪かったな。気を付けて……。これブラックだけど」

 加藤は、伝票と一緒に缶コーヒーを差し出した。

「ありがとうございます。これくらいなら余裕であの二人に追いつきますよ」

 本田は、笑顔で受け取った。

「朝の六時くらいまでに着いてくれればいいから、無理はするなよ。分かっているだろうが安全運転で!」

 走る口実ができた本田は、申し訳なさそうにしている加藤に左手を上げた。

 本田がプラットホームを離れかけたとき、早くも深谷支店からの到着便が入ってきた。

 その光景を横目に気合の入ったプロフィアのヘッドライトが、構内出口のカーブミラーにきらりと反射していた。


 オレンジ色に染まった府中街道をひたすら南下した。

 本田は、国立府中インターから中央道下り線に合流した。

 追い越し車線を走り始めたプロフィアの周りには、今夜も路線の走り屋たちが一つ二つと集まってきた。

 二一時五〇分、長距離トラックがひしめく八王子ゲートをくぐった本田は力強い加速を始めた。

 プロフィアの四八〇馬力は伊達ではなかった。軽く踏み込むだけで、後ろに張り付く二流の走り屋たちを簡単にサイドミラーの暗闇へ押し込んだ。

 大月ジャンクションを過ぎて始まる坂道を軽く駆け上がった本田は、笹子トンネル内を二〇〇オーバーの速度で走り続けた。

 加藤からの忠告などすでに忘れ守川と伊藤の軌跡を一心にたどりはじめたとき、トンネル中央付近で圧縮空気のような風圧が伝わってきた。それと連動したようにサイドミラーの中で白い光が浮び上がり、瞬く間に張り付かれてしまった。

 これが噂に聞いた『真の走り屋の前にしか現れない白い光、中央道の神様』かも知れない、という期待が本田の頭をよぎった。

 しかし中央道の神様なら、もったいぶって後ろに張り付くことなく追い越して行くだろうし、昨夜の白いグレート二条○○九四‐五一が仮に中央道の神様だったとしても、ヘッドライトの光軸が違っているように映った。

 本田は、最終的に別ものだと見きった。

 それより張り付かれて走るのは久々のことで、突然遭遇した後続車とのバトルの可能性を思い描いては、にやけた顔をルームミラーに浮かばせた。


 不気味なプレッシャーで押してくる白い光の正体がトラックだということ以外、どこの誰なのかは見当もつかなかった。

 普段であれば後ろに付かれても、軽く踏み込むだけですぐに引き離すところだが、今夜のトラックはどこまでも食い下がってきた。

 しかし先行する本田も、まだ十分な余裕を残しながら自信に満ちていた。

 勝沼インター付近に伸びるなだらかな坂道を、フルスロットルのプロフィアと白い光が一つになって駆け下りてきた。

 秋色の葡萄畑が広がる甲府の街に、さらりとした風が渦を巻いて吹き抜けた。

 その様子を静かに見守る者たちがいた。

 山梨県警高速隊の現役隊員、佐藤と鈴木だった。

「なあ鈴木、今夜も葡萄色の街を風切りびとが駆け抜けて行くぞ」

 佐藤は、双眼鏡を置いた。

「風きりびとには違いなさそうだが……、白い光が気になるな」

 双眼鏡を手にした鈴木がつぶやいた。

「新たな中央道伝説に発展するかも知れないな。手出しは無用だろ」

 佐藤は車外に出た。

「あぁ、何があっても自己責任だと腹をくくってのことだろうし、乱暴なことをしない限りなるべく関わるのはよそう」

 鈴木も車外に出て背伸びをした。

「そうだよな。警察におれたちみたいなやつがいても問題ないだろう」

 頭痛気味の佐藤は、頭に手を当てた。

「どうした佐藤、知恵熱でも出たのか?」

 鈴木は、笑いながら言った。

 二人は双眼鏡を片手に、双葉サービスエリアの高台から本線を見下ろしていた。

 この二人、取り締まる側にいるにもかかわらず、なぜか路線トラックの速度超過については静観するだけだった。

 後に佐藤は、風切りびとの中央道伝説という手記を発表することになる。

 須玉インターから先の上り坂も、小渕沢インターを過ぎて始まる下り坂も、伊北インター付近に伸びる直線も、激走を続ける本田の後ろに白い光はぴたりと張り付いてきた。

 飯田インターを二〇〇オーバーで走り抜け、阿智パーキングもその勢いで通過しようとしたときだった。

 山肌の樹木を無理やり撫で下ろすような風、魔風が吹き抜け、風にあおられたプロフィアの速度は一瞬鈍った。

 しかし、原因は風のせいなどではなかった。

 七速に入れてあったギアが抵抗もなくするりと抜けたことにあった。

 エンジンが一気に吹き上がり、阿智の谷間に空の過給機音を響かせてしまった。

 ゆっくりとスローダウンしていく視界の中で、二六〇キロポストの表示板が本田の目に絡みついた。

 シフトチェンジに手間取ったプロフィアのスピードは、みるみるうちに一五〇まで急落し、張り付いていた白い光はいつの間にかサイドミラーの中から消えていた。

 本田は、坂の途中で抜けた七速ギアを一つ飛ばして五速に入れ直し素早くアクセルを踏み込んだ。プロフィアの過給機が唸りを上げ、再び力強い加速をはじめたときだった。

 左サイドミラーが一瞬光った。

 それは消えたはずの白い光が、一番左にある登坂車線を駆け上がってきたからだ。

 再加速を始めたプロフィアの左側に並び掛け、いとも簡単に追い越して行った。

 その正体こそ笹子トンネルの中で一瞬頭をよぎったあの二条○○九四‐五一だった。

 高性能なはずのプロフィアに圧倒的な差を見せつけ、登坂車線を矢のように駆け上がっていく白いグレートは、なぜか突然網掛トンネルの手前で急ブレーキを掛け、すぐ脇にある短い非常駐車帯へと鮮やかな滑り込みで急停車した。

 この九四‐五一が取った行動は何とも不可解で、何かのメッセージを含んでいるかのような振る舞いだった。

 どちらかと言えば、九四‐五一を完全に抑え込んだ走りでもなく、その気になればいつでも追い越しができたはずなのに、笹子トンネルからここまで大人しく張り付いてきた。単に様子を窺っていたとか、連なって走りたかったという訳でもなかった。

 結局網掛トンネルの手前で九四‐五一が突然停まった理由について、追い抜きざまに考えるにはまったく時間不足だった。

 サイドミラーの中で小さくなっていく白い光から、透き通ったクールさと微妙な親しみが本田の元に伝わってきた。

 それは須玉の最終コーナーで出会ったときと同じ、さらりとしたさそい風の感覚だった。

 二人は今夜も顔を合わせることなく、平行のすれ違いで終わった。

 本田は、「いつか必ず切ってやる」と残し、過去と未来を繋ぐという噂の網掛トンネルに吸い込まれて行った――。


「やっぱり風切りびとって、何とも言えない響きですよね。かっこいいなぁ。今でもいるのですか?」

 監視モニターから視線を外した小室は、盛田の顔を見つめた。

「スピードリミッターの装着と同時に、夜の高速道路から消えてしまったからもういないよ。たまにリミッターを解除して走る者がいるみたいだけど、卑怯なドライバーから車番を通報されておしまいだ。結局行き場を失った風切りびとの多くは、ドライバー稼業から離れてしまったと聞いた。中には四トン車に鞍替えした者もいるらしいが、それもごく僅かだろう。やはり四トン車では安定も悪く、どうにも物足りないのかな……。どっちにしてもいつ死ぬか分からないという危うい商売だから、かっこいいものではないよ」

 盛田は、ため息まじりに言った。

「盛田さん、本田が意識していたさそい風というのは何となく分かるのですが、山肌の樹木を無理やり撫で下ろすような強風、魔風っていったい何ですかね」

 そう言った浅井も、モニター画面から視線をはずした。

「中央道の風、それが魔風さ。おれも後で知ったことだが、心地よく吹き抜ける危険で魅力的な風だよ。この風を切って走る者こそ真の走り屋、風きりびとと言うそうだ。

 ただし、優しく包みこんでくれるさらりとした風、さそい風だって中央道の風に変わりはないはずさ。信じる者は救われるとよく言うけど、本田はこの風に撫でられた瞬間、魔風との違いを感じ取ったのだろう。そして九四‐五一の走りに心底魅せられた。

 そんな状態でさそい風を切ると言ったが、ただの強がりだったかも知れないな……。ところで浅井、さそい風のこと、本当に分かったのか?」

 モニター画面をちらりと見た盛田は、浅井の顔を覗きこんだ。

「すみません。風の話は奥深くてまだまだです。ついでにもう一ついいですか? 本田が、『確か守川さんには……』と言いかけて止めましたが、何を言うつもりだったのでしょうか」

 浅井は、バツが悪そうな顔で盛田を見た。

「あれは守川さんにつきまとう噂話だが、あの場で言っちゃおしまいだよ。本田のやつ、良く言いとどめたものだ。また後から出てくるからその時までお預けだな。二人とも納得できたようだから、後半に移ろうか」

 笑みを浮かべた盛田は、伝説の続きを語り始めた――。


 一九九六年一一月二二日、午前三時〇〇分。

 CL所沢支店のプラットホームに、明石発のプロフィアが入ってきた。

 いつになく強風が吹き抜けるなか、手際よく観音ドアが開けられ、その流れでバックを終えた。

 ホームに上がってきた本田が、近くにいる夜勤者に声を掛けた。

 その夜勤者というのはおれのことだよ――。

「盛田さん、おはようございます。この前は見かけませんでしたが、またあれですか?」

「おはよう。急に休んで悪かったな。埼玉支店の浅井くんと千葉で芝刈りだよ」

 当時、おれは所沢支店で到着主任をしていた。

 ゴルフだけが唯一の趣味で、有休をとっては関東各地のゴルフ場へ出かけたものだった。

 総体的に千葉方面でのプレイが多かった。

 おれと本田は親子ほどの開きがあったからなのか、妙に気心の知れた仲になっていた――。

「守川さんも伊藤さんも、相変わらず早いですね。どうせ食堂でしょう?」

 本田は、慣れた手つきで荷下ろしを始めた。

「あの二人ならたぶん駐車場にいるよ。まだこっちに来ないところを見ると、トラックの掃除でもしているのだろう。今日は風が強いから、いくら掃除しても埃まみれになるって言うのに、運行者もご苦労だな。あとで洗車場を覗いてみるといいよ」

 伝票整理をしていたおれは、確かそのように言った――。

 本田は、空車になったプロフィアを駐車場まで移動した。

 アイドリング音が聞こえて来る方向には、運転席に灯りの点いたトラックがあった。

 守川のトラックだ。

 810の助手席には伊藤の姿もあった。

 何やら伊藤は身振り手振りで熱弁している。

 仮眠室で寝たくないときや食堂のメニューが進まないときは、シャワーを済ませ、コンビニ弁当とお茶を持ってトラックのキャビンに籠ることも珍しくなかった。

「早く乗りこめ、埃が舞い込むだろうが。あれこそ神様ですよ! 疫病神には思えませんし、本田より絶対に速いと思います」

 伊藤は、助手席に座っていた。

 その伊藤をベッドに押しやるように本田が乗り込むと、おはよう代わりの荒々しい言葉で二人が出迎えてくれた。

「あぁ、そうかも知れないな。でも、あの車番には魔性が具わっている。だから速い。くだらない話だ」

 守川も言い張った。

「魔性……、もしかして白いグレート九四‐五一ですか? むちゃくちゃ速かったでしょう」

 口を挟んだ本田は、なぜ魔性の車番なのかを聴き出そうとしたが、守川から返事は帰ってこなかった。

 このとき守川と伊藤は、九四‐五一が神様か疫病神かについての議論に夢中だった。

 本田は、二人の会話を黙って聞くことにした。

 二人によると、二台連なって長坂を下り、須玉の最終コーナー手前で二〇〇オーバーのスピードから一八〇まで減速した。サイドミラーに飛び込んできた白い光には目もくれず、魔の左カーブに差し掛かったとき、さらりとした風とともに遥か後ろにいたはずの白い光が、あっという間に追い越して行ったと言うのだ。

 反対車線に飛び出しそうな勢いで軽く抜き去ったのは、前輪二軸、後輪一軸の路線トラック、白いグレート、あの九四‐五一だったそうだ。

 一瞬だが、誘いかけられているような感覚もあったらしい。

 ただし、二条の後ろに続く文字は確認できずじまいとのことだ。

「あの白い光、さそい風だか何だか知りませんが、切れますかね?」

 伊藤は、守川と本田を見ながら言った。

「おれは切ってみせますよ。いつか必ず」

 本田はつぶやいた。

「さあ、今のおまえに切れるかな。いくら先頭で風を切って走っていても、心に迷いがあるうちは無理だと思うがね。吹かれて、呑まれて、しまいだ」

 守川は、真顔になっていた。

 いずれにしても九四‐五一の走りは神様の領域かと思えるほど見事なもので、魅せられた二人は夢中になってテールランプを追いかけたとのことだ。

 しかし、小仏トンネルを過ぎるころには遥か前方に消えてしまったのだと言う。

 多くの走り屋たちから目標にされてきた守川、伊藤、本田の中央道伝説が、魔性の車番九四‐五一の出現で敢え無くくすみ始めた。そのことに気付いた三人は、虚しさをかき消すように熱い語りを朝まで続けた。

「九四‐五一、この正体不明の走り屋こそ中央道の神様に登録!」などと、三人で適当に決めたりもした。

 食堂で朝食を済ませ、それぞれの仮眠室に入ったのは、七時を過ぎてからだった。

 眠りに付いた本田は、熊のぬいぐるみが魔除けになるという夢をまた見てしまった。

 それからなかなか寝付けず、いろいろなことを考えているうちに時間だけが過ぎた。

 九四‐五一が網掛トンネル東口で取った行動は、何かのメッセージだったのでは、との思いから始まり、正体が何であろうと目標にする相手ができたことに喜びを感じる、といった堂々巡りを夕方まで続けた。


 一七時二〇分、CL所沢支店のプラットホームに運行車両が並び始めた。

 給油を済ませた守川、伊藤、本田の三人も関西ブースに入ってきた。

 すべての番線にトラックが並び終えたころ、ホームの中央では運行者ミーティングが始まった。

「一七時現在、各高速道路から規制や事故の情報は入っておりません。穏やかに流れているようです。各自安全運行に努めてください。出発予定時刻は二〇時三〇分です。以上!」

 運行管理者の加藤は、普段より短めのミーティングを終わらせた。

「晩飯にでも行こう!」

 おれは、守川、伊藤、本田の三人に声を掛けた――。

 四人揃っていつものように食堂へと向かい、一八時過ぎに食事を終えた。

 雑談が済んだあと三人は、それぞれの番線に引き揚げ、荷物の積込みに取りかかった。

 二〇時を回るころになると、半日かけて集荷された荷物の積込みは仕上げの段階に入った。

『今流れている書類コンテナが最終です』加藤の声が流れた。

 構内放送を境にホームの上は別世界へと変わる。

 慌ただしく動き回る運行者と集配者、それに昼と夜の業務員たちが険しい顔で入り乱れ、卸売市場のように活気づく。

 積込みを終えた気の早い運行者がフライング的なアイドリングを始めると、構内に溜まったディーゼル色の霞が、たばこの煙のように染みついてきた。

 出発準備が整った本田は、運行伝票を持って運転席に乗り込み、グローランプが消えるのを待ってセルを回した。

 少しだけ前進させ、観音ドアの扉を閉めた。

 明石向けに発送される積荷は伝票重量八トン、実重量四トンで、普段と変わらず走りやすそうな重量になっている。

 本田にとって、まさに理想の重量範囲だった。

 二〇時三〇分、CL所沢支店のプラットホームから次々に運行車両が離れていく。

 守川、伊藤、本田の三人も、挨拶代りのクラクションを軽く叩いて出発して行った。

 府中街道を南へ走った三台は、国立府中インターから中央道の下り線へと合流した。

 石川パーキングを過ぎた三台の前に、長距離トラックがひしめく中央道下り線の赤いスタートラインが見えてきた。

 二一時一〇分、八王子ゲートを横並びでくぐった三人は、記録更新でも始めたかのように力強い加速で立ち上がった。

 先頭を走る守川は何か特別な思いがあるようで、いつになく積極的な走りを見せている。

 最後尾の本田が、携帯電話の発信ボタンを押した。

「伊藤さん、魔性の車番について教えてもらえませんか? 守川さんには聞き辛くて」

「その件についてはおれもよく知らないが、守川さんにしてみれば、よほど嫌な思い出でもあったのだろう。そのうち聞いてみるよ。まあ、おれたちの走りは今まで通りで行こうや」

「分かりました。風のようにさりげなく、ですね。守川さん、速度上げましたよ」

 二人は、慌てて会話を終わらせた。

 大月ジャンクションを過ぎて始まる上り坂で、先頭の守川が急加速を始めた。後ろに張り付く伊藤と本田は、守川の走りに本気で付き合った。

 このときの守川は、自分たちが守ってきた走りのスタイルを再確認しているかのようだった、と本田が言っていた――。


 二台の810とプロフィアは、笹子トンネルをフルスロットルで走り抜けた。

 嫌みのない三人の走りには、いつものさっぱり感がみなぎっていた。

 秋色の葡萄畑が広がる甲府の街に、三台が残したフェアな風が吹き抜けた。

「なあ鈴木、何ともすっきりした走りをしているぞ」

 佐藤は、双眼鏡を鈴木に渡した。

「そうだな。風切りびとは葡萄色の街にお似合いだ」

 鈴木は、双眼鏡を手にした。

 双葉サービスエリアの高台に停車している覆面パトカーには、山梨県警高速隊の佐藤と鈴木が乗っていたが、二人は今夜も静観しているだけだった。

 中央道標高最高地点を過ぎた下り坂で三台のスピードは更に上昇し、高回転になった過給機音が諏訪の夜空に鋭く響いた。

 二〇〇を超えた速度で走り続ける守川を先頭に、伊藤と本田も等間隔で張り付いている。

 守川の携帯に着信音が響いたのは、諏訪インターを通過したときだった。

「守川さん、先に帰ってください。買い物があるのでここに寄ります。それと、魔性の車番についていろんな噂があるようですが、案外本当だったりして?」

 本田は軽いパッシングの後、諏訪湖サービスエリアの減速車線に流れた。

「くだらん……。ただの噂だ。何だか知らないがそこで寝るなよ。延着するなよ」

 ハザードを一度だけ点けた守川の携帯に、すぐ後ろを走る伊藤から着信があった。

「本田のやつ、どうしたのですか。いきなりパッシングして来ましたけど」

「買い物だとさ。こんな時に電話してくるのだから気の迷いか?」

「どうせ、夜食目当ての思い付きでしょう」

 止まることなど想定していなかった810の二台は、アクセルを緩めることなくあっという間に走り去った。

 駐車場に入ってきた本田は、スペースが両側空いている枠線にプロフィアを停めて売店へと向かった。

『どうやら、事故で逝った中央道の神様に憑かれたのかも知れないな。そのうち道連れにされておまえもあの世行きだ。さそい風だか何だか知らないが、中央道の風を軽く見ると呑まれるぞ。いいか本田、F1ドライバーでさえ風圧をコントロールできずに散ってしまうのが現実だろう。風は切るもの、呑まれたらおしまいだ。いい気になっているようだから言っておくが、そのことを忘れるな! もう一度言う。どのような風であれ中央道の風などすべて魔風だ』

 守川からの指摘だった。

 あれからずっと本田の耳に残っていた。

 仮眠室で見た熊のぬいぐるみの夢も追い打ちをかけた。

 本田は、思い切った行動に出た。

 最初はばかばかしいと思ったが、何度も同じ夢を見ているうち、そのことが無性に気になりはじめたからだ。

 結局思い悩んだ末、高速道路の売店には不似合の〝魔除けの熊〟と書いてある熊のぬいぐるみを買ってしまった。

 後悔はレジから離れた後でやって来た。

 七色揃っているうちの定番色のこげ茶色を選んだが、夢で見たのは小振りなシロクマだった。

「やっぱり違ったかな。んー、違うな」などと、本田はぬいぐるみを見つめながらため息をついた。

 買ったばかりの熊のぬいぐるみをプロフィアの助手席に座らせ、飛び出さないようシートベルトで固定してドアを閉めた。

 助手席に陣取る熊のぬいぐるみは、魔除けの熊と言うだけあって、愛嬌のある表情で睨みを利かせているようだった。

 本田が運転席に乗り込もうとしたとき、さらりとした風が絡みつくように吹き抜けた。

 本田は、「あの風だ」とつぶやいた。

 気付けば白いキャビンのグレートが、プロフィアの右横に停車しており、その助手席からは鋭い視線が放たれている。

 助手席にいたのは、先ほど売店で買った物にそっくりでこげ茶色をした熊のぬいぐるみだった。ぬいぐるみから放たれる不思議な力に引き寄せられ、本田は白いグレートを念入りに見つめた。

 水銀灯が路線用の三軸車両をぼんやりと照らしている。

 よく見てみると、目立ちにくい〝二条倉庫〟という文字が青白く浮かび上がってきた。

 本田は一瞬にして熱くなった。

 今まで識別できなかった二条○○は、二条倉庫だったのだとこのとき確信した。同時に、前回の運行で抱いた九四‐五一への疑問を解決するチャンスだとも考えた。

 それにも増して中央道の神様の正体が見たくなり、ゆっくり運転席へと目を流し始めた。

 ドライバーの素顔を意識しているせいか、本田の鼓動はいつになく乱れている。

 運転席に座っているドライバーの顔を少しだけ覗き見するだけなのに、なぜか満天の星を見上げ、澄み切った夜空に深呼吸までするほどだった。

 本田は肩の力を抜いて体をひねり、ぎこちない仕草で再び運転席に目を向けた。

 意外な光景が、飛び込んできた。

 白いグレートの運転席に座っていたのは若い女性で、おまけにいきなり視線を合わせてしまった。その瞬間、須玉の最終コーナーであっさり抜かれた記憶が重くのしかかってきた。

 女性ドライバーを軽視しているのではないが、負けたことを素直に受け入れようとしないもう一人の自分がいた。

 本田は挫折感にさいなまれながら、複雑な思いでナンバープレートまで視線を下げた。

 初めて負けた相手、九四‐五一だと勝手に思っていた車両には、全く別の一九‐六〇という数字が並んでいた。その配列が目に入った途端安心したのか、胸に支えていたシコリが取れ、もう一人の自分も早々と姿を消した。

 本田は、星空を見上げ再び深呼吸をした。

 輝き具合の違う星々を複雑な想いで眺め、あまりに単純だったと、またしてもため息をついた。

 どう見ても二条倉庫一九‐六〇は、九四‐五一と同じ会社の車両に間違いなさそうだった。

 本田は熊のぬいぐるみのことも気になったが、一番気になっている九四‐五一のことをドライバーに直接確かめてみようと、勇気を出して白いグレートの運転席側に歩み寄った。


「あのー、すみません。少しだけいいですか? これを見てもらいたいのですが……」

 先に声をかけてきたのは女性ドライバーの方で、しなやかさと鋭さに加え、謎めいた雰囲気もあった。

 女性ドライバーは、一枚の写真を手渡してきた。

 それはA4サイズ程の大きさだった。

 ただ、暗い駐車場ではどうにも見辛かった。

「は、はい。いいですけど……」

 慌てた本田は、「少し暗すぎませんか」と売店の方を見渡した。

 霧ヶ峰から吹き下りてくる冷たい北風を避けるため、明るい場所に行きましょうといって売店の中まで誘導した。

 売店に入ると女性ドライバーは、「この人に見覚えはありませんか」と、落ち着かない様子で写真を指さした。

 そのしぐさと指さす方向に本田は目を奪われた。

 そこには同世代と思われる一人の男性が、白いグレートの前に立っていた。

 本田は写真を引き寄せ、じっくりと見直した。

 写っている男性の顔に見覚えはなかったが、その後ろにあるグレートのナンバープレートが鮮明に映えている。

 九四‐五一、中央道の神様の車番だった。守川が言うところの魔性の車番が、写真の白いグレートに掛かっていた。

 本田は、最近自分たちが体験した九四‐五一絡みの詳細を、女性ドライバーに打ち明けた。

「このトラックなら月曜と火曜の夜中に見かけました。それと昨日の夜中も……。あまりの速さに中央道の神様だという噂が広まっています。その人だったかどうか分かりませんが、月曜の夜は追い越された須玉から八王子まで、火曜の夜は笹子トンネルから網掛トンネルまで一緒でした。昨日の夜は、仲間たちが須玉の最終コーナーで派手に追い越されたそうです。まったく次元が違い過ぎます。おれたちの完敗です。あっ、すみません。そんなことより本田宗次と言います。CL明石支店から所沢までの定期を走っています」

 本田の鼓動は一段と早くなった。

「こちらこそすみません。いきなりのことで驚かれたでしょう。私は川野あゆみです。写っているのは今年三〇歳になる二つ違いの兄です。白河に拠点がある倉庫会社、二条倉庫でドライバーの仕事をしています。私もそこのドライバーです。東京と京都にも倉庫があるので福島と東京、そして京都までの自社定期を主体に運行をしているのですが、二週間前から兄と連絡が取れなくなりました。それで探していたのです。まさかそんなことになっていたとは、まったく知りませんでした。兄がご迷惑をおかけしたのではありませんか?」

 川野は微笑みかけた。

「いいえ、あの人の走りこそ自分が目指していた理想です。いつか必ず追いつき、そして……、一緒に走りたいと思っています」

 本田は、とっさに言葉を濁した。

「うちの兄はそんなに速くありませんよ。わたしに比べたらまだまだです」

 微笑む川野は、「冗談ですよ」と言って本田に視線を合わせた。

「えっ?」

 戸惑いを隠すように、本田は笑った。

「あっ、一つだけいいですか。火曜の夜、網掛トンネルの東側で、川野さんの兄さんのグレートが急停車してしまいました。突然だったので止まりきれずそのまま離れてしまったのですが、伝えたいことがあったのではないかとずっと気になって……」

 本田も川野を見つめた。

「後で連絡してみます。繋がるといいのだけど……。何か分かったら電話を掛けますので、よろしければ本田さんの携帯番号を教えてもらえませんか? 私の番号は〇〇です。せっかくですからコーヒーでも飲みましょう。本田さん、ブラックでいいですか?」

 話を変えた川野は、なぜか目を逸らした。

 自販機にコインを入れようと川野が伸ばした手を遮り、本田が差し出した二人分のコインが自販機に流れ込んだ。

 本田はコーヒーを待つ間、勝手な空想に浸っていた。

 もしかすると九四‐五一ではなく、一九‐六〇に乗る女性ドライバーの方が本当の神様かも知れない。

 ドライブテクニックについても別格なのかも知れない、などと短時間のうちに想像をめぐらせた。

 いずれにせよ二条倉庫の二人が、当面の目標であることに変わりないと思ったところでコーヒーができあがった。

 川野と会話を続ける本田は、厄介な事態に展開して行きそうな気配を感じながら、謎めいた川野と夢中になって話しを続けた。

 本田は、心が染められ始めていることに気付いてもいなかった。

 薄めのブラックを飲んだ後、二人は駐車場へと引き上げた。

 川野に尋ねるつもりだった熊のぬいぐるみのことは、プロフィアに乗り込んでから思い出した。

 魔性の車番九四‐五一が取った奇妙な行動の次に気になっていたことだが、今さら降りて聞く訳にもいかず、仕方なくセカンドギアにクラッチを繋いだ。

「さあ一緒に走りましょう!」

 助手席の窓を開き、川野が誘ってきた。

 再スタートを切った本田のすぐ後ろに、二条倉庫一九‐六〇の川野が続いた。

 二人は、長野県内のテクニカルコースで目の覚めるようなレースを始めた。

 息の合った二台は、二車線ある本線上を踊るように駆け抜けた。

 ぴたりと張り付いてくる一九‐六〇の川野から、魔性の車番九四‐五一以上に鋭いプレッシャーが本田の背中に伝わってきた。同時に何処からとも無く吹いて来るさらりとしたさそい風も、フルスロットルで走る本田の背中を押し続けた。

 本田と川野が演じた束の間のレースは、阿智パーキングを通過したとき呆気なく終わった。

 七速で走っていたプロフィアのミッションが、どういう訳か今日も抜けてしまった。

 エンジンの回転数が瞬間的に跳ね上がり、阿智の谷間に空の過給機音を響かせた。

 シフトチェンジに手間取ったプロフィアの速度は、瞬く間に一五〇まで下がった。

 またしても二六〇キロポストの出来事に、本田は得体の知れない不気味さを感じた。

 それまで後ろに張り付いていた二条倉庫一九‐六〇のヘッドライトは、いつの間にかプロフィアのサイドミラーから消えていた。

 中央道の神様九四‐五一のように、左後方の登坂車線から追い抜いてくることもなく、手前にある阿智パーキングの減速車線に入ったようにも見えなかった。

 本田は、いなくなった川野を強く意識していることに気付くと同時に、強制的に気持ちを切り替えようともした。

 明石の車庫で、ミッションとデフのオイル交換を決意しながら、過去と未来を繋ぐという噂の網掛トンネルに吸い込まれて行った――。


「これはあくまでおれの考えだが、このときすでに本田は後戻りできない領域へ踏み込んでいたのだろう。本人はそれを知っていたのか知らなかったのか、今となっては何ともいえないが……。初めの伝説はここで終わりだ。少しばかり休憩するか」

 背伸びした盛田は、浅井の肩を軽く叩きながら席を立った。

「何者ですかね? 川野あゆみ。九四‐五一の兄より本当に速かったりして……。魅力的な女性ドライバーのようだし、会ってみたくなりました」

 浅井は頬を緩ませた。

「おい、後ろにいるぞ!」

 盛田の言葉に反応した浅井は、すぐに振り向いた。

「盛田さん、勘弁してくださいよ。びっくりするじゃないですか」

「浅井、そんなに川野の顔を拝みたいのなら今夜あたり、端っこのブースにでも入って待ち構えていたらどうだ。『さあ一緒に走りましょう!』なんて、霧の中から聞こえて来そうだ」

 薄ら笑いを浮かべる盛田の横で、小室がいきなり拍手を始めた。

「二条倉庫の川野兄妹……。風とともに現れ、風とともに去っていく。神様なのかそれとも疫病神なのか、続きが楽しみですね」

 小室はモニター画面に向き直った。

 霧に包まれた八王子本線料金所、風切りびとたちを振り返る中央道伝説は始まったばかりである――。 



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