八
「どういう事だ……?」
楸は戸惑っていた。思考の欠片が独り言となって口からこぼれ落ちる。その事にさえ気付かずに、彼はまた深く物思いに沈んでいく。
どうにも理解できない事があった。
(何故、砦を攻めてこなくなった? 確かに一度は迎え撃った我が軍から痛手を受けて散ったが、すぐにまた戻ってくるだろうと思っていた。しかし陣を張り直す様子すら見られないとは……。姿を潜めてこちらの隙を窺っているのか? かと思えば、砦から遠い山中で移動中の我が軍とぶつかったという。あんな所で何を? どうにも行動が、思惑が読めぬ。)
「姫、貴女の狙いは何だ?」
そう呟いた時、部屋の外の小姓が彼に来客を告げた。
「兄上。失礼します。」
憂いを帯びた表情さえ麗しい娘。紫苑が戦国一、二を争う美姫と謳われるのは、彼女に会った人間なら誰しも認めることだろう。身内の贔屓目ではない。楸は妹を見てぼんやりと考えた。
一、二を争う……そう、並び称されていた。隣国の翡翠姫と共に。
「戦況は思わしくありませんの?」
「ああ、少し疲れた。」
こんな世でなかったら、歳の近い二人の美女はどんな出会い方をしていたのだろう。戦乱の世でなかったなら……いや、
「兄上……藜兄上がいらしたなら、な。」
楸の口からほとんど無意識にこぼれた言葉は、紫苑には聞き取られることなく消えた。
「兄上ってば、またそんな怖い顔をなさって。」
姫は心配そうに、兄の顔を覗き込んだ。美姫と謳われる紫苑の兄である楸も、美青年と言って差し支えない整った容貌をしている。しかしその表情には心労による陰が色濃く刻まれていた。その為に以前の彼が持っていた若々しさと爽やかさが失われてしまったように思えて、紫苑は胸を痛めていた。
「私、悔しいです。兄上の力になりたいなどと言いながら、何もお役に立てずにいる。」
泣きそうに歯を食いしばる妹に、楸は微笑みかけた。
「いいんだよ。いつかも言ったように、お前は何もしなくていいんだ。ただ、そこにいてくれるだけでいい。私とお前は、今はたった二人の兄妹なのだから。」
そう言った後、楸は不意に顔を曇らせた。
「いや、これは間違った判断だったのかもしれないな。」
「何をおっしゃるのです?」
驚いて聞き返す紫苑。彼女の鋭い視線が己を刺すのを感じながら、楸は顔を上げずに呟く。
「こんな事になる前に、お前を逃がしておけばよかった。何処か良い所に嫁にやるなり、方法はあったのだから。そうすればこの国がどうなろうとも、お前は……」
「嫌です、そんなの! 私はもう何処へも、余所へ嫁になど参りません!」
楸の言葉を遮る紫苑の叫び声は震えていた。
「このような時に逃げることなど出来るとお思いですか! 私はとうに覚悟を決めております。この国と、兄上と命運を共にすると。逃げるなど、武家に生まれた者の恥です!」
「しかしお前は女子だぞ、戦わせる訳にはゆかぬ。」
「私が望んで女子に生まれた訳ではございません! この身が兄上の負担になるくらいなら、男子として共に刀を取り、戦いたかった……!」
「紫苑! 無理を言うな!」
楸は叫ぶと同時に立ち上がった。そのいつになく激しい勢いと、思った以上に悲痛な面持ちに、紫苑は思わず言葉を失った。
「俺だって、お前のような『弟』が支えてくれればどれだけ心強いか分からない。しかしそれは叶わぬ事なのだ。……お前を戦わせる訳にはゆかぬ。俺にこれ以上、最も守るべき家族を喪えと言うのか!」
暫しの間、誰も何も言えなかった。庭木の枝を揺らす風の音だけがいやに大きく聞こえる。紫苑は兄に縋るように腰を浮かせたまま、楸は妹を見つめ立ち尽くしたまま、時が止まったように動かなかった。紫苑の背後に控える侍女までも空気に呑まれてしまったように、二人の兄妹の中には互いしか存在しなかった。
「……それでも、」
紫苑はやっとの思いで口を開く。切れ切れに、これだけ言うのが精一杯だった。
「それでも、私は、兄上と共におります。ここに、いさせてください。」
「……勝手にしろ。」
吐き捨てるように言って、楸の背が襖の向こうに消える。ぴしゃりと閉ざされる音と同時に、紫苑は膝から床に崩れ落ちた。
「紫苑様!」
侍女が駆け寄る。紫苑は細かく肩を震わせ、泣いていた。
「私は、やはり間違っているのかしら。兄上の力になれないばかりか、足手まといになっている……それは自分でも分かっているわ。兄を想うなら、兄上の言う通りにここを離れた方が良いのかも知れない。けれど、今更何処へ? 私は、どうすればいいの?」
終わりの見えないこんな問答を、心の中で何度繰り返したか分からない。しかし自分以外の人物がいる前で、言葉にしたのは初めてだった。なんとしても出口を見付けたい……その思いに突き動かされるように、紫苑は初めて思いの丈をそこにいた侍女に打ち明けた。助けを求めていた。
「ねえ木葉、あなたなら分かってくれる? 兄と呼ぶ人のいる、あなたなら。それとも、あなたから見ても、私がここにいたいと望むのは、ただの我が儘かしら。」
「紫苑様……。」
木葉は考え込むように俯く。しばらくの沈黙の後、彼女は首を強く横に振った。
「私にも兄がおります。誰にも告げず、密かにお慕いする殿方もおります。だから、紫苑様のお気持ちも分かるつもりです。それが我が儘だとおっしゃるなら、私の思いも同じです。」
「そう……」
「しかし私には、私を姉と呼んでくれる子たちもおりますから、紫苑様のお気持ちも楸様のお気持ちも同じくらい分かる気がするのです。大切な存在が、傍らで自分を支えてくれるのは嬉しいものですわ。ですが傍らにいるということは、自分が守らねばならぬ……自分の傍らにいる為に傷付けたくはない。きっと楸様のお心も揺れていらっしゃることと存じます。」
紫苑は少し驚いたように木葉を見つめていた。全てを教えて欲しいと言ったあの日以降、兄は戦況や情勢、それに対する自らの考えと策を紫苑に伝えるようになった。しかし、それはあくまで一国の若殿としての考えのみで、彼女の兄・楸という一個人としての思いを聞いたことがなかったのだ。木葉の憶測という形ではあるが、兄の思いの片鱗を垣間見ることができたように思えて、紫苑は少し嬉しかった。
「兄上……そうならそうと、素直に私に言ってくだされば良いのに。私とて、己の身くらい守れますわ。」
口の中で呟いてみる。先ほど溢れた涙は何処へやら、笑いすら込み上げてきそうだった。
「兄上も辛いのなら、私が泣いてなどいられないわね。ありがとう木葉、話を聞いてくれて。これでいつも楽になるのよ。」
「紫苑様のお役に立ちますのなら、いくらでもお話伺いますわ。私はその為にお仕えしているのですから。」
主人の表情が晴れたのを見て、木葉の顔にも笑みがこぼれる。紫苑は照れたようにくすりと笑いつつ、自室へ戻ろうと歩き出した。
「いつも私が話すばかりではなく、今度は木葉のお話も聞かせて頂戴。そうね……あなたの想い人の話でも。」
笑いながら囁く紫苑に、木葉は狼狽した。
「えっ、紫苑様、そんな話お聞きになりたいのですか?」
「ええ知りたいわ。私だって女子だもの、色恋の話は好きよ。それにしても、近頃何かと思い悩んでいるようだと思っていたら、そういう事だったのね。」
「いえ、あの、別にそれだけという訳では……」
恥ずかしそうに顔を赤らめ、言い訳するようにもごもごと言葉は口の中で消えていく。そんな木葉に、紫苑は楽しそうに追い討ちを掛けた。
「お相手が気になるわね。ねえ、他の皆ともそういう話はするの? 大勢で話した方が楽しいわ。侍女たちを集めて、皆でお喋りしましょうよ。」
「やめてくださいっ!」