七
盆の上に置かれたふたつの湯飲みに茶を注ぎ、朱雀は台所へと声を掛けた。
「木葉姉さん、お茶にしましょう。」
「ありがとう、いただくわ。」
手を拭いて土間から上がってきた木葉は、笑顔で答えて湯呑を受け取る。
「手伝ってくれてありがとう。せっかく帰って来たのにゆっくりできないね、ごめんなさい。」
「いいのよ。嫌いじゃないもの、こういうの。」
木葉は笑って言い、茶を一口すすった。彼女は今日、一泊だけ休みを貰って里帰りしていた。彼女自身はやはり固辞したのだが、紫苑姫が約束を破ることなど出来ないと押し通したのだ。そして姫は予定より時期が遅れたことと期間が短くなったことをしきりに詫び、よく休んで来るようにと繰り返した。しかしゆっくりしてはいられないと休みを頑として一日しか取らなかったのは木葉自身であり、帰っても何かと家の用を手伝って動き回っている。もともと休んでいられない性分なのだ。
木葉は可愛い『妹』の頭をぽんぽんと撫でる。
「いつも一人で頑張って、えらいえらい。それに、ああやって仕事しながらの方が朱雀ちゃんとたくさん喋れるでしょ? この家には今日一日しかいられないんだから。」
よく働き、疲れた様子を全く見せずに笑顔を振り撒く木葉を、朱雀は羨望の眼差しで見つめた。
「忙しいのね。わたしなんかじゃ、お城に上がってもとてもやっていけっこないわ。」
「普段はそんなじゃないわよ。今は特別……大変な時だから。本当は、こんなふうにお休みを頂くのだって出来ない事なのに。紫苑様は……」
溜め息ばかりの木葉を見て、朱雀は思わず微笑んだ。
「優しい人なのね、紫苑姫様って。」
(木葉姉さんってば、こうでもしなきゃ倒れるまで働きかねないんだもの。お姫様にも分かっていらっしゃるのかも。)
朱雀の言葉に、木葉も微笑んで頷く。
「ええ。お優しくて、お美しくて、そしてとてもお強い方よ。憧れるわ。私もあんな風になれたらなぁ。」
木葉は紫苑の姿を思い浮かべた。自らに仕える者たち、それ以外の民もすべてをあたたかい想いで包み込みたいと願う麗しき姫君。美しいのはその貌だけではない、その心以上に美しく清いものはないと木葉は思っていた。豊かな想いをその胸に抱く主の、笑顔も涙も全部知っている木葉。彼女にとって紫苑姫は憧れであり、誇りなのだ。
「ねえ、朱雀ちゃんには憧れの人はいるの?」
「え? うーん、そうね……木葉姉さんみたいに、お淑やかで、お仕事もできて、みんなに優しい『姉さん』になれたらいいな、って思うわ。」
「やあだ、もう。照れるじゃない。」
純粋な目で自分を見つめる朱雀の褒め言葉に、木葉は頬を染めて笑った。
「じゃあ、違う意味での『憧れの人』だったら、どう?」
「違う意味?」
「憧れの殿方はいないの? 朱雀ちゃんももう年頃でしょ、意中の方くらいいるんじゃないかと思って。」
先程の頬を赤らめて照れ笑いしていた表情とは全く違う、悪戯っ子のような笑顔を見せる木葉。今度は朱雀の顔がみるみる赤くなる番だった。
「な……何を言うのよ木葉姉さん! いないわ、そんな人!」
否定した声が裏返っている。木葉は声を立てて笑った。
「昔から本当に嘘つくの下手なんだから。やっぱり、いるのね。相手は誰? 教えてよ。」
「い、嫌よ!」
嫌がるということは「意中の人がいる」ことを認めたも同然なのだが、動揺している朱雀はそれに気付いていない。
「素直に言ってごらんなさい。大丈夫よ、絶対に内緒にするから。」
「……絶対によ?」
木葉は力強く頷いてみせ、朱雀はしぶしぶその耳元に口を寄せる。その時だった。
突然がらりと襖が開き、朱雀は悲鳴を上げた。咄嗟に近くにあった座布団を取り上げて顔をうずめる。耳を押さえた木葉はそのまま頭を抱えてうずくまった。そんな二人の様子に、襖を開けた張本人は驚いて立ち竦んだ。
「どうした? 何があったんだ?」
あっけにとられた様子の玄武が尋ねるも、二人とも反応がない。ややあって、木葉が身を起こしながら弱々しく呟いた。
「い……痛かった……。」
「ご、ごめんなさい姉さん! 大丈夫!?」
「平気よ、気にしないで。」
慌てて顔を上げた朱雀に微笑んでみせる木葉。玄武は訝しげに首をひねっていたが、ふと何かに気付いた。
「朱雀、お前顔がちょっと赤くないか?」
そう言って彼女の顔を覗き込むので、朱雀は跳び上がってまた座布団に顔を隠してしまった。
「な、何でもないわ!」
「ひょっとして風邪じゃないか? 熱でもあるんじゃ……」
「大丈夫よ! 大丈夫だから!」
玄武に顔を見られまいと朱雀は逃げ回る。小さく縮こまってしまった彼女を背に庇うようにして、木葉が助け舟を出した。
「ところで、どうしたの兄さん? 何か用あったんでしょ?」
「あ、ああ。ちょっと茶でもと思ってな。」
「それなら私が淹れますから、兄さんはお仕事をお続けくださいませ。奥の間に持って行けばいいかしら?」
言いながら木葉は立ち上がると、玄武を居間から追い出すようにぐいぐいと肩を押し始めた。訳が分からぬ玄武は抵抗するが、彼女はにこやかに微笑みを浮かべたまま有無を言わさず彼を襖の向こうまで押し戻した。
「何なんだ?」
「お気になさらず。お茶、すぐにお持ちしますから。」
ぴしゃりと襖を閉める。その音に、朱雀はやっと顔を上げた。耳まで真っ赤に染めた妹に木葉は優しく微笑んだ。
「好きなのね、玄武兄さんの事。」
赤い顔のまま俯いた朱雀は、肯定も否定もせずただぽつりと呟いた。
「本当には、自分でもよく分からないの。それに、たとえわたしが兄さんを好きになっても、兄さんはわたしを何とも思ってないわ。ただ、『妹みたいな存在』だから面倒を見ないといけない、って……。」
木葉は黙って朱雀の隣に座る。そんな事ない、なんて言えなかった。彼女が何を言おうと、また玄武自身の言葉でさえ思い悩む少女には気休めとしか思えないだろう。
「ねえ、木葉姉さん。ひとつ聞いていい?」
「ええ。なあに?」
真剣な表情の朱雀に、精一杯優しく応えることしか木葉には出来なかった。
「朱雀って……わたしの名前って、もとは玄武兄さんの実の妹さんの名前だって聞いたの。その朱雀さんがどんな人なのか、姉さん知ってる?」
その問いに、木葉はしばらく考えてから曖昧に頷いた。
「兄さんに聞いた話だけで、会った事もないのだけれど……。朱雀姉さんは玄武兄さんの年子の妹さんで、十年くらい前に亡くなったらしいわ。兄さんはもうこの家で私達と暮らしていた時で、その話はあまりしたがらなかったから詳しくは知らないの。きっと、とても大切な妹さんだから、その方の死にとても傷付いたのでしょうね。」
「大切な、妹……。」
「あなたがこの家に来て、あなたにその名をあげると言った時が、久し振りに兄さんの口から朱雀という名を聞いた時よ。兄さん言ってたの。『あの子は、朱雀の幼い頃にそっくりだ』って。」
朱雀は、しばらく口を開かなかった。
「……そうよね。」
「朱雀ちゃん」
「いいの! 分かってたもの。兄さんにとってわたしは、実の妹と同じなの。それで大切にしてくれてるだけ。もしわたしが何かを望んだとしても、兄さんはわたしに同じ想いを抱くことはない。」
朱雀は深く俯き、その肩を細かく震わせた。
「分かってたのに……。」
勝気な少女の口から、たった一度だけ小さな嗚咽が漏れた。それ以外の音は何もない。静寂が、思い悩む二人を包む。
そんな静寂を打ち破ったのは、朱雀自身だった。
「でも結局、わたしにだって兄さんは『兄さん』なのよ。大好きだけど、これは恋じゃない。」
わざとらしいほど明るく言うと、彼女は木葉に悪戯っぽく笑いかけた。
「恋がどんなものかってことくらい、わたしにだって分かるわ。木葉姉さんを見てればね。」
急に矛先が向いて、木葉は狼狽した。
「な、何のことよ?」
「とぼけちゃって。わたしだって色々と知っているのよ。」
朱雀は木葉の耳元に口を寄せ、囁いた。
「……さんのこと、好きなんでしょ。」
その名を聞いた途端、木葉の頬は見る見るうちに赤く染まった。
「やだ、どうして知ってるの?」
「きっかけや理由があるわけじゃなくて、ただ何となく気付いたの。姉さんの視線や、表情や、口調で。その人といる時や、その人を想っている時、姉さんの何もかもがとっても優しくなるの。」
朱雀の言葉に、木葉は呻いた。秘めていた筈の想いが表れてしまっていたことが喩えようもなく恥ずかしい。
「想いを伝えようって気持ちはないの?」
妹の問いに、彼女は力なくかぶりを振った。
「駄目よ、そんなこと。きっと色恋沙汰など迷惑でしょうし、相手が私ではなおさらよ。」
「そうかしら。迷惑なんてことないと思うわ、だってあの人も、……」
何かを言いかけて、朱雀は不意に言葉を切った。全て言ってしまってはつまらないような気がしたからだ。
(あの人も、木葉姉さんを想う顔はいつもよりいっそう優しいもの。……なんて、わたしが言うことじゃないもんね。)
「やっぱり、言うのやめた。」
「ええ? 気になるじゃない。何を言おうとしたの?」
「教えてあげない。」
朱雀は楽しそうにくすくす笑った。
「片想い同士、頑張りましょ。」
冗談まじりの口調に木葉はぷっと吹き出した。
「そうね、お互いにね。」