六
光のほとんど射し込まない、暗い室内。装飾は立派ではあるのだが、物寂しい雰囲気が満ちている。
そんな所にうら若い娘が一人でいるのは、なんだかとても不釣合いな景色だった。
娘は一人、物思いに耽っているようだった。美しく整った顔に長く豊かな髪が影を落とし、切れ長の目には暗い光が宿っている。どこか不健康なようにさえ見える、抜けるように白い肌。彼女は脇息に寄り掛かったまま溜息をひとつ吐くと、身を起こして肩から滑り落ちた打掛を緩慢な動作で直す。
ふと、何かの気配に気付いて顔を上げた。
「翡翠様。」
自分の名を呼ぶ耳慣れた声に、彼女はそちらへ目をやる。
「琥珀か。何だ。」
「また敵国の新たな情報が入りましたので、お報せに。」
低く押し殺した少年の声が、襖の向こうから聞こえる。翡翠は無表情に告げた。
「よし、もっとこちらへ寄るがよい。」
「は。」
襖を細く開けて室内に滑り込んできた少年は、もう一度深く頭を下げる。顔を上げぬまま言う。
「やはり、砦には援軍が送られます。また周囲の国境も強化する、と。今砦にいる我が軍の数では、援軍が加わっては苦しい戦いになりましょう。」
「……。」
翡翠姫は何も言わず、ただ僅かに眉を動した。彼女に琥珀と呼ばれた少年は恐る恐る顔を上げる。
「あの……、如何致しましょう?」
姫はまだ黙り込み、深く考え込んでいる。形のいい美しい唇が不敵に歪む。そして、おもむろに口を開いた。
「今がいい機会だ。砦に差し向けた我が軍の、精鋭小隊を撤退させよ。」
「は? では、砦は落とせませぬが。」
驚いて問い返した琥珀に、翡翠は冷たく言い放つ。
「構わぬ。もとよりあんな小さな砦一つ、落とした所で何にもならぬ。勝たせ、そして惑わせればよい。向こうも、まさかこれで終わりとは思わぬだろうがな。」
暫し、琥珀は呆気に取られたように女主人の顔を見つめてしまった。
「しかし、それでは砦に残った我が軍は敗走どころか、全滅……」
「敵軍が増えた後なら、さして不自然には思われまい。撤退させた精鋭は国境近くの山中にでも隠しておけ。最後に使う。」
淡々とした翡翠の声に、感情といったものは少しも感じられない。戸惑いを隠そうとゆっくり視線を落とし、琥珀は絞り出すような声で言った。
「翡翠様は……軍が壊滅し、我が手勢の命が多く失われることを厭わぬと仰るのですか……?」
「命? そんなものはどうでもよい。」
姫の答えは、何かを嘲笑うような口調だった。彼女は立ち上がり琥珀に歩み寄る。少年の細い肩を、白い手が強く掴んだ。
「琥珀。お前如きが、私の考えに口を出すというのか?」
細工物のようにか弱い見掛けと裏腹に、姫の手は強く肩を締め付ける。肩の痛みと低く威圧する声に、少年は怯えた。深く頭を下げて縮こまったまま震え声で答える。
「い、いいえ。滅相もございません。僕は、必ず翡翠様に遵従いたします。」
「面を上げよ。」
少年が恐る恐る顔を上げる。その動きを待たずに姫は掴んだ肩を乱暴に引っ張り彼の身を起こした。ひっと小さく悲鳴を漏らした少年の目を、彼女はじっと見据えた。
闇より深く冷たい、そして美しい黒い瞳に、少年は呑み込まれたように動けなかった。
「翡翠様……?」
姫は何かに満足したようにふっと口元に笑みを浮かべ、掴んでいた肩をとんと突き放した。尻餅をついた少年に言うともなく、姫は独り言のような口調で呟いた。
「私は、役に立たぬものは要らぬ。勝てぬ兵なら全滅しようと構わぬ。私が傍に置くのは、私の役に立つものだけだ。」
彼女の苛立たしげな、それでいてどこか寂しそうな横顔を琥珀は黙って見つめていた。
「なあ琥珀。お前は、私の役に立ってくれるな?」
「も、もちろんでございます! この琥珀、姫様の命とあらば何なりと致しましょう。たとえ我が命を投げ打ってでも!」
慌てて居住まいを正し額を床につけんばかりに平伏する少年。それを見つめ、彼女は口の中で呟いた。
「私の役に立て……そして、私の傍にいろ、琥珀。お前がいなくなれば、私はひとりになってしまう……。」
彼女自身の気付かぬ間に、その右手は打掛の胸元をきつく握り締めていた。