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散華乱舞  作者: 岩淵 笑実
本編
5/32

「……そうか。気に入らぬな。」

 報告を受けた(ひさぎ)は低く唸るような声で答えた。眉間には相変わらず深い皺が寄っている。

「如何致しましょう。」

 傍らに控える秧鶏(くいな)が尋ね、紫苑も心配そうに兄の硬い表情を覗き込んだ。楸はふっと一度息を吐いて、諦めたように肩を落として言った。

「援軍を送る。それまで持ち堪えるよう、伝えよ。」

「はっ。」

 一度頭を下げて立ち上がり、退出しようとした秧鶏を、楸は手を挙げて止めた。

「ああ、まだよい。少し休ませてやってから送っても遅くはあるまい。木葉!」

「はい。」

 室の外に控えていた侍女を呼ぶ。入って来た木葉は一目だけちらりと秧鶏を見、若殿と自分の主人に頭を下げた。楸は彼女に、良い返答をほとんど期待していないような口調で尋ねる。

「隣国へやった使者は。」

「まだ、帰って参りません。」

 木葉が少し目を伏せて答えると、楸はやはりと言うように軽く舌打ちして呟いた。

「使者に答える気もない、という事か。話し合いは望めそうにないな。」

 その言葉に紫苑も顔を曇らせる。室内の空気がさらに重くなったのを、そこにいる誰もが感じていた。

「楸様……。」

 木葉は指示を求めるように楸の横顔を見上げる。楸はしばし考え込み、苦い思いで決心を口にした。

「もう一度だけ、使者を送れ。」

「兄上!」

 彼の台詞をかき消すように、紫苑の悲鳴のような声が響く。楸は黙ったまま妹の顔を見つめた。

「駄目です、そんな事! その者が生きて帰ってくるとお思いですか。」

 その言葉に楸は唇を噛んだ。彼自身にだって、そんな事くらい判っているのだ。

「私だって、民の命一つも失いたくはない。しかし……」

「それなら……お願いです、やめて下さい。命を無駄にするようなものではありませんか。」

 大切な妹の泣きそうな顔に、楸の決心は揺らぐ。その時、黙って控えていた秧鶏が口を開いた。

「私が参ります。」

 その言葉に、兄妹はほとんど同時に反応した。

「秧鶏! なりません!」

「駄目だ!」

 紫苑は兄の言葉にほっとしたような様子を見せる。楸は秧鶏に強い口調で言った。

「お前には他に役目があろう。これは私が決めることだ、口を出すな。」

「はっ、申し訳ございません。」

 秧鶏はそのまま頭を下げて引き下がる。紫苑はなお重ねて言った。

「兄上……他に、何か方法はないのでしょうか?」

 誰も命を落とさぬような、戦にならぬような……。そう言おうとして、紫苑はぐっと言葉を飲み込んだ。誰よりもそうしたいと願っているのは、他ならぬ兄だと気付いたからだ。楸は険しい顔のまま言った。

「秧鶏、援軍の用意を。先に伝令を発たせておけ。」

「は。」

 秧鶏が立ち去るのを見送ってから、楸は半ば独り言のような小さな声で言った。

「紫苑……すまぬ。これが、私の選択だ。」

「兄上!」

「お前は何も心配するな。私は……」

 楸の声は震え、かすれて聞き取れないほど小さくなる。それを遮って、紫苑は悲鳴のように叫んだ。

「そうやって、いつも私には何も言って下さらない! 私が、紫苑が女だからですか!?」

「違う! 私は、お前に辛い思いをさせたくないだけだ。」

「それなら、お願いです。全てをお教えください。私だって兄様(にいさま)の力になりたい! ……私は、兄様が苦しんでいるのを何も出来ずに見ているのが一番辛いのですから……。」

 紫苑の瞳から涙が溢れ、顔をおおって泣き崩れた。その震える肩を木葉の手が優しく包む。楸は俯き、やがてぽつりと言った。

「すまなかった、紫苑。」

「兄様……。」

「お前には敵わないな、言う通りにしよう。だから、ほら、もう泣くのはお止め。」

 妹の頭にそっと手を置き、笑いかける。紫苑は子供のようにぐいと涙を拭い、笑顔を見せた。

「ありがとう、兄上。」

 その顔を見て、楸はやっと安心したように立ち上がる。表情も今までよりいくらか明るく見えた。

「しかし、今日はもう休め。木葉、紫苑を頼むぞ。」

「はい、楸様。」

 と、主人の言葉に頭を下げた木葉の手を取って紫苑が首を横に振った。

「いいえ、私は大丈夫です。それより木葉、あなたもちゃんとお休みなさい。顔色が良くないわ。気を張り通しだもの、少し疲れているのではなくて?」

「紫苑様……!」

 木葉の目が驚きに大きく見開かれる。小さな声で尋ねた。

「気付いていらっしゃったのですか? そんな、どうして……」

「当り前じゃないの。いつも一緒にいるのですから。」

 優しい微笑を浮かべて言う姫に、木葉は少し俯いて早口に言う。

「このくらい、何でもありません。差し障りはございませんので、どうかご心配なさらないでください。」

「そう。でも、無理はしないのよ。あなたに倒れられたりしては困ってしまうわ。」

 紫苑は優しく、まるで実の妹を心配するように微笑んだ。そして木葉の冷えた手をそっと握る。

「紫苑様……。」

 木葉は感謝の意を示すように、深く頭を下げた。

 秧鶏が指示された事を終えて戻って来て、(あるじ)といくつか言葉を交わす。楸はふうと一つ溜息をつき、疲れた顔に少しだけ笑みを浮かべて妹に声をかけた。

「私も少し休むとしよう。紫苑、局まで送ってやろうか?」

「あら兄上、私ももう子供ではございませんのよ。兄といえど殿方を寝間に入れる訳には参りませんわ。」

 楸に笑顔が見えたことに安心したらしい紫苑は、ちょっとだけふくれて見せた。姫らしい優雅な仕草で兄が差し伸べた手を取って立ち上がる。仲の良い兄妹の様子を眺めていた木葉と秧鶏はふっとお互いを見、なんとなく顔を赤らめて目を逸らした。楸は振り向いて言った。

「では秧鶏、後を頼んだぞ。」

「は、承知仕りました。」

「お休みなさいませ。」

 それぞれの主を頭を下げたまま見送った二人は、殆ど同時に顔を上げた。視線が合うと、木葉はただ会釈をして立ち去ろうとする。秧鶏がその背中を呼び止めた。

「木葉!」

「なあに? 秧鶏さん。」

 振り向いた木葉の明るい微笑み。秧鶏は何故かどきっとして、すっと視線をそらしてしまう。

「いや、その……。最近、何か考え込んでることが多いと思って。」

「そう? 少し疲れているのかしら。」

 ちょっと首を傾げ、さらににっこりと笑う木葉。その笑顔には陰など微塵も無いように見えた。しかし幼い頃から兄弟同然に育ってきた秧鶏にはそんなの通用しない。彼は木葉の顔を真っ直ぐに見て、言う。

「……やっぱり、無理してる。何か悩みでもあるんじゃないか?」

 木葉の眼差しが動揺したように揺らぎ、その顔から笑顔が消える。堪えるようにきゅっと唇を噛んだ。

「どうして、分かっちゃうの?」

 独り言のような小さい声は、今にも泣きそうに震えていた。そんな彼女に、秧鶏は妹にそうするようにやわらかい笑顔を見せる。

「子供の頃から毎日顔合わせてるんだ、そりゃ分かるさ。言えるなら言っちまいなよ。楽になるから。」

 昔と変わらないくだけた口調に、いつもの笑顔。ほっとしたように、木葉のきつく結ばれていた口の端が少しだけ緩む。彼女は一度何か言いかけたがまた口を閉じ、吐息とともに呟いた。

「秧鶏さん、優しいね。」

 彼をじっと見つめる木葉の瞳は、少しだけ濡れているように見える。秧鶏はその先の言葉を促すように、もう一度優しく微笑んだ。

「ねえ秧鶏さん。もし、私が……」

 思い切って口にした言葉が突然、ふと何かに堰き止められるように途切れた。木葉はゆっくりと再び口を閉ざし、うつむいてかぶりを振った。

「ごめんなさい、何でもないの。でも、ありがとう。」

 その肩をとんと叩いて、秧鶏はにっと笑った。その様子は、本当の兄のようだった。

「いや、いいんだ。でもいつか教えてくれよ、言える時が来たら。一人で抱え込むんじゃないぞ。」

「ええ、きっと言うわ。ありがとう、お休みなさい。」

 秧鶏が立ち去って姿が見えなくなると、木葉は急に顔を曇らせた。唇から、ため息と共にさっきの言葉の続きがこぼれる。

「もし、私があのこと(・・・・)を話しても、あなたはそんな風に優しく笑ってくれるかしら。」

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