四
また戦が起こる――噂は、城下にも素早く広がった。
「この辺りも、その手の話で持ちきりだぜ。最近はちょっと落ち着いてたかに思えたしな。」
「そうですか……。」
玄武の言葉に、秧鶏も顔を曇らせて俯いた。そんな兄の手を、いつも明るい彼女らしくもなく泣きそうな顔をした秋沙がきつく握り締める。瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。
「俺ら庶民も関係ない訳じゃないからな。まったく、こうなると家の外も中も暗くなっちまって。参ったよ。」
「中も……?」
秋沙がふっと顔を上げる。心配そうに尋ねた。
「風馬が、また口をきかなくなっちゃったの?」
一番最近この『家族』に加わった少年、風馬。彼は四年ほど前、両親を亡くし親類縁者もなく一人ぼっちだったところを玄武に拾われた。家に来た当初は殆ど喋らず誰にも心を開かなかったが、長い時間をかけて少しずつ慣れてきたらしい。しかしこれでまた以前と変わらなくなってしまった。今までも戦の知らせを聞くと突然開きかけていた心を閉ざしてしまうことは何度かあって、そのたびに一番彼を想っていたのが秋沙だった。そんな彼女の言葉に、玄武は苦々しく頷く。
「ああ。報せを聞いて、もう五日になるか。一言も喋ってねえ。まあ、あいつは親を戦で亡くしてるし……無理もないが。秋沙ちゃんが来てくれれば少しは、とも思ったんだけどな。」
「……ごめんなさい。今は、いつもみたいに元気出ないの。」
玄武は思わずといったふうに溜息をつき、それを聞いた秋沙はますます深く俯く。しゅんとしてしまった秋沙に、玄武は慌てて言った。
「いや、謝らなくていい。秋沙ちゃんは悪くないさ、それが当たり前なんだ。戦なんてのは、とても明るくいられるようなもんじゃねえ。」
「そうですね……。私はひとまず出陣しませんが、気分が重い。直接戦わなくてはならない人たちの中にも、何人か知人がいますから。彼らは、いつどうなってしまうか分からない……。」
沈んだ声で秧鶏は言う。秋沙は兄の手を不安げにぎゅっと握り締めた。それに気付いて妹の頭を優しく撫でる秧鶏。微笑ましい兄妹に玄武はなぜか胸が痛んで、絞り出すような声で言った。
「とにかく、俺達に出来るのは祈ることだけだ。死ぬんじゃねえぞ。」
「大丈夫ですよ、兄さん。急にそんなこと言うなんて、どうしたんですか。」
秧鶏はちょっと気弱そうに笑った。彼自身も何か得体の知れない不安を感じているのかも知れない。
「またしばらく、秋沙をよろしくお願いします。」
軽く頭を下げ、秋沙の背中を押して玄武の方にやろうとした。が、秋沙は動かない。
「秋沙、どうした? ほら……」
秧鶏はもう一度妹の背中を押す。と、秋沙はパッと後ろを向いて兄の体にしがみついた。
「いやっ!」
「秋沙?」
「いや! 行っちゃ嫌! 秋沙、にいさまと一緒にいる!」
今までにない事に玄武も秧鶏も呆気にとられて、泣きじゃくる少女をただ見つめた。いつも聞き分けがよく、気丈に振舞い、兄を仕事に送り出すときも笑顔で、泣いた所などここ数年人に見せたことがない秋沙。その彼女が身も世もなく声を上げて泣いている。玄武はその肩に手を置いて優しく、しかし強い調子で言った。
「秋沙。秧鶏は行かなきゃならないんだ。大事なお仕事なんだからな。分かるだろう?」
「だったら、秋沙も一緒に行く! ねえ、にいさま、お願い……。」
しっかりとしがみついたまま、涙でくしゃくしゃの顔で見上げられて、秧鶏は困り果てた声を上げた。
「一体どうしたんだい? 秋沙、今までこんなに駄々をこねた事はなかったのに。」
秋沙は俯いてしゃくり上げながら、蚊の鳴くような声で言った。
「だって……なんだか、嫌なことが起こる気がするの。にいさまと、もう会えなくなっちゃったらどうしようって、怖くて……」
「秋沙……。」
秧鶏はぎゅっと何かを堪えるように唇を噛んで、一度強く妹の肩を抱き締めた。そして、両肩に手を置いて腰を落とし、目線を合わせて微笑みかける。秋沙はすがるように兄を見つめた。
「秋沙。にいさまは、秋沙が心配するほど弱い?」
優しく尋ねる秧鶏に、秋沙は涙をぐいと拭って首を振った。
「ううん、でも……」
「じゃあ、今までに一度でも、にいさまが約束通りに帰って来なかった事ってあったかい?」
兄の言葉に、秋沙は黙ったまま強く首を横に振る。秧鶏はその頭をぽんぽんと撫でた。
「な? 大丈夫だよ。玄武兄さんの所で良い子にして待っておいで。すぐに帰って来るからね。」
「約束よ? 絶対に、絶対に帰ってきてね。」
「うん、約束する。だから、ほら、もう泣くのはお止め。」
秧鶏は袖でそっと涙まみれの顔を拭ってやる。秋沙はやっと、いつもの笑顔を見せた。それを見て秧鶏はちょっと安心したように微笑んで立ち上がった。
「じゃあ、行って来ます、玄武兄さん。」
「ああ、行って来い。帰って来いよ。」
玄武は彼の心にも巣食う微かな不安を押し殺しながら、弟を励ますようにその背中をバンと叩いた。彼にとって秧鶏は実の兄弟と同じ、いやそれ以上にも大切な存在だった。玄武はふと思い付いて、秧鶏の耳元に顔を寄せて小声で付け加えた。
「それと、木葉に会うことがあったらよろしく伝えといてくれ。あいつは何かと気にするタチだからな。」
「はい。」
秧鶏はちょっと笑って答えた。そして二人に手を振り、いつものように出かけていく。一度だけ、足を止めて後ろを振り返った。幼い頃から育った家、何よりも大切な家族。なんだか名残惜しげに少しの間眺めて、また背を向けて歩き出した。秋沙と玄武はいつまでもいつまでも見送ったが、秧鶏がもう一度振り返ることはなかった。