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散華乱舞  作者: 岩淵 笑実
覚書・外伝その他
32/32

外伝  兄妹

 戸が開き、誰かが足を踏み入れる物音に、わたしは身を固くした。

 ここに潜んで、半刻ほども経っただろうか。こんなところにいたと父上に知れたら、また余計に叱られる。見付かりませんように……。しかし、そのわたしの祈りも虚しく、足音はどんどん中へと進みわたしに近付いてくる。足音がすぐ近くで止まり、声がした。

「紫苑。ここにいるのだろう、出ておいで。」

「……楸兄様?」

 思わず呟いて、慌てて自分の口を押さえた。居場所が分かってしまう。と、屏風の陰から三つ上の兄がひょいと顔を出した。

「やっぱりここにいたね。大丈夫、心配しなくても父上は来ていない。ここに来たのは俺だけだよ。」

 兄はそう言うと、狭い隙間を器用にくぐってこの空間に入り込み、わたしの隣に腰をおろした。膝を抱えたまま兄に背を向けたわたしの鼻先に、白い丸餅が差し出される。

「お八つを食べていないから腹が空いたろう。」

「平気です。いりません。」

 言ったものの、いざ餅を目の前にすると腹の虫を抑えるのが一苦労だった。

「そうか。それではこれは俺がいただこう。せっかくお(たつ)の作ってくれた餡餅、硬くなってしまっては勿体ない。」

 兄はさも残念そうに餅を自分の手元に引っ込め、わざわざゆっくりと口元に運ぶ。兄の策に嵌るのは悔しかったが、その餅を黙って諦めることは出来なかった。

「お待ちください。……やっぱり、半分頂戴。」

「いいよ。」

 頂戴、の前に「半分」と付けたのが、せめてもの抵抗だった。

 納屋に隠れてお八つを食べていると、幼い頃のことを思い出す。父に叱られたり、兄たちと喧嘩したりすると、わたしは色々な所に隠れた。そんな時、母様だけはどこに隠れても必ずわたしを見付けてしまう。そうして母様が持って来たお八つを食べながら、わたしは気の済むまで泣いたり文句を言ったりしたものだ。母様は咎めることも言い聞かせることもなく、ただ黙ってわたしの言い分を聞いてくれていた。

 けれど、兄はきっと母様とは違う。半分よりこころもち大きめにちぎられた餅を頬張りながら、なんだか兄の顔をまっすぐに見たくなかった。兄が何を狙ってこの餅を持ってきたのかは分かっているもの。

「また父上を怒らせたようだな?」

 兄が言った。思った通り。食べ物で機嫌を取って言う事きかせようったって、そうはいかないわ。わたしだって本当に怒っているんだから。

「父上に、わたしの機嫌を直してこいって言われたんでしょう。」

 鋭く睨み付けると、兄は誤魔化そうともせずあっさりと頷いた。

「そのようなものだ。しかし詳しい話は知らない。父上に何を言われたのか、聞いてもいいか。」

「知らない? 父上に聞かなかったのですか?」

「何も。ただ、だいたいの察しはついているが。」

 そう言って肩を竦めてみせる。わたしは兄の横顔をしばし見つめ、俯いてぽつりと言った。

「……家臣の、轟殿に嫁げと。」

 轟は父が若い頃からこの家に仕える家柄であり、古参と言うほどではないが信用もなくはない。何より、この十数年で急激に力を増している家だ。縁を結んでおこうと父が考えるのも至極当然である。わたしとの縁談が進められている当主の嫡男はわたしたち兄妹よりも十ほど年上で、親子で城に訪ねてきたので何度か顔を合わせた事があった。だが、それだけのこと。縁談など寝耳に水だった。

「よく知りもしない、十も上の男に嫁ぐのが嫌か。」

「違います! そんな理由では……わたしはそんな物分かりの悪い子供ではございません。」

 わたしはむっとして思わず声を荒げる。と言っても、隠れているので大声を上げることは控えたが。

「お家の為の縁組ですもの、嫁ぐ相手を決められぬのは仕方ないこと。武家に生まれた者には当然と弁えております。もともと好いたお方などおりませんし、父上の決められた方なら良いと信じておりました。それなのに……。」

 わたしは少し口ごもった。これより先は内密な話ゆえ誰にも漏らしてはならぬと父に念を押されたばかり。父の跡を継ぐ兄なら言っても大丈夫だろうか。いや、むしろ知っておかねば困ることだろう。この家とこの国の今後に関わる策だ。

「これは、縁組ではございません。父上は、花嫁衣装をかぶった間謀を送り込もうとしているのです。」

(轟には、寝返りを企てる動きがあるとの噂がある。あくまでも噂だが、力のある家だ。捨て置くことは出来ぬ。縁を結ぶことで再び忠義を誓うなら良し、しかし禍根が残るようであれば、徹底的に潰しておかねばならぬ。お前はただ、轟に怪しい動きがあった時に(わし)に告げてくれれば良い。尤もお前が何もせずとも、お前の付き添いに紛れ込んだ者が上手くやる。なに、もし向こうが儂の真意を怪しんでおるとしても、送り込まれるお前はまだ十四と若く、見目も好い。世間知らずの美姫やそのお付を疑う者などおるまい。)

 あまりに愕然として、腹立たしくて、父の言葉は一言一句違わず耳にこびりついている。わたしはそれをそのまま兄に伝えた。

「たとえ轟殿に火種がなくともその臣を煽って火を熾し、それを口実に叩くつもりでいるに決まっています。父上はそのような策を巡らす方です。いずれそうなると……壊れると分かっている縁組、嫌に決まっているではございませんか。」

 父上にはそれが分からないのだ。拒んだわたしを、縁組は家の為ということも分からぬのかと叱りつけた。そうではないと言おうとしたのに、聞く耳を持たなかった。

「政略でも策でも構いませぬ。わたしはただ、せめて両家にとって良い縁を結ぶものになりたかった。父上なら、政略の中でもわたしが幸せになれる道をくれると信じておりました。」

 腹立ちと悲しさで涙が滲む。膝に顔を埋めるわたしの背に、兄の背が軽く触れる。肩を抱くでも背をさするでもなく、ただ触れる兄の体温はあたたかかった。

「……お前は昔から物分かりの良い、聡い子だ。お家の為の縁組だからと嫌がっているのではないことは分かっていた。」

 兄は優しく穏やかな声で囁く。

「父上は焦っておいでなのだ。(あかざ)兄上にあんな事があり、またご自身も体が優れぬと聞く。家の為、国の為……手段はどうあれ良い形にしておかねばならぬと思われているのだろう。父上のお気持ちは、俺には分からぬでもない。」

 兄の声が少し陰り、わたしの涙に少しだけ別のものが混ざった。藜兄様。お強くて、初めての戦も怯むどころか勇んで出陣されて、それきり戻って来なかった兄様。皆にも自分にも厳しいけれど、いつもわたしには優しかった兄様。

 藜兄様がいなくなってから、この家は少しおかしくなった。

「俺に家督を譲る前に、出来うる限りの心配事は排除しておかねばならぬと言っておられた。父上には今それしか見えておらぬ。お前や俺の気持ちにさえも(めくら)になってしまわれるほど、焦って事を進めておられる。今までの父上らしからぬことだ。」

 楸兄様は目を伏せ、溜め息を漏らした。よほど気掛かりなのだろう。眉間の皺が、わたしが今までに見たことがないほど深い。

「……全ては、あの戦の所為で。」

「そうだ。だからあまり父上を恨んでやるな。優れた息子を亡くして平静でいられる人間などおらぬ。殊に俺は、藜兄上と比べ物にならぬほど情けないからな。父上の心配も尽きぬだろう。」

 驚いて兄の顔を見ると、兄は肩をすくめ苦笑した。父上にそんなことを言われたというのか。

「楸兄様は、情けなくなどございません! 藜兄様に負けないくらいお強くて賢いこと、紫苑が一番よく知っております。」

 わたしは誰よりも二人の兄を見ていた。藜兄様しか見ていなかった父上より、わたしの方が知っている。この兄が、争いを好まぬ優しい性格故に「負けてばかり」だったこと。本当は藜兄様にも、父上にさえ勝ててしまうかも知れない。けれど楸兄様には、兄と父を押しのけて勝とうという欲はまるで無かった。

「藜兄様や父上に勝とうと思わない楸兄様のお気持ちは、わたしにはよく分かりませんが、それでも構わないと思っておりました。ただ、他のやり方で、父上に認めていただくことは出来ないのですか。」

 そう言ったわたしを、兄は驚いたように見つめていた。

「もう藜兄様を立てる必要はないのですもの、頭の良い楸兄様にならいくらでも思い付くでしょう? 情けなくなどない、強いのだから焦らなくてよいと、父上に言って差し上げなさいませ。そうすれば……そうすれば、父上も元の父上に戻ります。そうでしょう?」

 本当は、ずっと思っていたのだ。兄を立て、支え、己を抑えようとする楸兄様が、わたしにはもどかしくて仕方なかった。

「藜兄様はもういないのです……。楸兄様が藜兄様の代わりになれると示すことは、今は悪いことではない筈です。」

 強く言い切ったわたしを呆気に取られて見ていた兄は、くすっと笑った。

「お前は、俺のこととなると俺以上に頭が冴えるな。自分のことでは子供のように怒り狂っておったのに。」

「……余計なお世話ですっ!」

 わたしはふんと鼻を鳴らし、兄は声を抑えて笑いころげた。それを見ているうちに、なんだかわたしまで可笑しくなって、わたしたちは一緒になって笑った。

 笑ったお陰だろうか。わたしの怒りには晴れ間が見え、そこから名案が顔を出した。

「兄上、わたし父上にお話ししたいことがありますので、話を聞いていただけるように宥めていただけませんか?」

「ほう?」

 兄はわたしの唐突な言葉に驚いたようだ。しかし何か楽しそうに、何も言わずその先の言葉を促した。

「父上の言いなりにはなりません。わたしのお付として父上の手の者をいれるのは止めていただきます。轟殿がこの家の害になるのかそうではないのか、わたしのこの目で判別できますもの。そして、もしその時は……わたしが兄上にお報せ致します。」

 わたしは、まっすぐに兄を見た。兄もわたしを見る。その目を見て確信した。兄はわたしの言いたいことを全て理解していると。

「分かった。……その時は、ここへ帰ってこい。心配せずとも俺がけりを付ける。」

「はい。」

 わたしは隠れていた納屋を出た後、兄と二人がかりで父上を説得した。わたしは間謀の隠れ蓑などではない。無力でか弱い十四の姫の姿を利用する頭はわたしにもある。だって、わたしはこの兄の妹だもの。

 嫁いだ日から二年半後。わたしは、轟殿の死の報せを、兄の隣で受けた。

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