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散華乱舞  作者: 岩淵 笑実
覚書・外伝その他
31/32

外伝  紅

 侍女の一人からその知らせを聞かされた紫苑は、すぐさま自分の居室を飛び出した。

「兄上!」

「紫苑。」

 城の裏手、この時間は人気もない炊事場。そこに楸の姿はあった。彼女は勢い込んで兄に尋ねる。

「まことなのですか、木葉が……木葉が、戻って来たと。」

 楸は黙って頷き、炊事場の隣に続く土間を指す。そこに横たわる()()に紫苑はふらふらと近寄り、傍らに膝をついた。掛けられた(むしろ)から覗く、見慣れた手。

「秧鶏の仇を、討とうとしたらしい。」

 楸は静かな声で言った。

「木葉はあの後、あの少年を追った。しかし彼は木葉の実の弟であったのだという。そんなもの、木葉に討てる筈がない。しまいには、その弟を庇って命を落としたそうだ。」

 紫苑は目を伏せ、そっと筵をめくった。

「……穏やかな顔をしています。」

 少しほっとした。これが、せめてもの救いだ。

「木葉は優しい子ですもの。相手が誰であろうと、仇討ちなど出来る筈ありません。」

 眠るような木葉の顔を一目見て、紫苑には分かった。黙って城を出て、ひとり仇を追いかけた彼女が、何をしようとしていたのか。

 紫苑はそっと囁いた。

「綺麗よ、木葉。(べに)がよく似合っているわ。」


「紅、でございますか? 私に?」

 驚く木葉に、紫苑は笑顔で頷いた。

「ええ、是非あなたに受け取って欲しいの。いつも良くしてくれているもの、私からの労いよ。」

「そんな……こんな高価な物、私などには勿体無うございます。」

 木葉は戸惑うように俯く。紫苑の唇にはいつも、控えめにではあるがきちんと紅が差されていた。もしかして、彼女が木葉に差し出している器に入っているのも、同じ物なのだろうか。そうだとしたらきっと、木葉などのような一介の娘には手の届かない品に違いない。躊躇う木葉に、紫苑は微笑みかける。

「勿体無いことなどないわ。確かに普段使いではないかも知れないけれど、あなた綺麗なんだもの、きっと似合うわよ。」

 紫苑はお構いなしに木葉の手を取り、その上に白い小さな器を乗せた。彼女が遠慮をして受け取らない事くらい、紫苑の予想の内だ。本当に嫌なものを無理強いはしないが、そうではないことくらい分かっている。

「どうぞ受け取って頂戴。私の気が済むためと思って。ね。」

「……紫苑様がそう仰るのでしたら、有難く頂戴いたします。」

 木葉はそう言って、紅を大切そうに両手で捧げ持ち、頭を垂れた。そして顔を上げた彼女の嬉しそうな、しかし少し困ったような笑顔に、紫苑はこの贈り物をした自分の選択が間違っていなかったことを確信した。

 紫苑はくすっと笑って、つい余計な事を言いたくなった。

「あまり長く仕舞ったままにしては嫌よ、紅も傷んでしまうのだから。その前にちゃんとお使いなさいね。」

「え、でも、何もない時に付けるわけには参りません。」

「それでは、初めは何か特別な時に使ったらいいわ。そうね……好いたお方と会う時などに。」

 ほんの冗談のような口調で言った途端、木葉の頬がぱあっと赤く染まる。

「そんな……そんなお方など、私にはおりません……」

 紫苑は少し驚いたように目を見開き、それから軽く声を立てて笑った。

「木葉は本当に、昔から色恋の話に慣れないわねえ。そんなに赤くならなくてもいいのに。ふふっ、何だか可愛らしいわね。あなたみたいな良く出来た()にも、一つぐらい不得手な事があると思うとなんだか安心するわ。」

 木葉は赤い顔で黙り込んだまま微かに肩をすくめてはにかんだ。

「好い人との時にだけ差すとしたら、私はしばらくその紅を差したあなたを見られないのね。残念だけれど、仕方ないわ。婚礼の時にでもその姿を見るのを楽しみにしていましょう。」

「紫苑さまっ!」

 真っ赤な顔で木葉は叫び、必死に何やら弁解しているが、紫苑は笑顔でそのまま聞き流していた。

 あの時の木葉の赤面した微笑みが持つ本当の意味を知ったのは、随分と後になってからのことだった。木葉はいつの間にか、色恋の話が苦手な少女ではなく、好い人との将来を淡く夢想する乙女になっていたのだ。自身がその紅を付ける時をあまりにはっきりと思い浮かべてしまったために、彼女はあんなに赤くなってしまったのだろう。

(私があの子の紅を見るのは、婚礼の時と思っていたのに。)

 それは、或いは正しいのかも知れなかった。木葉は今、こんな形ではあるが、好いた人と一緒になったのだから。

「木葉……あなた、秧鶏の所へ行くつもりだったのですね。仇討ちなどではなく。」

 愛する人を喪い、己の死を覚悟して怨みを晴らそうとしたのか。彼女の本当の思いは今となっては分からない。紫苑は穏やかに眠るような木葉を見下ろして、好きあった優しいふたりがせめて今は幸いであれと願うばかりだった。

 後に木葉の持ち物から出てきた、たった一度だけ使われた紅は、その持ち主と共に永久の眠りについたのだった。

原案すぺしゃるさんくす:火薬庫先輩

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