外伝 守り袋
「ただいま、玄武兄さん。」
「おう、疲れたろ。上がれ。お前の分もメシ出来てるぞ。」
出迎えてくれるのはあたたかい灯りと良い匂い、この家の主の頼もしい姿。家の中からは子供たちの賑やかな笑い声がする。俺の声を聞いた瞬間、駆けてきてこの腕の中に飛び込んでくる可愛い妹。
「秧鶏にいさま! おかえりなさい!」
「ただいま。秋沙、良い子にしていた?」
ここに帰って来ると、いつも心が休まる。ここが俺の育った家、俺の故郷。
なのに今は、妹の笑顔が胸を刺す。
「そういえば玄武兄さん、ちょっと聞きたいことがあって。」
「何だ?」
食事をしながら尋ねたのは、自分の中に渦巻く悩みをさらけ出したかったのではない。さらけ出すべきか、ひとり胸の内に収めておくべきか、心を決めるためだ。
「この間、衣替えをしようと思って秋沙の行李を開けていたら、昔の着物の間から守り袋が出てきたんです。私は覚えていないんですけど、兄さん、何か知っていますか?」
「守り袋?」
「はい。薄い緑色の布で作られていて、黄色い紐の……。」
兄さんは暫し考えていたが、何かにはっとして顔を上げた。
「もしや……。」
「兄さん?」
あまりに衝撃を受けた様子だったので、こちらまで驚いてしまった。聞き返すと、兄さんは取り繕うように言った。
「あ、いや、それは確か俺が秋沙に初めて会ったとき身につけていたものだ。恐らく秋沙のおふくろさんが持たせた物だろう。」
「お母さまが?」
秋沙が顔を輝かせた。母の記憶がない秋沙は、母や父にまつわる事は何でも恋しいのだろう。いつかも俺が荷物から見付けた髪留めを、母の形見として肌身離さず着けている。
「玄武兄さん、お母さまのこと知っているの?」
「いいや、直接お会いした事はねえな。お前たちを引き取ったのは俺の親父だ。昔からの知り合いだったらしい。秧鶏がうちに来た時、親が病気で小さい子供の面倒が見られないんだと聞いた。」
その話なら何度か聞いた。そして、母親は秋沙の命と自らの命とを引き換えにしたように亡くなったと。
でも、一度も聞いたことが無いものがある。
「お母さまって、どんな人だったのかしら。何てお名前だったのかしら?」
「さあな。親父に聞いときゃ良かったな。」
母の名も、父の名も、誰も教えてくれなかった。その理由も分からなかったけれど、俺はその答えを見つけてしまった。
「にいさま。そのお守り袋、秋沙にちょうだい。中に何が入っていたの?」
「ああ、今日帰ったら渡してあげよう。けど中を開けてはいけないよ、お守りの御札に宿る力がなくなってしまうからね。」
「分かったわ。」
秋沙は素直に頷いた。中、という言葉が出た途端、玄武兄さんがぴくりと眉を動かしたのを俺は見逃さなかった。
「秧鶏は、中身を見たのか?」
「……見てませんよ。」
そう答えたら、兄さんの表情が見るからにほっとしたように緩む。それを見て、そして妹の笑顔を見て、俺は決めた。守り袋の中から出てきた真実は、誰にも話すまいと。
あれは、数日前のことだった。
空高くにうろこ雲が浮かぶ秋空を見ることが多くなり、日が暮れると涼しい風が吹くようになったので、俺は暇な一日を使って早めに衣替えをすることに決めた。自分はそろそろ背丈の伸びも打ち止めだろうが、秋沙は今年も背が伸びた。去年の袷は肩上げを少し下ろさなくては着られないだろう。いや、この機会に古いものをいくつか処分して、新しいものを仕立ててやっても良いかも知れない。贅沢をしなければ充分な蓄えはある。妹の成長を親のような目で見守るようになって数年、衣替えは俺の楽しみの一つとなっていた。ついこの間までこんなに小さかったのに……と微笑ましく思いながら、行李の底から出てきた小さな着物を広げる。
と、その折り目にでも挟まっていたのだろうか、何かがぽとりと俺の膝に落ちた。
「……守り袋?」
淡い若葉色の布で作られた、掌にすっぽり収まる小さな袋だった。長い黄色の組紐が輪になっているのは、幼子の首に掛ける為だろうか。高価そうな布だ。古い着物の切れ端から取ったのかも知れない。
(きっと、秋沙に誰かが持たせたものだろう。こんな所に入り込んでしまっていたんだな……これからでも秋沙に渡してやろう。)
そう思って手に取った時。指先に感じた、妙にふわふわと頼りない厚みと、かさりと鳴る乾いた紙の音。
「何だろう。」
中身を開けるのはいけないことと思いつつも、好奇心に抗うことが出来なかった。俺はそっと黄色い組紐の端を引っ張る。縫い付けられているなりして開かないようになっていれば、俺はきっと少し残念に思いつつもどこかほっとして手を放し、そのまま忘れてしまった事だろう。しかし紐はするりと解け、小さな袋はぱかりと口を開けた。
入っていたのは、幾重にも畳まれた薄い紙。守り札ではない。開くと、それは小さな字で綴られた文だった。
『秧鶏、秋沙。あなた達がこれを見付けるのは、ちゃんと良い子に育っておとなになって、世間のことや国のことが分かるようになってからであることを望みます。』
俺の目はその文面に吸い寄せられるように、読むのを止めることが出来なかった。線の細い綺麗な字。優しい言葉を選んで、母親の我が儘のために兄妹が親の顔を知らずに育つことを詫びていた。争いの火種となる恐れがあるため、父親の身分と名は明かすことが出来ないと。そして、親としてふたりに会うつもりはないが、遠くからずっと見守っていると文は告げていた。
母は死んだのではなかったのだ。この文を書いたのは秋沙の生まれた後。少なくともそれまでは、もしかしたら今も母は何処かにいる。……しかしその淡い期待は、最後に記された名によって打ち消された。
「千鳥……まさか、あの千鳥様が……!?」
その名には覚えがあった。
数年前から城に仕え、近頃は殿や古参の家臣たちの話を耳にする機会も多い。周辺諸国の情勢や、この国の行く末、過去。時には先代の殿やその周囲の人々の噂が出ることもある。
千鳥という名も、そこで聞いた。奥方を亡くした殿の心を癒した、野の花のような可憐な女人。
しかし、彼女はもうこの世にはいない。殿が身罷り楸殿が新たに城主となった、その数年後に千鳥様もひっそりと亡くなったと聞いている。俺が城に仕えるようになる以前の話だ。だから、物心ついてから一度も母と会ったことはない。もし今母が生きているとしたら、何をおいても会いに行っただろう。秋沙の誕生後も生きてはいたが、結局再会は叶うことなく儚くなってしまった。
そして、もし、本当にその千鳥様が俺たち兄妹の母親なのだとしたら、父親は……。
「にいさま、ただいまー!」
表から妹の元気な声が聞こえて、俺は咄嗟に守り袋と文を懐に押し込んだ。
「お帰り、秋沙。お八つが戸棚に入れてあるよ。手を洗ってから召し上がれ。」
「はぁい。あのねにいさま、今日みんなで遊びに行ったら、お城の石垣の所に紫苑の花が咲いていたの! にいさまにもおみやげ。」
「ありがとう。綺麗だね。」
妹が差し出した薄紫色の花一輪。なんだかとても触れ難いような気がした。
その日の夜。秋沙が眠ってしまってから、俺はこっそり母の文を元通り畳んで守り袋の中に収め、紐を結び、結び目を縫いつけた。知ってしまった真実をどうすべきか、自分でも分からない。しかし、この重いものを可愛い妹に背負わせることは出来ない。兄として、秋沙は俺が守る。
玄武兄さんに話した後、俺はそれを秋沙に手渡した。
「きれいな色ね、にいさま。お山の新芽の色よ。」
「そうだね。ずっと着けているんだよ、きっと母上と父上が守ってくださるから。」
「はい。」
秋沙は嬉しそうに、守り袋をぎゅっと胸元で握った。
それから秋沙は俺との約束を守り続けた。あれから三年が経ち、あの守り袋の中の真実を秋沙が知るその日まで。