参
自室で一人物思いに耽っていたこの国の若殿、楸は、背後に人の気配を感じて我に返った。
「誰かいるのか。」
「私です、兄上。失礼します。」
入ってきたのは手に盆を持った若い美女。楸は彼女を見て少し意外そうな顔をした。
「紫苑? なんだ、わざわざお前が持ってきたのか。木葉に言ったんだが。」
「木葉に無理言って渡してもらったのよ。私、たまには兄上とゆっくりお話ししたかったから。」
笑顔で言った妹姫に、楸はすまなそうに微笑んだ。その整った顔には疲れが色濃く見える。
「また何か難しい事でも考えてらっしゃったんでしょう?」
「いや、たいした事じゃないさ。」
妹に優しく笑いかけて、その手から小さな盃を受け取る。口を付けほっと息をついて、開いた窓から見える空を眺めた。
「……今宵は、静かだな。」
「そうですね。」
「この時期、暇を取っている者は多い。無用心かもしれんな。」
そう言ってにやりとやや自嘲的に笑った兄に、紫苑は顔をしかめた。
「嫌だわ、そんな事。縁起でもない。こんなに静かなのに。」
「嵐の前の静けさ、という言葉もある。」
「兄上は悪い方にばかり考えすぎです。もう乱世は終わるという人もいるくらい、平穏が続いているのですから。きっともう、戦などせずに済みますわ。」
慰めるように紫苑は言う。若いながらも殿として一国を背負う楸がこうして思ったまま不安でも何でも口にするのは、この城の中では紫苑と二人の時だけ。紫苑にとってはそれが嬉しくもあり、そうして兄が打ち明けてくれても力になる事が出来ず歯痒くもあった。
「そうだな。お前の言うとおり、俺は少し考え過ぎなのかも知れん。」
妹の言葉に、楸は寂しげに微笑んだ。
「でも、仕方ないんだ。この十年、戦の事ばかり考えて生きてきたのだから。」
「せめて良い相談役くらいいればいいのですが。私は女だから、戦のことでは役に立ちませんもの。」
肩を落として溜息をついた紫苑の頭を、楸は優しくぽんぽんと撫でた。
「いいんだよ、紫苑。お前は何もしなくていい。この国を、お前や民を守るのが俺の役目だからな。」
「兄上……。」
楸は満たした盃を紫苑に手渡す。彼女がその中身を一息で空けるのを見てちょっと笑った。少し赤くなった紫苑に優しく言う。
「さあ、何も心配することはないよ。もう局へお戻り。俺も休むから。」
「はい、兄上。お休みなさいませ。」
紫苑が素直に城の奥の自室へ戻ろうと立ち上がり、楸も腰を上げた時だった。突然、楸は妹の袖を掴んで引き止めた。何事かと尋ねようとする紫苑を目だけで制し、彼女を自分の後ろに庇うようにして腰の刀に手をかける。息を潜め耳を澄ますと、二人のいる所から少し離れた辺りで何か騒ぎが起きてでもいるのか、慌ただしいざわめきが微かに聞こえる。小走りの足音が近付いて来た。
「楸様! 紫苑様! 失礼致します。」
聞き慣れた声に、楸はすっと警戒を解く。右手は刀に置いたまま、少し肩の力を抜いた。
「木葉か、入れ。何事だ?」
襖を開けたのは、紫苑姫付きの侍女である若い娘。楸の言葉に従って室内へ入り、深く頭を下げる。その声にはだいぶ緊迫した響きがあった。
「奇襲でございます! ただ今、東の砦より伝令が参りまして。」
「何ですって!?」
紫苑が叫ぶ。楸はぴくりと眉を動かしただけで冷静に尋ねた。
「旗印は。」
「隣国の……鉱家のものかと。」
木葉が答えると、紫苑ははっとして兄の顔を見た。楸はぐっと唇を噛み、顔をしかめている。
「鉱……聞いた事がありますわ、幼く病弱な世継ぎに代わり、全てを掴んでいるという姫君の噂。」
「ああ、翡翠姫の事だな。」
楸は何故か苦々しい顔で答える。紫苑は心配そうにそんな兄を見つめた。
「その姫が、戦を?」
紫苑の言葉に考え込みながら立ち上がる楸。ひどく苦しげに顔をゆがめていた。
「彼女かは分からぬが……。砦を破らせる訳にはゆかぬ。すぐに援軍の用意をさせよう。木葉は紫苑に付いていろ。」
「はい。」
「兄上!」
しっかり頷いた木葉を押し止めるようにして、紫苑が叫んだ。
「私は大丈夫です。それに木葉は明日から暇をとる予定だったではありませんか。それなのに……」
「紫苑様!」
その言葉を遮ったのは、意外にも木葉本人だった。
「いいのです、私の事は。こんな時です、どうか、姫様のお側にいさせて下さいませ。」
懇願するような木葉の肩に手を置いて、紫苑は困ったように言う。
「木葉、それでは玄武殿にも申し訳が立ちません。私の事は気にしないで、お帰りなさい。」
「いいえ! こんな時に私だけ郷でのんびりする訳には参りません!」
「木葉! しかし私は……!」
「もうやめろ、紫苑。今はそのような押し問答をしている時ではない。」
楸に低い声で遮られて、紫苑は少しむくれつつ口を閉じた。木葉は申し訳なさそうにまた深く頭を下げ、紫苑の後ろに控える。それに楸が声をかけた。
「木葉、くれぐれも紫苑を頼むぞ。今は何があるか分からないからな。」
「はい。私の命に代えてもお守りいたします。」
部屋を出て行く――国を継いでから何度目とも知れない戦へと身を投じていく楸。紫苑は兄を一度だけ引き止めようとしたが、何も言えなかった。穏やかな性格の楸が本当は戦など嫌っている、いや憎んでいるとさえ言ってもいい程であるというのは、妹である自分が一番よく知っていたからである。そしてそれでも戦わざるを得ない、それが今の世、戦乱の世なのだ。
(兄上は、本当に心のお優しい方なのだわ。だからこんなに苦しんで、でも戦わなくてはならない。こんな乱世に生まれさえしなければ、きっともっと幸せだったでしょうに。)
彼が戦うのは、父から継いだ国を、民を、そして妹を守るため――戦に出る兵すら死なせたくないと願う兄の気持ちを痛いほど感じている紫苑。その助けになれない自分がもどかしかった。
「兄上……藜兄上がいらしたなら……」
姫の口からほとんど無意識にこぼれた言葉は、傍らにいた木葉にも聞き取れないほど小さく消えた。