外伝 流露
むかしのはなし。
ひぐらしが鳴いている。赤々とした夕陽が里を照らしているのが、ここからはよく見える。火照った頬を撫で、汗をさらっていく風が心地よい。地面ははるか下に見えるが、腰掛ける枝は太く、頼もしく小さな身体を支えていた。
「こんな所にいたのかよ、楸。」
足元からよく知る声が聞こえたかと思うと、あっという間に隣まで登ってきて、楸より一段高い枝に立った。楸はそちらを見ようともしなかったが、誰が来たかは声で分かっている。彼の名は玄武。楸とは赤子の頃から共に育った乳兄弟だ。
「母ちゃんが探してた。もうすぐ飯だって。」
呼びに来たというのに玄武は楸を連れて戻ろうとはせず、枝から枝へと身軽に渡り遊びだした。咎めるような目で見やると玄武は歯を見せて笑い、楸のすぐ隣に腰をおろした。
「楸、木に登れるようになったんだな。」
「登れるさ。」
「降りるときに落ちるなよ。」
「分かっている、そのくらい。」
玄武はいつもこうだ。楸の気持ちに関係なく、遊びに強引に楸を巻き込んで、今していることの話しかしない。玄武のこういうところが楸は好きだった。周りの大人たちは、変に楸の顔色を窺ったり気持ちを慮ったりする。けど、玄武はそんなこと一切しない。大人たちが楸に対する玄武の態度を咎めることもあるが、その度に楸は玄武を庇い、自分が対等に話せと命じていると大人たちに抗ってきた。玄武にだけは、かたくるしい言葉で壁を作ってほしくなかった。
周りにたくさんの大人がいても、楸は寂しかった。大人たちも、親や兄すらも忙しくて楸を構ってなどくれない。楸の目を見てくれるのはこの乳兄弟と、彼らを育てた乳母だけ。
「若様! 木登りは危のうございますよ!」
叫び声に驚いた楸は、危うく枝から落ちるところだった。振り向くと、木の下に駆け寄ってくる女性が目に入った。
「げっ、母ちゃ……」
「こら玄武! 若様をお呼びしておいでって言っただろう、何を遊んでるんだい! 若様までお付き合いさせて……とっとと降りといで!」
木から降りた玄武は頭に母親の拳骨を喰らう。その様子を見ていた楸が、ぽつりと言った。
「お龍は玄武のこと、いつも怒ってばかりいる。玄武がきらいなのか。」
それを聞いたお龍は驚いたように楸を見つめ、優しく首を横に振った。
「違いますよ、若様。親が子を叱るのは、子が大切だからでございます。大切な我が子が将来困らぬよう、悪い事をしたら悪いと叱るのが親の役目なのでございます。決して、嫌っているわけではございません。」
「でも今は、玄武は悪くないんだ。叱らないでやっておくれ。わたしは自分で登ったのだから。」
「そうでございましたか。しかし若様、あまり危ない事をしないでくださいませ。若様の御身に何かあっては、龍が殿様のお叱りを受けますし、何よりお怪我をした若様を見るのは辛うございます。」
「……気をつける。」
殿に叱られるというだけだったら、楸はこう答えなかったかもしれない。ただ、龍が辛い思いをするのは嫌だったし、自分の所為で龍や玄武が咎められることはもっと嫌だ。それほど彼はこの乳母と乳兄弟のことが好きだった。
(わたしは、母上に叱られたことがあっただろうか。)
妹の紫苑が生まれてから、彼の母はもう長いこと臥せったままだった。子供たちを叱ることがないどころか、楸にとってはろくに顔を合わせた覚えもない。
そんなこともあって、楸は幾日ぶりかに母の元を訪れた。
「母上。」
呼びかけた彼の前に姿を現したのは、母の側に仕える侍女だった。
「若様、申し訳ございません。奥方様は只今お休みになっていらっしゃいます。さ、あちらのお庭で遊んでいらっしゃいませ。」
「いつなら、母上に会える?」
「奥方様のお加減がよろしい時でしたら、若様と遊んでくださいますでしょう。若様が会いたがっておいでだとお伝えしておきます。」
引き下がるしかなかった。たとえ、どんなに待っても母が自分を呼んでくれはしないと思い知らされるだけだとしても、ただ待つしかない。いつか呼んでくれるものと、信じていたかった。
しかし、その数日後の事だった。
「母上にお会いしたい。」
「若様、奥方様は只今お休みに……」
自分がしたのと同じやりとりに目をやると、母の居室の前には楸より三歳上の兄の姿があった。
「お加減が優れぬことは分かっておる。ゆえ、決して母上のお邪魔になるようなことはせぬ! ……わたしは母上の子だ。母上に会いたい。ただ、顔を見るだけでも……ただ……」
泣き出した若君に侍女は慌てる。その時、居室から微かな声が聞こえた。
「藜? そこにおるのは、藜か?」
「母上! わたしです、藜でございます!」
「おいで、藜。可愛い我が子。顔を見せておくれ……。」
弾む足取りの藜の後ろ姿が、室内へ消えていく。何故かそれを見ているのが耐えられなくて、楸はその場から逃げるように駆け出した。
数刻の後、食事の用意を始めようと炊事場の戸を開けたお龍は、そのすぐ足元の隅にうずくまる小さな姿を見付けた。
「まあ若様、こんな所で如何なさいました。」
驚いて声をかけたお龍は、ゆっくり顔を上げた楸の表情を見てさらに驚いた。楸は顔中を涙でくしゃくしゃにして、お龍を真っ直ぐに見つめ、嗚咽を堪えて言った。
「母上は……母上は、わたしをきらっておいでなのだろうか。」
「何をおっしゃいます。」
お龍にしがみついた楸は、声を殺して泣いた。お龍は暫し絶句して動くこともできずにいたが、ゆっくりと腕の中の幼子を抱き上げ、庭の静かな一角で子守唄を低く口ずさみながら、長いことただ立っていた。彼女は、大声を上げて喚くことのない楸の嗚咽に、じっと耳をすませているようだった。
それから、どのくらいの時が経った頃か。
「若様、奥方様がお呼びです。どうしてもお顔を見たいと。」
「わたしを?」
楸が驚いたのも無理はない。彼はあの日以来、母に近付かぬように過ごしてきたのだから。
侍女に導かれ、恐る恐る居室に足を踏み入れた楸を出迎えた母の姿に、彼は衝撃を受けた。彼の記憶にある母の、か細くも生き生きと美しい花のような面影は失われていた。やせ細り、蒼白い頬をし、床から起き上がることも出来ぬその姿は、子供心にもその命が消えかけている事を容易に感じ取れるものだった。
「母上……?」
呆然と呟く息子に、彼女は寂しそうに微笑んだ。
「楸、こちらへおいで。母に、よく顔を見せておくれ。」
こちらに伸ばされた白く細い手。楸はそっとその手を掴んだ。母の手とは、こんなに儚く冷たいものだっただろうか。
「私はお前のことをずっと見ていたつもりだったが、考えてみれば、こうして言葉を交わすのも久しいか……すまなんだ、淋しい思いをさせたな。」
母の声も、夢の中のように思えた。こんなにずっと聞きたかった声なのに。ずっと会いたかった母なのに。
「このような私の姿、誰にも見せとうなかった。我が子達にすら……。お前は聡く大人びた子ゆえ、それに甘えていたのだ。お前もまだ五つだというのにな。幼い子に甘えるなど、愚かな母親じゃ。」
母の言っていることは、楸にはまだ難しかった。けれど、これだけは分かった。
「母上、わたしをきらっているのではなかったのですね。」
「そんな風に思わせていたか……。私はまことに酷い母親だったな。いや、今更悔いても、もう遅いか。」
母の目尻から涙が伝う。
「楸、お前を嫌ってなどおらぬ。お前は大切な我が子。伝えるのが遅すぎた、弱く愚かな母を許しておくれ。やっとお前と話す勇気が持て、こうしてお前の心を知れた。……もう、いつ逝こうとも惜しくない。」
「嫌でございます!」
自分で思っていた以上に大きな声に、叫んだ楸自身も驚いた。彼を見つめる母の顔が、なぜかぼやけて見える。
「母上が何処かに行ってしまわれるのは嫌でございます! わたしをきらっていないのでしたら、わたしは母上と一緒にいたい。母上に遊んでいただきたい。母上に……母上に叱られとうございます!」
「楸……。」
初めて心の底から叫び、わっと声を上げて泣き出した楸。その頭を、母が優しく撫でる。
「ならぬぞ、楸。泣くのではない。武家の男子は強くあらねばならぬ。」
声を張り叱ろうとしても、震え掠れるのは隠しきれなかった。母と子は互いの手を握り締め、長いこと泣き続けた。