外伝 華の姫
もうひとつのエピローグ
『楸殿。あなたがこの文を手にする時、私も我が城も既にこの世にはないだろう。』
「翡翠姫……。」
楸はそっと、その文の差し出し主の名を呟いた。折しも春風が吹き、室内まで薄紅の花弁が舞い込んで彼の手の上に落ちる。もう桜の季節も終わる頃だろうか。桜の花は楸に、この花のように激しく華やかに咲きそして散っていった美しい姫君を思い出させる。幾度もこの文を読み返した――どこかに彼女の面影を見る度に。
彼は文を仕舞うと立ち上がり、私室からほど近い小さな庭へと足を向けた。明るい陽の射す池のほとり、まだ幹の細い桜の若木の下にいた女性が、楸の姿に気付いて顔を上げる。その切れ長で涼やかな目元と抜けるように色白な肌は、翡翠姫に驚くほどよく似ていた。
「御前様。」
彼女は楸にそう呼びかけると、翡翠は決して見せなかった表情で、にっこりと明るく微笑んだ。
文を携えたひとりの娘が楸たちの城を訪ねてきたのは、あの日から十日ばかり過ぎた頃だった。戦をして攻め込んだわけではない特殊な方法ではあるものの、城を落とし鉱家を滅ぼした形となった楸はその領地を治めようと奔走した。混乱も少なくどうにか上手く落ち着きはじめた頃、娘は現れた。
「以前、鉱のお城にお世話になっていた者でございます。もしいつか城が落ちるようなことがあれば、癸の殿様にお渡しするようにと、姫様から託っておりました。」
娘はそう告げて、平伏したまま文を差し出したのだった。
翡翠からの文に綴られていたのは、自らの病が遠からずその命を奪うであろうことと、そうなったら領地は楸に治めてもらいたいという願い。見ず知らずの方に唐突な申し出ではあるが、他の誰かに蹂躙されるよりは私や父の気持ちも収まるだろう……女ながら達筆な文字でそう書かれていた。
その最後に添えるように、こんな文言があった。
『この文を持たせた娘は父上の側室が生んだ子の一人、我が妹だ。名を玻璃という。ほんの些細なことが父上の逆鱗に触れ、母子共々城から追い出されたところを、私が乳母やに匿わせていた。鉱の血筋の者として気にかけてもらえれば嬉しく思う。』
私情を重視せぬ簡潔な文の中にわざわざ書かれたという事からのみでも、翡翠がこの娘に抱いていた思いを察するのは容易だった。
楸は玻璃とその母親を、ひとまず城に召し抱えた。そうして側で見ているうちに気付いた。玻璃は、翡翠や楸や人々と異なる世界を生きていた。ものを知らぬ無邪気な子どものように、己だけの世界を築いて。しかし娘は、己が人と異なることを知っている。それでいてなお、幸せそうに笑っているのだ。
一度だけ辛くはないのかと問うてみた楸に、娘は首を振った。
「楸さまも、皆様も、お優しい方ばかりですから。」
違う意味ではあるが「人と異なる」という思いを同じく抱えていた翡翠の目に、この己に瓜二つである幸せな娘はどう映ったかは想像するしかない。羨ましく感じると同時に、自分の歩めなかった道を歩むもう一人の自分のように思える存在だったのかも知れない。
楸が玻璃に惹かれてゆくのに、そう時は掛からなかった。
「御前様、これを。」
庭に降りた楸に駆け寄った玻璃は、にこにこと桜の枝を差し出した。今が盛の花が三つばかり付いている。
「あまりに綺麗だったので、桜にごめんなさいと言って、手折ってしまいました。」
「きちんと断りを入れたのなら、桜も許してくれよう。お前の好きな器に生けておいてもらうといい。」
「ええ。」
桜の枝を侍女に預け、二人は並んで縁側に腰を下ろす。麗かな春の陽射しに、玻璃は目を細めて空を見上げ、あら小鳥が、と呟いた。若木の上に止まった雀が花をついばみ、さえずりを残して飛び去った。花がひとつひらりと落ちて池に浮かぶ。
「……あの花は、姉様かしら。」
玻璃のちいさな呟きに、楸は動揺を禁じえなかった。玻璃は桜にあの姫の面影を見ている。楸と同じように。
「私達は、もしかしたら似ているのかも知れんな。」
楸はそっとそう独りごちた。
そこに、足早に板張りの廊下を進む足音が近付いてきた。
「義父上、義母上。」
二人の姿を認めた青年が微笑む。整った顔立ち、優しげな口元はどこか楸と似たところがある。その顔に浮かぶ何やら困惑したような表情を読み取って、楸は尋ねた。
「どうした、青龍。」
青龍は楸の兄・藜の嫡子。十五になり己の出生を知らされた彼は、楸の養子として城で暮らしている。育ての親である玄武を初めとした周囲の心配をよそに、彼は世継ぎとして熱心に勉学や剣の稽古に励みながら日々を過ごしており、とくに窮屈とは思っていないようだ。もともと利発で可愛げのある子供であり、彼を邪険に扱おうとする者も無かった。
その青龍は戸惑いを隠し切れぬ様子で、言葉を選びつつ告げた。
「先程、急なお客人が……紫苑叔母上がいらっしゃいました。」
「何だと?」
楸も驚き、玻璃を伴って広間へと急ぐ。客人は入ってきた楸たちに深々と頭を下げ、にこやかに言った。
「お久しゅうございます、兄上。まあ、玻璃様に青龍までお出迎え下さるなんて。御機嫌よう。」
唖然として、楸は咄嗟に何も切り返すことが出来なかった。いつもの彼の場である上座に腰を下ろし、玻璃が傍らに控え、青龍も楸の一段下に座る。そうしてやっと楸は口を開いた。
「こんなに急にやって来るとは何事だ。鳳の殿に離縁されでもしたか、もしくはまた家を飛び出してきたのか?」
「兄上らしくもない笑えないご冗談ですわね。平穏が続いて呆けてしまわれたのかしら。」
紫苑は肩を竦める。
「夫との仲は良好です、ご心配なく。筆無精な兄上が文を下さったから、せっかく皆様のお顔を見に来たというのに。近々伺うと返事を送ったではありませんか。」
「確かにそれは届いたが、昨日のことだぞ。仕度を整えて、もっと幾日もかかるものと……お前、さては何か無茶をしたな?」
楸は軽い頭痛を覚えながらお転婆な妹を睨みつける。幼い頃から、紫苑の桁外れた我の強さと行動力には悩まされてきた。しかし、その強さを気に入る男がおり、しかもその男が世を統べようという者の嫡子であったというのは、何が幸いするか分からないものである。紫苑は彼について都へ上り、それから暫くは楸の頭痛もご無沙汰だった。今回の騒ぎは、その抑えきれぬ我の強さがまた悪い衝動を起こしたに違いないと楸は確信していた。
そんな兄の内心に気付く筈もなく、紫苑はさらりと言ってのけた。
「無茶なんて。ただ馬を飛ばして参っただけでございます。供の者は荷も積んでいたので、馬の負担にならぬよう私だけ駆けさせました。」
「やはりな。」
もはや説教をする気も起きず、楸は妹の馬乗袴姿を再び見やって溜息をつくばかりだった。
「変わりはないようだな。子を持ち親となり、少しは落ち着いたかと思ったのだが。」
「男子をふたり育てる母親が落ち着いてなどいられるとお思いですの? ……と、あまりこんなことを申しては玻璃様を怖がらせてしまいますね。幼い子どものいる日々は、とても楽しいものです。玻璃様もお子が産まれる日を楽しみにお待ちあそばせ。」
紫苑は少々取り繕うようにそう言って、軽く咳払いをした。玻璃は紫苑の言葉をどう取ったのか、ただ穏やかな微笑みのまま、ふくらみが目立ち始めた己の腹部をそっと撫でた。
春の風が、彼らの間を笑いながら駆け抜けていく。
「あら、良い香り。そこのお庭に何か咲いているのでしょうか?」
「桜の木があるの。わたくしの姉様に似ているのよ。紫苑様もご覧になります?」
玻璃の言葉に、紫苑は驚いたように彼女を見つめた。けれどすぐに笑顔で頷いた。
「その桜が翡翠様なら、妹御をこうして見守ることができてお幸せでしょうね。」
その目尻に光った涙は、誰にも見とがめられることなく風にさらわれていった。