弐拾伍
「琥珀ってば。おーい、こ、は、くっ!」
唐突に名前を呼ばれ、少年ははっとして顔を上げた。と、自分を呼んだ相手が近距離で自分を覗き込んでいるのが目に入り、彼は危うく椅子ごとひっくり返りそうになった。
(ラウンジで本読みながら、いつの間にか居眠りしちまってたのか。変な夢を見たなー。)
「朱雀か。驚かすなよ。何か用か?」
「いや、別に? ただの通りすがりだけど。」
朱雀はいひひっと変な笑い方をして、無遠慮に隣の椅子にどかっと腰掛けた。
「勉強中? 悪かったね、邪魔して。」
「全然悪かったと思ってねえだろ。ま、次の講義までの暇潰しだから構わないけど。」
琥珀の手には借り物の文庫本がある。それをちらっと見下ろして、彼は溜息をついた。
(夢、本の内容に影響されたか。それにしても、いやにリアルで、まるで……)
まるで、本当に自分の身に起こった事のよう。
そんな思いが脳裏を過ぎったが、琥珀は鼻で笑って打ち消した。
「ふーん。じゃあ読書中? 何読んでたのかなー。」
朱雀は琥珀の不満そうな様子にもまるでお構いなしで、彼の手元を覗き込む。途端に変な顔をした。
「なんだ。何度呼んでも返事しないからよっぽど一生懸命読んでたのかと思ったら、全然進んでないじゃない。」
「え……?」
琥珀は改めて自分の手元を見た。そして、愕然とした。開かれたページの一行目には「序章」とある。
(おかしいな……僕、読みながらうとうとして変な夢を見ていたんじゃ?)
では、このはっきりした記憶は何なのだろう?
「この本、琥珀の? ずいぶんボロいね。」
「いや、先輩に貸してもらったんだけど。」
「うちの本棚の大半は両親のコレクションだから年季入っててね。」
そんな声に振り返ると、たまたま隣のテーブルにいた文庫本の持ち主が苦笑していた。口を滑らせた朱雀が慌てる。
「あっ楸先輩! その、古いって悪い意味じゃなくて、えっと、歴史あるなって!」
「いいって、気にするな。」
楸は明るく笑う。同じテーブルにいた彼の友人も口を挟む。
「そうだ、なにも取ってつけたように言わんでいい。コイツん家のものは何でも古いんだ。」
「玄武、いくら何でもその言い方はあんまりじゃないのか。」
「そうか? 悪い。」
しれっと言う玄武を、楸は軽く睨みつけた。やっとやりすぎに気付いた玄武が恐る恐る尋ねる。
「……怒ったか?」
「怒ってなんかいないさ。」
楸はにこやかに言って、玄武との間に広げられていたチェス盤上のコマを動かす。
「ただ、今日の昼飯は負けた方の奢りといこうじゃないか。それが嫌ならもう一戦か、将棋と囲碁とリバーシとポーカーの中から選ばせてやる。ちなみにこれでチェックメイトだ。」
「やっぱり怒ってるじゃねえか。」
玄武は情けない顔をして、琥珀も朱雀も、チェスを観戦していた後輩たちも吹き出してしまった。それもその筈、玄武はこの手のゲームでは楸に勝てた試しがないのだ。尤も、頭の回転がおそろしく速い楸が本気になれば、玄武に限らず誰も敵わないだろう。
チェス盤の向こうから身を乗り出した後輩たちが言う。
「楸センパイ、頭良すぎですってば。あたし自分が同じ大学入れたのが信じられないくらい。」
「同感です。センパイなら受験も就活も楽勝だったでしょう。」
楸はただ肩を竦めただけで答えなかった。玄武が仏頂面のままチェス盤を片付けるのを見るともなく見ながら、琥珀はまた夢のことを考えていた。
(先輩方も、みんなも、夢に出てきた。)
「琥珀先輩? どうしたんですかぼーっとして。」
「……いや、何でもない。」
後輩の質問に答えるのも上の空だった。
(夢の中で、僕は、お姫様のあとを追ったんだ。あの姫君は、確か……)
「おっ、翡翠ちゃんに紫苑じゃないか。」
「やっほー、何してるのみんな勢揃いで。」
ちょうど思い浮かべていた人の名が聞こえて、琥珀は飛び上がった。
「いいわねえ、行き先の決まった四年生はお気楽でさ。あー疲れた。兄さんご飯奢って。」
紫苑は言いながら楸に寄りかかる。楸はうるさそうにそれを払いのけた。
「嫌だね。自分で払うならついて来てもいいぞ。」
「あら、学外出るの? 三限間に合わないとやだな、今日はやめとくわ。」
そんな紫苑と楸の様子を見ながら所在無げに佇む翡翠の姿があった。琥珀の目は彼女に吸い寄せられたように離せなくなる。艶のある長い髪。伏し目がちな、だが凛と強い切れ長の目。もし、あの綺麗な瞳が自分をまっすぐに見つめたら、どんな気持ちになるのだろう。
「わあ、見惚れてるー!」
しかし琥珀の物思いは無粋な乱入者に遮られてしまった。いきなり背後から翡翠に抱きつく、という手によって。
「きゃっ! こ、木葉! 私べつに見惚れてなんていないわ!」
「ふふ、翡翠ちゃんってば可愛いなあ。」
翡翠に抱きついた女子学生は楽しそうにころころと笑う。困った表情の翡翠。琥珀はあきれ果てて思わず呟いた。
「バカ姉……」
「コラそこ。何か言ったかいバカ弟が。」
木葉がギンッとこちらを睨むと同時に琥珀は視線を外す。と、近付いてくる足音。嫌な予感がしたのに琥珀は逃げそびれて、女性の腕の中にがっちり捕えられた。
「妬かなくったって琥珀も可愛いわよ。可愛いバカ弟。」
「やめろー!」
「木葉はほんとに弟くん大好きよね。」
紫苑もあきれ顔で姉弟を見ている。木葉は頷くが、すぐにぱっと琥珀を解放し、別の人物の腕に抱きついた。
「琥珀も好きだけど秧鶏くんには勝てないから。ごめんね。」
「いやそれ比較対象間違ってるだろ。」
木葉が腕を組んだのは、彼女と同級生の男子。と、それを見ていた後輩が、対抗するように恋人とわざとらしく腕を組んだ。秧鶏が顔をしかめる。
「……秋沙。父さんには内緒にしてやっているんだから、くれぐれも自分からバラすなよ?」
「何よ、お兄ちゃんまで口うるさく。木葉さんといっつもラブラブしてる人には言われたくないわ。」
「そうよ『お兄ちゃん』。いつまでも秋沙ちゃんを子ども扱いしないの。ねえ。」
「さっすが木葉さん、分かってるぅ。」
木葉と秋沙は気が合うらしく、二人とも自分の恋人にくっついたまま顔を見合わせてにこにこしている。
(姉さん……今度こそ、幸せに。)
いつもはこのカップルを見ていると少しイラつくのだが、こんなことを思ってしまったのはやはり夢の所為か。
不意に彼の肩を誰かが軽く叩く。振り向くと、楸が彼にしか聞こえない小声で言った。
「皆の望み通り、穏やかで平和な時に、一緒に生まれ出ることが出来たな。」
「えっ……。」
驚く琥珀に、楸はそっと唇に指を当ててニヤッと笑ったのだった。