弐拾四
赤々と燃え盛る炎に包まれた城を、二人の人影が見つめていた。
「殿様! ご無事で。……紫苑姫様!?」
城から離れた高台で、二人は待機していた自国の兵たちと合流した。楸は起こった出来事とこれからの考えを簡単に家臣に伝え、後方で立ち尽くしていた紫苑に歩み寄り声を掛けた。
「紫苑、大丈夫か。」
紫苑は泣いていた。燃える城を真っ直ぐに見つめ、頬を伝って流れる涙を拭おうともせず、声を立てずにただ肩を震わせて泣いていたのだ。楸の声に振り返り、彼女は震える声で呟いた。
「兄上。私は……私は、恐ろしいです。」
「翡翠姫が恐ろしいか。」
「いいえ。分からないことが恐ろしいのです。」
濡れた瞳が炎の色を映していた。
「翡翠姫は、何故あんな道を選んでしまったのでしょう。己を呪い、お父上を恨み、誰も信じず突き進む、誤った道を。私は、そんな生き方を想像したこともなかった。小さな幸せと兄上の優しさに甘えて生きてきました。だから、私には分かりません。」
震える肩に触れようとした兄の手を、紫苑はそっと拒んだ。
「あの方と私との間に、どんな違いがあったというのでしょう。運命のいたずらで、あの方が私に、私があの方になっていたかもしれない。こうなってしまった原因が分からないのですから……誤ってしまったとしても、分からない。それが、私にはたまらなく恐ろしく思えます。」
「……。」
楸は黙って聞いていた。邪魔する者もなく、静かな空間にはすすり泣く紫苑の微かな声だけが聞こえていた。それが収まる頃、楸はやっと一言呟いた。
「どこが誤った道なのかなど、誰にも分かりはしないものだ。」
「そうでしょうか。」
「そうだよ。私にも分からない。何が誤りで何が正しく、何処で正しい道から外れて、どうすれば戻れるのか。自分で誤りに気付く頃にはきっともう手遅れなのだろう。私も……時には既にどこかで誤っておるのではないかと不安に駆られる。」
紫苑は驚いて兄の顔を見上げた。隣で彼女と同じように炎の見つめる楸の目には哀しみの色が浮かんでいる。楸はこの炎の中に、落ちる城に何を見ているのか。不意に紫苑は、隣の兄がとても遠くにいるように感じた。
だから、彼女は強く言った。
「兄上は誤ってなどいません。私には分かります。だって、私はずっと兄上の隣にいるのですもの。」
「……お前らしい理屈だな。」
楸は笑った。
「では私も言ってやろう。お前も誤ってはいないよ、私には分かっている。」
冗談めかした口調で言った楸に、紫苑は涙を溜めたままの目で笑った。それから彼女はふっと遠くを見つめ、言った。
「翡翠姫も、私や兄上のような存在が近くにいたら、誤らずに歩けたのかもしれません。」
「そうだな。」
「もし戦のない世に生まれていれば、私たちみんな一緒に歩けたのでしょうか。」
空を映す紫苑の瞳には何が見えているのか。彼女はふふっと笑って兄に向き直った。
「ねえ兄上、そう思われません? 平和な世なら、私たち兄弟も翡翠姫もみな一緒に楽しく過ごしていたかもしれないと考えると、とても素敵でしょう?」
「そうだな。もし、平和な世であれば。夢のような話だ。」
呆れたように笑う兄に、紫苑は不敵に微笑んだ。
「願います。次に生れ出る世がそうありますように。」
二人は並んで、赤々と輝く炎と空とを見上げていた。
「城が、落ちたな。」
「……ええ。」
一組の男女が並んで、城を見下ろしていた。
「こうなってしまうのではないかと、思っていたわ。」
女はそう言って、城をじっと見つめたまま少し身を震わせた。気付いた男が振り返る。
「どうした。」
「今、あの子が……弟の命が、あそこから消えたの。」
彼女は何かを堪えるように胸元でぎゅっと両手を握り締める。
「大丈夫、あれは琥珀が望んだことだもの。どんなことがあってもあの方と運命を共にすると、覚悟を決めていたのよ。分かっているわ、だからその選択を責めはしない。でも、やっぱり、あの子には生きていてほしかった……」
頬に涙がひとつ光る。彼女を黙って見ていた男は、そっと彼女の肩を抱いた。不思議そうに見上げた女の視線を受けて、彼は少し笑って言った。
「木葉にそれを言われるとはね。俺だって、お前には生きていてほしかった。」
それを聞くと女はぐっと言葉に詰まった。
「ご、ごめんなさい……。秧鶏さんが仇討ちを望まないこと、分かってはいたの。でもあの時は、ああでもしなければ私自身の気が済まない、自分を許せなくて」
そこで女は言葉を切った。唐突に男が彼女を強く抱き締めたからだ。彼の顔を覗うことはできないが、彼の肩が細かく震えているのが分かった。
「秧鶏、さん?」
「自分を責めるのはもうやめてくれ。何度も言ってるだろ、お前は悪くないって。」
「ごめんなさい、でも」
「謝る必要もない。大切な人が苦しむのは見たくないんだ。」
大切な人、と言った彼が少し照れているのが分かって、彼女は頬を赤らめた。
「……ありがとう。」
彼女はそっと、自分を抱き締める彼の背に手を回し、抱き締め返した。優しい人。彼女はうっとりと呟く。
「私たち、これでずっと一緒にいられるのね。」
「そうだな。」
彼の手が頭を撫でる。こんな形ではあるが、彼女はとても幸せだった。やっと、この優しい人へのあたたかい想いに、名前を与えることが出来た。
「私は、あなたのことが……好きよ。」
聞こえないように囁いた。彼がのんびりと聞き返す。
「何か言った?」
「あのね秧鶏さん、次に生まれる時も私たち一緒だといいわね。私たちだけでなく、紫苑様も、翡翠姫も、玄武兄さんや兄弟たちぜんぶ同じ世に、それも穏やかな時に生まれたら素敵じゃない?」
「そうだなあ。もしそんな理想が叶うならね。」
彼の背中が笑う。笑いながら、ぽつりと言った。
「みんな一緒に、穏やかに、生まれの差もなく暮らせればね。」
そう呟いた彼の口調が寂しそうで、彼女は力強く言った。
「きっとそうなるわ。願います、いつかそんな世が来ますように。」
二人は微笑み合い、また長いこと炎と山々とを見つめていた。