弐拾参
「しかし姫、あなたの輿入れが人質であるというのは誤りだ。」
「……どういう事だ?」
姫は眉をひそめる。楸は、淡々とした口調で続けた。
「あなたはその当時この鉱家ただ一人の直系だ。そのあなたを他国へ嫁がせるなど、家を自ら途絶えさせるような真似を、当主たるあなたの父上がなさる筈がない。直系の男子が生まれるまでは手元に置くだろう。嫁がせるのではなく、婿を取るのが普通だ。」
翡翠ははっとして楸を見た。
「それでは……父は、癸の子息を人質にしようと?」
「名目としては、婿を次期当主とすると言っていたが。まあ確かに人質という意味合いもあったかも知れぬ。そして癸家の当主、我が父上は、それを承知で縁組の話を受けた。」
穏やかな表情を崩さぬ楸に、翡翠は絶句した。やっと絞り出した言葉は、自分のこと以上の怒りの為に掠れていた。
「人質は私ではない……。私の許婚に決められ、我が国に来る筈だった、あなたなのだな。」
頷く楸は、少し悲しそうな笑みをもらした。
「私だけではない。あなたの国から何人か、交換で我が国に来た者もいる。それに結局、癸家の嫡子たる我が兄上が身罷った為に私とあなたの縁組はなくなった。姫の弟君はもうお生まれになっていたから、あなたを嫁にという話もあったが、断られたそうだ。聞けば若君は体が弱いとのこと、家の断絶を恐れられたのであろう。あなたを手放す気など全くなかったのだ。」
翡翠は何も言わず俯く。やがて、ぽつりと言った。
「私の弟は、いない。」
「何?」
楸は予想だにしなかった言葉に耳を疑った。今まで厳しい表情を崩していなかった翡翠が、初めて人前で泣きそうに歯を食いしばっていた。
「弟は体が弱かった。生まれてすぐに重い病を患い、初節句さえ迎えられなかった……。父は息子の死を信じられずに狂い、母は心を病んだ。見かねた家臣が、弟と同じ頃に生まれた赤子をどこからか連れてきて身代わりとして渡したのだ。」
楸は全てを察したように頷いた。
「そうであったのか。それで、琥珀が。」
「そうだ。」
それに驚いたのは唐突に名を呼ばれた琥珀である。声も出せぬほどの衝撃を受けたらしく固まっている彼をちらと見てから、翡翠は話し出した。
「琥珀というのはもともと私の弟の名だ。しかし楸殿、今の話のみでよく連れてこられた赤子が琥珀だと気付かれたな。」
「琥珀が十六年前に城に連れてこられたという話は、木葉の一件で聞いていたからな。齢も合っているようだし、生まれたばかりの赤子を城に連れてくる必要がそう何度も起こるとは思えぬ。」
琥珀自身も知らなかったことであるらしく、彼は口も挟まずじっと二人の話を聞いていた。
「琥珀が生まれた時は、嬉しかった……これで父親の機嫌が悪くなることもないと。可愛くて可愛くて、でも一緒に遊んでやることも出来なかった。体が弱いのは家系でな、何かの呪いかと思うほどだ。琥珀ではなく、私があの時死ねばよかったのだ。」
「翡翠様! 決してそのような事は」
「黙れ! 知ったような口をきくな琥珀! ……お前のことをこの名で呼ぶたびに、弟があのまま生きて成長しているような錯覚に陥った。本当に、そうであればよかったのに。私などよりあの子の方が求められて、必要とされていた。」
姫の蒼白い頬をひとすじしずくが伝った。と、何かが胸につかえたような痛みに噎せて顔を顰め、ぐっと胸元を握って堪えた。
「翡翠様!」
「来るな! 何でもない。」
駆け寄ろうとした琥珀に怒鳴る。琥珀は動きを止めたが、誰かの手が彼女の肩を支えた。
「あまり気を昂らせられぬ方が良いのではありませんか? お身体に障ります。」
唐突に現れたその人物に、楸も、琥珀も、思わず顔を上げた翡翠も呆気にとられた。
「紫苑!?」
驚く兄を余所に、紫苑姫は翡翠ににこりと微笑みかけた。
「いきなり御身に触れた非礼をお詫び致します。私は紫苑、癸の娘です。驚かせて申し訳なく思いますが、落ち着かれましたか、翡翠姫。」
「……ああ、大事ない。お気遣い痛み入る、紫苑姫。」
翡翠はゆっくりと身を起こし、己の肩に置かれた手を掴む。紫苑は微笑んで、翡翠の細い手を両手で握り返した。
「そのような重い病で、これまで……」
「この身とは生まれた時からの付き合いでな。このくらい、いつもの事だ。」
翡翠はそう言ったものの、かぶりを振って自らの言葉を打ち消した。
「いや、こうしている間にも、心ノ臓が悲鳴を上げている。もう限界だと……。痛みと痛みの間隔がどんどん狭まっている。私は、もうすぐ死ぬ。」
「そんな!」
悲鳴のような声で琥珀が叫ぶ。それを叱責するように、強い口調で翡翠は言った。
「私の覚悟はとうに出来ておる。男子が喚くな、みっともない。」
その凛とした姿と強い瞳に、楸は呟いた。
「死を覚悟した中で、独りで闘ってこられたとは……翡翠姫、あなたは強いお人だ。」
「……あなたに、そんな事を言ってもらえるとはな。」
翡翠はふっと悲しげに目を伏せて微笑んだ。
「楸殿、紫苑姫、あなた方に頼みがある。」
「私に出来ることなれば、何なりと。」
「私を、看取ってはくれぬか。」
楸は目を見張る。翡翠は胸元から小さな物入れを取り出すと、不意に窓の外を仰いでそちらへと投げた。物入れは窓に届かず壁際にぽとりと落ち、緩んだ口から丸薬がいくつか転がり出た。
「翡翠様!? これは……」
慌ててそちらへ駆け寄り物入れを拾い上げた琥珀に、翡翠はかぶりを振った。
「良いのだ。私には、それはもう要らぬ。」
琥珀は、自分を真っ直ぐに見つめる翡翠の視線を受け、何かを悟ったようだった。彼は震える手で物入れを握りしめ、静かにその場を後にした。
「翡翠姫!」
翡翠の体がぐらりと傾き、紫苑は慌ててその肩を支え己の体にもたせ掛けた。歯を食い縛り、浅い息の中で、翡翠はわずかに残った力で声を絞り出した。
「ひさ……ぎ、殿……。」
「私はここだ、翡翠。」
楸は翡翠の手を取り、その耳元で答える。翡翠は少し驚いたように眉を上げ、それからうっすらと笑みを浮かべた。
「あなたにそう呼ばれるのは……あなたの妻となるのは、幸せな生涯だったであろうな……。」
「私もそう思うわ、翡翠姫。」
笑顔で答える紫苑の目尻に、しずくが光っていた。
「紫苑姫……。あなたとももっと早くに、違う形で出会いたかった。」
翡翠の身体から力が抜け、自分に身を任せているのが紫苑には分かった。紫苑の腕の中で、翡翠は大きな一息とともに最期の言葉を吐き出した。
「長かった……これで……」
息を吐き切った胸が、一瞬何かに締め付けられたように突き上げられる。全身がぐっと強張り、やがて全ての力が消えた。夢見るように閉じた目を、紫苑はただじっと見つめていた。
「紫苑。」
「……兄上。ごめんなさい、私、こっそり兄上の後をつけました。」
「そんな事だろうと思っていた。私も来るなと言わなかったし、言ってもお前は来ただろう。」
力を失った翡翠の体を、楸が妹の腕から抱き取り、優しく横たえる。紫苑はその間少しも動かなかった。微動だにせぬまま、ただその頬を涙があとからあとから伝った。楸は妹の肩をとんとひとつ叩く。彼の頬にも、一筋の跡があった。
涙を拭って深呼吸をした紫苑は、ふと異変に気付いた。
「何か……きな臭くありませんか?」
その言葉にはっとして楸を顔を上げた。確かに、何かが焦げる臭いがする。気付けば風の音も変わっていた。
「まさか、城に火が?」
「ええ。楸様、紫苑様、すぐにお逃げください。」
静かに答えた声の主を、紫苑は信じられぬ面持ちで見つめた。
「琥珀! まさか、あなたが?」
「これが、翡翠様の最期のご命令でした。この命絶える時には城に火を放て、自分がこの鉱家最後の当主となる、と。……まさか本当にこの時が来るとは思っておりませんでした。」
琥珀は俯いて一つ鼻をすすり、真っ直ぐに顔を上げて言った。
「此処にも、もうじき火が回ります。ですからその前に、お早く。」
「相分かった。」
楸は頷き、妹の手を引いて立ち去ろうとする。と、紫苑は立ち止まって振り向いた。
「琥珀、どうしたのです。あなたも早く逃げなくては。」
琥珀はその場を動かなかった。紫苑の顔を真っ直ぐに見て、少年は笑みを浮かべた。
「決めたのです。僕は、翡翠様のお傍におります。」
「琥珀……!」
「紫苑! 行くぞ!」
半ば引きずられるようにして走りながら、紫苑は最後に一度振り返った。主の傍らに跪く少年の姿は、陽炎のように揺らぎ、赤い光に隠されて見えなくなった。